引用文献→『精神哲学』
『精神哲学』ヘーゲル、岩波文庫
翻訳:自分自身への《思い描き》の世界(観念態)において発展する最初の《体内世界のモノ》(精神)は《知りつつあるモノ》としての《体内世界のモノ》(精神)である。
しかしここでは、《知りつつあるモノ》というのは、単に《思い描かれつつあるモノ》としての《知りつつあるモノ》ではなくて、具体的な《いま・ここ》の《身体》の内部において《知りつつあるモノ》(具体的な精神)が、その《知りつつあるモノ》自身を《思い描く》ことによって生ずるような《知りつつあるモノ》である。
翻訳:《内からの視点》としての《体内世界》(主観的精神)への《思い描き》の発展は次のとおりである。
A:《内からの視点》としての《体内世界》(主観的精神)は、それ自体として単に在るものである。こうして《内からの視点》は、《私》の《身体》の《体内世界》(心)または、すべての人々それぞれに有する《体内世界》(自然的精神)である。
身体の内部作用(心)においては《知りつつあるモノ》(意識)が目ざめる。
《知りつつあるモノ》(意識)は自己を《的確に指し示しつつあるコトバによって知りつつあるモノ》(理性)であるという《思い描き》を持つ(措定する)。
そして《的確に指し示しつつあるコトバによって知りつつあるモノ》(理性)はただちに自己を《的確に指し示しつつあるコトバによって知りつつあるモノ》(自己を知る理性)へと目ざめ、
自己を《的確に指し示しつつあるコトバによって知りつつあるモノ》は自分の活動によって自己を《コトバの世界》(客観態)へ投げ込み、
自分を《的確に指し示しつつあるコトバ》(自分の概念)を《知りつつあるモノ》であることを知る。
《モノを的確に指し示すコトバ》(概念)において現れる《思い描き》(規定性)はどんどん変わっていくモノ(発展の進行)である。
同様に、《体内世界》の《内からの視点》(精神)においてもまた、《体内世界》の《内からの視点》が自己を見える場所に現わしていく際に生じる各々の《思い描き》は、変わっていくものであって、
《体内世界》は《思い描き》が変わっていくにしたがって、自分の今まで隠れていた正体を現わし、自覚するという自分の目標に向かって前進していく。
オオ、梵我一如。
翻訳:《体内世界》(精神)は自然の《モノの世界》のモノとして、単に《いま・ここ》に生まれつづけている。
《体内世界》は《モノの世界》の成果ではあるが、《気づき》においては、最初のものという意味を持っている。
《的確に指し示しつつあるコトバ》(概念)においては、コトバどうしの《繋がり》において、生まれる、移るということは、《思い描きの世界》における『自由』な判断によって限定されている。
* 「自由な判断」って、日本語の「好き勝手な判断」とはだいぶニュアンスが違うな。
* 「自由な」というのは《思いこみの世界》に入り込んだ状態における、「自由な」判断、つまり、《モノの世界》の諸々の規則には拘束されない判断、《コトバの世界》の規則=論理=にのみ拘束される判断を「自由な判断」と呼んでいるようである。つまり、ここで《思いこみの世界》に入り込んだのである。
* もっとも、主題は《思い描き》を完成させることである。《思い描きの世界》に入り込むのはやむを得ないのか? 《的確に指し示しつつあるコトバ》による《思い描きの世界》を記述するのが彼の目的である。
それゆえに、《思い描きの世界》に生まれた『体内世界』という《思いこみ》の《視点》は、『真』ではないものとして、すなわち《思いこみ》ではないものとして《モノの世界》そのものは捨て去って、
* ここでデカルト的な倒錯が始る。《思いこみの世界》への《入り込み》が始まる。
* 「肉体的個別性において」が「肉体的個別性からの《視点》において」なのか「肉体的個別性への《視点》において」なのかが曖昧である。「肉体的個別性からの《視点》において」であるなら《思い描き》という「一般性」が《身体》の外部にあることになり、「肉体的個別性への《視点》において」であるなら《思い描きの世界》からの《視点》において、肉体的個別性が《思い描きの世界》の外部にあることになる。
* 主文は「精神は自分を、外部に存在する一般性として前提するのではなく、単純な一般性として前提する、という意味を持っている」ということ。「前提する」なんていう日本語は在るのか? 「自分を一般性として前提する意味を持っている」って? 日本語?
