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 晩秋の幻想郷。人間や動物たちは冬仕度を始め、丑三つ時ではないが草木も眠るこの時期、私、八雲藍の主、紫様も冬眠の用意をしていた。とはいっても特に変わったことはほとんどなく、強いて言えばご飯の量が多くなったり布団選びにうるさくなるだけで、いつもと変わらない光景がこのマヨヒガにあった。
 この家での仕事のほとんどは私の役割、毎日三食の準備も例外ではない。けれどこの家の朝自体そんなに早くないし、もともと料理の好きな私にとってはそんなにきつい仕事ではない。料理とかそういったものは、一旦誰かに褒められるとやめられなくなる。ある意味病気だ。私もその類なので、他人の事は言えないが。
いつものように味噌汁の具を切っていると、紫様が台所に入ってきた。包丁を持ったまま振り返り、その後ひどく叱られた事があったのでその点は特に気をつけている。
「おはようございます、紫様。」
包丁を持つ手をいったん休め、エプロンで手を拭いてからあいさつをした。和風の寝巻がはだけて、こぼれんばかりに胸が覗いていた。ついつい自分のと比較してしまい、あと一歩で追い付けないと知ってもどかしくなることはしばしば。所詮私は紫様の式神、下位互換に過ぎない。
後ほど説明するが、紫様がこんな朝早くに起きていることから分かるように、実は非常事態だった。夕方になってから思い出したように起きてくるのがこの方でありこの方らしいのだが。
「おはよう。」
私の尻尾を撫でながら、紫様は冷蔵庫の方へ近寄った。その日は朝から曇っていたせいか、冷蔵庫の明かりが妙に明るく見えた。
「もう少しでできますから、待っててください。」
そう言う私に構わずに、冷蔵庫の中を漁り始めた。中には常に、紫様が買ってきたり貰ってきたお菓子がたくさん入っていた。この時期のお気に入りは、白玉楼でいただいた饅頭のようだった。いただいたというか、奪ったというか。箱に半分残っていたあたり、食べかけだったんじゃないだろうか。亡霊のお嬢様の泣く顔が容易く想像できた。
「早くしてくれないと飢え死にしちゃうわよ。あぁもうだめ、あと3分ももたないわ。」
「カラータイマーが鳴っていないので大丈夫です。それにまだ話ができるんですから。そうだ、橙を起こしてきていただけませんか。その頃にはできてるでしょうから。」
「本当にできてるのね。もう、あの子は本当によく寝るのねぇ。ちょっと寝すぎなんじゃないかしら。」
思わず苦笑いした。あなたに言われたくありません。
 私の式神、橙が今日も起きてくる。何一つ変わらない日常、けれども一方で気がかりなことがあった。最近橙が私といる時間が明らかに減っている。人間よりは遅いとはいえ橙も成長するし、当然ながらいつまでもついてやるわけにはいかない。橙自身やりたいこともあるだろうし。会うのは、気づけば朝と夜の食事の時間だけになっていた。主として心配だったけれども、そのほうが橙に窮屈に思われるよりはいいだろうと思ってあえて何も言わないでおいた。
 そんなことを考えながら皿を並べていると、紫様に連れられて橙が起きてきた。橙が着ているパジャマは紫様が外の世界で買ってきたらしいけど、少し小さくなってきたように見える。ちなみに買うためのお金をどこで手に入れたかは今でも謎のまま。
「ふぁ…おはようございます、藍様。」
炬燵に橙が脚を入れて、背伸びをした。ついでに耳まで立つのは見ていて面白い。ずっと昔に人様の家の炬燵の中で丸くなっていた橙が発見されたことがあるけれど、そんな橙の気持ちは十分に理解できる。私も、炬燵が好きだ。橙ほどではないが、私もたまに同じようなことを繰り返しては、見つかって全力疾走で帰ってということをやったものだ。炬燵がなければ、冬じゃない。
朝はいつも私と橙しかいなかったが、この日は紫様も起きていたので、三人での朝食だった。これもかなり久しぶり、何年かに1回程度のことだった。紫様は大皿に盛られた、昨日の晩の残りの煮物に箸を伸ばしながら、まだ眠そうな橙を見た。
「ふふ、こんなに橙がお寝坊さんだったなんて。」
紫様が微笑みながら言うと、
「えー、紫様はどうなんですかー。」
橙は気持ちふくれながら自分の前に出されたご飯を口に運ぶ。起きる時間が合わないこの二人が朝に話をしているのを見るのは、今でも稀なこと。
「それにしても今朝は早いですね。何かあるんですか?」
橙に訊かれて、紫様は少し真剣な面持ちになった。
「ちょっと霊夢のところに用事があるのよ。結界の様子があんまり良くないから直しに行こうと思ってるの。」
