数ヶ月前に渋に上げたやつ。作どっかの萩で鷲。





それでも人は生きている。
これはただ、それだけの話。






大砂原を、一隻の砂上旅客船が奔る。
砂上旅客船という乗り物は、地上の殆どが砂に覆われたこの時代においては比較的ポピュラーな物であり、街と街を行き来する手段としては最も利用されていると言っても過言では無いだろう。その名の通り、砂の上を行く旅客船だ。
そんな旅客船の船内後方、エコノミーエリアの座席の一角。そこに、一際目を引く二人組が座っていた。
「なあ、トオル。まだ着かねーのか?」
一人は、リリーベル・リーナという少女。体躯はかなり小さく、髪はショートボブの薄い金。言葉遣いが荒く、女性的な特徴が顔立ちと声質以外に見受けられない為、ともすれば少年に見えなくも無い。
しかしそのウサギをモチーフにしたであろう独特なデザインの、黒と赤を基調とした袖が無く丈の短いパーカーや、極端なローライズのホットパンツはまず少年的な服装では無いし、ほんの僅かながらも真横から見れば分かる程度には胸の膨らみがある。
「そう焦るなよ、リリィ。精々、まだ半分って所かな」
もう一人は、トオル・トオタニという青年。隣の少女――リリィがあまりに小柄な為相対的に大柄に見えるが、彼単体で見ればそこまで大柄という訳では無い。髪はややぼさっとした短髪の黒。身長にしろ見た目の印象にしろ、平均的な普通の青年といった風だ。
白無地のTシャツの上から藍色のジャージを羽織り、黒がかったジーンズを履いたそのファッションは、旅姿としてはあまり適切では無いだろうが、しかしリリィの奇抜な服装に比べれば大分とマトモであろう。
しかしながら、彼もまたリリィに負けず劣らず目立っているのだった。
その最もたる原因は、彼のジーンズのベルトに、やや乱暴に差し込まれている物にある。
服装に対して明らかにミスマッチなそれは、紛れも無く和式の刀剣の一種――打刀だった。
とは言え、別にこの船は武器の類の持ち込みを制限されているわけではない。
この時代においては、合法・非合法を問わず、武器を携帯している人間は相当数存在する。
当然ながら、公共の交通機関に堂々と武器を持ち込んでいる彼は合法的な武器の携行を許可されている人間であるし、打刀に代表される和式の刀剣も、その信頼性や実用性、携帯性或いは芸術性の高さから、好んで使用する者は一定数存在する。
では、一体どこが目を引くというのか。
「……しっかし、それさ。視界に入るたびにキラキラして鬱陶しいんだけど。どうにかなんねーの?」
「無理だよ。どうにかなるなら、どうにかしてる」
答えは単純。その刀が非常に目立つ物なのだ。
鞘に拵え、全てが眩い黄金色。目立つなという方が無理な話だ。
「いや、せめて袋にでも入れておくとかさ」
「そうしたいのは山々だけど、それじゃあいざって時に抜けないだろ。拵えを変えるとかを考えなかった訳でも無いけど、預かり物みたいな物だから勝手にいじったりする訳にもいかないし。僕だって、出来るならこんな目立つもんを腰に差したりしてないよ」
どうやら、彼自身それが目立っている事は自覚しているらしい。が、それを改善する当ては無いようだ。
「まあ、普通の刀を使えば良いだけの話なんだけど……こんなんでかなりの業物だからね、これ。同質の物を探そうとすれば中々骨だろう。しかも、所有者が譲ってくれるとは限らないし、譲ってくれるにせよかなり吹っ掛けられるだろうね」
「なるほどなー。まあ、あたしだったら金なんて何とでも出来んだけど、そういう事はしないって約束しちまったしなー……ま、良いんだけど」
リリィの方もそこまで本気では無かったらしく、それを最後に話を切り上げ、ポケットからキャンディーを取り出して口に放り込んだ。
「ああ、うめぇ……」
瞬間、顔を思い切り綻ばせる。
砂漠を三日彷徨った旅人がオアシスを見つけたとしても、ここまで幸せそうな顔は出来ないだろう。例えるならそんな笑顔だ。
「ほんと、好きだよねそれ」
「いやいや、逆に訊くけどよ。こいつが嫌いな奴が存在するのか?仮に居るとしたら、そいつは味覚がおかしいんだろうな」
話しながらも、リリィはトオルの刀よりも余程眩しいその笑顔を崩さない。相当にそのキャンディーを気に入ってるらしい。
「……やっぱり、子供っぽいな」
「あ?子供じゃねえっつってんだろ!これでも今年で二桁だぞ!」
「言い逃れようもなく子供じゃねえか。あと、笑顔で言っても凄みが無い」
笑顔じゃ無かろうと凄みが無い、むしろ背伸びしようとしている子供のようで微笑ましい事は、本人のプライドの為にも言わないでおいてやろう、等とトオルは考えつつ、さて喉が乾いたなと荷物袋の中から水筒を取り出し、口を付ける。
「……良いのか?そんな事言ってると夜這いかけるぜ?」
「ぶっ」
盛大にむせた。
「……あー、勘違いすんなよ?あたしはトオルの布団に潜り込むだけだ。自分で言ったよな?あたしは子供なんだろ?一緒に寝るくらいは大した事じゃないよなあ?」
そう言うリリィの顔は、先程までの純朴な笑顔から一転、腹黒い笑みに変わっている。
「いや、お前絶対変な事する気だろっ!?」
「んー?まあ、確かに手がどっかに当たったりするかもしれないし、隣で寝る以上は身体が密着するかもな。でも、ほら、あたし子供だからさあ。そういうの良く分かんねーんだよなー」
「くっ……!こいつ、さっきと真逆の事言ってやがるっ……!」
トオルの名誉の為に言っておくと、別に彼に特別幼女趣味の気がある訳ではない。が、リリィという少女は特別なのだ。
――曰く、生まれ付いての催淫体質。彼女の手にかかれば、如何なる者でも彼女の虜になってしまう。
とはいえ、トオルは彼女の体質に対して破格の耐性を持つ。何と言っても、彼は今の所唯一リリィに理性を崩壊させられなかった男性――否、生物である。
実際、今もリリィはトオルを誘惑しようと試みているのだが、それに対し、トオルは必死に理性でブレーキをかけ、対抗している。
まあつまりは、全く効き目がない訳ではない。特に寝込みを襲われたりすれば、どうなるか分かった物では無い。
「……なーんてさ。冗談だよ」
ふっ、とリリィの表情が元に戻る。それと同時に、糸が切れたかのようにトオルの上体ががっくり崩れた。
「やっぱり、正攻法じゃないとなー。寝込みを襲うのはなんか卑怯だ」
「……誘惑自体は、する気なのな」
「応さ。あたしはその為に着いて来てんだからな」
そう言って、小さくなったキャンディーを噛み潰し、次のキャンディーを口に放り込む。笑みがこぼれる。
(……まあ、これは自業自得だ)
笑顔の裏で、しかしリリィはそう思う。
(今まで散々人の心を弄んできたんだ。その結果がこの様だ)
尤も、彼女はそうしなければ生きられなかった。だから、決して後悔は無い。でも、だからこそこれは天罰だろうとリリィは想う。
(初めてありのままのあたしを見てくれたってのに、肝心のありのままのあたしに、魅力なんて物はありゃしない。そこにあるのは、穢れきったちんちくりんが一つだけだ)
――それでも。
だからこそ。
あたしは。
私は――
「――リリィ」
「ふぇい!?」
いつの間にか、トオルは立ち直っていたらしい。虚を衝かれたのか、リリィは素っ頓狂な声をあげてしまった。
