不謹慎かもしれないけど、不思議と墓場は落ち着く。
最初に発症した者が出たのは、夏を迎えてすぐ、二ヶ月ほど前のことだった。
この者はあんの村の村長で、彼は朝一番に起きては村人たちへ鶏よりもかまびすしい声であいさつをして回ったり、宴会や祭りなどでは誰よりも呑んでは食べ、踊り騒ぐような、歳はすでに五十を越えているのに、やることなすことがとにかく派手な男だった。
豪胆さのみならず、信心深いところもあり、朝のあいさつは必ずミサキさまの祠から額ずいていて、そんな豪胆さと信心深さを併せ持つ彼を慕う村人はけっして少なくなかった。
そのミサキさまへの感謝の念を一番に抱いていた者が倒れたというのは、村人たちに大小様々な影響を及ぼした。
さらに、病の症状は惨憺たるものだったから、余計に影響が大きかった。
あるとき、村長は妙な悪寒をうったえた。
次の日、体に激烈な痛みを感じ、体中には赤い斑が広がっていた。
「この赤いのが、痛む」
高熱も出した。床から起き上がれなくなった。床の上で、痛みは日に日に増していき、彼の表情をぐちゃぐちゃに歪めていた。
やがて、目は見えなくなり、耳も聞こえなくなった。このときから彼の脳にも異常をきたしはじめた。
斑点は膨れ上がり、痛みは彼を絶叫させた。
だが喉もいかれていたから、声は声になっていなかった。
そのうちに意識も混濁していった。
意識の混濁のおかげで、彼が痛みをいくらか感じなくなったことが、[あんの村]村長の最後のさいわいだったかもしれぬ。
発症して七日後に、村長は絶命した。
――それだけで済んでいたのなら、村長が頓死したという事実が残るだけであった。
村人たちは厄神をすこしは疑うかもしれないが、大体の者は村長の歳のせいか、たまたま悪い病にかかったか、と考えるにとどめて、その名が出る幕はなかったであろう。
そもそも村人のほとんどは、とりわけ若い者は(小川びわこは例外であるが)、厄神への信仰心が薄いのである。
そんな村人たちに、厄神は黙っているはずもない。
村長の死後、病はすぐさま猛威をふるった。
瞬く間に、一人、また一人と倒れていき、それを恐れて早々に村を出ていく者たちまで現れはじめた。
この村に医者はびわこの両親と、ほかにもう一人いて、びわこの両親はあの手この手と尽くしたがどうすることもできず、やがて心労で家から外に出なくなってしまい、もう一人の医者もまた同じような道をたどり、酒につぶれる毎日を送っていた。
厄神が相手ならば坊主が適任だ、と考える村人もいたが、皮肉にも厄神が一枚上手で、この村にいた数人の僧は早い時に病に臥し、縁生の海に沈められた。
このような状況であるから、残った村人たちの心境は手に取るように分かるものであろう。
「外を歩きたくない。呼吸をするのが恐ろしい」
「私の顔を見るな。息をかけるな」
そんな思いばかりが、渦巻いていた。
さあ、縁起が悪くなってまいりました。
祟られる前に神社にお参り行こう……。
[七十七年 *月]
痛い……。焼けるくらいに熱い……。体の斑模様から、ぐつぐつと煮えたぎった熱い
溶岩が流れ出ている。
耳も聞こえない。目は霞む。やめて。やめて。
あの子の声だけは聞いていたい。あの子のすがただけは見ていたい。
せめて、せめて、せめて、
雨の中を夜闇が降りている。
時は酉の下刻(約七時)に差しかかっていたが、儚はまだ帰ってきていなかった。
いま、鈴音は老人とともに椎の木蔭にいた。
鈴音とびわこが儚を待っているところへ、雲水寺の墓地へ向かう道から歩いてきて、
「む……? びわこではないか」
「あ、小助のじいちゃん。こんばんは」
この老人は天道小助(てんどう こすけ)と云って、薄い白髪頭をし、眼は落ち窪み、皺に押し寄せられたようになっており、眼光は弱々しい。顎からはわずかばかりの、ぱさぱさの髭が垂れ下がっている。身なりは洗いざらしの単衣で、片手に骨のささくれた傘、もう片手には、そこだけはこの風采に似つかわしくないような、立派な拵えの堅い竹の杖をついていた。
小助はすぐに鈴音にも目を止め、それに気づいた鈴音は小さく会釈した。
「ん、見慣れぬ方だな」
「こちら、羽橋鈴音さん。お医者さまをつれてきてくれたんだよ」
びわこは簡単に経緯を説明した。
「鈴音さんのお供している人がお医者さまでね」
「ほう……」
「村の救世主さまになってくれるといいよね」
「ふむ……」
小助はびわこの説明に相づちだけをうっていた。
鈴音たちが宿をさがしているという話に至ったとき、
「宿か。それならばうちに泊まるといい。老いぼれの一人暮らしだから、たいしたもてなしはできぬが」
「わあ、ほんとう? よかったね、鈴音さん」
鈴音は小助の皺だらけの顔を見た。
願ってもない申し出である。然し、鈴音は一時逡巡した。
(この老人、信用していいの……?)