* 「心(Seele)」であって、「精神(Geist)」ではない、と言われてもねぇ・・。違いが分からぬ。しかも「精神は・・精神ではない」と言われてもねぇ・・。
『体内感覚世界』は《思い描きの世界》の中での《思いこみ》であるからそれ自身は非物質的である。また『自然』も《思い描きの世界》の中では非物質的な《思いこみ》である。『体内感覚世界』は非物質的な《思いこみ》としての『自然』の一部である。《思い描きの世界》の中では『自然』の『生命』も非物質的であり、『体内感覚世界』はそのような『自然』の『生命』という《思いこみ》なのである。
* 「自然の一般的非物質性」が在る? と認識しているなら、正しい。虚数軸の世界、複素数の世界。《複素数の時空》の中の《虚数の時空》が自然の一般的非物質性。《虚数の時空》は《背後者》の《マイナスの距離の世界》。《知りつつあるモノ》を原点として世界を再構成すると現れる時空が《複素数の時空》。
* しかし、そうではなくて、《思い描きの世界》に入り込んだ《視点》での『心』は《思いこみ》であるから、非物質的なのだ。自然の一般的非物質性というのも《思い描き》としての『自然』は非物質的なモノである、ということ。生命もまた、《思い描かれつつあるモノ》であるから「観念的生命」なのである。
* 電気は非物質的、エネルギーは非物質的、情報は非物質的、・・であろう。非物質的ということに、なにか意味があるのか? 電気によって生じる現象は実数軸の世界のモノである。しかし、その背後に電気というモノを想定するのは、我々が『電気』という《思いこみ》を重ね合わせて理解しているにすぎない。
《思い描かれつつあるモノ》としての『体内感覚世界』はイデア的実体であり、そこから分化して思い描かれるべきもの諸々のモノの唯一の基盤となる。
* ヘーゲルの言う「心」には背後者世界を含むか? ○:「潜x態」の表出、みたいなことを言っているから、《背後者》も含む。×:たぶん、含まない。
* 電気は基体(実体)であり、エネルギーは基体(実体)であり、情報は基体(実体)であり、・・であろう。基体(実体)であるということに、なにか意味があるのか?
* 《体内感覚世界》が虚数軸というのは違うだろう。単に、対外世界と異なり、手で測ることができない、また、空間定位が曖昧であるということ、また、《思いこみ》への《入り込み》によって、物質的空間性を見失ってしまう、ということに過ぎない。本当の虚数軸(非物質性)は《知りつつあるモノ》の背後にある世界においてのみである。おそらく、《背後者世界》と《体内感覚世界》との混同があるのであろう。まあ、《体内世界》においては両者は一つなのであるから、混同してもかまわない。区別が在るのは《知りつつあるモノ》が《知られつつある世界》と《背後者世界》とを分割する場面においてのみである。・・てか、区別しているのは、たけ(tk)じゃん。てか、体内世界は物質的存在である。だから、誤り。物質的存在であるのに、認識経路が異なるので、対外世界とは違ったモノのように見えるということ。まあ、物質とは体外世界のモノであるとするなら、体内世界のモノは非物質的ではある(定義の問題)。
* 睡眠である、というところから考えると、「心」は《体内世界》であって、精神は覚醒すなわち《体内感覚世界》だ、と言いたいのか? ○:。×:。
《体内感覚世界》は《いま・ここ》の《身体》の内部の世界として、現実的な《体内感覚世界》として存在する。
だよ。で、なんか文句あっか?