「あー……なんだ、その。あれだ」
「な、なんだよ」
取り繕ったものの、動揺からか、飴を舐めるカラカラという音の間隔がやけに早い。視線を露骨にトオルから逸らす。
「――僕はさ、リリィの事、好きだよ」
しかしそんなリリィの様子に気付く気配もなく、トオルは言葉を続けた。
「……は?」
「ああいや、変な意味じゃ無い。純粋に、友人としてだ。なんだかんだ、リリィと一緒になってからは、道中で退屈しないで済むようになった。これでも僕って、結構寂しがり屋なんだよ。だから、リリィが居てくれて助かってる」
「……」
――リリィはまず固まって、それから俯いて。
顔を上げて、そして一言。
「……馬鹿?」
見上げられたその顔は、完全に真顔だった。
「……いや、なんでさ」
「知るか。一生考えてろ」
リリィは心底呆れた声で、恐らく本気で呆れながら言い捨てると、そのまま背もたれに身体を預けて瞼を閉じた。
(……まあ、必要だって言ってくれるのは嬉しいけど。やっぱり、素のあたしじゃあさっぱり異性としては見て貰えないか)
勿論、彼女とてそれは理解していたつもりだった。それでも、やはりそのままの自分自身にそんな価値が無い事を宣告されたようで。
リリィは今更ながらに、いかに自分が自分の力に頼り切っていたのかを自覚する。自分はズルをしなければ、誰かの興味を引くことさえ、ままならないのだと。
(これが、因果応報というやつなんだろう。だとすれば、世界というのはとても良く出来てやがる)
リリィは神というものを信じてはいないが、しかしもし存在するなら詰問したい気分になった。
何故自分はこうなってしまったたのか。何故自分にこんな力を与えたのか。
何故自分を――トオルと出会わせたのか。
(――馬鹿馬鹿しい)
そこまで考えて、リリィは思考を中断する。
(そんな事を考えたって、どうしようも無い。あたしはただ出来る事をすれば良い)
体重を完全に背もたれに預けると、そのまま意識を閉じた。
――そんなリリィの思考など知りはしない、隣の席の朴念仁。
(……うーん、一体何が気に障ったのか)
どうやら、生真面目にもリリィの言を真に受けて考え込んでいたらしい。
(なんか落ち込んでるみたいだったし、たまには、感謝の言葉でも言ってみようと思っただけなんだが。もしや、心が篭っていなかったか。それともやはり、魅了出来ないのが気に食わないのか)
トオルの脳内には、リリィが本気で自分に好意を寄せている等という発想は無い。彼女がしつこく誘惑して来るのも、自分を魅了出来なかった事が気に障った物だとばかり思い込んでいる。
そもそも、彼は長い間他人との深い交流というものを殆どしていなかったが為に、他人の心の動きに非常に疎い。それが異性、しかも自分と全く違う環境で育った相手ともなれば尚更である。
知識としては存在しても、経験としてのコミュニケーション能力が欠落しているのだ。
(怒らせたのならば謝らないと。いやだがしかし、一体何を謝ればいいのか。見当違いな事を言えば、余計怒らせてしまうだろう。それくらいの事は僕にでも分かる)
ああだこうだと悩んではみる物の、彼にその答えを出せるだけの能力や経験は無い。結局、下手な事を言うよりも黙っている事を選択した。
結論も出たところで、改めて水分を摂取しようと水筒を――
――取り出した瞬間に、客船が轟音と共に大きく揺れた。
堪らずリリィが飛び起きる。周囲の乗客達も、何事かと騒ぎ立てる。
「お、おい!何だってんだ!?」
「ああ、うん……リリィは初めてか。まあ、そうそうある事じゃないんだけど」
見るからに慌てた様子のリリィに対し、トオルはいっそ不気味なほどに冷静だった。ちらと窓から外を覗き、溜息を一つついたかと思うと、周囲の喧騒など気にする様子もなく水筒を口に寄せ傾けた。
「いやどんだけ呑気だお前は!?」
リリィの鋭い裏拳が、トオルの腹部に突き刺さる。トオルは軽く呻いて、仕方無しと言った具合で水筒をしまってリリィの方に顔を向けた。
「……不定形(スライム)だよ、不定形。話くらいは聞いた事があるんじゃないか?」
「いや、知らん」
即答だった。
「……そっか」
一般常識だろう、とトオルは言いたくなったが、しかし考えてみれば自分自身常識が有るとは間違っても言えないので、言うに言えないのであった。
「簡単に言えば、砂の怪物だよ。普段の見た目は普通の砂と変わらなくて、時たま動き出して人間を襲う。自身の形を変化させ様々な物へと変化する化物だから、一般的に不定形って呼ばれている」
「……はあ」
相槌こそ打ったものの、しかしあまりよく分かっていない様子のリリィ。
「まあ、要するに街の外には人を襲う化物がいるって事さ。一般人が公共の交通機関を利用する事なく街から出る事が禁止されているのも、大体はその所為だ。ここまでは良いかな?」
「……お、おう。良いぜ。よく分かった」
しかし、トオルという男は間違っても説明上手ではないし、リリィという少女は間違いなく頭脳明晰ではない。それ故に不明瞭な部分を突っ込んで訊いてみた所で、余計に分からなくなるのが関の山だ。これまでの経験からその事をリリィはよく理解していたので、あえて詳しく訊くことはしなかった。
「ま、まあそのスライスだかスカイプだかいう奴の事は分かったんだが、それとこれとで何の関係性が――って、おい、まさか」
それでも何とか脳内でトオルの話を整理した辺りで、リリィは一つの可能性に思い当たる。
「多分、そのまさかで合ってると思うよ――さっきの衝撃は、恐らくは不定形の攻撃による物だろう」
はっきり確認した訳では無いけどね、と付け加えつつも、しかしトオルはまず間違いないと確信していたし、リリィに関しても、非常時におけるトオルの予想が外れた試しが無い事はよく知っている。
コミュニケーション能力と引き換えにしたかの様に、彼の現状把握能力や洞察力は飛び抜けているのだ。
「実際、旅客船が不定形に襲われるのは、そこまで珍しい事でも無いんだ。開拓されて間もない航路なんかだと、特に多いね。まあでも、この航路は結構長い事使われている筈だから、そういう可能性はかなり低い筈なんだけど――」
「――いやのんびり解説してる場合じゃねえだろ!?どうなんだよあたしら!?」
「はい騒がない」
現状を把握し改めて狼狽するリリィだったが、トオルの繰り出した軽い手刀を頭頂部に喰らうと大人しくなった。
「こういう時こそ慌てず騒がず、だ。生き延びる為の基本だよ。それに、そこまで心配することも無いさ。商売である以上、乗組員には僕たち乗客を守る義務があるからね――」
と、トオルがそこまで言った辺りで、鳴り響いていた警報が止まり、スピーカーからノイズ音らしき音が響いたかと思うと、続いて船内アナウンスを知らせるチャイム音が鳴った。
『……皆さん、落ち着いて下さい』
それからやや置いてから、続けて男性と思われるやや低い声が船内に響き渡る。
それまで騒がしかった乗客達も、放送を聞き取ろうとしてか、幾分か静かになる。
『当船は、現在不定形の群れによる襲撃を受けております。ですがご安心下さい、我々にはお客様方を無事に目的地まで送り届ける義務が存在します。決してお客様方を危険に晒すことは御座いません。繰り返します――』