そう、紫様の言うとおり、最近は結界の解れが目立つようになっていた。そのため、博麗神社の巫女、博麗霊夢と私たちは調査を続けていたが、原因は不明のままだった。幻想郷の中に流れてくる外の世界の物(者もだけど)の数が増えていた。向こうとこちらの境界が曖昧になってきている事を表しているのかもしれないと考えている。夜行性の紫様がそれの解決のために朝に起きていることからも分かるように、これは私たちにとって深刻な問題だった。境界がなくなるということは、すなわち幻想郷に封じられていた妖怪が一気に解き放たれ、ずっと昔のように、人間たちが妖怪に怯えながら毎日を送らなければならなくなることを意味する。結界を管理する私たちが、暇なはずはなかった。紫様もこういう状況の時は朝に起きてくる。
「そういうことで藍、食べ終わったらあなたも行くわよ。測量はあなたの仕事なんだから。」
「はい。」
こう返事をしたけど内心不安だった。毎年というわけではなかったが、今までも何回かこんなことがあった。しかし今までの結界の不具合は紫様が起きている間の事だったし、やることは主に測量と修復だけだったが、今回は絶対に紫様の冬眠期間にかぶるので、いつもは紫様のすることも全て私がやらなければならなくなるだろう。紫様や霊夢と一緒でも帰りが夕方になるくらいに時間と手間がかかる作業なのに、これから紫様が冬眠を始めたら何日かかるのだろうかとちょっと心配になる。霊夢も冬は嫌いなようで、呼んでもなかなか出てきてくれないことはそれまでの経験から知っていた。
「それと、」
紫様は続ける。
「やっと霊夢が布団を貸してくれるって言ったの。取りに行かないと。これで心行くまで冬眠が出来るわ。」
「大変なんですから、なるべく起きててくださいよ。」
暢気ですね。気がつくと、話を振ったのに入れなかった橙が一番先に食器を下げて、部屋に行ってしまったようだった。橙にちょっと申し訳なく思いながら、紫様と私はなるべく早くご飯を平らげようと頑張った。
 急いで仕度を済ませて、紫様が部屋ですきまを作った。向こう側には、紅白の服を着た巫女が食器を片づけているのが見えた。すきまに、紫様と私は片脚だけ入れた。
「それじゃ橙、出かけるときはちゃんと鍵をかけてね。」
「はい。いってらっしゃい!」
橙が見送ってくれた。考えてみれば、こういう状況の時は、朝早くから橙を家に残してしまっていた。すきまを跨いで向こうに行くと、それは音もなく閉じた。そして、何もなかったかのように消えた。
 霊夢のいる博麗神社は、紫様と一緒ならすきまを使うのですぐだが、紫様の冬眠中は、もちろん自分の足で行かなければならない。マヨヒガから神社までは結構な距離がある。その時は冷たい風が、正面から鎌鼬のように襲ってくる。
 すきまのあったところをぼんやり見ていると、紫様の手が、私の尻尾の毛並みをなぞっていった。紫様の指の軌道上の毛が、海が割れるように左右に分かれるのを感じた。
「そんなに橙が心配なら、今度から連れて行けばいいじゃない。今日は遅くなるだろうからいいけど、私が冬眠したらこれからは橙にも手伝ってもらうといいわ。そろそろ橙にも色々教えなきゃいけないことがあるでしょうし。」
「…と言いますと?」
「それまでまだまだかかりそうだけど、いずれは橙にも八雲を継いでもらう心算よ。焦る必要はないわ。いつかね。」
橙と出会ってから結構な年月になるけれど、紫様が明確にこういうことを言ったのは初めてだった。紫様に言われる前から、橙もいずれはこうなるんだろうとは予想していたけど、もうそれを真剣に考えるところまで来ていたなんて。何事も、須臾のうちに儚く過ぎていく。
「ただ橙を鍛えるには、今のあなたはちょっと優しすぎる。まずは私が冬眠から覚めるまでに それができる状態になっていれば言う事ないわ。」
そんなの、私自身分かっていた。でも、最近はその甘やかす対象と触れあう機会が少ないから、余計に甘いのかもしれない。
 いや、一緒にいる時間が少なくなったから、橙が私にべったりだった頃には無かった何かに気付き始めていたのかもしれない。内心、寂しかった、物足りなかった。もどかしかった。
「どうしたのかしら、そんなに思いつめた顔して。」
紫様の声で、私は現実に引き戻された。
「いえ、別に、」
「そう、ならいいんだけど。」
紫様は微笑んでいた。
「さっき橙に八雲を継いでもらうって言ったけど、あなた達が望まないなら、無理にとは言わない。厭々やっても、お互いに良くない結果と気まずい関係が残るだけ。でも、」
紫様の手が、私の尻尾から離れた。
「大丈夫よ。あなたはきっと橙の最高のパートナーになれるはずだわ。」
今でも、なぜかこの言葉だけは鮮明に残っている。それが、号砲だったに違いない。
「準備は良いわよ?」
霊夢に呼ばれ、私たちは例の結界の解れ目を目指した。すきまを使うからすぐだけど。
最終更新:2009年07月02日 01:10