松。
(お寺に立派な松があったっけ。見ておこうかな)
朝早く、鈴音はふと思い立って雲水寺へと出かけ、そこで小川びわこと出会った。
「あ。おはよー」
「ええ、おはよう」
びわこが昔からの友人に会ったような親しげな声であったのに対し、鈴音は形ばかりといった声音で返した。
「なんで外を出歩いてるの? 病にかかりたいの?」
さっそく妙に皮肉めいた質問をする鈴音であるが(本人はふつうの質問をしたつもりでいる)、この問いの答えは単純で、
「そりゃ、お墓参りは欠かせないからねぇ」
と、びわこは答えた。
信心深さとはまたちがうが、びわこは蟻を踏むのも嫌がり、蚊を手でぱん、と潰すのも嫌がるような純真な少女であり、もしそれをやったならば黙祷を捧げたりするくらいに、いのちを尊ぶ。それが何らかの見栄ならばともかく、何の見栄もないから、ここの村人に彼女を嫌う者はいない。
鈴音はびわこに同行し、墓参りへ行くことになった。
もっとも、鈴音が自発的に行こうと思ったわけではなく、びわこの押しが強かったのである。
びわこの両親は、父を小川玄斎、母をそよと云い、どちらも医術に長けていた。そよは生まれも育ちであんの村であるが、玄斎は西の方の生まれである。二人の出会いは、そよが伊祖参り(この国の中でも指折りの神社である、伊祖大社への参詣のことを云う。この国の者ならば一生のうちに一度は参詣したい、と思う神社であり、人々にとって一大行事であった。またその道中に様々な名所・名風景も多いことから、旅行のような気分で楽しむことができる)へ行った際、慣れぬ旅行のせいか、そよは熱病に倒れてしまい、そのときに立ち会った医者というのが小川玄斎であった。玄斎はそよに一目惚れをしたらしく、また、そよはそよで元々医術の勉強をしたいと考えていたから、すっかり意気投合した。それからそよは二年間、玄斎のもとで勉強を積み、晴れて医者と名乗れた頃に(ちなみに、この国では医者になるために資格は不要であるから、なろうと思えば誰でもなれた)、二人は祝言を挙げて、あんの村へと腰を落ち着けることになった。
そんな三文小説のような物語の末に生まれたのが小川びわこである。
道中、親の種々の物語をびわこは、屈託の無い笑みと共に、鈴音にすらすらと語った。
語るびわこの瞳は何の毒気もなく、鈴音には出会ったばかりの自分のことを信用しきっているように映った。
(なるほど。そんな親のお腹から生まれてきたわけだから、この女はこんなに小説じみた性格なのね)
鈴音は皮肉っぽく考え、小説じみたという表現をうまい言い回しだとわざとらしく自賛した。
たしかにびわこは健やかな心の少女であり、人を信じやすい。ただ不幸の最中にいるせいで、かえって信じ過ぎてしまうようになっていた。
鈴音でなくとも、仮にだれかが、ミサキさまを退けるには蟻を食べたらいいだとか云っても、迷わずびわこは地を這う蟻とやっきになって格闘したことであろう。
そういった、こういう言葉を使ってもよければ、いささか狂気じみたところは、びわこの身振り手振り、声の調子、目の動き等々に少なからず表れていた。
「いま、ご両親はどうしているの?」
と、鈴音が無遠慮な質問をしたとき、びわこの笑顔は一時張り付いたまま固まった。その両親は、医者にもかかわらずミサキさまのお怒りにまったく手が出せないことに自尊心を打ち砕かれて、家に閉じこもっている。
二人の少女は名の刻んでいない墓石の前で合掌した。
墓場の中でも、一番端っこの方に墓石はあった。
墓石といっても、これは川原で拾ってきたかのような握り拳程度の大きさの石を、そのまま置いているのみのものであった。
「この花はね」
と、びわこは墓石の前に横たわった、淡い桃色の花を指さし、
「ここで、えっと……眠ってる……(ひどく云いにくそうに口にした)私の友だちが大好きな花だったんだよ。あ、この花は昨日私がお供えしたんだけどね」
「今日はお供えしないの?」
急にびわこは顔を真っ赤にして激怒した。
「当たり前だよ! 私は毎週一回しかお供えしない! なんだ、どいつもこいつも!」
びわこの性格を小説じみたと称した娘は、その激しい怒りに思わず呆然とした。
