敵から奪った車で荒野を疾駆する。巻き上げる砂煙といい、飛び散る砂利といい、どこかの映画の主人公にでもなった気分である。そして、そのような映画の主人公がカーチェイスのように車を飛ばすときは、大抵何かに追われて緊張を張りつめさせられた状態だ。ぼくも、その例に洩れなかった。警察や、もしくは敵が後ろから追って来はしないかと、肩越しに何度も背後を窺う。タイヤの後塵と地平線に消える一本道以外、取り立てて見えるものはなかった。
そんな風に敵の影におびえながらも、ぼくはScudderの残したノートについても考えていた。
Scudderが生前にぼくに語ったことは、全て嘘で固めた作り話だった。東南ヨーロッパに戦争を望む集団がいる、などという話は出鱈目だ。しかし、その虚像の中にも、一握りの真実はあった。
6月15日は、間違いなく重要な日になる。しかし、首相の殺害は脇役に過ぎない。
Scudderのノートは完結してはいなかった。そして、ぼくに理解できない事も書かれていた。たとえば、「Thirty-Nine Steps」という言葉だ。5、6回でてきたが、前後の文脈から意味を推し量ることさえできなかった。最後の一回は特に意味深で__「Thirty-Nine Steps、私はこれを数え上げるであろう。満潮を迎える午後10時17分に。」__正直言って理解不能だった。
「全ての引き金は、一人の聡明なる男の死。」
最初にぼくが知ったのは、戦争が始まることはもはや確定的だということだ。全ては、周到に計画されていた。Karolides首相は確実に殺害される。もう、誰にも止めることはできない。
「避けられぬ戦乱。定められし未来の脅威。」
次にぼくが知ったのは、現状イギリスは戦争に関してほとんど何も準備をしていないということだ。首相が殺害されれば、ヨーロッパは戦争に突き進む。ドイツは、表向きは戦争を起こさないようイギリスと交渉するだろう。しかし、イギリス政府が交渉に全力を注いでいる間に、ドイツ海軍の潜水艦がイギリスのシーレーンを封鎖。イギリスは対外的な行動の一切を封じられる。
「水面下の胎動。そして、戯曲は動き出す。」
ノートには、ヨーロッパの国々の現状についての詳細も書かれていた。新聞社も未だ調べていないようなことだが、フランスとイギリスは戦争に向けた準備を協力して進めることで合意したらしい。フランスとイギリスの軍の司令官たちは、互いに会合を繰り返しているようだ。6月にパリで行われる秘密会議では、イギリス海軍の司令官が、軍備増強の予定について、詳細な計画を発表することになっている。
そして6月15日には、今度はロンドンで秘密会議が行われる。Scudderはこの会議に参加する者の詳細な名前はださなかった。彼らは、その席で軍事情報を交換する。それを敵、つまりBlackStoneは盗みだし、考えられる最悪の手段で使うだろう。 彼らは、ある情報を持っていた。フランス政府の一部の者にとってのみ意味をもつこの情報を、イギリス側はひた隠しにし続ける。そして、その情報は、遠からず敵の手に渡る。
敵は、それを、考えられる最悪の手段で使うだろう。
ぼくは初め、イギリスの首相に手紙を書いて、今の状況を伝えようと考えた。しかし、とすぐに思い直す。ぼくがどんなに詳細に事件について語ったとしても、誰も信じようとはしないだろう。信じさせるためには何かしらの証拠を示す必要がある。だが、それも警察とBlack Stoneの2つの組織から逃げながら証拠探しも行うのが、不可能である以上無理だろう。
ぼくは、田舎道、国道から外れた細い道を選びながら東に車を走らせた。緑の多い丘陵地帯が延々と続き、陽光が車窓から差し込んでくる。世界は、平和そのものだった。少なくとも今は。
でも、ぼくはそれが仮初めのものであるということを知っていた。もし、このまま何も考えずに東へ東へと進み続ければ、いずれはBlack Stoneか警察に見つかるだろう。ぼくは間違いなく、良くて逮捕、運が悪ければ片田舎に男の死体が一つ転がることになる。
いつの間にか、窓に見える景色が町のものになっていた。所々に芋畑が見える。自分が都会を避けて逃避行をしてきたのだから当然なのだろうが、ロンドンの人混みと曇り空になれた目には、田舎町の活気も新鮮に見えた。
