イスに腰下ろした。つい数日前にScudderが座ってウィスキーを飲んでいたイスだ。今、そのScudderは床に倒れている。恐らくは、心臓に致命的な傷を負って。じゃあ、次に、そこに倒れるのはぼくか?間違いなくそうなるだろう、このままこのアパートにとどまれば。どこかに逃げなくては、でもどこへ?Scudderはヨーロッパの東の果てからここまで逃げてきたのに、助からなかった。ぼくがアフリカに逃げても多分追いつかれる、連中はどこまででも追ってくる。どこに逃げても助からないじゃないか、いっそ拳銃で自殺するか?しかしそれでは首相殺しが止められない。でもどうせ死んでしまうなら・・・
死体の、青白い顔と、そこだけが生前のままの眼に射すくめられ、ぼくは我に返った。ウィスキーの瓶をとって、直接口にする。口の中は相当に乾いていたらしく、水分が浸透するのが感じられる。死体に見つめられていては落ち着かないので、テーブルクロスを顔に被せた。5月でも気温の低いロンドンでは死体の腐敗も遅い。変色しかかった皮膚が見えなくなると、刺さったナイフさえなければ、酔った男が布をかぶって床でうたた寝をしているように見えただろう。
死体が部屋にあるというのは、生理的に恐ろしさを感じるものだ。ぼくはもっと残虐な死に方をした死体を見たことがあるし、昔戦争に参加したときには、自分で人を殺したこともあったが、今の恐ろしさはそれとは全く別のものだった。
腕時計に目をやると、十時半を回ったところだった。だんだんと数を減らしている窓の外の明かりに目をやりながら、手早く全ての窓とドアを施錠した。
そうしているうちに、思考が明瞭になってきた。脳内の警報は最大音量で鳴り響いていたが、それこそが正常に思考している証だった。もはや、Scudderの話が真実であったということは、疑う余地もない___その証拠はテーブルクロスをかぶって机の下に転がっている。彼の敵は、どういう訳か彼が生きていることに気づき、そして口封じを行ったのだ。そして、彼がぼくの部屋で数日間を過ごしたことが敵に知れたと言うことは、彼がぼくに事件の全容を語った可能性を敵に示唆することになり___つまり、もはや彼の敵は、明確にぼくの敵にもなったのだ。今頃、敵のブラックリストの一番上の欄には、ぼくの名前が掲載されていることだろう。そして、今日か、明日か、それとも数日後かわからないが、確実に「それ」は実行に移されるだろう。
そして、ぼくは別の問題にも気づいた。今や、この問題はぼくの手の上だ。ぼくは今すぐに警察に連絡することも、明日の朝掃除係に死体を見つけさせ、その上で連絡することもできる。でも、警察はどう考えるだろう?ぼくはScudderについて何と説明したらいいだろうか?ぼくはPaddockに一度嘘の説明をしてしまっている。彼に裏を取られたら、ぼくが全部話したとしても、誰も信じようとしないだろう。イギリスには頼れる伝は無いから、警察がぼくを殺人容疑で逮捕しようとするのは明白だ。いや、いっそ逮捕されるのもいいかもしれない。いくら敵が強大でも、刑務所の中にいるぼくには手を出せないだろう。ただ、それだと6月15日に自由に動ける保証が無くなってしまう。それでは生きながらえても意味がない。
もしも、百歩譲って警察がぼくの話を全面的に信用したとしても、ぼくはまだ敵に塩を送っていることになる。警察が事件の全容を知れば、Karolides首相のイギリス来訪は確実に中止になってしまうからだ。
Scudderが死んだことは、彼の話が信じるに足るという他ならない証拠だ。そして、秘密を知る唯一の人間になったぼくは、彼の計画を引き継ぐ責任がある。誠実な首相が殺されるのは見るに耐えないし、ぼくがScudderの代わりになることができれば、殺人は失敗に終わるだろう。