この村人は怒りとは縁がなく、悩みのひとつもない明るい性格で、仮に怒るにしても小説らしくぷりぷり怒るのだろうなどと思っていたからである。
「……あぁ、ごめん。鈴音さんには関係ないね。私もまいっちゃってるのかなぁ。いやね、普段の私はそんなに怒りん坊じゃあないのさ。怒るとこう、頭がかっかしてね、気持ち悪いんだよ。おっかさんも『怒ると寿命が縮むからあんまり怒るんじゃない』なんてよく昔っから云ってるからね。でもそれはそれでおかしいと思うんだけどなぁ。怒るときはそりゃあ怒るさ。だってさ、(ここでまた顔を真っ赤にした)こまっちゃんは死んだなんて、誰が決めつけることができるのさ! 私がこの目で見届けたわけじゃあない、信じてなんかやらない! 生きてるかもしれないのに、ばか!」
びわこは激昂し、やがて瞳から熱いものがぽろぽろ零れ始めた。
鈴音は面《おもて》には全く出さなかったが、少女の感情の暴発っぷりに内心でひどく動揺していた。
びわこはごしごしと涙を拭いつつ、
「そりゃあね、小助さんの云いたいことも分かるんだよ。仮にそのさ、こまっちゃんがそうだとしてさ、毎日お供えした方がこまっちゃんが嬉しいのは分かるよ。この花はこまっちゃんが大好きだったからね。でもさ、この花だっていのちなんだからそんなに沢山摘みとっちゃいけないと思うんだよ。って、そもそもさ、なんで毎日お供えしてやれなんて小助さんは云うんだろうね。そんなに云うなら自分がすればいいのに!」
「小助……? なんで……?」
急に出てきた気になる名について鈴音は尋ねた。珍しくおどおどとした口調であった。
また怒り出したらどうしようか、と考えてすっかり萎縮してしまっているのである。
「あぁ、えっとね、小助さんはこまっちゃんの面倒はよく見てたんだ。過保護なくらいにさ。まるで自分の娘みたいに……ううん、ちょっとちがう、なんだろう、たとえるなら、自分のおっかさんのおもりをするみたいに? うー、なんか変な……まぁいいや、こんなのは。うん、そろそろ家に帰ろうかな。また来るね、こまっちゃん」
二人は墓場から出て、伽藍のすぐ前まで来た時に幼い二人の兄弟と出会った。
なにやら地面を凝視して、あっちに行った、こっちに行った、と騒ぎながら、地団駄している。
蟻を踏み殺して、どちらが多く踏めるかを競い合っているのである。
「こらこらお二人さん」
「あ、びわの姉ちゃん」
「なぁにをやっているのさ。外に出ちゃいけないんだって。おっかさんが云ってなかった?」
「へ、へへ、そう云ってたから、ぼくたちはおっかさんを怒らせてやろうと外へ出てきたのさ! だいたい、姉ちゃんだってお墓で遊んできたでしょう?」
「ばか云うな! 私はお参りしただけ。ほらほら、さっさと帰った」
「隣の人、誰? 初めて見た」
「旅人さんだよ! はい、分かったなら帰れ!」
ふうん、と兄弟はうなずいて鈴音の方にてこてこと寄ってきた。
「おお、べっぴんさんだ!(どこでそんな言葉を覚えたのかとびわこが怒号を飛ばした)お人形さんみたい!」
「お肌がすべすべそう! お髪がさらさらしてる! おおぅ、刀まで持ってる! うひぃ、かっこいい! そそられる!」
あどけない子供たちはけしからん文句を次々に飛ばした。彼らが密かに憧れている、酒場にたむろする男たちが云っていたのを頑張って覚えたそうな。
びわこは子供たちを追い返すことは忘れて、とにかくはらはらした。
この愛想のない、むっつりとした旅人にそんな言葉を浴びせたらどうなるか……。
然し、その心配は杞憂に終わった。
鈴音は楚々とした足取りで子供たちの目の前まで近づいていって、相手の目の高さまでゆっくりと屈んでから、
「ん、今日はお家《うち》に帰った方がいいよ。あなたたち、ミサキさまに怒られて、そのせいでお墓に入りたくはないでしょう?」
「う……(やさしげな、美しい娘の顔がすぐ近くにあることに、頬を赤くし、しどろもどろになりつつ)お墓ってなに、どんなところ?」
「とっても暗くて寒いところ。ね、いやでしょ? ほら、だから暖かいお家にいた方がいいよ」
そう云い終えてから、鈴音は兄弟二人ともの頭をなでてやった。
びわこは呆然とした。
(なんてやさしい女の子なんだ……! 母性に満ちあふれてる……!)