正直、できなかった。
(ほかの村人が獣みたいに他者を拒絶しているというのに、この老人はちがうの? いや、小川びわこの例もあるからそうとも限らない。じゃあ、私たちを泊めるだけ泊めて身ぐるみ全部剥ごうとしているのかも。話でしか聞いてないけど村の状況がこれならありうる……ううん、ちがう。そうじゃない。もっと、別の方向……)
つまり、黒い気配を感じるだとかそういう類のものではなく、鈴音は単純にこの老人とは相いれぬように思ったのだ。この男を見ると、鈴音は自分の足場がなくなるような、ある種妙な不安に苛まれた。二人揃って綱渡りをして、手を取り合って渡っているくせに、互いに相手を谷底に落とそうとしているような不自然な寸劇が鈴音の頭に浮かんだ。
だが、びわこの人のいい微笑みが自分に向いていたから、そのようなことはおくびにも出さずに、
「ありがとうございます。助かります、ちょうど難儀していたところなので」
ていねいに、お辞儀した。
それからしばらくは三人で儚を待ったのだが、一向に帰ってこないから、もう夜になるということで小助はびわこを先に帰した。
「じゃ、また明日ね。色々お話聞かせてよ、お二人さん」
村の方では幽かながら、闇に紛れて灯りの炎が浮いている。
鈴音と小助の二人になって、木蔭に沈黙が降りた。
その沈黙を小助は悪く思って、ここは老人が話をつくらねばと、今日の天気雨のことだとか、あんの村の名所・名物についてあれこれ話をしたが、鈴音は取りつく島もなく、話したがらなさそうなままだったから、少々気が滅入ってきて、
「今しがた行った墓地では、今日もまた墓石が増えていた」
などと云ってしまい、そこで、
(話の接ぎ穂を失ってしまった……)
と、おのれの発言を悔い、口を開くのをやめた。
ほんとうは、鈴音が一番聞きたかったのは他愛のない話ではなく、そこに関する話題だったのであるが。小助の気づかいにあまり興味はなかったから、会話をしようと思わなかったのである。その他愛のない話からうまく会話を引き継いで、自分の聞きたいことを聞き出す、という術は、真冬のように凍えた眼差しの鈴音には使えなかった。
いくらか経って、ようやく儚が帰ってきた。
鈴音は即座に、
「遅いです」
と、責めたが儚はするりとその小言を躱し、小助と軽いあいさつを交わした。
儚が遅くなったのにはちゃんとわけがある。
これを知ると鈴音は憤慨するであろうが、儚は宿さがしではなく、茜色の髪の少女をさがしに行っていたのだ。
村中を歩き回って、なんとか少女は見つかった。
田圃沿いの畦道を歩いていたときに、向こうから悶えるように走ってきた少女が、果たして目的の少女だった。
ふるふると忙しなく震える両(ふた)つの瞳から、少女がなんらかの絶望を抱えていることを感じ取ったから、儚は慈愛に満ちたやさしい声をかけた。
然し、結果は芳しくなく、儚がなにを云っても「いやだ」とか「殺される」とか呻くばかりで、とうてい話はできそうになかった。
仕方なしに、
「また明日来るわ」
と、儚は諦めたように云い、
「名前だけ云っておくわね。私は日下儚」
と、返事は期待せずに名乗った。
調子は変わらないまま、少女は苦しげになにか零して、転瞬、その場から逃げ去った。
儚は少女を追わなかった。
ただ、この気高い魂を持った剣客はやさしい笑みをいっそう深めた。
さて、儚は鈴音から宿の件を聞いて、
「お世話になります」
「いや、遠慮することなどなにもない」
小助とそんなやりとりをし、さっそく今晩の宿に向かうために、小助に道案内を頼んだ。
進む道は儚が行った方の、椎の木から分かれた東の道で、その道中で会話をしている際に、鈴音がついた「儚は医者だ」という嘘はばれてしまった。
儚は鈴音を流し目で見たが、小助は咎めることもなく、
「そうか。そりゃ、そうだろうな。この村に訪れる者などほとんどおらぬから、村の惨状が外に伝わっているとも思いにくい。仮に医者が来たとしても、ここは厄神の治める地だ。部外者などあっさり消されるだろう」