ふと前方に目をやると、路肩に警察官がたっているのが見えた。交通整理だろうか?仕事中だろうに、新聞に目を落としている。ずいぶん集中しているらしく、自分が通行のじゃまになっていることにすら気づいていない。ぼくは、ハンドルを切って警察官の脇を走り去ろうとした。
突然、警察官は新聞から目を上げた。軽く驚いたように、ぼくの車を見やる。道路の真ん中まで出ると、ぼくに向かって停止するよう手で合図した。
何か交通規制にふれることでもしてしまっただろうか、と思い、ぼくは車を止めるためにブレーキレバーに脚をかける。脚に体重を乗せて踏み込もうと瞬間、直感した。
この警察官は、新聞でぼくについて読んでいたに違いない。出なければ、他の車が通っていく中でぼくだけが止められるはずがない。多分、ぼくが泊まっていたあの旅館に捜査に訪れた警察官が、周辺の地方警察に連絡したのだろう。
ブレーキレバーにかけそうになっていた体重を、逆のアクセルに落とし込む。車のエンジンはうなりを上げ、タイヤは地面を蹴った。突然速度を上げた車を見て、警察官は反射的に、側転の要領で回避行動をとる。ぼくは、地面を転がった警察官を後目に、さらに速度を上げ、すぐに町を抜けた。
町に至る太い道は、敵にも警察にも見つかりやすく、危険きわまりなかった。警察は、ぼくが思っていたよりずっと迅速に動いていた。たぶん、Black Stoneは、それに輪をかけて速く、ぼくを追ってきているだろう。脇道を見つけると、ぼくは車をそちらに滑り込ませた。細い路地は入り組んでいて、人通りも少ない。そう簡単には見つからないはずだ。
ぼくは、車を盗んで逃げてきたことを後悔した。これだは、敵や警察にぼくの居場所を教えるようなものだ。車を盗まれた敵はもちろん、警察もこの車にぼくが乗っていることを知っているだろう。だから、ぼくが何らかの理由__たとえばガソリン切れ__でこの車を放棄することになって、それが発見されれば、そこから徒歩で動ける範囲にぼくがいることになる。車種や特徴が知られてしまった以上、車から降りて歩きでの移動に切り替えたかったが、もはやそれはできないのだ。
永遠に続くかのように思われた丘陵地帯も、いつの間にか過ぎ去り、あたりは一面荒野に様変わりしていた。地面を滑るようだったタイヤの感触も、舗装されていない道路特有の振動を含み始めている。ぼくは、今更になって朝から何も食べていないことを思い出した。途端に耐え難い空腹が襲いかかってくる。先ほどの町で警察に見つからなければ、とぼくは筋違いの悔恨を抱いた。
荒野を走る車のエンジン音に、瞬間、全く別の駆動音が差し込まれた。後方をバックミラーで確認する。鏡に映ったそれは、輪郭線がおぼろげではあったが、たしかに飛行機の形をしていた。言うまでもなく、追っ手のものだろう。
ガソリンメーターはすでに0に近くなっていたが、構って入られなかった。アクセルを力任せに踏み込む。遮蔽物のある町中とは違い、駆動系のスペックをフルに生かしたすばらしい加速が行われ、車窓の景色がすさまじい勢いで流れさる。やがて森林地帯に入り、上空からの視界が遮られた。これで、航空機での追跡は不可能になったはずだ。
神は見捨ててはいなかった。ただし、ぼくを、ではなく敵を、だ。突然、T字路の右側から、車が飛び出してきた。恐らく、この車は、たまたまぼくを探してこの近くを走っていたのだろう。でなければ飛行機と同じ早さで自動車が展開できるはずがない。ぼくに残された選択肢は一つだった。
相手も突然の邂逅に驚いたのか、T字のぼくからみて右から左に走りすぎ、急ブレーキをかける。その隙に、ぼくは、敵が来た方向の道に車を走り込ませた。道路とタイヤが摩擦される甲高い音が上がり、サスペンションが悲鳴を上げる。次の瞬間には、ぼくの車は角を曲がりきり、勢いを取り戻して疾走した。
ぼくは、どうやら運に見放されたらしい。どこもかしこも起伏だらけの不整地を走っていたから、車が上下に揺れ動くのは仕方がない。しかし、スキージャンプのように大きく跳ね上がるのはどうしたものだろうか。しかも、丁度崖に面したカーブの前で。
地を蹴って跳ね上がった車体は、崖にそり出した木の枝をぶち抜いて、空へと飛び出した。タイヤが空を切り、取れかかっていたサイドミラーが完全に分離する。慣性に引きずられてしばらく直進を続けた車だったが、やがて勢いを失い、崖下に向けてまっすぐに落下していった。切り立った断崖に、衝突音が反響し、やがて、林に静寂が戻る。