今まで鈴音の冷たそうな素振りばかりを見ていたからか、純真な少女はこの行いに思わず感動していた。
兄弟二人は素直に自分の家へと帰っていった。
そのさまを見送りつつ、この特異な性格をした女剣客は、
(ばかみたいに無邪気。病が流行っているというのに、こいつらは寿命を縮めたいのか。数えるほどしか生きてないくせに。いのちは大事にすることね)
と苦々しげに考えた。子供の頭をなでた自分の手を大まじめに忌々しく思った。
(どうせこれは偽善なんだから。そんなことも気付けない無邪気さなんて、間抜けなこと)
いやはや! 偽善という恐ろしい言葉がもたらすものはかくの如しである。羽橋鈴音は若さゆえ、偽善という言葉によく苦しんだ。
小川びわこと別れてから、鈴音は六郷川の水上の方へ歩んでいった。一人になれるところへ鈴音は行きたかった。本人はこの衝動を発作のようなものだと考えていた。
すこし歩けば川幅は徐々に細くなっていき、すぐに林へとさしかかる。
遠くの方で、蝉の音がわずかにこだましていた。
近くでは川の水流の音が唸っている。
鈴音は川面から離れて櫟の茂る方へ進んだ。木漏れ日がよく射していた。
川の音が聴こえなくなってくる辺りまでやってくると、木々の切り株が目立った。
病が蔓延する以前は、村人たちはここらの木を材木として伐採していたそうな。
鈴音は衣服が汚れるのをいくらか気にしつつも、根を深く下ろした切り株の上に腰を下ろした。
(子供はうらやましい。無邪気で、自然で。知識がないから、誠実さを遂行しなければならないだなんて考えることもない。やさしさだって、それは与えるものだなんて風に思ってはいないんだろう。大人にならないことに、なにか罪があるのだろうか。
……儚さんがいるのはあの辺りかな)
鈴音は木々の隙間から覗く村の風景に目を向けた。
さて、お気づきの読者もいるかもしれないが、日下儚が何かと気にかけている茜色の髪の少女が〝こまっちゃん〝である。
名を明日葉小町(あしたば こまち)と云う。
びわこが「小町はすでに死んでいる」と勘違いしているのは、小助が彼女に「小町は死んだ」と伝えたからなのである。
せっかく春休みに入ったので、一日一回は執筆したい。
天道小助は酒場で酒を浴びるように呑んでいた。これは彼の習慣となっていて、元々は週一回程度であったが、今では二、三回ほどに増えている。
酒場は小助宅から千歩ほどの距離にある。
日当たりがあまりに悪いために、黄昏の時刻のような幽闇の中、小助のほか四人の男が酒を呑んでいた。
その四人の中でも特に疲れきった顔をした男と小助は酌を交わしている。この男、後藤亮伯(ごとう りょうはく)は医者である。賢そうな切れ長の目にさっぱりした顔立ちは女の目を惹きそうなものであるが、病が流行りだしてからは、無精髭にまみれ、目は窪み、元々薄い鼻、その鼻の穴は彼が呼吸《いき》をしてもぴくりとも動かず、何も彼も諦めたかのような顔つきになっていた。
「おい、そろそろ帰ったらどうだ。ここにどれだけ居坐ってるんだか」
店の主が客たちに声を投げた。声は喉の奥で唸っていたのが、たまたま出てきてくれたようなものであり、意志と呼べるものは声の内にはなかったから、主の提案を聞いた者は誰もいなかった。元より主も期待はしていなかったため、それ以上喋ることはしなかった。
厄神のせいで精力が枯れ果てた酒場の者たちは皆のっぺらぼうのようであり、病にかかることに対して関心が向かないからこうして外を出歩いている。
若干酔いの回った舌で、小助は酌の相手と言葉をやり取りしていた。
「小助さんや。いつぞやは天気雨が降っていたね」
「あぁ、そうだな」
「晴れなのに雨が降るとは気味が悪いね。何かの予兆じゃあるまいか」
