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切符も買わずに電車に駆け込み乗車をしたのは初めてだ。たまたま空席があって座れなかったら心臓が爆発して死んでいたのではないか、と思うほど息が上がっていた。
ともあれ、逃避行の最初の一歩はうまくいったのだ。5月の陽光は強すぎず、かといって寒いほどでもなく、心地よかった。窓を流れる景色は田舎の原風景、といった感じで、なぜぼくはこんなことに巻き込まれるまでロンドンにいたのだろう、と後悔したくなるほどだった。車内販売が回ってきたので昼食代わりにサンドイッチを買った。こういうところで食べ物を買うと値段の割に味が悪いのだが、この景色の中で食事をとれることを考えれば安いもののように思えてきた。一つ手にとって口に運ぶ。やはり味には閉口させられた。
 食べ終わると、Scudderのノートを取りだしてみる。表紙も裏表紙も真っ黒なそれは、「これは死神のノートです」と書いてあれば信じたくなるような外観をしていた。ページをめくってみる。文字がぎっしりと紙を埋め尽くしていた。書かれているのは、ほとんどが数字だったが、時々人名のような単語が出てきた。たとえば、「Hofgaard」「Luneville」、「Avocado」等々。一番多く出てきた単語は「Pavia」だった。
 Scudderが暗号を使っているのは明白だった。ぼくは暗号には興味があったので、少しばかり暗号化に関する知識はあった。その知識から言うと、どうやらこの暗号は置換式の暗号らしい。無数の数字が、文字に置き換わる。そして、その置き換えの規則性を示すのが随所にちりばめられた単語なのだ。
 ぼくは、小一時間単語や数字の群れの前で頭を悩ませたが、成果は上がらなかった。いい加減知恵熱でも出そうになったところで、ぼくは自分がほとんど寝ていないことを思い出し、うたた寝を始めた。景色は流れ、目が覚めたのはGallowayへの乗り換えをする駅だった。
 危うく寝過ごしそうになって飛び降りたDumfries駅のホームには、驚いたことに、ぼくを見張っているらしい男がいた。ぼくは、人混みに紛れてやり過ごすことにした。電車から降りて、他の客に混じって改札口に向かった。男は客の集団を品定めでもするように凝視している。一歩ずつ、挙動不審になっていないかと細心の注意を払いながら移動する。通り過ぎるとき、男がぼくの方を注視しているような錯覚を覚えたが、その視線はぼくではなく、豚をつれた農夫に注がれていたらしい。無事に通り過ぎることができた。ふと、ガラスに映った自分の姿が視界に入る。古ぼけた服を身につけていたおかげで、ぼくは見つからずにすんだらしい。今のぼくはどこからどう見ても農夫にしか見えなかった。
 電車を乗り換えると、先ほどの農夫の集団と乗り合わせになった。端から見るとぼくもその一人の様に見えるのだろうか。電車は谷底を通り、しばらく進むと開けた場所に出た。銀色の水面をわずかに波立たせている湖が見える。さらに遠くに目をやると、ほとんどかすんで見えないほど向こうに山脈が見えた。田舎を通り越して、辺境と言われるような場所に来たのだという実感が急に沸いてきて、ぼくは少しばかり落ち着かない気分になった。
 いくつかの駅に止まり、時刻が5時を回ると、車両に残っているのはぼく一人になった。そこで、ぼくは次に停車した駅で降りることに決めた。春とはいえ、5時を回ればもう夕焼け空だ。荒れ野の所々の起伏が、夕日に差されてあかね色に染まっている。電車はその中程に位置する駅のホームに滑り込んだ。ぼくは、席を立った。
 ホームに降りると、昼間の暖かさはわずかに残るばかりになっていた。顔に当たる風が冷たい。無意識に、外套の襟を立てる。視線を前方遠くにとばすと、ホーム脇の畑を手入れしている老人が目に入った。どうやら彼はこの駅の駅員らしい。電車の車掌から小包を受け取ると、自分の芋畑に戻っていった。切符の回収をしていたのは10才くらいの少年だった。ぼくが切符を渡すと、元気の良い「ありがとうございました」が返ってきた。ぼくは、駅を出てろくに舗装されていない道に踏み出した。
 幻想的で、澄んだ春の夜だった。街灯のほのかな光が道を照らしている。ぼくは、少年時代の、遠出して家に急いだ時のことを思い出し、少し幸せな気分になって我知らずほほえんだ。だが、すぐに今ここにいるのは37の、家すら無い指名手配中の男だという事を思い出した。ほほえみは自嘲に変わる。だが、悪い気分ではなかった。口笛を吹きながら、道をまっすぐに進んで行く。