ぼくは6月15日まで姿を隠し続けることを決めた。そして、政治家の誰かとコンタクトを取り、うまく手を回してもらって事件を防ぐのだ。その政治家がぼくの話を信用しないことも考えられたが、それまでにはぼくの話を信用させるための、明確な証拠が見つかっているかもしれない。たぶん、これが最上の手だてだろう。
ぼくは、Scudderがもっと詳細な話を語っていてくれれば、ぼくがもう少し真面目に彼の話を聞いていれば、と悔やんだ。しかし、一瞬後には思い直す。後悔している時間はない。今、この瞬間も、ぼくは敵に狙われているのだ。
今日の日付は5月の24日。6月15日まで20日近く隠れ続けなくてはならない。ぼくは今、二つの脅威にさらされている__一つ目は、言わずと知れたScudderの敵、そしてもう一つは警察だ。敵は全力でぼくを始末しにくるだろうし、警察は殺人容疑でぼくを指名手配するだろう。
これからの3週間が厳しい逃避行になることは目に見えていた。でも、自分でも驚いたことに、ぼくは今の状況に満足感すら覚えていた。ぼくは、もともと、一カ所に腰を据えて何かをするのは好きではない。だから、今感じているような緊迫感は心地よく思うのだ。そして、何より、戦況は膠着状態で、まだまだ悪くはなっていない。緊張感を楽しめるレベルだった。
ぼくは、Scudderが何か情報を書き残していないかと、部屋の中を探し回った。無論、彼の死体はテーブルクロスを被せて放置したままである。ふとした瞬間に目に入ってしまうそれは、不気味さとともに奮い立たせるような何かを放っていた。「彼の後を任されたんだ」という気になるのだ。書斎の引き出しを探り、本のページの間をも確認し、あらかた探し終えたと思ったぼくは、Scudderがメモを身につけている可能性に思い当たった。事件に関わる情報が書かれているならば、その可能性は高い。問題は、メモを探すには死体を探らなくてはならないという点だった。少し迷った後、ぼくは意を決してScudderの顔に被せたテーブルクロスに手をかけた。
ほんの少しの小銭と記入済みの部分が破り取られたメモ帳。見つかったのはたったこれだけだった。恐らく、殺人の実行犯が持ち去ったに違いない。
死体から視線を上げると、食器棚の戸が開け放されていることに気がついた。Scudderは几帳面で、常に自分の周りを小ぎれいにしていた。敵の一味が何かを探して、荒らし回ったのだろう__おそらくはScudderのメモ帳を探して。部屋の中を見て回ると、他にも探られたと思しき箇所はたくさんあった。衣装ダンスの中、棚の下、果てはぼくの衣類のポケットの中まで。今ぼくが見つけたメモ帳は破りとられた形跡があるから、敵も最後にはこのメモ帳にたどり着いたのだろう。
ぼくは、イギリスの地図を取り出した。ぼくの計画の概要は、簡単に入国できる外国に脱出することだ。ぼくはアフリカに行こうかとも思ったが、ぼくがアフリカにいたことはもう敵に知られているだろう。先回りの危険性があった。それ以外だと、スコットランドは良い選択肢に思えた。ぼくの家族はスコットランドの出身で、ぼくもスコットランド人になりすますことが簡単にできるからだ。ドイツ人旅行客のふりをするのもいい。ぼくの父にはドイツ人の同僚がいて、ぼくも子供の頃に、その人とドイツ語で話したことがある。
いろいろ考えたが、移動の手間と安全性を考えると、スコットランドが一番良いように思えた。
そうと決まると、早速時刻表を取り出してロンドンからスコットランド方面への電車を確認した。逃げ場のない電車の中で一晩過ごすのは不用心だから、一日でたどり着く方がいいだろう。7時10分発がちょうど良い。早朝に出発して、午後遅くにはGallowayに到着する。