落下していく車が谷底に消えるのが、ぼくが飛び移った木の枝からでもはっきり見えた。本当に危ないところだった。ちょうど良いところに枝が飛び出していなかったら、そして車がオープンカーでなかったら、ぼくは今頃谷底だっただろう。
突然、誰かがぼくの手を引っ張って、枝からがけの上に引き上げた。一瞬追っ手かと思ったが、どうやら、違うらしい。消え入りそうな声で、「申し訳ないです、けがはありませんか?」と尋ねてきた。若い男の声だ。ぼくは、状況を理解した。
さっきT字路でぼくの前を横切っていったあの車は、どうやらこの男のものだったらしい。ぼくはそれを勝手に敵のものだと判断して、不整地を飛ばし、ついには崖から飛び出しかけたと言うわけだ。完全にぼくの勘違いだった。
「大丈夫です、こちらこそすみません。」ぼくは少し考えながら言った。ぼくがあのような事故に至った理由をなんと言ってこの男に説明したらいいだろう?しばらく考えたが、結局はありふれた事故を装うことにした。一応偽名を使っておくことにする。
「申し遅れました、ぼくはTwisdonといいます。連休をとってドライブをしていたのですが、まさかこんなことになるとは・・・。この事故で休みは終わりになってしまいましたが、まぁ人生の終わりになるよりはずっとましですよ。」
男は、腕時計に目をやると、早口で言った。
「実を言うと、少し急いでいるんですが、私の家はすぐ近くです。寝床と食べ物位しか提供できませんが、無いよりはましでしょう。もし車の都合が着かないようなら、滞在していただいて構いません。」
ずいぶんと気の利いた男である。ぼくは、お言葉に甘えて、と承諾した。二人で車に乗り込むと、さっきまでぼくが走っていた道を逆戻りし始めた。やがて、民家らしい家が見え、男はその前で車を止める。そして、先ほどの言葉通り、あり合わせではあったが食事を提供してくれた。
「ところで、あなたの荷物は崖の下ですよね。どうしましょうか?」
車を走らせながら男が言う。まさか、あの車は盗んだものでぼくは逃亡中の身だから、荷物の心配はありませんよ、などと言うわけにはいかない。
「貴重品は全て身につけているので、心配いりません」ぼくは言った。
「オーストラリアから長旅をしてきたんです。とても大きな荷物は持ち歩けませんよ。」
「オーストラリアから!?それは素晴らしい!私は、いま選挙に立候補していて、今晩元オーストラリア首相のCrumpleton氏に協力してもらって会議でスピーチを行うことになっているんです。でも、今朝になって彼が病気で欠席することが分かりまして・・・。
私一人で40分間のスピーチをする事になってしまったんですよ。でも、私はオーストラリアについてはほとんど何も知らないから、元首相の替わりになるようなスピーチをすることはできません。ここで、物は相談です、Twisdonさん、会議で私の代わりに、数分間オーストラリアについて話していただけませんか?」
ぼくは内心、オーストラリアから来た、と言ったことを後悔した。だが、ここで話すことを渋ったら不審に思われるだろう。事故から救ってくれた人をだますような形になったのは心苦しいが、警戒する必要があった以上仕方ない。それに、何より、今のぼくはこの男の助けが必要だった。
「いいでしょう。」ぼくは言った。
「ぼくはあまり話し上手ではありませんが、少しだけなら助けになれるかもしれません。」
男はよほど会議のことが気がかりだったのか、かなり喜んだ様子だった。会議までの時間が押している男に配慮して、自分でも驚くほどの速度で食事を流し込む。食後の一服もそこそこに、ぼくと男は再び車に乗り込んだ。
車の中で男は、遅ればせながら、と前置きして自己紹介をした。彼は、名をSir=Harry= Andrewsと言った。叔父が政府の役人で、自分が選挙に立候補することになったのも叔父の薦めだそうだ。
Sir=Harryは政治については全くの素人のようだったが、好感のもてる好青年だった。この男に協力できるのなら悪くない、ととりとめのない思考を紡ぐ。
これまでの人生で緊張した経験は何回もあったし、ここ最近はとくにそれが続いていたが、さすがに500人もの人の前に立つとなるとひざが震える。ステージの上のイスに座っていると、聴衆たちからの視線に射すくめられ、身動き一つもためらわれるほどだ。
司会者が、ぼくを「もっとも信頼されたオーストラリアの指導者の一人」と紹介している。緊張に押しつぶされかけているぼくからすると、できの悪い皮肉にしか聞こえない。軽く目礼すると、拍手がわき起こった。