狼狽える者、落ち着く者、祈り始める者、騒ぎ出す者――その放送に対する乗客達の反応は様々だ。
二人はと言えば、トオルはやはり落ち着き払っていたし、リリィは先程までよりは大分落ち着いている様子だったが、しかしその表情には不安を浮かべていた。
「な?言っただろ?」
「……大丈夫なんだろうな、本当に」
トオルは何処か得意げそうな様子でそう言う物の、リリィは未だに不安を拭いきれないようだ。
「大丈夫、大丈夫。それに――もしもの時は、僕がリリィを護ってやるから」
「……ばーか」
トオルの言に対し、そっぽを向きながら言い捨てるリリィ。
また何かマズイ事でも言ったのかと首を傾げるトオルを尻目に、しかしリリィの顔は何処か嬉しそうなのだった。
――同じ頃、旅客船の遥か後方に、一つの船影があった。
甲板は長く舗装されており、所謂『空母』と呼称される船である事が見て取れる。
「良いか、分かっているな。乗客達の安全はお前達に掛かっている」
その空母の格納庫内で、整列したパイロットに向かって上官らしき人物が語る。
――ここで、この船についての説明をしよう。
不定形は、基本的に船と比べて小型のものが多く、また素早く動けるものも多い。
つまり、例えば船自体に砲を搭載した所で、効果は薄い。故に、不定形との戦闘は小型の搭乗兵器――特に、航空機を使用するのが良いとされている。
とはいえ、客船自体に艦載機を搭載したところでその搭載数はたかが知れているし、空母が客船のすぐ側に伴っていては不定形の攻撃に巻き込まれかねない。故に、客船からある程度距離を取って空母が追従する事となっているのだ。
そして、その空母こそ――この、護衛空母『オーズ』だ。
「客船が発艦させた偵察機からの情報によれば、敵は中型の龍種が二」
不定形は様々な形態を取るが、ある程度のパターンという物は存在する。
その中には、比較的小型で客船に被害を与えないような種も存在する。が、今回の相手はそう簡単なものでは無い。
龍種は、その名の通り龍――所謂西洋的な四つ脚のドラゴンでは無く、細長い東洋的な龍――のような姿を取る。
そうは言っても、宙に浮遊している訳では無い。砂の中を泳ぎ回り、期を見て飛び出して襲い掛かって来るという戦法を取る。それ故に、攻撃を加える事の出来る機会が少なく、撃破の難易度は極めて高い相手だ。
「失敗は許されない。全員、最善を尽くせ――以上だ」
その言葉を最後に上官と思しき人物は踵を返し、パイロット達は発艦準備に移るのだった。
――その一方、旅客船の管制室では、慌ただしく怒号が飛んでいた。
「龍種不定形、左舷後方より接近!」
「取り舵一杯!擦り傷一つ付けんつもりで避けろ!」
「イエッサー!取り舵一杯!」
艦長からの号令への返答と同時に、操舵士が舵を勢い良く回し、船体が大きく左に進行方向を変える。
それとほぼ同時に不定形が砂から飛び出してくるが、急に進行方向を変えた船に対応出来ず空振りに終わる。
と、そこに丁度空母から発艦した航空機が到着し、数機が地上に身を出した不定形目掛けて急降下爆撃を試みる。
不定形は慌て気味に地中へ潜ろうとしたものの、かなり多くを地上に晒していた為に間に合わず、投下された数百kgはあるであろう爆弾が直撃、爆散した。
「……うわー、すっげーな」
その様子を客席から眺めていたリリィは、思わずそんな事を呟いた。
一連の対処があまりに見事だった為か、先程までの慌てぶりから一転、その表情にはかなり余裕がある。
「まあ、客船随伴空母の航空隊は、航空機乗りの中でもトップエースと呼べる練度だからね。入隊するには過去数年被撃墜無し、爆撃命中率九割以上、そして相応の戦闘経験が必要だとか」
航空機乗りという存在は、この時代において然程珍しい物ではない。
試験と審査にさえ通れば、自由に航空機を所持及び操縦出来るし、航空機自体の価格も、品質にもよるがそこまで高い訳では無い。
また、自由に街の外に出る為には、ある程度自力で不定形に対処出来る事を証明する必要があるのだが、航空機乗りにさえなれば基本的にその審査を通過出来る為、そういう面でも取得者は多い。
しかし、そんな中でも護衛空母所属の操縦士になる事が出来るだけの実力を持つ者は、所持者の中でも数パーセント程度でしかない。それだけ、客船護衛という物が重要視されているという事だ。
「はえー……スケールが凄すぎて良く分かんねーや。あたしからすりゃあ、航空機を飛ばせるだけですげーと思うんだけどな」
「同意だね。実際、才能が無い人間はライセンスさえ取れないし」
まあ多分僕も受からないだろうね、と苦笑いしつつ、トオルは横目で外の光景を覗き見る。
丁度二体目を撃破した所だったらしく、数機が警戒用に哨戒飛行している他は、母艦へと帰還しようとしていた。
「迅速な対応に迅速な撃破。流石の実力だ」
うんうんと、どこか嬉しそうに頷くトオル。
リリィも、その鮮やかな一連の流れを呆気に取られた様に見つめている。
他の乗客達も、殆どは問題無く不定形を撃破した事に安堵している様子で、皆随分と落ち着いている様子だった。
そんな中、再びスピーカーから船内アナウンスを知らせるチャイムが響く。
『……当船を襲撃した不定形は、全て問題無く排除されました。これより暫くは、哨戒飛行と各部点検の為停船致しますが、念の為の物であり、脅威は去りました。ご安心下さい』
続けざまに響いたその放送の内容に、ある者は胸を撫で下ろし、またある者は諸手を挙げて喜びを表現している。
喜びと安堵に包まれる船内の中、しかしトオルだけは妙に難しい顔をしていた。
(しかし……この航路では長い事不定形の襲撃は無いと聞いていた。それが今になって、しかも中型龍種だ)
基本的に、不定形の行動範囲は概ね決まっている。だから、長い間不定形が出現する事の無かったこの航路で、急にそれなりの強さを持つ不定形に襲撃されるというのは不自然なのだ。
(尤も、あいつらの生態はよく分かっていない。だから、何が起ころうとも不思議では無い。そう、不自然だ等というのは、あくまでも通説に過ぎない。そもそも、如何にして不定形という存在が誕生するのかさえ良く分かっていないのだ)
そんな事は、自問するまでもなく彼は良く知っていた。それでも、トオルはふつふつと湧き上がる嫌な予想を拭い切る事が出来ない。
(もしも。もしも、最悪の状況だとするならば――)
そこまで考えて、トオルは思考を中断する。
(その予想が外れたならば、それは杞憂にしかならない。もし当たったとして――それが今分かった所で、何かが変わるわけじゃない)
そう結論付け、それ以上考えるのを止めた。
代わりに、隣のリリィの様子を伺う。どうやらまたキャンディーを舐めているようで、溢れんばかりの笑みを浮かべていた。
その様子に満足したのか、軽く微笑んでから前に向き直り、背もたれに体重を預けて目を閉じる。
(……まあ、別に眠くは無いんだけど)
トオルは昨日しっかりと睡眠を取っているし、そもそも眠気には強い方だ。
それでも、なんだか眠りたい気分だった。
眠れば、考えずに済むから。
眠れば、忘れられるから。
今はただ、ゆっくりと。
――おやすみなさい。






