imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。
第三篇 欺瞞の紅

今回はニホンアカネがキーになります。どんなキーだよっちゅう突込みはきかねぇ。



 暦上は大寒。文字通り、一年で最も寒い日だ。

 私――――稲垣重陰は、自他共に認める寒がり屋である。そんな自分にとって、もはや驚異と形容して過言ではない日が、とうとう訪れてしまった。
 寒い訳ではない。痛い、のである。

 私が播磨国姫路藩にて紅い女武士と遭遇したのは正月を少し過ぎた辺りであったが、その時はまだ震える程度の寒さで済んでいた。
 それが、どうであろうか。

 草木はいずれ訪れるであろう春を待つ為に色鮮やかな葉を落とし、小動物は寒さを凌ぐ為に地面に穴を掘って潜っている。
 結果として、形成される風景は見ている人間に寂寥感を掻き立てるような情緒深い物に化けていた。

 とは言ってもここは山陽だから雪が降る事はまずない。よって、辺り一面が銀景色に包まれる事もない。
 この地は温暖な上に元々の降水量が少ないからだ。

 だが、地形上の性質も暴力的な寒気には勝れない。

「ふーっ」
 口から出る前から白く変わってしまっている息を手に吹きかけ、掌同士を擦り合わせる。
 もう何度目か分からない動作に、手が温まって来ているのかどうかさえ明瞭でなくなっていた。

「全く……情けないな。重影は」
 隣から聞こえてきた女性の声は、呆れたように発せられる。標準的な物と比べて、少しだけ低い調。
 無茶を言うな、と伝えようとして私は女性に向き直る。

 少し自分を見上げて来る顔には、美しく整った目、鼻、口が理路整然と並べられている。紅い着物に身を包み、耳がすっぽり隠れるぐらいまで頭巾を被ったその麗しき女性には、何を隠そう、世間では最強と歌われ続けて来た殺し屋「闇之閃」の名を恣にしていた過去がある。
 今ではその罪を悔い、改心して私と共に旅をしているこの女性、名を夜智冬瑠といった。

「これしきの寒さ、耐えられまい?」
 件の冬瑠は、寒さなど何とも思っていないような、さばさばした表情を浮かべている。
 歯が当たって音が鳴ってしまうのを必死で堪えている私にとって、羨ましい事限りがない。

「何故だか詳細は預かり知らぬが、今年は例年より遥かに寒いぞ。よくお前は耐えられるな」
 寒さは理性でなく本能に攻撃してくる。意図して隠せる類の物ではない。
 それを考えれば、冬瑠は本当にこの寒さを諸ともしていないのだろう。
 紅い着物の下に何か防寒具を纏っているのではないかと疑いたくなって来る。

「うぅ~……」
 もしかすると、冬瑠は元々東日本の人間なのだから体質的に寒さに強いのかもしれない。しかし、対照的に刈谷藩は東海の更に南に位置しているため、そこの人間は総じて寒さに弱い。
 更にその中でも寒さに弱いと揶揄されていた市三郎に関して言えば、もはや可哀想と形容出来る領域にまで達していた。

「ほら、また鼻が垂れているぞ」
 そして、私には呆れたかのように嘆息していた冬瑠は、掌を返して市三郎に対して優しく声をかける。
 あからさまな挑発だと分かりきってはいたのだが、冬瑠が女でなかったならば、確実に頭を叩いていただろう。それだけ、冬瑠の豹変ぶりには苛立たせる物があった。

「あ、すいません」
 冬瑠に差し出された鼻紙を手に取り、水っぽい音と共に鼻をかむ市三郎。
 ちーん、という音を聞いていると、自分まで風邪を引いてしまったような錯覚に陥るから厄介だ。
 当然、これは市三郎のせいでないが。

「それにしても、随分と親切なんだな」
「何だ、貴殿もして欲しいのか?」
 そして、しまったと思う頃には何事も手遅れだ。
 ずっと言う事を我慢していた言葉が漏れてしまい咄嗟に口を手で抑えた時には、既に冬瑠は待っていましたと言わんばかりの表情を向けてきていた。
 私をからかう機会を、虎視眈々と狙っていたらしい。