いよいよSir=Harryのスピーチが始まった。彼も、ぼくと同じくらいかそれ以上に緊張している様子だが、言いよどむことなく原稿を読み上げていた。しかし、あまりうまい話し方ではない。ただ読んでいるだけ、といった感じだ。
やはり、と言うべきか、話の内容は戦争の準備に関することが主だ。「ドイツは戦争を回避しようとしています。イギリスが新しい軍艦の建造をやめればドイツもそれにならうでしょう。」ぼくはScudderが書き残したノートのことをそれとなく考えた。
ぼくが話す頃になるともはや緊張は消え去り、どうにでもなれ、と自暴自棄とあきらめが感情のほとんどになっていた。オーストラリアについて知っていることを簡潔に話す。イギリスとオーストラリアは協力するべきだ、などと適当な意見も取り混ぜた。どうやらうまくいったらしく、話し終わると拍手が巻き起こった。
会議が終わった頃には、すでに日が落ちて外は真っ暗だった。街灯のわずかな明かりが車窓から差し込んでくる。ぼくたちは会議の会場を後にしていた。
「Twisdonさん、今日は本当にありがとうございました。すばらしいお話でしたよ。」Sir=Harryが言い、ぼくも軽く応じる。当たり障りの無い会話を交わすうちに、家にたどり着いた。
少し遅めの夕食をとる。久しぶりにとったまともな夕食はかなり豪勢なものだった。さすがは将来の政治家である。フォークを口に運びながら、そろそろ頃合いだな、と考える。
TwisdonではなくRichard Hannayとしての、本当の自分を明かす時だ。
「Sir=Harryさん、一つ重要なことを言わせてください。あなたは正直な人なのでしょう。だから、ぼくも正直になります。あなたがさっき会議のスピーチで言っていたことは、全部危険な間違いです。」
Sir=Harryはいぶかしげな顔でこちらを見た。
「そこまででしたか?私にはよくわからないのですが・・・。スピーチが間違いとなると・・・、ドイツはイギリスとの戦争に踏み切る、と?」
「ええ、6週間以内には。」これはScudderのノートに書かれていた真実の一端である。ぼくは断言した。彼も、政治の舞台にいる者の一人だ。ぼくが知った情報を政府に伝えるなら、今しかなかった。
・・・ぼくが、ロンドンからここまでたどってきた道のりを説明し終えると、部屋の空気がとても重苦しいものになっていた。それを振り払おうと、ぼくは軽い冗談を言った。
「・・・というわけで、ぼくはロンドンでの殺人事件の容疑者として指名手配されています。警察に連絡していいですよ?」
しかし、Sir=Harryは冗談には応じず、まじめな顔で言う。
「私にも、あなたが殺人犯で無いことくらいわかります。それより、どうすればいいですか?このままでは取り返しのつかないことになる。何でも言ってください。」
ぼくも、顔を引き締めた。しばらく考えた末、言った
「まず、政治家だというあなたの叔父に手紙を書いて、ぼくが政府と連絡を取りたがっていると伝えてください。」
「叔父はやめた方がいいでしょう。彼は、国際政治に興味がない人ですから。それに、あなたを信用するかどうかもわかりません。それより、Walter Bullivantという友人に連絡を取ってみます。彼は海外の事務所で働いた経験がある、有能な人物です。どんな風にあなたのことを伝えたらいいでしょうか?」
いろいろと考え、最後には秘密めいた忠言、という形を取ることになった。
Twisdonという人が近々そちらを訪ねることになるが、是非信頼してやって欲しい。Twisdonにはそちらを訪ねたら、「Black Stone」という言葉を言ってから歌謡曲の「Annie Laurie」を口笛で吹く用に伝えてある。
Sir=HarryはぼくにWalter氏の所在地を伝えると、他に何かできることはないか、と尋ねてきた。
「地図と自転車、それに古着を何着かもらえますか?それから、警察がここに来たら、崖の下のぼくが乗ってきた車を見せてやってください。」
もう夜もふけていたので、これからに備えて寝ておくことにした。数時間の睡眠の後、午前2時には起床する。
「本当に、いろいろとありがとう。」
Sir=Harryに厚く礼を言うと、ぼくは自転車にまたがり、家を後にした。夜の冷気が肌に心地よい。新たな旅路の始まりだった。
最終更新:2009年01月03日 21:39