「あら、じゃあ私たちもあぶないんですか?」
「あぶないだろうて。用心した方がいいかもしれぬな」
到着した小助の家はあんの村の中でも外れに位置し、海が近く、切り立った崖の上に建っていた。
七坪ほどの百姓家で、元々は住む者もおらず、ぼろぼろのまま放置してあったのを、数ヶ月前に小助が村人に請うて、譲り受けたものだ。
ここらは潮風がきついから家の劣化は激しかったが、なんとか小助は建て直して、人が住めるくらいにはなった。
屋根などは剥がれ落ちていた部分が多かったから、修繕のための板を何枚も張り、そのせいで見た目は不恰好になっているが、そのようなところから過去の苦労を儚は見て取って、
「立派な家ですね」
と、感想を云った。
夕餉にはご飯と、茄子を放りこんだ味噌汁に、小助が昼間に六郷川で捕った鮎を塩焼きにしたものを二人は頂いた。
囲炉裏を囲んで食べつつ、儚は旅で得た色々の話を小助に語り、村の暮らしが長い老人は大いに楽しんだ。
鈴音は会話にあまり参加していないが、外から入ってくる波の音に耳を傾けていたからまったく退屈しておらず、そのさまは顔にもちゃんと出ていたから小助は鈴音の沈黙に気を遣う必要がなく、安心した。
夕餉が終わったのち、
「旅の疲れもあるだろうから、よく湯に浸かるといい」
と、小助は入浴をすすめ、儚は、
「ありがとうございます。さ、鈴音。入りましょうか」
「はい?」
当然別々に入るのだろうと思っていた鈴音を無理やり風呂に連れこみ、満足気に湯浴みした。
(まったく、仲のいい師弟だな)
小助は苦笑せざるを得なかった。剣の師弟であることはすでに儚から聞いている。
湯浴みをした二人が寝間として小助から借りた部屋に引き取ってから、小助は一人、行灯の薄暗い灯火の中で酒を呑みはじめた。
うまそうにはしていない。
じつは、この老人はすこし前に殺人を犯していて、夜になると後悔の念が彼を苛むのである。
(おれの人生は、償いでできている)
そんなことを彼は毎夜考え、酒と一緒に呑み干そうとしていた。
猪口の水面に彼の顔が揺れている。水面の端に、行灯のあたたかな灯りがそろそろと影を映した。
書いてないわけじゃなかったけど、気づいたら二ヶ月ぶりの更新になってた……。
あんの村には陽光が降りしきっている。
然し、雨の名残で土からはむせるような湿気が舞い上がっており、蒸し暑い。
さてその日、鈴音は奇妙な光景を目にした。
朝、小助は朝餉を食べたのち、
「家は自由に使っていい」
と言い残し、早々にどこかへ行き、儚も儚で、
「ちょっと出てくるわ」
と鈴音に伝え、少女をさがしに村へ出た。
儚のお人好しぶりに飽き飽きしつつも、一人になった鈴音は、あんの村を歩くことにした。きのうは結局、満足にまわることができずに終わったからである。
その奇妙な光景というのは、村の北端にあった。
ちなみに、鈴音が北端に至るまでに通り過ぎた村の光景も奇妙といえば奇妙であったが、そのさまはおぞましい、というよりは、あらゆる楽しみにも当てはまらぬ無であったから、ここでは、のちに鈴音が儚に対して語った感想を引用するだけに留めておく。
「人はいました。けれど、海猫の鳴く声しか聴こえませんでした」
村の集落の真っ只中で鈴音は人を見つけた。
(ようやく人に会えた……)
と、村の生気のなさにあてられていた鈴音はわずかに喜んだが、その者の尋常でない状態から喜びはすぐに消えた。
足取りはおぼつかず、顔は疲弊しきっていて、首筋や腕に浮いた赤い斑点から厄神の怒りを買っているのだと分かった。
一応は、鈴音はミサキさまのことを小助から仔細に聞いていた。
だから驚きはすくなく、そのせいか、
(肉がないみたいにやつれてる。性別はどっちだろうか。肩がしんなりしているから、たぶん女)
心配するより先に、場違いに冷静な観察をした。
遅れて心配がやってきたが、女剣客はどちらかと云えば興味本位で女の後を尾(つ)けた。
女は集落を抜け、潮風除(よ)けの松林に沿った小径を越えてから、古い旅宿に入った。そこが村の北端である。
