三題噺

「部室」「梅雨」「今すぐそれを喉に詰まらせろ」


部活の賜物その1。
別に夢喰の更新をさぼってたわけじゃないのさ!



[N校美術部・部室]

 雨ですね。

 ――はい、雨ですね。

 熄(や)まないんでしょうか。

 ――さぁ、どうでしょうか。ううん。

 どうされました?

 ――いえ。きっと、梅雨はまだ去らない、と心の端で思っただけです。

 そうですか。夏の入りは、遠そうですね。

 ――はい、遠いですね。あなたに夏は、来ますか?

 さぁ、どうでしょうか。きっと、来るんじゃないですか。

 ――根拠は、あるのですか?

 いいえ。でも、だって、来なかったら、寂しいじゃないですか。

 ――とても、暑いですよ?

 えぇ、知っています。十七回、経験しましたから。先輩だって、もう十八回は経験しているんでしょう?

 ――経験したとは、云えないと思います。

 どうして。

 ――だって、知らないのですから。夏を……。わたし、夏は眠っていますから。

 ……。それも、お父さんの云いつけですか。

 ――はい、云いつけですね。父は、自分が眠るときには、わたしも一緒に眠るように、と云っていました。きっと、寂しがり屋の人なのです。ですからわたしは、父が逝ってしまった夏に、一緒に眠るのです。わたしが、この命を止めることができたらよいのですけど、困ったことに、わたし、そんな勇気がありません。きっと、臆病者のわたしなのです。

 臆病だなんて。あなたは優しいんだと思います。

 ――優しくなんてありません。私の心は鬼のようです。

 優しいから、おれは先輩を好きになったのですよ。

 ――それはきっと、贋者(にせもの)のわたしですよ。

 そうなのですか。

 ――はい。

 では、あの『五月闇(さつきやみ)』の絵も、贋者の先輩が描いたと?

 ――分かりません。わたしには、ほんとうが何で、贋者が何かすらも、分からないのです。どれがほんとうのわたしで、どれが贋者のわたし……。心が、いくつにも分かれているみたいです。いっそ、たくさんの人格があったら、と思うことだってありますけど、わたしは、やっぱりわたしで、わたしなんです。心もわたし。でもその心が、折り重なる花びらのように、いっぱい、あるんです。それはふつう、変なことですよね。だから、恋もわたしには荷が重くって……。もしかしたら、あなたを好きな心もあるのかもしれない。でも、あなたを憎む心もあるのかもしれない。あなたを何とも思わないわたしも、いるのかもしれない……。『五月闇』だって、そうです。いいえ、これはまことの心、わたしはあの絵がきらいです。

 そう、ですか。

 ――はい。

 暗いですね、此処。

 ――はい。

 灯り、点けないのですか?

 ――電灯が、壊れていますから。

 なるほど。でも、これくらいの闇の方がいいですね。

 ――そうですね。雨のぽつ、ぽつ、って音がよく聴こえます。

 ほんとうだ。鼓膜のすぐそばで、聴こえますね。

 ――蛙の音も聴こえます。げこ、げこ。

 一匹でしょうか。

 ――いいえ、二匹では、ないでしょうか。音が重なって聴こえますし。

 二重唱ですか。仲が、いいですね。

 ――そうですね。幽暗のなかで、一所懸命……。なんだか、楽しそうです。

 そうですね。

 ――視界を消してしまう闇のなかで、唄ってくれていると、不安にならずに済みますから、わたしは嬉しいです。

 その闇とはなんですか。

 ――『五月闇』です。

 おれは、あなたが描いた『五月闇』の絵が大好きなんですけれど。

 ――だから、あの絵をわたしは、

 キャンパスに、どんよりと、暗夜が忍び寄ってくるような、薄鈍色(うすにびいろ)の湖が、ねっとりとした水を深く湛えている。水の色は、絵の具を叩きつけるように塗っていて、でも浅くて、弱々しくて、穏やかな、静謐を含んだ彩りで。

 ――止めてください。それ以上に云うのは。あれは、わたしから滲み出た、毒の色なのですから。圧倒的な恐怖や、絶望、果てには孤独……。

 黒いシルエット状の木立が、湖に大きな影を、ぬう、と落としています。それら影に倣って湖面に落ちる、針のような雨。

 ――雨は、痛いです。

 痛い、でしょうか。肌に当たると心地よいのに。

 ――父がお墓に眠りについたその日は、今みたいな梅雨の日でした。

 お父さんの……。

 ――そのときに、無情に降りしきっていた雨は、わたしの肌を、何度も何度も、ぶすり、と刺しました。その痛みは今でも、この時季になると、蘇ってくるのです。

 でも、あなたの肌は白いですよ。

 ――えっ。

 針になんか刺されてはいません。傷一つ、紅い染みの一つ、ないではないですか。

 ――それは、ただの比喩ですから。

 えぇ、ただの比喩です。あなたに痛みはない。その証拠に、ほら。五月闇の雨だって、針のようなのに、とても流麗で、儚く描いてありましたよ。

 ――筆と、わたしの意志は、関係ありません。

 それに、雨の色は清い白です。

 ――……。

 ……。

 ――暗いですね、此処。

 はい、暗いですね。電灯、取り替えましょうか?

