ある五月の午後、3時くらいだっただろうか、ぼくは、人生について非常な憂鬱に浸りながら、家路をたどっていた。イギリスに帰ってきて3ヶ月、ぼくは早くもここでの暮らしに退屈していた。天気は優れず、人々は無気力、ロンドン市街の遊園地も一杯の水ほどの楽しさすら無いように思える。
「Richard Hannay(主人公「ぼく」の名前)、」ぼくは独り言を言った。「君は間違いを犯した、そしてそれをどうにかするべきだ。」
ぼくがアフリカで過ごしてきた数年間のことを考えると、むしゃくしゃしてくる。あのころ、ぼくはよく働いて、お金を貯めていた。そう、決して多くはないが、ぼく一人には充分なくらいには。6才でイギリスのスコットランドを離れて以来、ぼくは一度も故郷を訪れていなかった。だから、ずっと、イギリスに帰ってきてそこで休暇を過ごすことは、ぼくの夢だった。だというのに、いざ帰ってきてみると、一週間もしないうちに、失望がわき上がってきた。こんな風にして、ぼくは___37歳の、充分なお金と健康な体を持った、日常にうんざりした男は___ここにいるわけだ。
その夜、ぼくは食事に出て、座り込んで新聞を読んでいた。新聞は東南ヨーロッパでの数々の問題に関するニュースが満載で、その中にはギリシャ首相Karolides氏に関する長い特集もあった。ぼくは、彼は正直そうな男だと思ったが、ヨーロッパ人の中には、彼を憎んでいる人もいるらしい。しかし、イギリスではこの男はなかなか人気があり、一部の新聞は「首相は戦争を止められる唯一の人材だ」などと報じているほどだ。ぼくは、かつて「東南ヨーロッパで仕事ができれば、今よりは退屈しなくてすむだろうに」と考えていた頃があったことを思い出した。実行に移さなくて良かった、ロンドンでくすぶっている方がまだマシである。
帰路にたどりながらこう考えた。後一日だけこのイギリスにとどまろう。もし、それで何も興味が引かれるようなことが起こらなかったら、次のボートに乗ってアフリカに戻ってしまおう。
ぼくはLang ham Place にある新築の、大きなビルに住んでいた。建物の入り口には警備員がいたが、それぞれの部屋は分かれている__つまりアパートである。
その男が現れたのは、ぼくが自分の部屋の扉にたどり着き鍵を開けようとしていた時だ。
外見的な特徴を述べるならば、細身で、茶色の髪と同じ色の髭をのばし、小さな目は鋭い眼光を放っていて__まぁどこにでもいそうな中年である。思い出した。この男はこのビルの最上階に住んでいる人だ。何回か言葉を交わしたことがあるし、廊下であえば会釈する、その程度の知り合いだ。
「ちょっといいですか?」彼がぼくに訊ねてきた。心なしか、声が震えている。「少しばかり、部屋に入れてもらえませんか?」
特に断る理由がなかったので、ぼくは鍵を開け、彼を招き入れた。
「このドアは施錠されていますよね?」彼は、言い終わる前に、そしてぼくが動く前に、自分で鍵を閉めた。
「申し訳ない」男が言った。「非礼を許してください。でも、私は今、非常な危険にさらされていて、あなたは私を助けてくれそうに見えたのです。もし、私が身の上を説明したら、助けてくれますか?」
「話は聞きましょう。」ぼくは言った。「でも、それ以上は約束できません。」正直に言って、ぼくはこの男の、普通とは言えない行動に不安を覚え始めていた。
彼は、手近のテーブルに手をやって、ウィスキーをあおった。見る間に飲み干すと、コップをテーブルに、叩きつけるように置いた。衝撃を受けたコップにはひびが入り、細かい破片がテーブルに装飾を付け加える。
「申し訳ない」二度目の謝罪。「少し、動揺しているんです。知っての通り、私は、いま、死んでいるんですよ。」
ぼくは腰を下ろして、たばこに火をつけた。煙をくゆらせながら言ってみる。
「ほう、気分はいかがですか?」もうこの男の気が触れているのは疑う余地なしだ。
ぼくの皮肉に気づかなかったのか、それとも受け流したのか、男はほほえんだ。
「私は、狂ってはいませんよ、今のところはね。まぁ聞いてください。実は、私は、あなたという人を観察していたんです。そして、多少のことでは驚かないだろうと判断した。だからこうしてはなしているんですよ。私は、協力を必要としていて、そして、あなたを頼ったことが正解かどうか、確かめようともしているんです。」
「まず話してみてください。」ぼくは言った。「協力するも、しないも、そこからです。」
それは途方もないような話だった。ぼくはその全てが理解できたとは思えないし、事実ぼくは多くの質問を彼に浴びせかけることになった。しかし、これがぼくにこの奇妙な男が語った事の全てだ。