 乗り気ではないが、種を一度蒔いたからには自分で全てを回収しなければならない。放っておいたら、どんな厄介な芽が出てくるか分かったものではない。
 一つ白い溜め息をついてから、私は冬瑠の挑発に乗ることにした。

「いや、結構だ」
「何だ、つれないな。照れなくて良いのだぞ。それに……」
 にやり、という擬態語が聞こえるのではないかと思うような、不穏な口元の吊り上がり方。

「それに?」
 豹を連想させるような笑みには、いくら注意してもし過ぎる事はない。
 次にどんな言葉が飛んでくるのだろうか、と身構えた時だった。

 ギュッと冬瑠に腕を抱かれた。

 痛い寒いと悲鳴を上げていた腕の肌は、穏やかで優しい温度に包まれていく。その温度の正体が冬瑠の胸だと分かった瞬間、これまでにないくらい心臓が跳ねたと同時に敗北を悟った。
 私の腕を抱いて寄り添う冬瑠の顔は、未だに狡猾な笑顔なのだから。

「勘弁してくれ」
 首を振って降参の意を示し、胸に埋まっている自分の腕を引き抜こうとするが、冬瑠はかなり力を入れているらしく、中々引き抜くことが出来ない。

「ぬ?」
「ふふふ……まだ、放さない」
 どうやら、私は蟻地獄にはまってしまったようだ。
 市三郎に目線をやり助けを求めてみたが、彼は胸の前で合掌をして頭を少し下げるだけ。冬瑠による罠の恐ろしさを最も知る男が、冬瑠の罠にはまった人間を助ける訳がなかった。

「夜智冬瑠殿は、何をご所望でございますかね」
 逃げられないと悟れば、後はその後に下される処罰を甘んじて受けるのみ。
 今度はどんな無茶を私に振られるのだろうかと考えれば、次第に胃が痛くなってきた。

 しかし、場の状況は時に唐突に変化する。
 私にとっては、幸運であり災難だった。

 小さな食事処が、姿を現したのだ。




 結局、冬瑠が腕の解放と引き替えに提示した条件は、現れた食事処で最も高価な料理を頼む事だった。
 ここまで色気よりも食い気の方が勝っている女子など余り居ない。
 ただ冬瑠の場合、色気もそこそこ持っているから質が悪い。

 本当は無駄な金銭を消費したくはなかったのだが、ここでそんな詰まらない事を言ったら、十中八九冬瑠は機嫌を損ねるだろう。そうなってしまった後の処理を考えれば少し散財しても冬瑠の言う事に従う方が後々楽であろうと思った私は、結局折れて食事処に入ったのである。
 たまには、人助けに必死に取り組んでいる冬瑠にご褒美みたいな物をあげても良いかなとも考えた事は秘密だ。

 しかし、結果から言えば、そんな私の考えは浅はか過ぎた。

「へいお待ちどお」
 食事処の席にて今後の予定を三人で話し合っていると、食事処の大将が何やら物凄く大きな皿を両手に抱えて来た。

「うちで最も豪華な料理、吉井川の鯉こくですぜ」
 この店で最も値が張るという料理、鯉こくである。

 鯉こくというのは、簡単に言うと輪切りにした鯉を味噌で煮込んだ料理だ。
 しかし、鯉こくという料理は料理法自体は簡単であるものの、その途中で入れる調味料によってその味を七変化させる、とても面白い料理なのだ。
 味噌一つ取ってみても、赤味噌を使う所もあれば白味噌を使う所もあり、三河の方だと黒味噌を使う料亭もそう珍しくはなかった。他にも、基本の調味料である日本酒や砂糖だけでなく、みりんを入れたりするなど、日本各地様々な料亭の板前が己の店の味を研究している。

 匂いを嗅ぐ限り、この店では赤味噌を使った最も一般的な味付けをしているようである。ただ、上に乗せてあるのだろう、生姜の香ばしい香りが漂うのが特徴的か。
 中々食欲をそそられる工夫だ。

