絵空事に最も近い偽りの自伝

言ってみたかっただけです(



 彼は殺人鬼だった。


 誰かと話したりすると、どす黒い感情が沸き上がるのを、肌身にひしひしと感じるのだ。それは、自分と会話するときも例外ではない。何かをやろうとするとき、彼は自分の中にいる三人の自分と会話をして、物事を決定する。最初に案を出す自分。それを客観的に視て、批評する自分。――客観的にと云っても、それは自分が思う客観的だから、結局は主観的なのだが。最後に、案を出した自分にも、批評する自分にも、笑いながら合いの手を入れる自分。そういう者たちと、彼は延々と話し合いをする。


だがそんな三人の決定をも覆そうとする自分もいる。いや、これは自分と云うよりは抗うことのできない力――一説では宇宙から受信していると云う――直感なんて物である。最後にはそいつに心をめちゃくちゃにされてしまう。だから彼はその直感にも厭な心を覚えるのだ。もしくは、その直感がどす黒い彼で、残りの三人がいい彼なのかもしれない。しかも、たちの悪いことに、彼はその直感を神のようにも感じているから、余計に始末が悪い。つまるところ、彼のどす黒い感情は自分にだけ向いていた。


 彼はとにかく、人の雰囲気に馴染めなかった。


 人と接することが嫌いなのだ。このように云うと、語弊があるかもしれない。「人を視るのが好きだ」と、常から彼は思うようにしているから。それは直感も、三人の自分も、皆が同じように考えていて、一致していることだ。だから彼は幼いときから、周りの人に好かれようと努力してきた。そのため、ずいぶん昔から彼は無意識に笑顔が作れた。不幸なのは、彼がそれを仮面だと思っていたことで、本心のものであるとは気づいていなかったことだ。そして、相手も同様に仮面を被っていると思っていた。

(仮面の裏に貼り付いた表情では、この人はきっと別のことを思っているんだろう。なにを思っているんだろう。おれの事だろうか)

 そんなことを考えているから、努めて彼は仮面を外さないようにした。

(相手もつけているのだから、自分もつけていなくてはいけない。人と違うと思われたら、おれはこの人に嫌われる)

 だから彼は、人と接することが嫌いになった。殺してしまった仮面はいざ知れず。その事によって相手の仮面も殺す結果になっていたと、薄々彼は勘づいていたが、彼は既に後戻りできない年齢で、今更どうにかなるものではなかった。


 散歩をすると云う趣味が彼にはあった。


 彼はそれを楽しんでいるつもりだった。すれ違う人や路傍に咲く花を眺めて歩く自分にうっとりともしていた。が、それも仮面の所業なのではないかと、しだいに彼は考えるようになり、もはやただ歩いているだけになってしまった。太陽を浴びて歩く自分に憧れもしたが、やっぱり自分は自分のままだった。これも全て、世の中のせいではなく自分のせいだ、と彼は無理矢理に結論を下した。

(身にふりかかる災難はおしなべて自分が悪い)

 そう云い切る彼を、誰がなだめることができようか。そうやって自分で抱え込むことで、彼は彼を正当化しようとした。その正当化のために、何人、彼は殺したことか。自分に向けられた哀しみの念や同情は、彼は完膚無きまでに殺しきった。そうすることで、彼は特別になった。臆病者という名の特別に。逃げることができることが特別、ということに彼は気がつかなかった。


 散歩のような人生の途中で、彼は恋をした。


 近所の茶屋の看板娘だ。彼は店の外の椅子に座って団子を食うのが習慣だった。店のような狭い空間は外の世界と違い、そこにいるのはいきものではなく人なのだと彼は思っているからだ。人の視線や声は、彼にとっては毒となりうる。
 団子と、それに茶とを持ってきてくれるのがその彼女。それは一目惚れだった。なにを馬鹿なことを、と彼は思った。心にあれこれと命令して、その思いを追い出そうとした。得体の知れぬ思いを殺そう、と彼は自分同士で激しい議論を展開した。然し、見事にそれは徒労に終わった。恋は落ちるものなのだから、それを止めることなど出来るわけがないのだ。よって、彼は破滅した。