彼は、名をFranklin P.Scudderと言いアメリカ国籍を持ちながら数年間にわたって東南ヨーロッパにいた。そこで暮らしているうちに、偶然、ヨーロッパを戦争に巻き込もう暗躍している組織の存在を知ってしまった。目的はバラバラでたまたま利害が一致しただけの彼らは___ある者は戦争に変革を求め、またある者はただ金ほしさに、といった具合に___聡明で、それでいて危険だった。彼らは、ロシアとドイツを戦争で敵同士にしようとしていたのだ。
「私は、なんとしても彼らを止めようとしたのです。」Scudderが言った。「そして、あと一ヶ月私に時間があれば、それができたはずです。」
「あなたは、もう死んでいるのと思いましたよ。」ぼくは言った。
「それについても、すぐにお話しします。」彼が答える。「でも、その前に、Constantine Karolidesという人を知っていますか?」
「ギリシャの首相ですね。丁度今日新聞に出ていましたよ。」
「そうです。彼は、戦争に向かうヨーロッパを止めるためのブレーキになり得る、ただ一人の人間なのです。彼は聡明で、正直者で・・・そして何が起ころうとしているのかを知っています。だからこそ、彼の敵たちは、彼を殺そうと執拗に追いすがるのです。
私は、そのために敵が立てた計略を知ってしまいました。当然、彼らは私を始末しようとする。私は、すぐに殺されるわけにはいかないので、彼らの目の届かないところに隠れなければなりませんでした。
彼らは、そう簡単にはKarolidesを殺せないでしょう。仮にも一国の首相です、護衛の数が並ではありませんからね。でも、その護衛が手薄になる時期が、あるんです。そう、彼がこのロンドンを訪れる六月十五日。その日に、彼らは行動に出るでしょう。」
「首相に忠告申し上げたらどうです?」ぼくはごく自然な意見を言った。「彼がギリシャから動かなければいい。」
「そんなことをしたら、敵の思うつぼですよ。」Scudderは自虐的な笑みを見せた。「首相がイギリス行きを断念した時点で、敵の勝ちです。問題の全容を明るみに出す機会は永久に失われ、ヨーロッパは戦争に突き進むでしょうね。」
「イギリス警察に行ってみたらどうでしょう?」一応言ってみる。
「ダメですね。たとえ五百人の警官を動員しても殺人は止められない。実行犯は捕まるかもしれないが、そいつはウィーンやベルリンの政府組織に責任をなすりつけるでしょう。証言に信憑性が無くても、疑心暗鬼にとらわれた今のヨーロッパ各国の人々はそれを信じてしまう。国民の苛立ちは政府を介してさらに大きくなり、それらがぶつかり合った瞬間が、戦争開始です。
でも、この最悪の予想は、六月十五日にこの私がロンドンにいることで、回避できるのです。」
ぼくは、日常離れした話題を持ち込んできた、この奇妙な男に好感を持ち始めていた。彼
にもう一杯ウィスキーを勧めると、一つ根本的な質問をしてみた。
「さっき彼らの目の届かないところに逃げた、と言いましたよね?そうしてあなたは今ロンドンに来ているわけだ。なのに、なぜ、今になってそんなにも敵の危険を警戒しているのですか?」
彼は、ウィスキーをあおると、こう切り出した。
「私は、ここロンドンまで、とても不規則な道順をたどってきました。幾つもの国を経由して___パリ、ハンブルグ、ノルウェー、スコットランドといった具合にね。そして、全ての国で別々の名前を使いました。だから、ロンドンに到着したとき、もう安全だろうと思ったんです。でも、昨日、彼らが未だ私を追跡し続けていることに気づきました。この建物は監視されていて、私の部屋の扉にはカードが___私の最も恐れている男の署名の入ったカードが差し込まれました。
だから、私は、死ぬことにしました。そうすれば、いくら彼らでも追跡を諦めるでしょう。私は私とは全く関係ない男の死体をトランクに詰めて持ち帰り、___手段さえ知っていれば、ロンドンでは割と簡単に手に入ります___私の部屋に放置しておきました。体格も年齢も私に合わせましたが、顔だけはどうにもなりませんので、銃で撃ち抜いた上でね。私の部屋の掃除係の人は、明日にも私の部屋に顔を出すはずです。そして、当然部屋で倒れている私を見つけて警察を呼ぶでしょう。部屋には空のウィスキボトルをたくさん置いてきました。警察は「男は泥酔した上錯乱し、自殺した」と判断するでしょう。」彼は、一瞬間をおいた。鋭い目は揺らぎもせずにこちらを見据えている。
「そして、私は窓の外にあなたが姿を見せるのを待ち続けました。そして、あなたの帰宅と同時に階段を下り、ここに来たのです。」
どんな日常離れした珍妙な話でも、この男の語ったものにはかなわないだろう。しかし、ぼくの経験から言うと、こういった奇妙な話には往々にして真実が含まれているのだった。加えて、この男が単純にぼくを殺して金品を奪う目的で「部屋に入れてくれ。」と言い出したのであれば、今頃ぼくは生きてはいないだろうし、またここまで現実離れした話をし出すようことはしないだろう。