 しかし、そうして生まれて来た食欲は、皿に乗せられた料理の全貌を見るや否や吹き飛んでしまう結果となった。

「すいません、有り難う……御座い……ます……?」
 旨そうな匂いのする器を受け取り机の上に置いた途端、私の体は機能を停止してしまった。

 両手を広げて少し余るかというぐらいに幅の大きい器にどんと乗っている鯉は、鰹と見間違うぐらいの大きさをしていたのだ。

「これ……本当に鯉ですか……?」
 一瞬にして真っ白になってしまった頭の中に最初に浮かび上がったのは、何かの間違いではないかという仮説。

「ええ! すぐ近くを流れる吉井川にて今朝方穫れた最上級の鯉ですぞ!」
 しかし、大将の自信ありげな顔を見る限り、目の前に横たわっている魚が鯉だというのは間違っていないようである。

 もう一度その巨大な鯉を見つめてみるが、どうみてもこの大きさは鰹級である。少し小さめと言われれば、鮪と言われても通用するのではないかとさえ思う。

「これは……凄い……」
 話をしている間中出てくる料理に期待の念を隠さなかった市三郎でさえ、二の句が告げず、ただ絶句してしまっている。
 そんな市三郎の肩幅を優に越える大きさをしているのだ。

 当然、怖くなるのは値段である。

「つ、つかぬ事を聞きますが……」
 冬瑠の提示してきた条件を飲んだ時は、こんな物が出てくるなど全く思わなかった。
 これはかなりの額を覚悟しなけばならないだろう。

「こちら、値段は如何程で?」
 なるべく冷静な雰囲気を装って、と心に言い聞かせながら。

 しかし、そう聞くと大将はにこやかな笑顔を更に弾けさせてパァンと手を打ったのである。
(激しく嫌な予感がする……)
 果たして、大将から告げられた値段は、私を呆然とさせるには十分すぎる額だった。

「ざっとニ十匁になりますね!」
 思わず、今までで最も深いため息をつくながら眉間を抑え込んでしまった。

「うっわ……高い……」
 市三郎に至っては、値段を聞いた途端に短く悲鳴を上げた程。

 ニ十匁、と言うと、現在の京の相場で換算すると掛けそば二〇〇杯食べられる量だ。
 市三郎が着ている物の総額がおおよそ十五匁だから、市三朗の目には自分が身に着けている物よりも高額である豪華な料理として鯉こくが映っているのだろう。

「……?」
 しかし、これ程までの大金を払うことになった原因である人間、夜智冬瑠に関しては、首を捻ってばかりだった。
 理由など、聞かなくても分かる。
 金銭相場が把握出来ていないのだろう。

「相場か分からないのか?」
 私がどんよりした口調で聞くと、案外冬瑠はすんなり頷いた。
「あ、ああ。これはどれくらいの価値があるのだ?」
「今お前が来ている着物と同程度だ」
 しかし、それは鯉こくの真の価値が分かっていないうちの話。
 私が冬瑠にも分かるように言い換えて伝えると、冬瑠の瞳の輝き方が変わった。
 喜びよりも罪悪感の方が先だろう、という言葉すら喉の山を越えられない。

「仕方がない……」
 とは言え、頼んでしまった物に関しては清算しなければならない。
 私は、懐から一両の半分程度の価値がある二分金を取り出し、大将に差し出した。

「これで、釣りを出してください……」
「毎度ありっ!」
 大将は、私の掌から二分金を取ると、代わりに五匁銀を二枚置いて店の奥へ行ってしまった。
 嬉しそうな背中が憎い。
 余程値段のせいで鯉こくが売れなかったのかが手に取るように分かる。

「津山藩に入るなり、飛んだ災難だな……」





「津山藩に入るなり、飛んだ災難だな……」
「同情します」
 大将に残された私は、次にどうすればいいのか分からず仕舞いになる程衝撃を受けていた。
 なにせ、先日の山崎藩で起きた蓬組の事件を解決した際に頂戴した謝礼金の半分が、今この一瞬で消えてしまったのだ。あまりにも、呆気無さ過ぎる。

 しかし、項垂れる私の視界に無礼にも侵入して来る一組の箸の先。
 それは器用に鯉の身を摘んで、またすぐに視界から消えた。
 次に、幸せそうな唸り声。

「これは……とても旨い……」
 私達の懐状況を知ってか知らずか――――実際の所、知っていてもその深刻さに気付いていないのだろう――――冬瑠は、机の上にどんと乗せられた鯉こくに着々と箸をつけていた。