この旅宿はいまは使われていない。
宿の入り口の戸は壊れていて、中からは腐臭が漂っていた。
窓からの陽ざしで屋内は自然な明かりに満ち、霞みがかっていて、女は明かりの中を掻き分けながら歩んだ。
鈴音はじつはそのすぐ後ろにいたのであるが、女はまったく気づいておらず、やがて女は帳場らしきところで止まった。
その、埃の積もった帳場にごく自然に一つの箱が置いてあった。女は目玉をぎょろぎょろさせつつ、箱の蓋を開ける動作をして(じっさいは箱の蓋はすでに開いていたから、虚空を持っているような動きになった)、懐紙で包んだ某を取り出した。後ろから鈴音がうかがったところでは、箱の中にはこの包みがいくつもあった。
震える片腕で女は包みを掲げた。祈るような、崇高な動作であった。
然し、女が行えたのはそこまでで、手から包みを落とすと同時に「ぐぎゃあぁ……」と悶えはじめた。急に痛みが彼女の体を貫いたのだ。
さてそのさまを見て鈴音が考えたのは、
(厄神が暴れはじめたのか)
と、ずいぶん冷静なものであって、女が悶えるのには目もくれず、女が落とした包みの方を観察した。
落ちた弾みで包みの中のものがぶちまけられており、それは、どろどろとして、なにかですりつぶしたような形(なり)で、薄い桃色を中心に、そのほかいくつかの色が混ざり合った物体だった。
(たぶん植物をすりつぶしたのね。薬かなにかなの?)
帳場の上の、包みが入っていた箱の横に半紙が置いてあった。
そこに、きれいな字で、
[一包六文]
とあり、その横に、
[無何有郷への道しるべ、口外は禁ず]
とあった。
無何有郷と聞いて、鈴音は簡単に結論づけた。
(ああ。死ねる薬なんだ。村があんなのじゃ、特効薬ってはずもないし)
この発想は少々極端であるが、当たっていた。
まもなくして、床でじたばたしていた女は、落とした"道しるべ"へと口づけた。
絶命の瞬間を見届けた鈴音は、女の亡き骸をただ軽蔑した。
(自分から死ぬなんて、ばかじゃないの)
ご覧のとおり、鈴音は死を高いところから見物しているだけであった。
そこから俯瞰できる風景は真っ暗であるから、なにも見えるはずがあるまい。
見えないことが我慢ならない鈴音は、風景を夢想することで自尊心を満たしていた。
帰りしなに鈴音は儚と出会い、事の顛末を語った。
「安楽死できる薬なの。ふうん……。その薬は処分した?」
「いえ、そのままにしておきました。処分した方がよかったでしょうか」
「そうねぇ……。ま、そこまで私たちが介入することもないか。ええ、そのままでよかったと思うわよ。それにしても……ふうん……安楽死……薬草……」
儚は何やら考えこみ、それから鈴音から旅宿の場所を聞き、一人でそこへと出向いた。
女の死体がそのままであったのを、儚はためらうことなく抱き上げ、雲水寺の墓地へ埋葬した。
この文章を書いたのは四ヶ月以上前という。
しかもそれからあまり先に進んでないという……。サボリ過ぎですね。
茜色の髪の少女の悪夢には、何人もの追手がいた。
追手どもは、儀式をしようとしているのである。
これは厄神を鎮めるための儀式であり、村人が語るには、
「ミサキさまがお怒りになったときは、村じゅうの若い女・童子(こども)をな、ミサキさまに捧げるのだ。衣は剥いでな、杭に括り、油をたっぷりつけて、赤い炎でめらめらと焼く。松明のごとく、な……」
とのことである。
追手の怒号が、少女の耳で唸った。
『いた! 捕らえろ、娘だ!』
追手の声が代わる代わる連鎖する。
嵐同然の暴言を浴びながら、憑かれたかのような形相で少女は逃げた。
その手には匕首を握っている。
これは村の某所に落ちていたのを拾ってきたものである……と云うと軽々しいが、少女は、自分の身を焼こうとする者どもがいる村へと足を踏み入れるわけであるから、事を行うのはそれほど生やさしくはなかった。
じっさい、少女は村の中で、体を巨人の手で押し潰されるような感覚を味わった。
『捧げろ……ミサキさまに……!』
(いや、いや、いや! 来ないで、来ないで!)