てか、「本当は心は肉体性の外部にある」という《思いこみ》が先行しているから「心の直接的存在は心の肉体性として心のなかは作り入れられ」なんぞという変な説明になっている。心が自分の肉体性を忘れているのは、単に、忘れていただけだろう。心は自分の肉体性を忘れることができる。しかし、本来、非肉体的であるわけではない。こころは物質的な存在である。物質の内部状態としての体内世界の作用が、自分の物質性を見失うことがある、と言うだけの話。
要するに、心は、その存在において自然なのだ。
《知りつつあるモノ》も《モノの世界》の中のモノの一部である。
翻訳:体内世界に関する《思い描き》(規定性)は「心」というコトバによって生じる『心一般』という《思い描き》(心の観念性)の背後に、実際の《いま・ここ》の体内世界という現実存在を持っている。
自然的生活へのはっきりとした《見通し》が必要だと思うのだがな・・。
西欧のキリスト教徒たちは、自然的生活には関心を持たない、ということか。《思いこみの世界》に住んでいるから、《モノの世界》には関心を持たない。
人種、民族の精神を実体化することには疑問がある。
そもそも、《我》の精神の現象を語るのか、《他者》や《サル山のサル》の精神の現象を語るのか?
《私》も《サル山のサル》の一員であるから、《サル山のサル》の傾向を、自然的特徴として持っている。・・まあね。
ふーむ。人類の諸個体の心一般の多様性から地方性の多様性とし地方性の中での多様性、さらに、集団ごとの多様性と集団の中での諸個体の多様性、というように個別化された、と見る見方。『ヒトの心』という『種類』に該当するモノたちの集合。
《他者の心》のワン・オブ・ゼムとしての《私の心》。《他者の知りつつあるモノ》のワン・オブ・ゼムとしての《私》の《知りつつあるモノ》。《相対者公理》の《外からの視点》にすっとんでいる。《絶対者公理》からの《内からの視点》が欠けている。
個体は、変化しつつ持続する統一体、時間の流れを超えて一つのモノであるようなモノである。
ふーむ。なかなか・・。
言っていることは分かるが、それはどこに在るのか? 《他者》への観察と、自分の記憶の中にしかない。《思いこみ》の中にしかない。
《私》の過去の心への《見通し》、《他者》の心への《見通し》。過去の《私》への《見通し》、《他者》への見通し。《過去の私》との同一性かぁ・・。
心は、《肉の塊》の中での《思いこみ》の循環の総体である。もっと端的に、心は、《体内世界》である。眠った状態の《体内世界》、覚醒した状態の《体内世界》、感覚しつつある状態の《体内世界》。
「心は体の中に在る」「心は体の中に在るモノの一つである」ではなくて、「意識が自分の体の中に在ると感じるモノを心と呼ぶ」なのだ。
ビミョー。《極座標の原点》。
眠っている心には《極座標の原点》はない、か?も、ね。否否。あるかもしれない。覚醒している心の《極座標の原点》も、自覚的な原点とは別かもしれない。
《極座標の原点》は、覚醒している心が勝手にでっち上げた《思いこみ》かもしれない。まあ、進化的価値がある《思いこみ》かもしれないが・・。
イマイチだな。寝ている時に起されるのは、寝ている時の感覚によってである。感覚は覚醒に依存していない。
覚醒状態において、心の中心存在は、感覚を、感覚であると気付く、といった程度だろう。
寝ている時にも感覚は在る。その感覚によって起されないとしても、眠ったままでも、感覚に反応する。
まあ、ヘーゲルさんは、分かってらっしゃるようです。(p.157)。
体内感覚と触覚とを同じ扱いにしている・・。
たしかに・・。痛みは視覚でも聴覚でも味覚でもない。触覚だ。
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