「お前な……」
「ん? どうした?」
 案の定、冬瑠は怪訝な目線を私に投げかけて来るだけで、何故私が怒っているのかという疑問の色は全く見受けられない。

 説教をする気すら失せた私は、もういいと開き直って鯉の旨そうな身を兎に角口に運ぶ事にした。
 冬瑠があれ程までに料理を堪能しているのに私が意気消沈しているというのは、なんとなく私が負けているような気がしたのだ。

 しかし、半ば投げやりだった気分は、予想を上回る鯉こくの味によって晴れることとなった。

「こ、これは……相当旨いな」
「だろう?」
 そして、私が驚いた顔をして感嘆すると、冬瑠はまるで自分が作った料理であるかのように、私の反応に満面の笑みを浮かべた。

 続けて、もう一口鯉こくを食べてみる。
 鯉特有の泥っぽい臭みが一切ない。鯉本来の淡白な身の味が尊重されていて、かつその身に染み込んでいる味噌の味が何とも絶妙だ。
 生姜の絶妙な効かせが、更なる味の深みを生み出す。

 あまりに旨いものだから、気がついた時には私はせわしなく箸を動かし、次々と鯉の身を食べていた。

 市三郎も、最初さえ恐る恐るといった様子で箸を伸ばしていたが、一口食べた瞬間に「これは旨い……っ!」と肩を震わせながら言った後は、少し落ち着いても料理は逃げんぞ、と私に言わせる程の食べっぷりを見せた。

 結局、非常識な値段の鯉こくは三人で味わいながら食べ終えてしまい、その頃には既にもう値段に対する後悔の念を失ってしまっていた。

「実に旨かったな」
 食後の緑茶を啜りながら、冬瑠は満足そうに自分の腹をさする。私が見る限り、最も鯉こくを食べていたのは冬瑠だったような気がする。
 本能に対する所は、どんな男よりも男らしい。

 しかし、初めて目にする豪勢な料理に夢中になってしまうのも無理はない。私は忙しく手を動かしていた冬瑠を笑って見こそすれ、それとなく注意するなどという興醒め甚だしい事は自粛した。
 それに、夢中になっていたのは私も同じだった。

「あまりああも豪華な料理に舌鼓を打てる機会はないからな。久々に堪能させて貰った」
「拙者は、あんなに美味しい料理は始めて食べました」
 市三郎に関して言えばまだ興奮が収まり切ってはいないようで、仕切に美味しかったと言っては名残しそうな表情を見せた。

「旅路に佇む食事処にしては、随分気合いの入った料理だったな」
 普通、あれ程までの豪勢な料理とまでになると、大都市の中心に位置する料亭といったような、由緒正しい店が出すものだ。そんな料理を出しているこの食事処に、疑問を感じない訳ではなかった。
 しかし、その疑問は途中で耳にした噂――――現在の津山藩の経済状況を証明する材料としては十二分に役立っている。

「やはり、日本茜の需要が急速に高まっているのが原因か……」

「日本茜?」
「ん? ああ、日本茜というのは、西日本で栽培されている赤染料の原料の一つだ」

 日本茜は、その名の通り本来日本より更に南で生息する茜を日本でも上手く育つように品種改良した物で、その生産量は赤染料の中で紅花に次ぐ二位を占める。
 中心となる産地は日本でも西の方に密集しており、特にここ美作国から備前、備中、長門の四国にかかる山陽地方では盛んに栽培されていることで有名だ。

 では、何故日本茜と藩の盛況が因果関係を結ぶのか。
 それは、日本茜の売り上げがとある理由で鰻登りになっている事に他ならない。

 赤色の着物の流行だ。

 先日訪れた播磨国山崎藩で耳にした噂はどうやら誠だったようで、この食事処までの道でも、何人かの女性らが赤い着物に身を包んで歩いているのを見かけた。
 現に、冬瑠がつい最近に呉服屋で見繕って貰った着物は結局燃えるような赤色に落ち着いている。