「分かりました、」ぼくはこう切り出した。「今のところは、あなたを信頼しましょう。この部屋は施錠し、鍵はぼくが保管します。単刀直入にいうと__あなたは潔白だと信じてはいますが_もしそうで無かったら、ぼくは銃の腕を披露することになる、ということです。」言い終えると、胸ポケットに手をかけ銃を取り出すしぐさをして見せた。
「それはもちろんですよ、」彼は答えた、と同時にイスを蹴って立ち上がる。「そういえば、私はあなたの名前を知りませんでしたね。まぁそれは問題ではない、とにかく感謝はしていますよ・・・バスルームを貸してもらえますか?」
半刻もたった頃だろうか、バスルームから出てきた男の顔はどう見ても見覚えのないもので、到底バスルームに入っていったのと同じ者だとは思えなかった。面影があるとすれば、鋭い眼光くらいだろうか。あごヒゲは無くなり、髪型も全く変わっていた。そして何より、言葉の言い回しも、話し方もアメリカ人のそれでは無くなっていた。
「Scudderさん・・・」ぼくは少なからず面食らって言った。
「『Scudderさん』ではない。」その男は答えた。「私の名は、Theophilus Digby艦長だ。
以後、見知りおきを。」
ぼくは彼を書斎にあるぼくのベッドに案内し、ぼく自身もリビングで寝ることにした。ここ数ヶ月でもっとも幸せな就寝だった。このロンドンでも、興味深いことは起こるものなのだ。
翌朝、ぼくの部屋の掃除係をしているPaddockが来た。いつもと同じ朝。しかし、一人の男の存在がそれを日常離れしたものに変えている。ぼくは、艦長をPaddockに紹介した。
「この人は軍の高官だが、過労のために休養を余儀なくされ、今はロンドンに来ているんだ。」
ぼくはその日用事があったので、彼ら二人を残して部屋を出た。そうだ、もしもの時のために銀行に預けたお金をおろしてこよう。動き始めた物語の登場人物として、とにかく何かしたかった。
部屋に戻ると、Paddockが話しかけてきた。
「15号室の男性が自殺したようですよ。」
ぼくは最上階に上がり、すでに到着していた警察と二言三言言葉を交わした。
「この部屋の人が自殺したと聞いたのですが・・・?」
「ええ、酒に酔ってね。ふっ、困ったものです。」
Scudderに計画が成功した旨を伝えた。警察は彼が自殺したものだと思いこんでいる。Scudderは厳しい顔をしたままだったが、心なしか喜んでいるようだった。
Scudderがぼくの部屋に来てから、最初の二日間は何事もなく過ぎ去った。彼はとても静かで、いつ見ても本を読んでいるか、何事か書き留めているか、でなければ寝ていた。
しかし、三日が過ぎた頃から、Scudderはだんだんと落ち着きを欠くようになってきた。取り立てて何も起こらなかった___つまり平穏な日常を過ごせていることが、悪い兆候に思えてきたのだろう。彼の成功こそがKarolidesが殺されるのを防ぐ唯一の手段だというのに。ある晩、彼はとても深刻そうに言った。
「聞いてくれ、Hannay、」険しい顔のまま、続ける。「現状について、もう少し話しておきたいと思う。私の計画の引き継ぎ手がいないまま殺されるのは、少々困るからね。」
ぼくは、真剣には聞かなかった。Scudderの冒険談には大いに興味を引かれたが、国際
政治の駆け引きの話は、正直に言ってあまり興味が持てなかったからだ。だからだろうか、彼の語ったことをぼくは完全には覚えていない。覚えていることと言えば、Karolides首相はロンドンで危険な目に遭う可能性が高いこと、そしてScudderはそれを止めようとしていると言うこと。彼はJulia Czechenyiという女性についても言い及んだ。Karolides首相殺害のカギとなるのが、この女性だそうだ。彼はまた、BLACK STONEと言葉に訛りのある男についても語った。そしてまた、彼はもう一人の男についても、こいつこそが最大の危険人物なのだが、若者のような声の、眼球を四方に自在に動かせるという老人についても話した。
次の日、ぼくは知人と夕食を共にした。アフリカでの知り合いで、当時のことを語り合ったりして、それなりに充実した時間を過ごせた。
知人と別れて部屋に戻ると、書斎が真っ暗だった。自分の呼吸が聞こえるほど、静かだった。人の気配がしない。ぼくは、Scudderは少し早めに寝たのだろうと思い、一瞬迷った後、電灯のスイッチをつけた。白色灯の無機質な光が部屋を照らす。全身の血が凍り付いた。
人間の定義を、「遺伝情報を元に組み立てられた有機物の固まり」とするならば、ぼくの書斎には、二人の「人間」がいた。一人は、ぼくだ。スイッチに手をかけたまま硬直している。そして、もう「一人」は・・・・・
Scudderは仰向けになって床に寝ていた。その胸には、ナイフが、深々と突き刺さっていた。
最終更新:2008年11月30日 15:00