「私には、夢があるんだ」
ゆめー?
「そう、夢。まあ、大した夢じゃないんだけどな。もう一度、海ってのを見てみたいんだよ。昔は海なんて何とも思ってなかったんだが、最近どうにも懐かしくて仕方が無い」
うみー?
「ああ、そうか。お前は海を見た事が無いのか。まあ、要するにでっかい水溜りだよ。昔は、この星の七割くらいは海だったんだよ」
おみずー?
「そう、水だ。とは言っても、飲めるような水じゃないがな。……私は、もう一度あの景色を取り戻したい。端的に言えば、世界を元に戻したい」
……わかんない。
「はは。今は、分からなくても良いさ。でも……そうだな。お前が大きくなった時に、お前にその気があったなら、私の夢に協力して欲しい。勿論、無理にとは言わないが――」



「――お前と一緒に見る海は、きっと、綺麗だと思う」







トオルの意識は、轟音と衝撃により覚醒させられた。
「……ふぁ」
呑気に欠伸を一つしたが、しかしすぐにそれどころではない事に気が付く。
船が、止まっているのだ。
目的地に付いたのか。いや、辺りに街など見当たらない。そもそも、轟音に衝撃。明らかに非常事態だろう。
「こ、今度は何だってんだよ……」
リリィが不安気に呟く。他の乗客達からも、不安の声が漏れる。
――しかし、その中に明らかに人間の声では無いものが混じっていた。
「……うん?」
最初にその声に明確な反応を示したのは、リリィだった。
何やら、船の後方――より正確に言えば、『機関室』と表記された扉の奥から、何か異音が聞こえるのだ。
元々その場所からは、ボイラーの稼働音らしき音が聞こえていた。だから、その場所から音が聞こえてくるという事自体は、別に不思議な事では無い。
問題は、その音が明らかに機械類の駆動音では無いという事。
――ばり、ばり、と。
硬いものでも、噛み砕くような。
「……」
トオルはと言うと、ただ、黙って立ち上がり、その扉へと向かって歩んで行った。
「お、おい、トオル――――っ!?」
その姿を追おうと振り返ったリリィは、トオルが開いたその扉の奥の光景を目撃し、絶句する。
そこにある筈のボイラー等の機関や、そもそもそれらが格納されている筈の部屋は、そこには無く。
――そこには、ただ口だけがあった。
ともすればただの大穴にしか見えないような、大きく開かれた、口。
それが口だと判断出来たのは、それらの上下に鋭い牙があり、そして何より、今も開閉され船体を少しずつ喰べているからだ。
そしてその口は、船体を少しずつ削りながら、ゆっくりと――
「――う、うわああああああ!?」
乗客から叫びが上がる。それもその筈だ。そこに居たのは、先程よりもずっと巨大な不定形なのだから。その全貌こそ確認出来ないが、どう見積もってもこの船よりも巨大だ。
乗客の叫びを打ち消すかのように、続けて喧しい程の警報が響く。それに合わせて、船員が避難を呼びかける。
「お、おい!何ぼーっとしてんだ、トオルっ!」
ただ立ち尽くすように巨大な口と向かい合っていたトオルの腕を掴み、リリィは叫ぶ。
しかしトオルは、一向に動こうとしない。ただ、口と向かい合うように立っている。
「同胞さえも食す程の、異常なまでの食欲を持つ個体――さっきの不定形はこいつから逃げて来たって訳だ。ったく、こういう時くらい、勘なんて外れてくれて良いじゃないか、なあ」
誰に向ける訳でもなく独り言ち、振り返ってリリィを見る。
その顔は、酷く怯えた様子だった。
「リリィ、早くここから離れろ。大して変わらんにしろ、ここに留まってるよりは安全な筈だ」
「……トオルは、どうすんだよ」
震える声で、尋ねるリリィ。
尤も、返って来る答えは、リリィには概ね予想が付いていた。
「……僕は」
だからこそ。
「こいつを、食い止める」
そんな答えは、聞きたく無かった。
「……出来んのかよ、そんな事」
「分からない。でも、時間くらいは稼げると思う」
出来る、とは言えなかった。
トオルは、生身での戦闘において不定形を撃破した事が、少なからずある。航空機やそれに準ずる兵器を操縦する資格を有していないにも関わらず、武器の携行等を許可されているのは、その辺りが関係するのだが――それでも、これ程までに大型の不定形を単独で撃破した経験などは無い。
「まあ、時間が経てば航空機も来るだろう。きっと、何とかなるさ」
そうは言ったが、何ともならないことはトオル自身がよく知っていた。
あの巨体では、航空機の爆撃程度では大した損害にはならない。
ましてや、不定形は多少の損傷ではすぐに再生してしまう為、本来一撃で撃破するのが望ましい。そんな相手に、有効打らしき物が全く存在しないのだ。勝ち目など――ある訳がない。
「……ごめん」
最後にそれだけ呟いて、リリィの手を振りほどくと、腰の打刀を抜刀する。拵えと同じく、眩い黄金色に光る刀身が露わになる。
そのまま前進し、下顎へと刀身を思い切り突き立てた。
「――――――――!」
雄叫びとも悲鳴ともつかぬ、不定形の奇声が響き渡る。
不定形は、自身に危害を加えた物を確認する為に、一旦捕食するのをやめて少し身を引く。すると、それに合わせてトオルが飛びかかり、落下する勢いのまま下顎の先端を切断した。
――刃渡りより圧倒的に胴回りが大きな相手は、普通に切っただけでは切り傷が付くだけだ。生物のように、内臓でも存在するのであればそれでも良いかもしれないが、不定形は基本的に全身が砂である。切り離すか粉砕しない限りは、不定形への有効打にはならない。
故に、表面を削るように、少しずつ切り落とす。
巨大な、かつて存在した鯨という生物に似た身体を、少しずつ削る。
(まあ、再生速度を上回れるとは、到底思えないけど。それでも、気を引く事は出来る)
トオルとしては、自分が気を引いている間に、空母が客船を曳航でもして避難して貰えれば、それで良いのだ。
勿論、死ぬつもりという訳では無い。十分に時間を稼いだら、後は何とかして逃げるつもりではある。
尤も、時間を稼ぐところまでは何とかなるとして、逃げ切れるかは分からない。死ぬつもりは毛頭無いが、無事に生還出来る可能性は低い、とトオルは考えていた。
死ぬかもしれない。いや、そもそも時間さえ稼げない可能性すら存在する。
それでも、だからこそトオルは今出来る最大限の事をする。
人並み外れた脚力で跳び上がり、不定形の表面を削るように切る。
突進を躱す。伸びた触手を切り払う。
そうして気を引き、徐々に船と距離を取る。
ひたすらに、その繰り返し。勝ち目など無くとも、他にトオルに出来る事は無い。
(……そもそも、何で僕は、ヒーローみたいな事をやってるんだろうな。こういうの、柄じゃないのに)
別に、自分一人逃げる分にはどうにでもなる。
船を囮にさっさと遠くまで離れれば、かなりの確率で脅威から逃れる事が出来るだろう。
体力は人一倍ある。非常食や飲料は常備している。街まで歩く事くらい、出来る筈だ。
(……なんでだろうな)
けれども、トオルにそんな気は全く無かった。そもそも、そんな考えに至る前に、身体が先に動いていた。
トオルはどちらかと言えば善人だが、しかし聖人ではない。出来る範囲の中で誰かを助ける事はある。相応の対価が支払われるならば、命くらいは懸ける。