 後になって彼は気づいたが、彼女は彼と真逆だった。


 その事実が彼を叩きのめしたことは云うまでもない。届かない幻想を、彼は夢に何度も視た。夢に想う人が出てくればその人は自分を想っている、と云う古い時代の考えに縋って、半ば意地になって彼は夢を視続けた。夢の中でも、彼は彼女に近づけなかった。小さな自尊心が彼に居座っていて、彼は彼女が近づいてくれるのを待った。そのときほど彼は自分を滑稽だと思ったことはない。だが、恋がもたらす盲目はその滑稽さを薄い霞に隠してしまっていたから、少なくとも彼は幸せだった。


 仕方がないから、彼は毎日茶屋に向かった。


 いつも通り、外の席で団子を注文した。雨の日は傘を差して団子を食べた。雨が好きなのだと、彼は思うことにした。彼女が訝しげな目で視ているだろうとは彼は思った、然しそれを別段気に留めたりはしなかった。そういうことをする自分に、浸っている節さえあった。心が浮いている感覚。浮いていて地に足が付いていないのだから、彼がその心を理解できたはずはない。おそらく彼は殺すことが癖になっている。そうしていないと、自分が保てないのだ。ただ、今回で一番まずかったのは、その殺そうとする相手を間違えたことだろう。彼は直感は神なのだと考えているのに。そんな矛盾はいずれ崩壊する。


 月日が経った。彼が自分は恋をしていると知ってから、四ヶ月。
 さて、その間に彼女の方は何を思っていたのだろうか?


        §


 茶屋の外の、風の音は踊るようで、彼女はそういうのによく耳を傾ける。


 彼女は海のような心の持ち主である。

 その心の中では、いつも白波が揺蕩(たゆた)い、海水は飛沫(しぶ)き、それらの雫を、柔らかい風が運ぶこともあれば、空から吹き下ろす暴風のせいで嵐に転じることもある。天霧(あまぎ)る空からは雪が降りる。時には漁り火を灯す船も浮かぶ。火が連なると大火が起きる。風の道を伝って火は海岸に漂着する時もある。


 そんな心を形容する彼女の体はあくまで平凡である。

 いや、平穏と云った方がいいかもしれない。
 彼はそのように捉えていた。


 彼女は、彼のざわついている心をよく感じ取った。
 元より彼女は空気や、目の前の風景に敏感なのだ。

 というのも、彼女は生まれつき盲目なのである。
 視力は衰えようとも、視る力は人一倍だった。


 茶屋に来る彼に、彼女は団子を渡した。
 憑かれたように茶屋に訪ねてくる彼に、別の店員というのもいるのであるが、彼女が彼へと団子を持っていった。

 外にいる彼に団子の皿を渡した後、彼女は中から、仕事の合間に彼を視ていた。
 まじまじと、彼の心を見据えた。
 その心に対してどうこう、と云った感情は彼女にはなかった。
 人は人だと思うのが、彼女なのである。

 そういった意味では、彼女もまた特別だった。
 関心と無関心とが溶け合っているのである。
 日光を浴びることが、彼女は好きだった。


        §


 その時の彼の心をどう表現すればいいか。


 もはやルーチンワークのように、彼は毎日団子を食いにいく。彼は気がつけば、その習慣とは切っても切れない関係になっていた。少し前までは、夢に彼女が出てきた回数を数えていたのに、今はもう止めてしまっていた。数えずともよくなっていた。彼の日常はすっかり侵食されてしまっている。恋と云う名の沼があるとすれば、彼は肩までどっぷりと浸かっていた。沼の色や香(にお)いを間近に感じていた。強い色にはめまいを覚え、きつい香いには呼吸をすることが難しくなった。それでも彼はまだまだ浸かろうとする。恋は落ちるもの。それを引き止めるのは困難だ。彼はそれと意識せぬ間に沈んでいくのだから。沼の下の体がどうなっているかなど、沼に捕らえられて動かなくなった体のことなど、彼にとってはどうでもいいことだった。動かずとも神経は生きているのだからそれでいい、などと彼は思った。光を浴びていなければ生きてはいけぬ人間が、闇に飲まれた時どうなるか? 心の内に闇を抱えた彼ならば、すぐに分るべき事柄を、彼は徹底的に無視していた。