「ふん。面白い冗談を云うな、後藤よ」
会話に他の男が加わってきた。顔が真っ赤で、ふらふらしていた。
「予兆だと! どこが面白い冗談だ、じじい! その予兆が起きたせいでうちの娘は死んじまったよ、は! おい知ってるか? まだ九つだぜ? 九つ! 十にもなっちゃいねぇ! 厄神なんざ、くそくらえだ!」
「知っている、この酔っ払い野郎め。その話はもう九回は聞いたわ。娘の年と同じ回数、な」
「おい、おれの娘の年をなぜお前が知っている! おい知ってるか? まだ九つだぜ? 九つ! 十にもなっちゃいねぇ! 厄神なんざ、くそくらえだ!」
酒場の者たちの面がのっぺらぼうなら、肉体はからくり人形である。脳に刻みこんだ記憶や思い出を丁寧に引っ張り出しては、唇をこじ開け吐き出させるからくりに男はただ従っていた。そのさまは弾をこめ発射する木砲であった。大概が不発で、弾は口のあたりでぷすぷすと細長い煙を吐いているのが男には腹立たしかった。むろん、これはこの酔っ払いに限ったことではないが……。
酔った男は厄神なんざくそくらえだと叫びまくり、そのうちに弾が中で暴発し、結局気を失った。
他ののっぺらぼうたちは彼を介抱してやる気にはならず、そのまま飲酒を続けた。
「うちの村は終わるだろうね、小助さん」
「さぁな、おれには分からん」
「いいや、終わるさ。医者のおれでもお手上げな、あの得体のしれない厄神さまの祟りに殺されちまうんだよ、おれらは。……はっ、だがあんたは殺されやしないかもね。もう長く生きてるじじいだから」
医者は皮肉げに笑おうとしたが、失敗した。吊り上げた唇の隙間からわずかに黄ばんだ歯を覗かせただけであった。この時点で彼の舌は腐っていた。舌は爛れ落ちる寸前で、亮伯は自分の舌を自分のものと思わなくなりはじめていた。
酒に身を預ける前、医者は真剣にこの病の治療に取り組んだ。然しまったく歯が立たなかった。
この村の医者は彼を含めて三人いて、彼以外の二人は小川夫妻であり、三人ともがこの村の医者は自分なのだという自負がある。
後藤亮伯は「ほかの二人は知識不足だ」と馬鹿にしていたし、小川夫妻は亮伯を「あいつは患者の気持ちが分からないやつだ」と思い、また夫婦どうしではお互い「こいつは知識が足りない」などと考えていた。つまり皆が誇り高かったわけであるが、それゆえミサキさまが彼らに下した暴力(医者たちはこう呼んでいる)は、彼らの誇り高い心を、彼ら自身が毛ほどの価値としか感じなくなる程度にまで貶めた。
うぬぼれを粉砕された男の末路を、小助はただ見ていた。元よりまともに相手にしようとは考えなかった。彼もまた、自分に同情してくれる人間を欲しがっているからである。
「あぁ、なにか楽しいことはないかい小助さん。酒だけじゃ足りないよ。そうだ、ふはは、女だ! 女が欲しいなぁ小助さん! こういうときこそ女だ! まったくあいつらだって、心底じゃおれらを求めてるはずなんだ、だのに、外にすら一歩も出やしねぇ! は、女ってのはいやな生き物だ。われらの村だろう、なんで堂々と歩かねぇ。へっ、でもやっぱり女が欲しいじゃねぇか、だからさ、おれは強行に行こうと思うんだ。村一番のちらかっている女(これはこの地方の独特の言い回しである)がいるだろう、あいつを誘う。あぁ、それがいい」
「そうか。好きにするといい」
「あぁ、もうとっくに好きにしたさ。昨晩あいつを誘ってやった。そしたらあの高慢ちきな女、なんと云ったと思う? 『あなたに抱かれたら病をもらうかもしれない』だとさ! この医者のおれに向かって!」
「くっくっく。とんだ皮肉だな」
小助はなにか無性に嬉しくなって、くっくっくと笑いをこぼし続けた。おかしくてたまらなかった。