 当然、そんな流行が流れると赤染料の需要が急速に高まり、紅花や日本茜などの原料が豊富に穫れる土地は財政が豊かになる。美作国津山藩も例外では無かった。

「津山藩は、主要産物を日本茜に指定する程にその生産が盛んだ。今回のような流行が流れると、津山藩の経済はそれは裕福になるだろう?」
「まあ、そうだろうな」
 食後にと言って頼んだ抹茶団子を頬張りながら、冬瑠が頷く。

「で、今後の予定は?」
 私が湯呑みを空にした時を見計らって、冬瑠が口を開いた。

「そうだな。詳しくは決めていないが、一度津山藩で一晩を過ごす予定だ」
「あてはあるんですか?」
「一応、津山藩にある良い宿屋を一つ知っている。質素ではあるものの、そこそこの面倒なら見てくれる」

 ふっと市三郎の湯呑みを見ると、もう中は空となっていた。
 丁度良い頃合いだろう。
「さて、そろそろ出ようか。あまり長居しても失礼だ」
「ああ、そうするか」

 山崎藩で長居をした分、長州まで少し速度を速めなければ。
 そう思って、席を立ち上がった時、それは唐突に起こった。



 ――――ガタン
「いやっ……」
 店内で食事をしていた一人の少女が、急に腹を抱えてその場に蹲った。





 ざわざわと各々の談笑である程度賑わっていた雰囲気が、一瞬にして変貌した。
 その決して看過する事が出来ない音に、暖簾をくぐって外に出ようとしていた私は反射的に現場に振り返る。

「だ、大丈夫か?」
「お、お客様!?」
 冬瑠に関して言えば、彼女は振り返るだけに止まらず、椅子から崩れ落ちた少女を助けようと近くに駆け寄った。

 それと時を同じにして、先程私達に鯉こくを笑顔で運んできた大将が、その音が生まれた途端に厨房から飛び出した。
 その顔は、顔面蒼白という領域を超えて既に真っ赤になっている。

(仕方ないか……)
 少女のそれはただ持病の発作が起きただけ、とならまだ良いが、場合によっては大将にとって最悪の事態に展開する可能性がある。
 自分の経営する食事場で食中毒などという事が起きたものなら、その後の人生は真っ暗闇必至だ。

 ずっと自分の手で営んで来た店を畳むだけにあらず、食中毒で体調を崩した人々に医療費の保障もしなければならない。そして、藩法が厳しい事で有名な津山藩なら、大将に対する生活の保障の一切を断ち切るというまでの重刑を科しかねない。

 唐突に自分の人生の危機に直面しているのだから、その必死な姿は当然である。
 我ながら、あまりにも冷た過ぎる推測だとは自覚しているが。

「う、ううう……」
 しかし、倒れた少女はその場で呻き声を上げたまま上体を起こそうともしない。
 普通の食あたりとは様子が違うのは、医学はさっぱり疎い私にも分かる事だった。

「あたった訳ではなさそうだな……」
「え? 食あたりではないんですか?」
 隣に立って驚いた表情で少女を見ていた市三郎が、尋ねながらこちらに振り返る。
「普通の食あたりなら、これ程早い段階で症状が出る事はないし、第一ここまで重病には至らない。お前だって経験があるだろう?」
「……ええ、言われてみればそうですね。痛い痛いって言いながら、けれど大殿の屋敷を走り回っていた記憶が残ってます」
 反射的に何をしているんだと言いたくなったが、話が拗れると面倒になるだろうと察したので、それは敢えて心の中に仕舞っておく事にした。

 仕切り直し、落ち着いて考えてみる。

 一回は集団の食中毒という可能性も無くはないと思ったのだが、もしそうだと仮定すると、私達の体に異状が見られていない事に矛盾してしまう。
 すると、やはり体に合わない何かを食べたと考えるのが妥当だろう。

 だが、これはあくまで私の主観的推測であるし、もしこれが正しかったとしても、私は医学の心得まで拾得している訳ではないのだから、その後の手が打てない。
 それでも事態は留まる事を知らず、蹲る少女の額からは嫌な脂汗が滲み始めていた。大将が頻りに呼びかけ、冬瑠が優しく背中をさすってはいるが、医学的な手を打たなければ容態は悪化するばかりである事は明らかだ。
 出過ぎであると分かってはいるものの、やはり少女を助けられない自分が歯痒い。