 さて改めて、彼がある日団子を食いに行った日のこと。


 例にならって彼は外の椅子に腰掛け、店の者――彼女を呼び、団子を注文しようとした。そして、彼は驚愕することになった。普通に考えたのなら、それは的外れな感情である。事実、彼も自分の慄(おのの)く心や、瞠目して止まぬ眼のことを理解することができなかった。彼の注文を取ったのは、見知らぬ人だった。彼女は今日、彼の前にいなかった。たったそれだけのことだ。だから彼はいつもの調子で団子を頼んだ。それから、団子と茶を持ってきてくれたのもまた、見知らぬ人だった。彼はそれを受け取った。毎度やっている通り、機械のような動作を繰り返す。外で彼は団子を食べた。この時点で既に、彼の日常に亀裂を入れるのには十分過ぎた。彼のように凝り固まった人間では、些細なことで色々なものが崩壊する。そして新たにまた色々なものが生まれる。団子を食べる彼の脳は忙しかった。忙しいという字は心を亡くすと書く。彼は破壊と新生を繰り返した。

(彼女はいない。おれはいる。彼女はいない)


 ただただ、彼は哀れだった。無様だった。そんな彼に日常は、容赦なく彼にとどめを刺そうとする。


 彼はレジに向かった。無論、お金を払うためだ。幽霊のような足取りで彼はレジへ行って、そうして彼は視てしまった。レジに立つ彼女の姿を。

「あ、こんにちは」

と彼女は云った。常ならばその声を福音のように彼は感じるのに、今日に限っては斬奸状のように思えた。


 何も云わずにお金を渡す彼に、彼女は経緯を説明してくれた。今日はいつものレジの人が旅行でお休みなのだと。そのせいで、客と応対する店員が自分と新人のバイトしかいないから、自分がレジを受け持ったのだと。そんなことを、丁寧に彼女は説明した。彼は頷いた。その場しのぎで笑いながら。


 お代を支払って、彼は彼女からお釣りを受け取った。その時、彼女の指先が彼の手のひらに触れた。それが、とどめとなった。彼の中で、何かが崩れ落ちた。お釣りを財布にしまって、彼は脱兎の如く逃げ出した。一応は比喩である。彼は普通に歩いて、店の中から外へ出た。彼は体裁を取り繕うことだけは忘れなかった。〈他者に対して上品であれ〉その言葉が都合よく彼の心にしまってあったからだ。

(畜生……!)

 簡単な話、彼は気づくのが遅かった。恋は過去の日常をなかったものと錯覚させる。その本当の意味に彼は気づいていなかった。


 店を出て、彼は街中をあてどなくふらついた。


 もう、彼はどうにもならなくなっていた。

(会いたい)

 そんな子供のような願いしか、彼のあたまの中には無かった。言い訳じみている、とも彼は思った。

(さっきの失態を払拭したいだけではないのか。それを彼女に言い訳したいだけではないのか。もしくは壊れた自分の心を、壊れていないことにしたいだけではないのか)

 ただあるだけの自尊心に随って、彼は色々と考えていた。会いたいと願う彼は、それにひたすら理由をつけようとした。この期に及んで、彼はまだ自分を理解していなかった。理解したくなかった。

 何かを殺す彼は、おそらく一人で満ち足りていた。殺すという特別なことに彼は焦がれていて、それを続けていた。ただ、彼は命を大切にするということにも同じくらい焦がれていた。だから、彼は殺して殺して、でも本当は何一つ殺していなかった。殺したものは、すべて彼の後についてきた。それは罪か? 罪か? それを知るのは彼しかいまい。だが彼はそれを考えようとしなかった。あたまの天辺、いや中心部にその答えはあるから、厭でも彼にはそれが視えるのに。中心に目を向けていない彼は、だから容易く狂うのだ。

