定義
記述
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《知りつつあるモノ》は、自らを振り返る時、《我》が世界の絶対的な中心であることに気がつく。((《我》とは《自己言及しつつあるモノ》であり、この場合は、《自己言及しつつあるモノ》としての《知りつつあるモノ》である))。
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しかしながら、同時に、常識的に言って、《我》が相対できなモノである、という確信を持っている。しかし、その確信は、絶対者としての《我》への気づきによって、揺らぐ。
- ブッダは「天上天下唯我独尊」と言ったらしい。絶対者としての気づきが、ブッダの思考の原点にあるということだろう。
- 《我》は絶対者であるのか、相対者であるのか。どちらも正しい。というか、相手を論破することはできない。
- 「《我》は相対者である」と認識するのは絶対者としての《我》である。
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「《我》は絶対者である」という認識は、誰でも持ちうる、誰にでもある認識であり、相対的な認識でしかない。絶対者としての《我》は、沢山ある絶対者のなかの一つに過ぎない。
- しかし、その「《我》は相対者である」という認識は、絶対者としての《我》による認識である。・・と無限に平行線をたどる。
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公理というのは、準則を立てた時に無矛盾であるような体系を言う。「《我》は絶対者である」という準則を立てれば無矛盾な体系を構成する。ぎゃくに「《我》は相対者である」という準則を立てても無矛盾な体系が構成される。
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「《我》は絶対者である」という準則によって構成された体系を《絶対者公理》と呼び、「《我》は相対者である」という準則によって構成された体系を《相対者公理》と呼ぶ。
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《極座標の原点》。《絶対者公理》における世界は《極座標の原点》から見た世界に似ている。《相対者公理》における世界は原点のない直交座標から見た世界に似ている。座標変換の方法によれば、直交座標と極座標は相互に変換可能である。
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天動説と地動説の対立に似ている。天動説は《我》を中心とした《絶対者公理》の世界である。太陽は地平線から昇るのである。地動説は地球が自転しながら太陽の回りを回ると言う。どちらも正しい。また、座標変換の方法によって、相互に変換可能である。
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万物は《極座標の原点》である。万物は、それぞれ、絶対的な世界の中心である。《極座標の原点》はどこにでも置くことができる。原点を置いたところが、その座標系における、世界の中心である。
区別
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最終更新:2007年12月08日 06:33