問題は、この部屋から駅までの道のりだった。Scudderの敵は確実にこのマンションを見張っているだろう。ふつうに部屋を出て駅に行ったのでは、後をつけられて、最後には捕まってしまう。ぼくは、これに関しては良い考えがあったので、数時間仮眠をとることにした。
鳥の鳴き声で目を覚ますと、寝過ごしたのではないか、と一瞬不安になったがどうやら杞憂だったらしい。まだ早朝4時だった。ようやく上ってきた朝日がカーテンの隙間から射し込んできている。ぼくは、たまにトレッキングをするときに使う、古い外套とブーツを身につけた。防虫剤のにおいが鼻につく以外は、何も問題ない。替えのシャツを鞄に詰め込み、どうしても入らなかった洗面用具をサイドポケットに押し入れる。おろしてきたお金の存在がとてもありがたい。「駅に行く前に銀行に」などという悠長なことは言っていられなくなったからだ。ぼくの全財産を、いくらかずつに分けて鞄のあちこちや服のポケットに詰め込む。さらに、脱出の下準備として、ぼくは口ひげをかみそりで剃り落とした。
普段、毎朝ぼくの部屋に来る人が二人いる。一人は掃除係で、こいつが来るのはだいたい7時30分くらいだ。そして、その前に一人、牛乳の配達員がくる。口ひげを短く剃った若い男だ。彼の牛乳瓶をぶつかり合わせる音で、いつもは目が覚める。
この配達員になりすまして外に出るのが、ぼくの考えだった。つまり、すぐに動き出したくても、待つこと以外何もできない。とりあえずはウィスキーとビスケットを朝食代わりに食べてみる。6時になった。配達員は、来ない。いつもくるのは6時40分といったところだから、まぁ普通だろう。たばこを吸ってみることにした。入れ物に手を入れると中は空だった。しまった、もう切らしていたか、とそこの方を探ると、堅いものにふれた感触があった。取り出すと、果たしてそれは、Scudderの黒いノートだった。内容は__
破られても消されてもおらず、書かれたままだ。
これは、Scudderからぼくへの手向けかもしれない。「ぼくはここを離れる」ぼくは言った。死体から答えは返らない。「やれるだけのことはやってみるさ。せいぜい健闘を祈っていてくれ。」時刻は6時30分になった。そろそろ配達員が来てもおかしくない。ぼくは荷物を持って玄関ホールに立つと、外の様子を窺った。
7時46分。さんざんぼくを焦らした末に、やつは来た。やり場のない動揺をぶつけるようにして、ぼくは扉を思い切り開いた。思ったより音は出なかったが、配達員は驚いた顔でこっちを見た。「えっと…?」「ちょっといいですか?」ぼくは返事を聞く前に配達員を部屋に引き込んだ。
「突然で申し訳ない。ぼくは今、ある人と賭をしているんだ。そして、勝つためには、君の協力が必要なんだ。仕事中?いや、問題ない、すぐに終わる。君のそのコートと帽子を貸してくれればいい。そして、君はこの部屋でほんの数分間待って、その後仕事に戻ればいいんだ。コートと帽子はどうするのか?ああ、それならそれ相応のお金を払おう。ほら、これだけあれば会社から弁償させられてもお釣りがくるだろう__よし、交渉成立だ。協力感謝する」
よくこれだけの出任せが口をついて出てきたものだ。でも、首尾良く道具は揃った。ぼくは配達員の仕事着を身につけると、空の瓶を抱えて部屋を出た。口笛なんか吹いているのは仕様、というかこれが王道だから仕方ない。
通りには、誰もいなかった。心配しすぎだったか?と思ったが、前から男が一人歩いてきた。一瞬視線を絡ましてきたが、すぐに通り過ぎる。振り向いてみると、ぼくの部屋の窓を注視している。
口笛を吹き続けながら通りを渡る。しばらく歩きながら周囲を確認し、細い路地に飛び込んだ。牛乳配達員の服と帽子、空の瓶を放棄した。誰かが見つけても、そのころにはぼくはもうスコットランドにいるだろう。ふと時計を見ると、7時を指していた。
最終更新:2020年07月20日 17:53