「だ、大丈夫ですかね……」
 悲痛な声は、市三郎の物だった。

 と、

「失礼しますね」
 心配というよりも怯えたような表情で場の状況を見守る数人の他の客の中、そう言って立ち上がり、蹲った客の元に駆け寄る人間がいた。

 私達にそう声をかけてから前を通っていったその人は、その顔立ちと髪の長さからすぐに女性だと判断出来た。
 日本人にしては珍しい、激しく脱色していて西洋人のように薄い茶色となっている髪。肩の少し下まである長さを持つ優雅なそれは、只の庶民ではない身分である事を雄弁に語る。すらりとした背筋は一瞬長身を思わせるが、実際は市三郎と大して変わらない高さだ。

「少し見せて頂けますか?」
 件の女性は、呻く客の側に駆け寄ると腰を下ろし、しゃがんでいた大将に一言声をかけた。

「え、ええ……」
 自分では何も出来ない、と悟ったのだろうか。大将は突如現れた女性に戸惑いながらも、結局言われた通りに立ち上がってその場を譲った。
 女性に目配せをされて、冬瑠も少女から手を離す。

 すると、冬瑠が一歩下がったのを目で確認した女性は、大将が退いて出来た場所に座り込んで、呻く少女に何かを話しかけ始めた。
 かと思うと、ある程度話をした後に女性は少女の腹を押さえ、続いて更に何かを尋ねる。
 始めは何をしているのだろうかと疑問に思ったが、女性の手つきに既視感を覚え、記憶を辿ってようやく答えを出した。

「医者か?」
 特別な道具は何一つ出していない――――というより、食事をする為に食事処にいるのだから、医療器具など持っている筈がないのだが――――ものの、あの腹の押さえ方は、以前私が腹痛を訴えて町医者に診て貰った時の動きにとほぼ同じだ。
 この状況の中、一人だけ立ち上がった事も併せて考えれば、更に信憑性も湧く。

「ああ、医者ですか。良かった……」
 事が発生してから終始不安そうに様子を見ていた市三郎は、呟いた私の言葉を聞いてようやく胸を撫で下ろした。

「凄い偶然ですね。この場に医者が居合わせていたとは……」
「まあ、大将と体調を崩した少女にとっては僥倖だったろう」
 私も、そう言うと安堵の溜め息をついた。
 最初は飛んでもない事が起きたと焦ったものだが、専門家がいれば話は別。後は彼女に任せておけば、少女の具合も次第に良くなる事だろう。

「冬瑠」
 それに、専門家がいる中で私達が出しゃばるのは、女性にとって迷惑な筈である。
 冬瑠を下がらせようと名前を呼び、冬瑠がこちらに振り向いた時だった。

「いけない……」
 医者の女性の口から、そんな言葉が漏れた。

 食事処の空気が、一瞬にして緊張する。

 少女の診察をしていた女性は、一通り見終わった後に指を口に当てて一つ唸った。
 眉間には、険しい皺。

 ふっと、冬瑠の表情が硬くなる。
 女性の表情がとても険しい物だと分かった途端、私も顔が強ばったのが分かった。

 少女の容態が芳しくなかったという事は、子供でも悟れる。

「だ、大丈夫なのですか?」
 沈黙の重圧に耐えられないといった様子で、側で見守っていた大将が口を開いた。
 その目はまるで縋るようだ。

「ええ……」
 だが、大将の願いとは対照的に、女性はその大将の問いに生返事を返しただけで、その表情は依然として厳しい。

「ほ、本当に平気なんですか?」
 急に雲行きが怪しくなってきたのを察してか、市三郎が心配そうに私に聞いてきた。
「分からん……だが、少女の病状が深刻だったというのは、女性の表情から簡単に読み取れる。この様子だとあまり簡単にとは行かないだろうな……」