 しばらく歩いているうちに、小川に出くわした。元々計画があって歩いているわけではない。小川に沿って歩いてみることにした。
 遠くに民家のものと思しき光が見えてきた頃には、足が棒を通り越して、鉄筋でも埋め込まれたかのようになっていた。ともかく、一刻も早く休みたかった。
 民家には女性が住んでいた。ぼくが自分は旅人で、今夜の宿を探していると言うと、快く休ませてくれた。さらに、夕食まで提供してくれた。ここ最近ろくなものを食べてなかったぼくには、それが宮廷料理の様に感じられた。
 しばらくすると、女性の夫だという男性が帰ってきた。近くの丘で仕事をしていたそうだ。3人で食卓を囲む。ぼくは、まずは食事と、宿のお礼を述べた。鷹揚な「いえいえ」という返事。どこへ行っても大人の最大の懸念事項は経済のようで、その方面で話題が盛り上がった。
「最近の肉類の値上がりはすごいですね。」
「ええ、おかげでうちは助かっていますよ。ざっと通常の3倍ですからねぇ。」
ぼくは、後々役立つことがあるかも知れないと思い、耳に入ってきた情報を聞き逃すまいとした。10時には就寝する。ベッドは布が堅かったが、久しぶりにゆっくり寝られる喜びの方が勝り、ぼくは眠りに落ちた。
 窓から射し込む朝日で目を覚ます。一瞬、部屋の構造の変化に、「異世界にとばされたか?」という寝起き特有の思考が発動したが、すぐに逃避行の最中であることを思い出し、ほっとするような、義務を再認識させられたような、複雑な気分を味わった。ともかくも、朝だ。
 親切な夫婦は、これくらいなんてことないですよ、と全くお金を請求しなかった。その上、朝食をとらしてくれた。素晴らしい善人ぶりだが、ぼくは少なからず恐縮した。
 厚くお礼を言ってから民家を後にする。昨日と変わらない陽光が小川を煌めかせている。ぼくは、昨日とは別の駅からDumfriesに戻るつもりだった。つまり、ロンドンからDumfriesへ、電車を乗り換えて今いる田舎へ、そこから近隣の別の駅を経て再びDumfriesへ、という道順だ。一見無駄に見えるこの動作だが、実は意味がある。おそらく、近いうちにぼくがここの駅で電車を降りたことは警察に知られるだろう。彼らは、ぼくがそこからスコットランド東海岸に向かうと予想する。東海岸からなら、海外に脱出できるからだ。でも、実際にはぼくはDumfriesに逆戻りしている、という寸法である。
 暖かい日差しの下、ぼくは凶悪なグループや警察に追われているとはとても思えないほど陽気な気分になって歩いていった。
 しばらく歩いていると、小さな駅にたどり着いた。周りに民家はなく、単線の駅。ぼくの計画を実行する上で完璧だ。ぼくは、あたりをぶらつきながら、遠くに電車が見えるのを待った。
 あわてて電車に駆け込むと、心臓が思いだしたように早鐘を打ち始めた。本当に危なかった。危うく、また切符を買わずに電車に駆け込む羽目になるところだった。いや、事実駆け込んではいるか・・・。手にしたDumfries行きの切符を握りしめていた。
 車両にいたのは、毛の長い、羊のような犬をつれた男一人だった。いびきをかかんばかりに豪快に眠っていて、その隣には新聞が置かれている。ぼくは、ぼくのことがニュースになっているかも知れない、と思い、その新聞を手に取ってみた。
 記事はかなり小さく、3面に載っていた。警察は、ぼくがどんな秘密を握っているかも知らず、単なる殺人事件として捜査しているらしい。掃除係のPaddockが警察に通報し、気の毒なことに、ぼくの身代わりになった牛乳配達員が逮捕されたらしい。無実は証明されたものの、配達員は一日の大半を警察署で過ごすことになった。警察はぼくがロンドンから北方に逃げたことにすでに気づき、捜査を進めている。たぶん、明日にもあのお世話になった民家にも捜査の手は及ぶだろう。あの人の良い夫婦に迷惑をかけるのは気が引けたが、ぼくにはどうすることもできない。せめて、大事に至らないように祈るばかりである。
 新聞から目を上げて窓の外を見やると、昨日おりた駅に停車していることに気づいた。3人の男が、芋畑の老人に話しかけている。一人はなにやらメモを取っていた。たぶん、このあたりの管轄の警察官だろう。ぼくは空席に身を隠した。しばらくすると、話し終えたのか、警察官たちが昨日辿った道を進んでいくのが見えた。