それでも、何の対価すらもなく自分の命を賭してまで誰かを救おうとする程に、英雄気質ではない。
勿論、例えばこの不定形を撃破するような事があれば、旅客船の管理企業や乗客に対して報酬を要求する事は可能だろうし、恐らくその要求は通るだろう。
しかしながら、やはりトオルにそんな発想は無い。ただ、本能の赴くままに行動しただけだ。
(……全くもって、どうかしている)
そんな自分の行動を振り返って、トオルはそう評価する。
だが、それでもトオルの表情に曇りは無い。それどころか、微笑んでいる様にさえ見える。
迫り来る触手を切り払いながら、突進を躱しながら、それでもトオルに後悔は無かった。
(……何の事は無い。上手くやれば、それで良いんだ)
トオルは、失敗の可能性を脳内から排除する。ただ、生き延びる事だけを思考する。
そうして十何度目かの突進を躱した辺りで、漸く航空機が目視出来る位置にまで接近した。
妙に遅いとトオルは感じたが、機体を見上げて納得する。航空機の下部には、先程とは比べ物にならない程に大型の爆弾が搭載されていた。
恐らくは、機体が耐えられるほぼ限界の重量なのだろう、その飛行速度は目に見えて遅い。機銃のみを装備した迎撃特化の航空機も、かなりの数が随伴している。
それを見て、トオルは僅かながらの希望を抱く。ひょっとすれば、或いは。
爆撃に巻き込まれない為に、トオルは大きくバク宙をして不定形と距離を取る。不意を突かれて不定形は反応に遅れるものの、すぐにトオルとの距離を詰めようとする。が、頭上に航空機が迫っていることに気が付き、トオルを追うのを止めると慌てたように触手を上空へ伸ばした。
――が、最早遅い。
何機かの爆弾を搭載していない機体が機銃で触手を迎撃し、その隙に数十機の航空機が次々に爆弾を投下する。
元々この不定形が、周囲の状況を察知する能力が劣っていたのだろう。無論、トオルが気を引いていたという事も大きい。
だから、爆撃は問題無く成功した。
繰り返そう。
――爆撃『は』、成功した。
「……マジっすか」
思わず、トオルの口からそんな言葉が漏れる。
――爆炎による煙が晴れると、そこには相変わらずの巨体が鎮座していた。
流石に無傷とまでは行かない様子ではあったが、しかしその被害はあまりにも小さすぎた。
目測、一割弱。
先の爆撃で削れた身体は、精々がその程度だった。
航空機達は、慌てたように母艦へと引き返す。爆弾を投下し身軽になった機体は、不定形からの反撃を喰らう事なく余裕を持って離脱する事に成功した様子だったが、しかし帰還したところで彼等に打つ手は残されていないだろう。
幾ら多少なりとも被害を与えられたとは言え、あの爆弾にそう多くの予備があるとは考え難い。更に言えば、あれだけの数の機体にあれ程のサイズの爆弾を搭載するのには、相応に時間がかかるだろう。考えられる限りの最速で準備を行ったにせよ、次の攻撃を行える頃には不定形は再生し終わっているだろう。
「冗談きついよ、全く……」
トオルは、自身の認識の甘さを自覚する。
散々勝てる筈が無い等と心の中で繰り返しながら、しかし何処かで何とかなると思っていた。
不定形と戦闘をした事は何度もある。多少大きくとも、ひょっとすれば。
航空隊は無敵に近い。幾ら相手が強大だろうと、きっと。
そんな甘い認識が、無自覚ながらも心中にあった事を、自覚する。
あれ程の攻撃を喰らって尚、殆どダメージが無いともなれば、生身の自分に打ち勝てる手段や道理は何処にもありはしない。
その事を、ようやく理解する。
――それでも、トオルは諦める事をしなかった。
すっかり爆風も晴れたところで、トオルは不定形へ飛び掛かり、攻撃を再開する。
無駄だと自覚しつつも、少しでも再生を遅らせる為に、攻撃を続ける。
だが、彼とて体力という物が存在する。かなりギリギリの状態で戦い続けている彼の肉体が、少しずつ悲鳴を上げ始める。
反応が遅れ始め、徐々に攻撃を捌き切れなくなる。切り払い損ねた触手が、腹部に突き刺さる。
「ぐうっ……!」
それでも、トオルに刀を振るうのを止めようとする気配はない。
血反吐を吐きつつも、それでも手を止めない。
――しかし、気合いだけではどうにもならない事もある。
先程受けたダメージの所為か、トオルが一瞬よろめく。
たかが一瞬。だが、命のやり取りの場において、一瞬という物は非常に重い。
払われた触手の一撃を右脇腹にもろに喰らい、大きく左へと吹き飛ばされる。そして、そのまま左肩から地面に激突し、大きな砂煙を上げた。
幸いなのは、辺り一面が柔らかな砂だという事だろう。故に、派手さの割には地面に衝突した事によるダメージはほぼ無いに等しい。
問題は、脇腹に喰らった一撃の方だ。間違いなく骨が砕けているだろうし、下手をすれば内臓が潰れているかもしれない。
「……ぐっ」
トオルは自身の身体の状態を冷静に分析出来るだけの平静さは既に失っていたし、別に骨の数本、内臓の数個がどうなろうと関係ないとさえ考えていた。
が、本人が幾ら気にしなかろうと、そのダメージは当然身体能力に如実に反映される。
骨が砕ければまともに立てなくなるし、内臓が潰れれば生命の維持さえ困難になる。トオルという人間がどこまで人間離れしていようとも、しかしあくまで人間である以上、基本的な身体構造は変えられない。
激痛を堪えつつ、トオルは鞘を腰から抜き、地面に突き刺して杖代わりにして立ち上がる。
立ち上がれるのならば、まだ大丈夫だろうとトオルは判断する。勿論、その判断は正気とは呼べないが、実際彼はもはや正気とは呼べる域には居ない。
不定形は、向きを変えたり移動したりしながら、ゆっくりと周囲を探っている。どうやら、結構な距離を吹き飛ばされたが故か、不定形はトオルを見失っている様だった。チャンスではあるが、しかし有効な攻撃手段がない以上活かす事が出来ないし、しばらくしてもトオルを見付けられない場合は、恐らく船の方へと戻って行くだろう。
トオルとしては、それだけは何としても避けたい。が、仮にこのまま接近し発見されたとしても、恐らくまともに足止めさえ出来ないだろうと、その程度の事を判断するだけの思考能力はまだ彼にも残っていた。
(――考えろ。こんな時、どうすれば良い。『あの人』なら、どうする)
尤もあの人なら、最初からこんな状況に追い込まれたりしないだろうと思いつつ、あの人――自身に生きる術を教えた、親、或いは師匠とでも呼称すべき人物の事を思い出す。
色々な事を思い出す。初めて出会った日の事、初めて不定形に襲われた日の事、初めて不定形に自力で立ち向かった日の事――或いはそれは、死の間際に見る走馬灯の様な物だったのかもしれない。彼の脳裏に、様々な事が浮かんでは消える。
そうして――トオルは、ある記憶に、一つの可能性を見出した。
あの人が使った剣技の中でも、恐らくは最強だろう業。
尤も――たった一度見ただけであり、その技術を教えてもらったことは無い。
曰く、『こんなものは知らない方が良い』と。
恐らくは、それさえ使えれば、この状況を打破出来るだろう。
だが。そんな業が、果たして自分に使え得るのか。
可能か不可能かで言えば、不可能だろう。それでも、それ以外の有効な手段は見当たらなかった。
だが。そもそも、そこまでする理由があるのか。
そこまでして、船を護る理由――