 ――いいえ、後で構いません。……。

 ……。

 ――あなたは。

 はい?

 ――わたしの五月闇に、何を視たのでしょうか?

 何を、ですか。

 ――はい。

 それを云うのは、少し恥ずかしいのですが……。おや、あれは。

 ――どうされました?

 いえ、あそこ。電灯の上に、なにか。赤い小さな。

 ――ほんとう。可愛らしい、黒い斑点、あっ。

 飛び立ちましたね。あれは、天道虫ですか。

 ――はい、天道虫ですね。

(赤くて黒い小さな体。天道虫は、ふわっ、と空気に飄(ただよ)い、向こうの視える、透明な薄い羽を揺り動かす。赤い、火のような尾をゆらりと引いて、少年と少女の間に軌跡を描いている。どこかじぐざぐに飛びながら、部屋に粒めいた炎を灯し、その飛ぶ先には、雨に濡れた窓がある)

 窓を少し、開けてあげましょうか。

 ――……。雨の音が、近くなりました。

 達者でな、天道虫さん。

 ――この雨の中、どこへ向かうのでしょうね。

 さぁ。お日様にでも、飛ぶんじゃないですか。

 ――それは素敵ですね。……あの、それで、

 はい、分かっています。あなたの絵に視たもの、ですよね。

 ――はい。

 おれは……。夢を、視たんです。

 ――夢? どうして、そんな。あの絵にはわたしの絶望、恐怖、孤独……厭な心しか、写っていないのに。どうしてなのですか?

 一人の人物……。人物が、あの絵の中にいましたね。

 ――はい、いますね。それが?

 その人物は、ただ立っていますね。

 ――はい。あれは為す術をなくしてしまった、姿です。

 ……おれは、逆にすごい人だと思います。

 ――えっ?

 目の前には底の視えない湖。天辺の視えない、黒々とした木立。肌を容赦なく打つ、針の雨。恐ろしい自然だと思います。

 ――だからその人は立つことしか、できないのです。

 ふふ。

 ――何を、笑っているのですか。

 そんな処で、地に足をついて立っていられるなんて。

 ――……!

 おかしいとは思いませんか?

 ――そんなことは、ありません。

 あれは、立ち向かう絵、なのでしょう?

 ――――。

 ………………。

 ――――――――。

 …………………………。

 ――――――――――――。

 ……先輩。

 ――わたしは、あの絵がほんとうにきらいなんです。

 はい。

 ――ほんとうに、きらいです。

 はい。

 ――あなたは?

 おれは、すきです。

 ――嘘。

 おれは、だいすきです。

 ――うそ、嘘。

 では、だいきらいです。

 ――え?

 ふふ。

 ――あ、からかっているのですか?

 逆もまた然りですよ、先輩。

 ――逆?

 先輩が心の底から『五月闇』を嫌うように、おれは心の底から『五月闇』が好きです。

 ――ぐす。

 あれ、いきなり泣かないでください。

 ――ひっく。――あぁ、雨ですね。

 はい、雨ですね。

 ――わたしは、父のように眠っていて。

 はい。

 ――夢は、視るしかできないなのだと、思っていました。

 はい。

 ――わたしは、あなたの、夢ですか?

 ……。

 ――……。

 それは、意地の悪い質問です。

 ――でも、知りたくって。

 答えたくありません。

 ――また、そんな。今更ではないですか。

 男には云えないことも、あるのですよ。

 ――あの時の告白は、すごく情熱的でしたよ?

 ……!

 ――たしか、なんだったか……。

 うわぁ、思い出さないでください。

 ――うふふ、そう云われても。

 恥ずかしいです。

 ――では、質問に答えてください。

 ……。はぁ、参りました。

 ――はい。

 あなたは、おれの、夢です。

 ――はい。

 あれ、先輩。

 ――どうされました?

 涙が、いっぱい零れてますよ。

 ――はい。ぼろぼろ、零れています。

 まったく……。

 ――すみません。熄まないものは、熄まないのです。

 雨ですね。

 ――はい、雨ですね。

 なんだか、お腹が空きましたね。

 ――そうですね。ずっと、お話していましたから。

 わぁ、偶然にもこんな処に大福が。

 ――うふふ、面白い偶然ですね。売店で買ったのですか?

 そうです。おいしいんですよね、あそこの。おひとつ、いります?

 ――はい、ありがとうございます。頂きます。

 おれもひとつ……。

 ――ぱく。

 あむ。

 ――ぐすっ。おいしい。

 〝今すぐそれを喉に詰まらせろ〟

 ――はい?

 ある漫画の台詞です。大福と云えば喉に詰まるものの定番ですよ。

 ――あら、それではわたし、天国に逝ってしまいますよ。

 そうすれば、お父さんの処で涙を拭いてもらえるじゃないですか。……仕返しです。

 ――まぁ、意地の悪い。縁起が悪いですよ。

 そうですね、すみませんでした。

 ――うふふ。

 どうされました?

 ――涙、拭ってくれません?

 いいですよ。あぁ、雨ですね。

 ――はい、雨ですね。


(閉)



作業用BGMにショパンのノクターンと雨だれを無限ループしてました。


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最終更新:2011年06月20日 14:05