「おいおいとち狂ったのかい、じじい。おれをばかにするんじゃねぇ。……いや、でもなんだ。そうだ、あれだな。もうろくってやつだ、もうろく! あんたはもうろくなんだ!」
申の下刻に医者は酒の席を外れた。
小助は一人で酒を飲み続けた。一番安い酒ばかりであった。主を呼んでは徳利と小銭とを交換した。徳利は洗ったばかりでぴかぴかのものが多い。小奇麗になった徳利の描く曲線は女の腰のそれのようであった。女の肌には鳥肌が立っていて、ひんやり冷たかった。
燃える夕明かりが、小助が手にもつ酒を血の池に変えていた。水面が揺れるさまは心臓の鼓動のようで、なにか恐ろしいものを小助は感じ、酔いはすっかり冷めてしまった。それ以降、小助は酒をちびちび呑むことに徹した。
(小町はもう死んでいるにちがいない。どうやっても助かるわけがない。厄神の手からは逃れられぬのだ。そうだ、おれはびわこのことを思ってあのように云ったのだ。そうだ、そうだ……)
小助は小町が村人から生け贄にされそうであったことを知っている。また、小町の墓を作ったのも小助である。
一日一回とか無理ゲーでした。
この日の夜、後藤亮伯は「厄祓いしてやる。明日の早朝、集会所に来い」と、村の家々の門戸を叩いて回った。集会所とは村長の家のことである。村長は厄神の手により亡くなっているから、いま住んでいるのは後家のみである。医者の呼びかけに、村人は大抵は死んだように黙りこんでいるか、あるいはわけのわからぬ奇声を発してくるかであった。後藤亮伯は小川家には行かなかった。
彼の奇行の効果はいくらかあったようで、集会所には五人の男女が集まっていた。といっても彼らはただの監査官であった。医者の行動を評価してやろうというのである。たとえどんなに評価が最低でも、彼らは亮伯に付き合ってやる気であったが。その中には件の村一番のちらかっている女もいた。眉はぎざぎざとして、目は糸のように細く、頬は中途半端に肉厚で、唇は顎にひっつきそうなくらい下にある。彼女がここに来た理由は好奇心からであった。
(どういう方法で私たちを道連れにするのかしら、後藤先生は)
医者は厄祓いの方法を簡潔に説明した。
「村を出るぞ」
この提案は村人たちに大きな衝撃を与えた。病から逃れるために村人は様々な試みを行っていたが、おそらく彼のこの提案はもっとも利口な手段である。であるのに、いままでにこの手段を誰も用いていないのは、彼らの自分たちの土地への愛が強すぎるからである。
その愛の良し悪しはさておき、集まった村人たちはこのとんでもない提案に対し、あらゆる理屈や理論を使って激しく議論した。海猫が喧しく鳴く中、つばを飛ばし怒鳴り合っていた。
結論は「村を出る」ということに落ち着いた。落ち着いたというより、彼らにはこの魅力的な防衛手段に敵う武装ができなかったのである。心に響く意見が彼らの間では出なかった。人間の本能を揺さぶるこの言葉の前には間抜けなくらいに無防備であった。
逃亡者たちは悪いことをした子供のような気持ちになりながら、六郷川を急いで渡った。川の先の集落を一つ抜け、それから山にさしかかった。入道雲のせいで山のてっぺんはていねいに切り取られ、白に染まっていた。
羽橋鈴音は風のうわさで「村から逃げ出そうとした者たちが山越えの際に熊に襲われたらしい」と聞いた。日下儚や天道小助、小川びわこ、そして明日葉小町の耳にも入っていた。誰がどうしたものか、数日も経たないうちにこの出来事は様々な尾ひれをつけて村じゅうに広まっていたのである。村人のなかには「彼らは脱獄者なのだ!」と称える者もいた。
この辺は書いてて楽しかったです。ちょっと文章が大げさな気もするけど……。
最終更新:2012年03月23日 11:03