 もし少女の診断結果が重病に関連する事だとしたら、この食事処は責任を取って速やかに店を畳まければならない羽目になる。そんな事が頭を過ぎっているのか、大将はおろおろとした様子だった。
 周りの客達も、沈痛な目で少女の様子を見守っている。
 彼ら彼女らの瞳には、哀れみと不安の色合い。

 だが、私は少女の容態と大将の未来に同情を抱ける程、心に余裕を残していなかった。

「市、分かるな」
「分かってしまうのが、悲しいですね」
 市三郎も、同様の様子。

 何故なら、このような張り詰めた状況に置かれた時、連れの女が取る行動が既に読めていたからだ。

「なぁ、医者よ」
 案の定、既に冬瑠は厳しい表情で客を診察する女性に近寄り、声を掛けていた。

 「ですよね……」と小さく市三郎が嘆息する声が聞こえる。予想通りの展開に私は呆れる事すらしなかった。

 けれども、それは同時に歓迎されるべき事でもある。
 私達は、その為に日本を旅しているのだから。

「私達三人に手伝える事はないか?」
 私と市三郎が考えていた通りの言葉を、冬瑠は満面の笑みを浮かべて放った。

 市三郎と私の顔に、呆れではない微笑が再び浮かぶ。
 冬瑠は、闇之閃というもう一人の自分を押さえ封印しようと、積極的に努力している。特に、山崎藩の一件では、彼女の真摯な心が冬瑠に三回も涙を流させた。
 ならば私達も彼女のその意志に手助けをすべきである事は、言うまでもない。

 さて、冬瑠の言った「私達三人」とは、当然の事ながら冬瑠と私と市三郎の事だろう。とするならば、私達も医者の女性の元に行って一声かけておくべきだろうか。
 「私達三人」のうち、女性と一度でも言葉を交わしたのは「私」のみだ。その部分は礼儀としてないがしろには出来ない。

 ゆっくりと歩み寄って、私は女性に一礼した。
「遠慮せず、何なりとお申し付け下さい。私達が、力の限りお手伝い致しますよ」

 そして、何よりも重要な事。
 これはれっきとした「人助け」であり、私達にとっては進んで引き受けるべき事なのだ。
 下げていた顔を上げて、気軽に頼んで貰えるよう柔らかくそう声を掛けた。

 しかし――――
「え……?」
 女性は喜ぶでも迷惑がるでもなく――――側に立つ私を見て何故か完全に固まってしまった。

 予期しない沈黙が、嫌な重さを伴って流れる。

 それでも、私は最初女性が応答に迷っているのかと思って暫くにこやかに立っていた。かつての旅路でも、引っ込み思案な性格が災いして、私達に用件を伝えるまでにかなりの時間を使った女性と会った事がある。
 しかし、時が経つにつれて女性の額に脂汗が流れ始めたのを見て、咄嗟にそんな甘い事とは違うと悟った。
 強いて言葉にするなら、何かに怯えているような、そんな雰囲気。

 では何故かと思って女性を注意深く観察すると、女性の視点が一点に定められている事に気が付いた。
 それを目で追って――――

「おっと、これは失礼」
 私はそれを確認して、すぐに腰から刀を鞘ごと外して女性の視界に入らない机の陰に置いた。それを見た市三郎も倣って刀を隠す。

「細部までの配慮が足りませんでした事、ご容赦下さい」
 世の中は戦国時代が収束してからまだ50年の年を刻んだのみに過ぎない。当時に比べてはこの国にも平和が訪れたが、人間が心に負った傷というのは、そう簡単に解消出来る物ではない。
 庶民の多くから、戦乱の記憶を呼び覚ますからと言って刀に恐怖心を抱かれる事は、今を生きる武士の身にとっては慣れている事だった。

 だが、様子を察して刀を隠した私達を見て、女性は少し驚いたような表情を見せる。

「どうでしょう。私達が今手伝える事は?」
 女性が驚いている理由を知りたい気持ちもやまやまだったが、私達のすぐ側では腹を抱えて呻く少女がいるのだ。
 予断は、許されない。

 それを悟ったのか、女性は額の汗を袖で拭うと、先程までの真剣な目つきを取り戻した。

「ええ、お願い致します」









タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2011年07月04日 20:08