「――もしもの時は、僕がリリィを護ってやるから」

(ああ、そうか。そうだったな)
トオルは、今更ながらに自分の言葉を思い出した。
(護ってやるって、言ったじゃねえかよ)
何の事は無い。
彼はただ、リリィを護ろうとしただけだった。
(なら、決まってるじゃあねえか、なあ)
何が自分をそうまでさせるのかは、よく分からなかったが。それでも、誰かを護る為に戦えるのならば、なんて素敵な事だろう、と。
ただ、彼は他人事の様に思った。
出来るかは、分からない。一度見ただけの業。
だが、最早他に方法は無い。
出来るかどうかではない。
やるしか、無いのだ。
(……それじゃあ、行こうか)
覚悟を決め、鞘を掴んだ左手に力を込める。
「――だあぁぁぁぁぁぁらあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
そしてそのまま、鞘を脚代わりにして大地を蹴り、不定形へ向かって跳躍した。
その光景が目に映ったか、或いは叫びが耳に届いたか、不定形はトオルを発見する。
複数の触手がトオルの身体に伸びる。トオルは片手で鞘を振り回し、それら全てを打ち払う。
その動きは、身体が万全な状態であった時よりも正確かつ素早く感じられる程の物だった。
そして、そのままの勢いで刀を振りかぶり、不定形の頭上から振り下ろす。
突き立てられた刃は、重力でトオルが落下して行くと共に不定形の身体を斬り裂く。
そして、着地の事を考慮していなかったトオルは、そのまま顔から地面へと落下した。
「げほっ、げほっ……」
砂煙をもろに吸い込んで咳き込みつつ、ボロボロになった身体に鞭を打ちながら立ち上がる。
――果たしてそこには、変わらぬ様子の不定形が存在していた。
「……はははっ」
トオルの口から、乾いた笑いが漏れる。
「まあ、そりゃそうだよな。練習もした事が無いのに、ぶっつけ本番で成功する筈が無い。窮地に追い込まれた主人公(ヒーロー)が、崖っ淵で覚醒しましたってか?ま、そんな器じゃねえよな僕は」
だが、その顔に曇りや陰りはない。むしろ、清々しい表情をしていた。
「でも、勝負には勝ったぜ」
トオルは、不定形の後方に視線を向ける。客船は、空母によって曳航され、今にも視界から消えようとしていた。
「まあ、あんだけ距離がありゃお前の反応範囲じゃ追えないだろ」
そう。
彼の元々の目的は、時間稼ぎだ。
今の一撃は、撃破までは至る事がなかったものの、先程の爆撃以上の被害を与えたと言って過言では無い程だった。
それ程の被害を被れば、暫くは自分に注意が向けられる。もし自分が死に至っても、それをはっきり確認するまでは不定形も迂闊な行動は取れない。
そして、トオルにとって、その時間があれば十分だった。
「そりゃあさ、出来れば僕だって生き延びたかったぜ。でもまあ、誰かの為に死ねるなんて、素晴らしいじゃねえか」
不定形が人間の言葉を解すなどとは、当然トオルは思っていない。
「まあ、あれだな――」
それでも、言ってやりたい気分だったのだ。
「――ざまあ見やがれ」
不定形が、トオルに向けて触手を伸ばす。
トオルには、抵抗するだけの体力も気力も手段も、殆ど残ってはいない。いや、正確には、件の業さえきちんと成功させれば勝ち目はある。しかし当然、体力や気力が足りない。
当然、もし足りていたとして、成功する可能性も低い。
だから、トオルはただ、不定形を見つめていた。
迫り来る触手を、ただ見ていた。
「ま、そこまで悪くない人生だったんじゃあねえかな」
心残りは、山程あるが。
それでも、そう悪くない最期だと――
「――なーに諦めてんだ、バーカ」
不意に、トオルの脇腹に衝撃が走った。
それ程大きな力ではなかったが、力が抜けていた事、元々男性にしては体重が軽い方である事などが重なってか、大きく横へと吹き飛ばされる。
丁度地面が傾斜していた事もあってかそのまま暫く地面を転がっていき、自分の状況を認識した頃には、既に不定形の触手が探知出来るであろう範囲から外れていた。
トオルは突然の事に一瞬惚けてしまったものの、すぐに我に返ると、慌てた様に立ち上がる。
そして、自分が今まで居た場所を見やった。
「……どういう事だよ、おい」
その光景を見て、思わず呟く。それも仕方が無いだろう。
そこには、一人の少女が居た。
「スマイルだったか?スパイクだったか?まあ、何でも良いけどよ――てめー、人の男に何してくれてんだよ」
――リリーベル・リーナ。
トオルが護ろうとした少女その人だった。
「ばっ……おい!」
駆け寄ろうとするも、脚に力が入らない。
叫んでも、思ったような大声が出ない。
――触手は、もうリリィのすぐ目の前まで迫っている。
(出来る。きっと――出来る)
が、勿論リリィは何の策もなく飛び出した訳では無い。
「そこのお前――――あたしに、見惚れろっ!」
不意に、リリィの碧色の瞳が妖しく輝き、不定形を睨みつける。
それに呼応するかの様に、触手の動きがピタリと止まる。
「……は、ははは!どうだ!やってやったぜ!」
リリィの異能の使用法の中でも最もシンプルな、所謂魅了(チャーム)と呼ばれる物だ。
思わずリリィは喜びの声をあげ、トオルもやや安心したように溜息をつく。
――が、不定形が停止していたのは一瞬で、すぐさま触手は再度動き始める。
「え、ちょ……待った!タイム!タイムを要求する!」
リリィの必死の訴えが、不定形に届くことは当然無い。触手はそのままリリィへと伸び――
――服の隙間に潜り込んだ。
「へっ……?っておい待てどこ触ってんだおい!あたしはそんな事許可して――ひゃうん!?」
そのまま触手に絡め取られ、宙に持ち上げられてしまう。
「ああ、そっか――ひうっ!?――中途半端に効いちまって――ひゃい!?――制御がって待て、そこはマジでやばいから!待て、待てっつってひゃうん!?」
――リリィの魅了は、本来であれば相手を完全に服従させる物である。
が、この場合、今までに無い相手だからか、或いは不定形という物が全てそうなのか、ともかく性欲のみが暴走した形になったらしい。
生命体かどうかも怪しい存在である不定形に、果たして性欲という物が存在するのかは甚だ疑問ではあるのだが。
「――ったく」
と、そこでやっとの思いで不定形の近くまで歩き付いたトオルが、僅かばかりの気力を振り絞り触手を切り落とす。
リリィは解放されると同時に支えを失って落下するが、猫のように綺麗な宙返りをして着地した。
「……ふう。いやあ、助かったぜ。流石のあたしも、触手モノとかはちょっと勘弁――あいたっ!?」
先程まで蹂躙されていた事を感じさせない調子で言うリリィの頭頂部を、トオルは鞘で思い切り叩いた。
「――馬鹿野郎が!何を無茶してんだ!」
間髪を容れず、トオルはリリィを怒鳴りつける。
「もしあのまま喰らってたら間違いなく死んでたぞ!一体、何考えてんだてめーは!」
普段リリィに向けるような穏やかな口調では無い、感情に任せた荒い口調で怒鳴るトオル。
「――どの口が言ってんだ!」
しかし、それに対抗するように、リリィも大声で怒鳴った。
不意を突かれたのか、トオルは思わずたじろいでしまう。
「無茶だって?どっちが無茶だ!お前鏡見てみろ傷だらけじゃねーか!あのまま喰らったら死んでたって?そりゃ死ぬだろうなそんだけボロボロならよ!むしろその傷で何で生きてられんだよ立ち上がれんだよバケモンか!つーか、何考えてんだって?言うに事欠いてそれかよ!だったら答えるけどよ、考えなんてあるわけねーだろ!何も考えちゃいねーよ!悪いか!?それとも、考えが無かったら――惚れた男助けちゃ、いけねーってのかよ!?」
震える声で叫びながら、目に涙を浮かべながら、リリィはトオルに言葉をぶつける。
「お前があたしの事をどう思ってるかは知らねーし、お前が自分の事をどう思ってるかも知らねーし、きっと大した評価じゃねーんだろうよ!どうせそういう奴だろお前は!?それでも、そんな奴でも、あたしにとっては、あのクソッタレな生活から救ってくれた、たった一人の王子様(ヒーロー)なんだよ!」
――リリィという少女は、気付いた時には独りだった。
本来であれば、そのまま飢えて死んでいただろう。
だが――彼女には生きる術があった。
他人を発情させ魅了する、催淫体質。
いつからそうだったかは、定かでは無い。だが、何の運命か、彼女はそういう人間だった。
幼き故に、その制御も、意味も、何もかも理解しないまま。
それでも、その力を以ってなんとか生きてきた。
尤も、それは少女にとっては不本意だった。行為も、生きることも、その体質も、生まれて来た事すらも、全てが不本意だった。
それでも、死ぬのだって不本意で――どうしようもないまま、生きていた。
だから、そうだ。あの日だって、不本意に生きて不本意に日銭を稼ごうとしていた。
不本意に路地裏に潜み不本意に通りすがりの男を魅了し不本意に金目のものを奪うつもりだった。