村人の怨嗟めいた声は、あまりに恐怖が強すぎた。
だから、少女の心はすこしでも身を守るため、<この声は幻聴なのだ>と無意識のうちに暗示をかけた。
村を走りまわったあげく、なんとか追手を振り払ったときには、少女は花畑にいた。
薄い桃色の花が、一面を淡く彩っていて、その周りを櫟が囲っている。
花は、茎を中心に五枚の葉が生えていて、そのさまが星に見えることから村人は[星の花]と呼んでいるそうな。
幽かな風が花畑に流れこみ、花びらがいっせいにそよそよと揺れ、花の、惑うような、かぐわしい香りが少女を覆った。
香りのせいで、少女の眼が酔っぱらいのようにとろんとした。
(この花畑なら、だれも来ない……)
そんな安心感に、一瞬だけ少女は身をゆだねた。
然しそれも長くは持ちこたえず、はっと我に返ったかと思うと、匕首を持つ手がぶるぶると震えだした。
(あぁ、天国にいこう。もう、生きてなんかいられない。ミサキさま、私のいのちを捧げます。こんなちっぽけないのちでは、なにも望めないことは分かっています。ミサキさまに花をお返ししなかったことも、ほんとうに悪く思っています。お赦しを請うつもりはありません。ですが、人さまの手を煩わせてこのいのちを断つのでは、人さまの手が穢れてしまいますから、私自身であなたさまにこのいのちをお渡しします。私の手は穢れ、魂までも穢れてしまいますが、どうか、拒まずに、お受け取りください……そして、この村を救ってください)
こんなことを考えるくらいであるから、むろん、とうに理性は焼き切れかけている。
ただこの思いは、おのれを犠牲にすることに対する言い訳などではなく、彼女の純潔な本心から生まれ出たものであった。
この信心深い少女は匕首を手首に押し当てて、一息にぐっと力をこめた。
死の恐怖に耐えようと、目をぎゅうっと瞑った。
(――!)
結論から云えば、少女は生きていた。
それに血の一滴も零さなかった。まったくの無傷である。
理由は至って簡単で、匕首の刃こぼれが酷すぎて使いものにならなかったのである。
このときの少女の心境はいかようなものであったろうか……。
しばらくして、少女は花の枕に突っ伏した。
花の香をたっぷり含んだ枕は少女をすぐに夢に引きこんだ。
(なんでかな、無性に泣きたくなる香り……。私は哀しいのかな。分からない。私は狂っているのかな)
この、ほんの刹那の間、少女は絶望の真っ只中でただ坐っていた。自然なすがたであった。
その裏づけとして、少女の夢は喩えようもなく不幸であったのに、少女の睡眠そのものは深かった。
だが目が覚めたときには、少女はまた果てのない闇に飲まれて、
(そういえば、きのうのあの人は来なかったな……。それでいい。それがいい)
と、ひとりごちた。
例に漏れず数カ月前の文章(ry
最終更新:2012年02月18日 15:01