(会いたい)

 今日は寒い日だと彼は思った。大気が氷になっているようで、軋む氷の隙間を抜ける風はとにかく冱えている。やがて、彼の周りは風で罅(ひび)割れた。
 気づいてみると、彼は茶屋の前にいた。店は閉まっている。営業時間を終えたのだ。彼は悲しくなった。

(でも、店内からは物音がしている。もしかしたらまだいるのかもしれない)

 だから彼は待つことにした。このとき、彼の心の中では変化が起きていた。散歩の趣味がある彼は、歩くことで、無意識のうちに心の中を整理していたのだ。足を動かすときは、彼は「生きている」と感じていた。左足を出して、右足を出すという繰り返しの動作に彼は日常を視ていた。

(生きているのならば、どんなことだって出来る。偉業を為した英雄も人で、おれも同じ人なのだから)

 そんな思いが、彼の心の蝋燭に火をつけた。殺人鬼の彼は、こんな綺麗事とだけはものすごく仲が良かったからだ。殺人の大義名分を得ることができるからである。ある種、信仰と云ってもいいかもしれない。ちなみに、彼の蝋燭は短かった。それを幸いと取るか、不幸と取るかは、彼と彼女の結末次第だ。


 茶屋の戸が開いた。


 出てきたのは彼女と、もう一人バイトの青年である。彼女はすぐに彼の気配に気づいた。いくら目が視えずとも、彼ほど感情を表に出していて、分かりやすい男はいない。青年もまた、今日に外で団子を食っていた彼の姿を思い出した。それから青年は、茶屋の戸の鍵を閉めて「お疲れさまでした」と云ってから、向こうの方に歩いて行った。

 いざこうして彼女の目の前に立ってみると、彼は何とも感じなかった。言い換えると、様々な思いや考えが彼のあたまの中を縦横無尽に泳いでいて、感じる余裕がなかった。油断をすれば彼はまた逃げてしまうに違いない。殺した仮面の雪崩が押し寄せるに違いない。そうならぬように、彼は彼女を視た。光の視えない眩しすぎる瞳がそこにある。

「好きです」

 そして彼は云った。ありったけの思いを込めて。


 その転瞬、彼は彼女が怖くなった。


 直視しているのに、視ることができなくなった。彼のあたまと心は真っ白に消え失せた。一時、彼は抜け殻となる。彼女は彼を視て、彼に近寄った。それから双手を伸ばした。そして彼を、きゅ、と抱いた。彼女は母性に満ちていた。


彼女の腕の熱で、彼は我に返った。

「止めろ!」

と云って、彼は彼女を突き飛ばした。彼女はたたらを踏んで、転んでしまった。それでも彼女の瞳から母性は消えていない。その事実が彼を果てへと突き落とした。彼には背に残る彼女のぬくもりが、痛いくらいに熱かった。彼はその場から逃げ出した。その目に涙を浮かべながら。彼が生んだたくさんの仮面は、いつだって彼の道を標していた。


(殺人鬼・了)


        …


 やがて、二ヶ月が経った。その間、彼は彼女と会っていない。というのも、茶屋が閉店したからだ。風の噂で、彼女は新たな職に就いているらしいことを彼は聞いた。ある時、既に閉店した茶屋の前で彼は彼女と再会した。彼女は、彼を視て微笑んだ。彼の表情は相変わらず死人のよう。然し、彼には死人と違って鳴って止まぬ心臓の鼓動がある。ふらりふらりとした足取りで彼は彼女に歩み寄って、彼女を視た。そして、ゆっくりと彼は彼女の腕の中に崩れ落ちた。
 彼と彼女は何も云わない。ただ一言、

「おれは、人殺しじゃない」

とだけ伝えた。それは、どこまでも潔癖な彼が紡いだ言葉。


(閉)




これ自体は数ヶ月前に書いたもの。なんともこわい小説だ。
by レフィ


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最終更新:2011年08月26日 15:58