『――なんか事情があるんだろうけどさ。自分を安売りするような事は、しない方が良いと思うよ』

――その筈、だった。

『ああ、なんなら、僕と一緒に来るかい?その様子だと、行くあても無さそうだし。大丈夫、一人くらい連れが増えても、何とかなるさ』

その日。
少女は初めて、不本意では無く、本意で持って自分の道を選んだ。
選ぶ事が、許された。
「あの程度、お前にとっちゃ大した事じゃねえのかもしれねーよ!でも、損得抜きで誰かの隣に居た事なんて――居ても良かった事なんて、初めてだったんだよ!どうしようもなく嬉しかったんだよ!こいつの側になら一生居続けたいって思っちまったんだよ!それがなんだ、何勝手に死に掛けてんだ馬鹿!あたしを惚れさせた責任取る前に死ぬんじゃねーよ!お前が飛び出してった時、どんな気分だったと思ってんだ!?船が動き出してもお前が帰って来なかった時もだ!考えなんか無くたって、じっとしてなんてしていられる訳ねーだろ!?人がどれだけ心配したと思ってんだ!」
零れる涙を抑えようともせず、ただ叫ぶリリィ。
その様を、呆気に取られた様子で見つめていたトオルだったが――リリィがそこまで言ったところで、不意に小さく吹き出した。
「わ、笑うなっ!」
「ああ、いや、ごめんごめん。そっか、そういうことか――そうだよな。人(だれか)を助ける理由なんて、そういうもんだよな」
その顔は、晴れやかな笑みで。
何かを吹っ切ったような、そんな表情。
「――――――」
――そして、それとほぼ同時に、不定形が咆哮する。
魅了の効果か、先程までは比較的大人しくしていたが、それもそろそろ限界のようだ。
「……そっか。まだ居たんだったな、お前」
しかし、トオルはそれを別段大した事でも無いと言わんばかりの調子で呟くと、不定形の方を向き直る。
「ああ、そうだ、リリィ」
「……ふぇ?」
そして、リリィに背を向けた形になった所で、一言。