 電車がホームから滑り出すと、寝ていた男が目を覚まし、ぼくを見て、ここがどこか尋ねた。それにしてもこの男、どうやら泥酔している。
「俺がこんな風なのは、酒を飲んでないからなんだよ」悲しそうに言う。「俺は、去年からウィスキーの瓶に指一本ふれてねえだよ。クリスマスもさ。だから、こんな風に頭痛がするのさ。」
「意味不明だな」と口走りたくなるのを我慢して、「何でまた、そんな状態に?」と聞いてみた。もちろん、まともな返事が返ってくるとは期待していない。
「ブランデーってのを飲んだのさ。酒はもうやめたから、ウィスキーとは縁を切っただよ。
 だけぇが、ブランデーなら、ってさぁ。もう2週間もこんな調子なんだよ。辛いこんだやぁ。」
男の声はどんどん不明瞭になり、最後には聞き取れなくなった。眠ってしまったようだ。
 ぼくは、このまま駅まで電車に乗り続け、そこで電車を降りるつもりだった。しかし、
さっきの駅に警察がいたことを考えると、それは危険性が大きい気がしてきた。警察の出
足は思ったより早い。
 電車は、信号待ちなのか、川の手前で停車している。ぼくは、ここで電車から飛び降りることにした。
 窓から顔を出し、あたりを見渡す。一面が姿を隠せそうな背の高い草で覆われた草原だ。見える範囲には、誰もいなかった。車内に視線を戻すと、さっきの男は相変わらず眠り続けている。こっちを見ているのは羊のような犬だけだ。ぼくは、一瞬で窓枠を乗り越えると、地面に身を投げた。思ったより衝撃があったが、怪我をするほどではなかった。服の汚れは後で払えばいい。素早く草むらに身を隠そうとした。
「うぉぉぉぉぉぉおおおおおおン」
すさまじい鳴き声を後ろから浴びせられ、ぼくは身をすくませた。見ると、さっきの犬が窓から身を乗り出してぼくの方を向いている。今のほえ声で、さっきの酔っ払いも目覚めていた。別の車両の方にも目をやると、車掌やほかの乗客たちも、こちらを見ているようだった。自殺したとでも思ったのだろうか?ぼくは生き延びるためにこうしているのに、皮肉な話だ。ともかく、一刻も早くここから離れるべきなのは明白だった。
 100メートルほど草むらをかき分けながら走ったところで、足を止めて電車の方を確認した。追ってこられたら非常に困る。しかし、どうやら電車の乗客も係員もぼくに構っている余裕は無くなったようだった。さっきの犬が、よほど興奮したのか窓を飛び出そうとしている。その首輪の先には鎖があり、その鎖は飼い主の酔っ払いにつながっていて・・・
 酔っ払いの男が電車から落ちそうになるのを、駆け付けた乗客や車掌が必死で止めていた。ぼくは、これを好機に遁走することにした。
 周りに全く人がいない荒れ野の真ん中にたどりついた。相変わらず丈高の草があたりを
覆いつくしていたが、ところどころに針葉樹や岩場も見られる。かすかに水の音が聞こえ
る。近くに川があるのかもしれない。あの沿線の川の上流だろうか。
 ぼくは、急にScudderの敵の存在に恐れを抱き始めた。今までは、突然襲われても、最悪の場合周りに助けを求めることができた。でも、今はそういうわけにはいかない。ここでぼくが銃で撃たれて死んでも、気づく人はいないだろう。
 小高い丘に上がり、周りを見渡してみる。周りにはやはり、空と、草木と、岩場しか・・・。いや、違った。調和のとれた風景画に影を落としこむ物が。
 南の方に見えた点は、はじめは豆粒ほどの大きさだったが、近づくにつれて徐々に形を成していった。飛来するそれは、小型機だった。それも、明らかに個人用の。
 こんなタイミングで、どこかの金持ちが飛行機をチャーターして上空からこの荒野を見物に来たのだったら、それは出来すぎたジョークか皮肉だ。ぼくには、その飛行機がぼくを追ってきた敵のものにしか思えなかった。草むらに伏せて視線だけ上空に向ける。草に直接触れた皮膚はかゆくなり、土のにおいがするが、今は我慢だ。
 思ったとおり、飛行機はぼくの上空を旋回し始めた。パイロットのほかに観測士がいて、地面をくまなくチェックしているに違いない。しかし、今ぼくは草によって上の方からの視界が完全に遮蔽されている。よほど運が悪くない限り見つかることはないだろう。
