国を選ぶか、装備を選ぶか、悩ましい事がこの国ではとても多い。そう、まずはこの元北海道がなぜ独立したのかを語らねばなるまい。
独立の歴史はそう古いものでもないのだ。世界がテロ組織や難民に揺れる中、東京オリンピックも決まり、高度経済成長の終わった日本は変わっていなかった。若者のファッション、ゲーム、言葉の流行は激しく入れ替わり、便利な社会と暮らしは平和の象徴かもしれない。そんな”なにも変わらない日常”の中で、ある石油会社が変化をもたらした。
北海道奥尻島沖で海底油田を発見した。日本では新潟などが油田、ガス田で有名だが、科学技術の進歩により調査・掘削技術も向上、北海道周辺での石油埋蔵が確認されたのだ。日本政府も支援して海上プラットフォームの建設を開始する。全国の大学と石油会社にベンチャー企業が一攫千金を夢見て掘削船などを派遣した。
当然補給も必要となり地元の漁師たちは漁船で食料などの輸送を行い、漁業は副業となった。だがしかし、いい事ばかりでは終わらないのがこの世界の理だ。そう、海上強盗…海賊が補給船や掘削船を狙い中国。ロシア方面から多く表れた。中には漁獲量が減少し職に困った日本の漁師が多く参加さしたとされる。事を重く受け止めた道と政府は現在の海上保安庁と警察では力不足と考え、巡視船の武装強化や速力、航続距離の向上を図る。だが、敵はテロリストだけではなかった。近代史ではエネルギー資源を求めての戦争など珍しくもないのは誰もが知っている。中東や南シナ海情勢を見れば一目瞭然だ。
油田はロシアと領海を別ける日本海側で発見された。つまり冷戦時代さながらの脅威が迫ると考えられ、野党の少々の反対もあったが、与野党合意で自衛隊の強化も図られた。具体的には函館、苫小牧、小樽に海上自衛隊の基地を設け、護衛艦の他にイージス護衛艦、ヘリコプター護衛艦を配備。旭川には航空自衛隊の基地が新設され、最新の迎撃機と支援機を配備した。陸は冷戦時代に作られた駐屯地を強化し、削減傾向にあった戦車の配備数も予算の通った翌年には倍になっていた。日本政府は「海賊に対する抑止力と防衛」と謳っている。
世界からは日本の軍閥化・帝国の復活 と非難を浴びる一方で、米国をはじめとする西側各国は「妥当だ」と後押しした。
国民は反対しなかったのか?あの戦争を経験し、敗戦国となった日本国民はどのような反応をしたのか。実は興味がなかった。反対運動するのはある組織だけで、国民は政治は政治家に任せ、荒事はアメリカが守ってくれる。これまで中国や北朝鮮の脅威だって回避したのだから大丈夫 と楽観視し、「稼げるから」と手当金目当てで自衛隊に稼ぎに入隊する者も多かった。
「起動します」
彼女が宣言してからゴーグルを装着し。電源を入れると小さな駆動音とともにiイルミは起動した。カメラとマイクが収集した情報はコウの手元にあるタブレットに送信される。
「へぇ、意外にシンプルなんだな」
「ごちゃごちゃしたUIは嫌われるからね」
グーグルマップ上に装着者が矢印で表示され、名前とIDが表示される。画面端には装着者の一覧があり、装弾数をはじめ各種情報が表示される。
「構えて」
イベリコが銃を構えると的が用意される。1秒もしないうちにタブレット画面には「敵」と表示され、相手の武装や進行方向なども映し出す。
「もちろん相手はただの的だからこれは疑似的なものだけどね」
「君らの持ち帰ったデータでここまで進化したんだよ」
「映像は荒いがiイルミの画面も見れるぞ」
イベリコの矢印をタップし、主観カメラに切り替えるとしっかり的が写っていた。
「これは戦争が変わるな…」
「コスト高いけどな」
海賊も自衛隊の登場により規模は縮小され、海底油田の掘削戦争は激化していた。そんな中、北海道が支援をしていた企業が稚内沖で、ロシアの資本企業が襟裳岬沖で油田を発見した。その埋蔵量は中東には及ばないものの、日本の1/3を供給できる程度であり、北海道に関しては自給自足も可能となる。だが、足りなくなるのは労働力と資金だった。後者はなんとかなるが、労働者不足はごまかせない。いくら技術が進もうとも、海上での建設、その補給、補給のための船舶や物資など、考えるときりがない。そこで道は最初の海上油田で儲けたお金を使って労働者の移住促進を進めた。付近の町村は特需で潤っており、アパートマンション、学校などを建設、インフラ整備もどんどん行い、本州より雇用者とその家族を招いた。道の援助で税金を安くし、高齢と共に放置されていた農地と民家を売り出し夢の一戸建て住宅を格安で手に入る。
そう、北海道は新たな成長期に入ったのだ。
東京の若者も自然が豊かな大地で安定した職が手に入ることから北へ向かった。大学を出た学のある者は石油会社に そうでない者は関係会社、自衛隊、警察などにと…その中に宮門もいた。
そして道も増えた人口と子供の将来の職の確保するため、企業の誘致に躍り出た。きれいな空気から電子機器を扱うメーカーから広大な土地を必要とする自動車産業まで幅広く営業にわまった。エネルギー会社・電子精密機器・自動車大手各社が進出する一方であまり重視していなかった重工業連が自ら名乗りを上げたのだ。そう、自衛隊や海保の強化により装備の製造を行う重工業は現地で研究して現地生産することでコストを抑えられるメリットがあったのだ。さらに掘削船のや補給・警備のための船が増えたことで造船業も進出し、その工業力は本州と肩を並べるほどに膨れ上がった。中でも砲に優れる有沢重工・キサラギ、まだ小さな東亞重工など有名どころが多く進出した。
