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『ニコマコス倫理学』

『ニコマコス倫理学』 http://wiki.fdiary.net/moikomi/?c=edit;p=%A1%D8%A5%CB%A5%B3%A5%DE%A5%B3%A5%B9%CE%D1%CD%FD%B3%D8%A1%D9

引用文献→『ニコマコス倫理学』

定義

岩波文庫

読書会

上、p.5:あらゆる人間活動は何らかの「善」を追求している。

    1. そのようなモノとして「善」を定義する、ということ。
    2. 《私》の《動き》の「善」と《他者の動き》の「善」とは同質のモノだろうか? 《同質者公理》を取るなら是であり、《特別者公理》を取るなら非である。
    3. 欲望も犯罪も「善」である、という「善」の定義。「悪意」「害意」に基づく行為も「善」の追求である、という「善」の定義。
    4. 「加害意図」は「善」である。少なくとも行為者にとっては、ある種の「善」である。「加害意図」は「快」であり、「快」は「善」である。
    5. 《欲・得・快・楽》は「善」である。
    6. ヒトはなぜ、ヒトを殺さないのか? ヒトを殺すのは《欲・得・快・楽》に反するからだ。後悔したり、報復に脅えたりするのは、《欲・得・快・楽》に反するからだ。ヒトとしての思いやりや尊厳をもって生きた方が、殺人者となるよりは、《欲・得・快・楽》が大きいからだ。
  1. http://mixi.jp/view_diary.pl?id=629432910&owner_id=545566
    1. 鎌倉時代、仏教、と呼んでいいものかどうか、かなり疑問のある(笑)新興宗教の教祖・親鸞と弟子の唯円の会話がある。
      1. 親鸞「私の言う事を信じるか?背かないか?」
      2. 唯円「信じます。背きません」
      3. 親鸞「1000人の人間を殺せば、お前は往生できる。やれ」
      4. 唯円「私のような無能者には1人たりとも殺せません」
      5. 親鸞「お前は、私の言う事に背くのか?」
      6. 唯円「・・・」
      7. 親鸞「もし人間が自由《意志》で行動しているのなら、殺す《意思》が有れば殺せるはずなのだ。しかし殺せない。それは殺す《縁》が無いからだ。《意思》が無いから殺さないのではない。《縁》が無いから殺さないのだ。だから殺す《意思》が無くても、殺す《縁》が有れば、1000人でも殺すことはできる。」
    2. 近代は、人間中心である。
    3. 「人間の自由」と「人間の意志」を最も重視する。
    4. 《縁》などという、人間の自由を否定する、人間の意志を凌駕する存在は認めない。
    5. しかし、犯罪に関して言えば、親鸞の意見は説得力がある。
    6. 犯罪は、自由意志だけで生まれるモノなのか? 
    7. 《縁》と呼ぶかどうかは別にして、人間にはどうしようもない「神の見えざる手」によって罪を犯してしまう部分もあるのではないか?
    8. 私だって、《縁》があれば、万引き男になっていると思う。
    9. バスジャック男にすら、なってしまう自分が見える。
    10. しかし、私は基本的に近代主義者だから、自由意志を信じる。狂信する。
    11. でなければ、生きてる意味が無いではないか!(実際、無いんだけどね)
    12. よって、この鎌倉時代の生臭坊主は、私の敵である(笑)。

上、p.5:だがもろもろの「善」の間には従属関係が存する。

    1. 従属関係、なのだろうか?
    2. 《状況》によって、《視点》によって異なるのではないか?
    3. アリストテレスの《視点》は、エピステーメー(「学」)の《視点》であるが。実際には《群れ》の《視点》であるに過ぎないだろう。《群有思いこみ》の《視点》。国家という《群れ》の《視点》である。人類という《群れ》の《視点》ではない。
    4. 人権の調整原理。ヘーゲルのように、善の本質を個々人の自由としてとらえて、個々人の自由の調整原理としての法への《欲・得・快・楽》を上位に置く、というのはありかもしれない。その意味では、アリストテレスが、国家を上位に置いたのは、分かる。《相対者公理》からの帰結。《特別者公理》からは、そういう結論は出ないな。