「――愛してる」

「………………」
その言葉を聞いたリリィは、まず泣き止み。
硬直し。
それから、真っ赤になった。
「あ、あわ、あわわわ……」
「……何も、そこまで恥ずかしがらなくても良いじゃないか、なあ」
愚痴りつつ。
今にも襲い掛からんとする、不定形を見据える。
「あー、全く……キャラじゃないんだけどな、こういうの。でも、お姫様(ヒロイン)に直々に指名された訳だし、助けられっ放しなのもすっきりしないし、まあ――やってやろうじゃないか。主人公(ヒーロー)って奴をさ」
晴れ晴れとした顔で。
それでいて、覚悟を決めた顔で。
勿論、後ろ向きな事など頭に無い顔で。
トオルはそう、呟いた。
「――――――」
ついに魅了も効果が切れたのか、再度の咆哮と共に突進の体勢に入る不定形。
それでも、トオルは回避姿勢を取らず――尤も、トオルの身体の状態では、どちらにせよまともに回避出来るとは考え難いが――不定形を、見据え続けた。
「……そうだな。お前は、引き立て役としては最高だったと思う。僕自身、リリィに友人愛や家族愛の類以外の感情を持っているだなんて今の今まで理解していなかったし、多分こういう機会でもなければ一生そのまんまだっただろう。案外、自分の心ってのは分からないな。まあ、その点お前には感謝している。ありがとうな」
傍から見れば、いよいよ観念したようにしか見えない、トオルの行動。
リリィは未だに固まっているし、そもそも動けたところで再度魅了が効くかどうかは怪しい。
ましてや、武器でも構えているならば兎も角、トオルはただ突進の軌道上で立っているだけだ。
そのまま全く動こうともせず、トオルの目の前まで不定形が迫った刹那――不意に、不定形が停止した。
「そして、もう一言」
――否。
『停止した』という言葉は、自発的に実行した場合に当てはまる物だ。
そうではない。
ありとあらゆる活動を。ありとあらゆる可能性を。
どうしようもないほどに――『停止させられた』。
「――とっとと消えろよ、咬ませ犬」
ぱちん、と。
いつの間にか抜き身になっていた刀をトオルが納めると同時に、不定形は崩れ去った。

[newpage]

風を切る音とレシプロの音が、喧しく不協和音を奏でている。
はっきり言ってかなり耳障りであり、一時間も聞いていれば耳がおかしくなりそうだ。
しかしそんな環境下に置かれても尚、『あたし』はこの上なく上機嫌だった。
ふと、上を見上げる。あたしの王子様(ヒーロー)は、少し困ったような表情であたしを見下ろしていた。
「……あのさ。もうちょっと前に行ってくれないかな?」
「無理無理。仕方ねーだろ、狭いんだからさ。というか、本来二人乗りなんだろこれ?」
「いや、僕には前方にある程度の隙間があるように見えるんだけどな……?」
――あの後、あたし達は航空機に救助された。
スナック――いや、ストライクだったか?ともかく、例の怪物の反応が不意に消滅した為、その確認に戻ってきたらしい。
「まあ、そういう細かい事は良いじゃんか。それとも、何か不満でもあるのか?」
勿論、あたしはわざとやっている。隠す気もない。
そんなあたしの態度を見て、トオルは軽く溜息を吐く。うん、その反応が見たかった。
「いや、無いよ。無いけど――そうか。そういうつもりなら」
トオルはそこまで言って――不意に、あたしの身体を抱き寄せた。
「ひゃう!?」
「急に揺れたりすると、危ないからね。シートベルト代わりだ」
そう言って、悪戯っぽく笑うトオル。
今までこういう行動をトオルが取る事はまず無かった為、かなりの不意打ちだった。
「ど、どういうつもりだよ……」
「いや、今まで結構好き放題されてきたからね。これからは、ちょくちょく反撃していこうかと」
そう言うトオルの表情は、見た事が無い程に良い笑顔だった。
……いや、それは良いのだけど、トオルが言っているのはつまりあたしが今までトオルにやってきたような事を今度はトオルがあたしにするという事で、いやある意味嬉しいけどはっきり言ってあたしは受け側に回るのは慣れていなくて、というか今も顔が大分熱くて――
「……お前さ、案外初心だよな」
「う、うるさいっ!」
堪え切れなくなり、トオルの腕を振り解こうとするが、特別鍛えている訳でもないあたしが、人外の域に達しているトオルに力で敵う筈もなく。
あたしに出来るのは、どんどん赤面する自分の顔を隠すように俯く事だけだった。
……いや、別に嫌では無いんだけど。それでも、なんだか気恥ずかしい。
「――おう、お前ら。人の後ろでいちゃついてんじゃねえよ、気ぃ散るだろうが」
――そんなやり取りをしていると、不意に前方から声が聞こえた。
勿論、あたしやトオルの声では無い。そして、この場に存在するあたし達以外の人物と言えば、それは一人しか居ない。
「は、はは……すいません、つい。えっと――」
操縦席に向けて、苦笑いしながら謝るトオル。
そう、あたし達以外の人間といえば、それは操縦士だ。
「ハンス・ハルトマン。ハンスで良い。まあ、ちっとくらい気ぃ散った程度で事故るような腕はしてねえが――ぶっちゃけ、俺独り身なんだよ。辛いんだよ、すぐ側でいちゃつかれんの」
返ってきた声は、かなり不機嫌そうだった。
「つーか、何だ?拾った時は兄妹か何かかと思ってたが、お前らそういう関係なのか?」
「……えーっと。そうみたい、です」
ハンスと名乗った男の問い掛けに、トオルは苦笑いしながら答える。
――すぐさま、顔から熱が引いていき、あたしはトオルの脇腹に肘を入れた。
腕が緩むと共に、ぐえ、という呻き声が一瞬響いたが、すぐに騒音にかき消される。
「言い切れよ。何だよ、『みたい』って」
というか、あれだけやって『みたい』なら、世の中にカップルやらアベックとかいう言葉は存在しない筈だ。
「……そう、です」
「うん、よろしい」
あたしは満足して、今度は自分からトオルに背中を預ける。うん、やっぱりあたしは自分主体の方が性に合っている。
トオルの顔を見上げると、先程の肘打ちの所為か、それともあたしが寄り掛かっているからか、大分苦い顔をしていた。
割と本気で苦しそうだが、しかしあたしなんかと比べたらずっと丈夫なのだから、このくらいじゃ何とも――
――いや、待てよ。あまりにも元気そうで忘れてたけど、そういえばさっきまでトオルってあの怪物と闘ってたんだよな?あれ?って事はひょっとすると本気でやばい?
「だ、大丈夫か、トオル?」
不安になって、ちょっと心配してみる。
「ああ、うん――」
その瞬間、苦しそうな表情が一変、急に笑顔になる。
気付いた時には、勿論手遅れ。
「――全然、大丈夫だ」
そう言いながら、さっきよりも強く抱きついてきた。
「わ、分かったから、トオル!ちょ、やめ――つーかお前変なところ触んなこらあ!?」
「うん?変なところ?何処の事かな、分からないな」
にやつくトオルと、無駄な抵抗を試みるあたし。
路地裏で家無しの生活をするのでも無く、怪物に立ち向かうでも無い。
そんな、特別な事も無い日常の風景こそが――あたしが、望んでいた物だった。
これからも、ずっとこんな風に居られればいいな、と。
そんな事を、想った。




「……割と真面目に、こいつら爆発しねぇかな」



(了)



加筆修正やらをしようかとも思ったけど、とりあえずそのまんま。
続きはいつか書きたいね。

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最終更新:2014年05月29日 21:06