 1、2時間たったころだろうか。土の冷たさと居心地の悪さが限界に達する寸前で、飛行機は南へ飛び去って行った。ぼくは、草むらからはい出すと、全身にこびりついた土を払った。
 荒れ野を歩き続けると、草はまばらになり、代わりに背の高い木が多くなってきた。あかね色の空と木々の黒い影がグラデーションを描いている。時計を見ると、午後6時を指していた。ぼくは少し足を速めることにした。
 橋があり、そばには家がある。橋の上には若い男がいて、座り込んでたばこを吸いながら本を読んでいた。熱中しているらしく、なにやら一心不乱な様子である。ぼくが近寄ると、足音に驚いたのか、本を取り落としそうになっていた。人懐こそうな顔がこっちを見る。
「こんばんは、」落ち着いた声で男が言った。「ここまで歩いてこられたのですか?歩くには悪くない時間帯ですね。」
食事のにおいが建物から伝わってきた。
「あの建物は宿泊施設ですか?」聞いてみる。野外で寝るのは遠慮したかった。
「ええ、もちろんです。僕が支配人なんですよ。泊って行っていただければ幸いです。こんなところを誰かが訪れることは滅多にないんですよ。」
ぼくは、男の隣に腰をおろしてパイプを取り出した。吸いながら、この男はぼくの助けになるかもしれないと考える。
「あなたは、その若さで支配人をしているんですか?」
「この旅館は、前は父のものだったんです。でも、去年父が他界しました。だから、今の支配人は僕ということになりますね。僕は、本を書いていて、その片手間に旅館経営もしているんです。」
「いい選択をしましたね。旅館経営をしていれば、客から本のネタになりそうな話を聞けるでしょう?」
「実は、そうでもないんです。」男が言った。
「さっきも言いましたが、このあたりに人が来ることは珍しいですから。200年も前にはこのあたりは栄えた町だったのですが・・・いまは小さな漁村です。この旅館はそこからも離れていますからね。
 僕は、アフリカに渡って、川をさかのぼり、インディアンの村に住みたいと思っているんです。そして、彼らのことを本にしたいとも。」
 西日に包まれた建物は、サスペンス紛いのぼくのたどってきた道筋とは縁遠い、安全を体現したような場所に見えた。
「ぼくは、実は少しばかりそういった冒険をしたことがあるのですが、」ぼくは言った。
「最後にはこういう静かな場所に住みたくなりましたよ。そして、あなたは今、その静かで安全な場所に住んでいますが、実は冒険はあなたのすぐ隣に座っているんです。
あなたに、ひとつ話をしようと思います。もし気に入ったのなら、それを本にしてくれて構いません。」
ぼくは、若い支配人に今ぼくが置かれた状況を、かなり婉曲、改変して語った。
「ぼくは、友人とともにアフリカで金の取引をしていました。その時、たまたま国際的に暗躍している盗賊団の存在を知ってしまったんです。砂漠を越え、船に飛び乗ってぼくたちはイギリスまで逃げ帰ってきましたが、彼らは、秘密を知ったぼくたちを追ってきました。そして、ぼくの友人はそこで殺されてしまったのです。」
こう締めくくる。
「あなたは、冒険譚が聞きたいと言っていましたね?これが、たぶんあなたの求めるものです。今もぼくは盗賊団に追われていて、警察は盗賊団を追っています。」
「それはすごい!」
聞き終えると、支配人はささやくように言った。
「あなたは、ぼくを信じてくれるのですね?」
ぼくは、まさか信じられるとは思っていなかったので、少なからず驚いて言った。
「もちろんです。」支配人が言う。
「僕は、どんな奇妙な話でも信じますよ。信じられないようなことは、日常普通に起こりますからね。」
彼は若かったが、ぼくは彼のような人間をまさに必要としていた。
「恐らく、いまぼくの敵はぼくを見失っています。あくまでも、『今は』ですが。ぼくは、時間を稼ぐと共に束の間の休息を持ちたいと思っているんです。協力してもらえますか?」
 彼は、飛び上るように立ち上がると、ぼくを建物に案内してくれた。
「ここなら、安全です。__僕は、秘密を守りますから、もう少し、あなたの冒険談を語ってもらえませんか?」
旅館に入ってしばらくすると、屋外からエンジン特有の重低音が伝わってきた。西の空に、ついさっきまでさんざんぼくを苦しめたあの飛行機が飛んでいくのが見えた。
 支配人は、ぼくに建物の裏側に位置する部屋を都合してくれた。ぼくは、彼に自動車や飛行機に気をつけるように言うと、自分はScudderのノートに目を通し始めた。前に見た時と同じように、数字と単語の羅列__配列変換式の暗号が目に飛び込んできた。