上、p.15:活動それ自体が目的である場合もあれば、活動以外の何らかの成果が目的である場合もある。目的が何か働きそのもの以外にあるといった場合にあっては、・・

    1. 大事なのは活動それ自体であって、その成果ではない・・。
    2. 生きるということは循環である。それ自体が、循環的に、目的である。自己目的が生きるということである。
    3. 個体の「善」は、個体が生きるということである。
    4. 《群れ》の「善」は、《群れ》が生きるということである。
    5. 《群れ》が《生きる》ということはあるのか? ○:「国家」「人類」。《群れ》は在る。『国家』は《思いこみ》である。『国家』は一夜にして崩壊することがある。《群れ》としての《国家》は、境界が曖昧である。《群れ》の中の個体の出入りがある。《群れ》としての《人類》は境界が、《国家》よりは明確であり、持続的である、が、《群れ》としてのまとまりは《国家》より弱い。《国家》という《群れ》は、『国家』に『属している』という《思いこみ》を持つ個体の《群れ》である。((たけ(tk)は非国民である))。《群れ》は起承転結する(起承転滅する)。《群れ》には《群れ》の《欲・得・快・楽》がある。《群れ》の知性の無さすぎが、人類の悲劇かも知れない。×:。
    6. 個体は《群れの中の個体》である、か? ○:。×:。
    7. 《群れの中の個体》の目的は、《群れ》を持続させることである、か? ○:修身・斉家(身近な人々)・治国(国家)・平天下(人類)の同心円的多重構造。×:。
    8. 属国主義は『わるい』か? ○:。×:考えてみれば、200年前の日本人の90%は属国の国民であり、日本人の政治家の90%は属国の政治家だったのだ。なので、今の本人は属国政治に親近感を持っているとしても不思議はない。アメリカ幕府の外様政権なのだ。外様大名は、お取り潰しに合わないように、少なくとも外見だけは、忠勤を尽くさなければならない。《群れ》の目的は《群れ》の存続である。そのためには、面従腹背の政治も必要なのである。とはいえ、お取り潰しにあって、《群れ》は崩壊していないじゃないか。日本人の《群れ》に『国家』なんて必要はない。
    9. 《国家》の存続に『国家』の《思いこみ》は必要か? ○:。×:1945年に、お取り潰しにあったけど、《群れ》は崩壊していないじゃないか。日本人の《群れ》に『国家』なんて必要はない。

上、p.15:目的が何か働きそのもの以外にあるといった場合にあっては、活動それ自身よりも成果のほうが善きものであるのが自然であろう。

    1. アリストテレスの活動よりも、『ニコマコス倫理学』の文字のほうが善きものである。
    2. それは、或る意味で、言えている。アリストテレスの活動が人々から忘れ去れれれば、なかったものと同じだ。
    3. しかし、人類が滅びて、文字の痕跡も太陽に呑み込まれてしまえば、なかったことになる。
    4. 成果なんて、一時的なものだ。活動も一時的なものだ。同じく一時的なものであることが考えれば、活動のほうが善きものである、と、言うべきである。
    5. 《群れ》に痕跡を残さなければ、個体の活動は意味がない、か? ○:全てのヒトの、全ての活動は、何らかの形で痕跡を残すのである。《宇宙史》の中に書き込まれていくのである。×:。

上、p.16:棟梁的なもろもろの営みの目的のほうが、これに従属する営みの目的よりも、より多く望ましいものなのである。なぜなら前者のゆえに後者は追求されるものであるから。

    1. なんで、アプリオリに、そう言い切れるのか?
    2. 人々の営みのために国家の営みがあるなら、人々の営みのほうが棟梁的な営みである。
    3. 人々の営みが、それぞれの欲・得・快・楽のために営まれるなら、欲・得・快・楽の意図の営みが棟梁的な営みである。
    4. 国家の営みも《欲・得・快・楽》の営みであり、学問も《欲・得・快・楽》の営みであり、悟りも《欲・得・快・楽》の営みである。
    5. 《欲・得・快・楽》の営みに、上下なんてない。
    6. 《私》の欲・得・快・楽と《他者》の欲・得・快・楽との間には、絶対的な区別が在る。《絶対者公理》。しかし実は、差別はない。《相対者公理》。

上、p.16:およそわれわれの行なうところのすべてを蔽うごとき目的が存在するならば・・

    1. そんなの、ねぇっての・・。

上、p.16:もし、かかるものがなければ目的の系列は無限に遡ることになり、その結果われわれの欲求は空虚な無意味なものとなるであろう

    1. だよ。で、なにか? 問題ある?
    2. 個々人の《欲・得・快・楽》が「われわれの行なうところのすべてを蔽うごとき目的」でも、いいじゃん。人類の進化において、個々人は《欲・得・快・楽》を「われわれの行なうところのすべてを蔽うごとき目的」として行動するように進化してきたのだ。
    3. 《欲・得・快・楽》の調整は、上位の《欲・得・快・楽》である、か? 一つの《欲・得・快・楽》の充足に対して、複数の《欲・得・快・楽》の充足を実現する《欲・得・快・楽》である。量的に、より大きな《欲・得・快・楽》である。最大多数の最大幸福。「最大多数の最大《欲・得・快・楽》」という《欲・得・快・楽》。民に親しめ。「修身・斉家・治国・平天下」という《欲・得・快・楽》。「共に生きる」という《欲・得・快・楽》。《さとり》という《欲・得・快・楽》。
    4. 技術者の《欲・得・快・楽》。商人の《欲・得・快・楽》。農民の《欲・得・快・楽》。ワークングプアの《欲・得・快・楽》。「富裕者増税党」の《欲・得・快・楽》。