第二次産業が充実すれば、自ずとサービス業も発展をする。企業誘致に成功した街は繁華街を設け、大手チェーン店もこぞって進出、第三次産業も無事に成功した。
そんな中、政府はある国との外交を進め、とても親しくなっていた。
北方領土の返還と共に、技術協定を結びエネルギー開発を共同で行うことにしたのだ。そう、脅威と考えられていたロシアと…
当初世界と日本はロシアが何らかの武力を背景に資源をせびってくるかと予想していたが、相手も石油産出国だけあって大人の対応であった。これまでの関係を改善し、技術を貸与・領土を返還するので共同で石油を掘ろうというのだ。どの国も政治家も「ゴマすりだ」などと考えていたが、実際
ロシア企業も多く北海道に進出し、在日ロシア人も増加傾向にあった。そこで友好宣言を求めたところあっさり承認され、日ロは友好関係を強化し互いの成長を支えあう事を約束した。
もとろん米国は反発するも、平和目的であり、世界の関係を一新する一歩として米軍を三沢基地までに押し込め、武力による関係悪化を退けた。
こうして世界の歴史に新たなページを刻んだ年に私は初めて日本、北海道の大地を踏むことになる。
日ロの友好関係にはあるロシアの資本家の影響が大きかった。その資本家は裏ではマフィアの領主であり、表向きはエネルギー資源会社のCEOだ。名前はSergei・Ogarkov(セルゲイ・オルガコフ)私もその人に仕えていた。その辺の話はまたいつか
彼は石油が発見されたと同時に北海道に興味を持ち始め、すぐに両政府と裏で会談を増やした。また、北海道が企業誘致や免税の資金は石油の他、実は彼の融資だったのは公にはされていない。
そんな中、人口の拡大・技術・物流・国際交流の拠点となり、北海道の発展は止まらなかった。
やがてロシア軍も補給での立ち寄りから始まり、日ロ合同演習の回数も増え自衛隊基地に駐屯するようにもなった。それは各重工が喜び、日本とロシアの兵器のデータを取り独自開発まで取り組むほどだ。特に艦船はめまぐるしい進化を遂げ、民間軍事会社が試験を請け負う形で試験が進んだ。
だがしかし、ここまで発展したのだから本州、つまり日本の力を借りずとも生活できるのではと声も多かった。実際、エネルギー・食料・工業の自給自足は可能で、十分小国家として機能は果たしていたのだ。タカ派の議員や市民の一部は独立へ向けての運動が活発化した。もちろん完全な国家として独立すれば本州との物流や通貨のやり取りが面倒になるため慎重な議論を重ねた。
支援する世界の資本家達もそろそろ成長した北海道を国として独立させ、日米露の経済の拠点にする考えがあった。特に一番のロシア資本家Sergei・Ogarkovの主導の元で政治家たちに出資すると共に、民間軍事企業を多く派遣するして、有事の際は自衛隊を接収し、PMCとの共同作戦とする。その派遣部隊に私がいた。人、特に外人が増えれば治安が悪くなるとも懸念されたが、はSergei・Ogarkovはロシアンマフィアの一面も持ち、その名前を知らないロシア人はいないため抑止力となって案外平和であった。
そして北海道は「北方独立行政府」として独立を宣言した。
国際社会はそれを快く受け入れたが、日本は反乱と取れる行為の他、海外の資本家たちに固有の領土と国民を奪われたこともあり、事を重く受け止めていた。すぐに両者会談に移るも北方政府は一切妥協せず、結果として日本政府は経済制裁を発令した。内容は主に物流制限、渡航の禁止などで、これはネット通販や観光など一般生活に支障が出るため両国の国民から不満を持たれることをこのころは想定していなかった。
一方独立を成功させた北方政府は某憲法に縛られないため、軍を編成、PMCを雇った一方で駐屯する陸海空の自衛隊を接収、そのまま軍として編成した。不満を持つ隊員は案外少なかったのは、家族も一緒に北方へ渡っていたことや日本以上の待遇の厚さがあったからと言われる。少なからず日本への帰国を希望する者はすぐに手配した。
自衛隊までも奪われ日本は経済制裁を強めると同時に、国連へ非難の決議を提出、国際的な協力を求めたが、世界は北方政府を良く思う一方、日本国内の内紛にすぎないと協力は仰げなかった。
強化しすぎた制裁は北方市民の生活に支障が出だした。国内で賄えない日用品はロシアが援助(こっそりアメリカも)したが、やはり日本製を求める声が大きく、不満は増える一方であった。日本企業も進出してる社員は戻れずに孤立、独立に加担したとして公安の調査を受け、意味のない賠償金を国から求められた。
不満を受け北方政府は幾度となく日本と会談するも、今度は日本政府が譲らず、平行線の話し合いが長く続いた。
何か月続いたか、12月になろうとした時だった。北方政府は軍による日本反抗を決定し。軍へ出撃待機をだした。私はその時部屋で仮眠していただろうか。慣れた場所を離れ、安全なこの国で多くを学び、大人になれとあの方に言われたが、私は戦うしか能がない。あの人の意志に反して軍への出向を選んだ。最初で最後のわがままだったかもしれない…