 一般に、配列変換式の暗号は、カギとなる単語をもとに解読していく。ぼくは、たくさんの言葉をこのカギとして試してみたが、どれも望み薄に思えた。辞書の単語を一つずつ試しでもしない限り、こんな暗号が解けるはずがない、とまで感じられた。
 ある日の午後、ふとしたことから、Scudderの言葉の一つを思い出した。
「Julia Czechenyiこそが首相殺害へ至るカギとなる人物だ。」
「重要人物」という意味での「カギ」と、暗号を解く「カギ」。言葉遊びのつもりで、ぼくはこの名前を数字の列に当てはめてみた。

12-A、25-B、381-C、4835-D、273-E、227・・・・446-Z

全てが符合した。
そこから30分、ぼくはノートに向かい続けた。我知らず、手がふるえ始めた。顔が蒼白になっていくのが分かった。
 突然、屋外から自動車の停車音が聞こえてきた。擦過音__急停車したのだろうか。
 10分ほどたった後、ぼくの若い友人が部屋に走り込んできた。目の光かたからして、高揚しているようだ。
「二人の男があなたを捜しています、」彼は囁いた。
「その二人は今、下階でコーヒーを飲んでいます。彼らは、巧妙にもあなたを発見したんです。彼らには、『その男なら、昨日までここに泊まっていましたが、今はもういません』と言ってあります。」
 ぼくは、二人の男についてより詳しい説明を受けた。一人はやせ形で沈み込むような色の目、もう一人はいつも笑顔で、舌足らずな口調だそうだ。大の男が舌足らず、というのもどうかと思ったが、商売柄それも武器になるのかもしれない。そして、彼らはどちらも英語で話していたらしい。
 ぼくは、紙切れを適当な大きさに破くと、ドイツ語で書き入れ始めた。メモの切れ端に見えるように工夫しながら。
「・・・Black Stone。Scudderはこの存在を認識。2週間に渡り、目立った行動取らず(取れず?)。Karolidesが計画の全容を知らない以上、彼の行動は最善とはいえない。もしT氏の助けが得られれば、ぼくは最善を尽くせる。」
 3分後、車の走り出す音が聞こえてきた。カーテンの隙間から、そっとのぞき見る。いかにも業務用、といった感じの車には、二人の男が乗っていた。一人はやせていて、もう一人は年相応に太っていた。ぼくは、奴らがぼくを追っていたんだ、と確信した。
 若い支配人が戻ってきて言った。彼は、とても高揚していた。
「あの紙切れは、彼らに効果てきめんだったようですよ。」嬉しそうに言う。
「痩せた方は青ざめて、太った方は口笛を吹いて手をたたきました。その後、奴ら、すごい勢いでここを飛び出して行きましたよ。」
「うまくいったようですね。それでは、あなたにしてもらいたいことを言います。」
ぼくは少し考えながら言った。
「警察署に行って、さっきの二人について説明してください。・・・そうですね、『ロンドンでの殺人事件に関与している疑いがある』で良いでしょう。たぶん、あの二人は明日にはここに戻ってきて、ぼくに関して何か情報を探そうとするでしょう。そのときに警察と鉢合わせさせる、という具合に行きましょう。」
 翌日の午前8時頃、窓から外を見ていると、警察官が旅館の建物に到着するのが見えた。警察官は、車を旅館の裏手に隠すと屋内に入った。20分ほどの後、もう一台の自動車が旅館に近づいてきた。今度は正面には駐車せず、200メートルほど離れた場所の、木々の間に車を止めると、中の二人の男が歩き始めた。
 ぼくの当初の計画ではこの部屋のどこかに隠れて、警察官が二人組を捕まえるのを待つ予定だったが、二人組が車を遠くに止めてきたことでよりよい対応がとれるようになった。ぼくは、旅館の若い支配人に感謝の手紙を書き置くと、窓を開けて地面に飛び降りた。止まった電車から飛び降りるよりは衝撃があったが、耐えられないほどではない。旅館に気を配りながら、少しずつ遠ざかり・・・一気に200メートルの距離を走りきった。40近い体には少々堪えた。走った勢いのまま車に飛び込むと、アクセルを踏み込んで木漏れ日の射す道を疾走した。

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最終更新:2008年11月30日 15:13