上、p.17:「人間というものの善」(ト・アントローピノン・アガトン)こそが政治の究極目的でなくてはならぬ。

    1. 人間というモノからの《視点》と、人類というモノからの《視点》と、国家というモノの《視点》。
    2. アリストテレスが国家に注目したのは、それが、ヒトの意思の帰結として動かしうる最大の《群れ》の単位であったからであろう。現在に於いて、アリストテレスが現在に生きていたとするなら、国連がヒトの意思の帰結として動かしうる《群れ》として機能しているのであれば、人類という《群れ》の人間的意思決定機関としての国連、ないし「国際社会」に注目したであろう。


上、p.52-53

  1. これらのひとびとの内部には、だが反面、「ことわり(ロゴス)」と戦い「ことわり」に抵抗するごとき、本性上反ロゴス的な或るものが見られる。・・無抑制的なひとびとの衝動は「ことわり」と反対の方向に赴く。身体の場合はそれてゆくのが眼に見えるのに反して、魂の場合にあってはそれが見えないにすぎない。おもうに、しかし、それが見えないこととはかかわりなく、われわれの魂のうちには、「ことわり」に背き反撥するところの、反ロゴス的な或るものが存在すると考えなくてはならぬ。
  1. アリストテレスの『小人』論。
  2. 欲求は、道理に従うこともできるし、道理に反することもできる。

上、p.216

  1. 魂には二つの部分が、すなわち、「ことわりを有する部分」と「ことわりなき部分」が存すること・・。たがいま、「ことわりを有する部分」について、やはりまた一つの区分がなされなくてはならぬ。すなわち・・およそ「その端緒がそれ以外の仕方においてあることのできないごときものごと」を考察するための部分であり、他の一つは「それ以外の仕方においてあることのできるものごと」にかかわるものである。
  1. 必然と選択。《知った思いこみ》のための《知りつつあるモノ》と、《求める思いこみ》のための《知りつつあるモノ》(ヌース)。《知りつつあるモノ》と《選びつつあるモノ》、《操りつつあるモノ》。
  2. 《知りつつあるモノ》、《選びつつあるモノ》は魂の状態であるか?


上、p.220

  1. いったい、「われわれの魂がそれによって、肯定とか否定とかの仕方で真を認識(アレーテウウェン)するところのもの」として、われわれは、五つのものを挙げなくてはならぬ。すなわち、
    1. 技術(テクネー)
    2. 学(エピステーメー)
    3. 知慮(フロネーシス)
    4. 智慧(ソフィア)
    5. 直知(ヌース)
  2. がそれである。思念(ヒュポレープシス)とか臆見(ドクサ)を省くのは、こうしたものをもってしては偽に陥ることが可能だからである。

上、p.223

  1. 知慮(フロネーシス)・・「自分にとってのいいことがら、ためになる事柄に関して立派な仕方で思量(プーレウェスタイ)しうる」ということにある。それも決して部分的な仕方で、たとえば、どのようなものごとが健康とか体力とかのためにいいかといったことについてではなく、およそ全般的な仕方で、どのようなものごとが「よく生きる」(エウ・ゼーン)ということのためにいいか、についてなのである。
  2. ・・
  3. ところで、「それ以外の仕方においてあることの不可能なことがら」とか「自分のなしえないことがら」については何びとも思量しはしない。・・(必然性の方法による)論証は存在しえない・・とするなら、またもし、その反面、「必然的なことがら」について思量の行われることはないのであるとするなら、知慮は学たりえず、それはまた技術でもない。
  4. ・・
  5. 知慮とは「人間にとっての諸般の善と悪に関しての、ことわりを具えて真を失わない実践可能な状態」であるほかはない。

うーむ。完璧。・・とはいっても、「それって何?」に端的に答えられるわけではない。「端的に答える」というのは或るコトバAを別のコトバBに置き換えることに過ぎないから、それAが指し示しているモノaが見えない人には、どんなコトバで説明しても、答えたことにはならない。・・というか、たけ(tk)も、読んでいる最中には、かれの《視点》で見ているので、それaが見えているが、しばらく経つと、たけ(tk)の《視点》にもどるので、見えなくなる。

「自分にとってのいいことがら、ためになる事柄」というのが、《絶対者公理》なのか?

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最終更新:2007年11月21日 23:43