見晴らしの良い丘の上に立つというのは悪い気分ではない。普段は遮蔽物に覆い隠されて見えない地平線近くのものまで見通せる。視野が大きく広がり、自分でも驚くほど急に背が伸びたハイスクール時代の記憶とリフレインした。
ぼくが立った丘の周囲には本当に何も無かった。いや「何も無い」という表現は、必ずしも適切ではない。
ぼくはこの丘の頂上までSir=Harryにもらった自転車を引きずって登ってきた。坂の半分ほどは自転車の加速の勢いだけで走り抜けることができたが、それ以降はぼくの筋力の限界を超えていた。ぼくももう年だろうか?ともあれ、ぼくが少し後ろに目をやれば、その白い砂利道が見えるだろう。
さらに視線を後方に飛ばせば、ここと同じような緑の丘が無数に見えるだろう。ここがオランダならば、風車小屋の一つも見えて風情を感じたのかもしれないが、イギリスではめったにお目にかかれない。単調な丘陵地帯が続くばかりである。その中の川沿いの道をぼくは延々と走ってきたのだ。逃亡中にもかかわらず、こんなとりとめのない思考をつむいでいるのは、気が滅入っている証拠かもしれない。
ぼくが進むべき前方も、ある程度開けてはいるがこれまでとさして変わるところは無い。遠くのほうに民家が一軒建っているだけだ。道沿いにあるのは工事現場の詰め所か何かだろうか。ぼくの心情とは対照的に瑞々しい初夏の野が広がっていた。
腕時計に視線を落とした。午前7時。ほとんど不眠不休でここまで移動し続けてきたことになる。一歩一歩踏み出す足が、鉛のように重く感じられる。せせらぎの音や鳥の鳴き声に混じって、ぼくの足音が奇妙に大きく朝の空気に響く。我知らず、自嘲ともつかない笑みを口の端に浮かべていた。疲労はすでに限界を突破している。全身のけだるさと節々がきしむ痛みに顔をしかめる。これ以上歩を進めることは不可能だ、と体が主張しているようだ。
突然、背後の上空に、閑静な青い空を切り裂き、轟音をたてる物が現れた。もう振り仰いで見る気も起きない。これで3度目だろうか。追手の飛行機に神経をすり減らされるのは。ぼくは、自分が悪い位置にいる事に気がついた。視界をさえぎるものの無い丘の上。上空から発見するには、この上ない場所だ。鷹に狙われた野ウサギも同然である。
絶望的な表情になりながらも、ぼくは大き目の岩の陰に座り込んだ。ところどころに苔が生えている。お世辞にも居心地が良いとは言えなかった。この場所に身を隠して、見つかるか、見つからないかは5分と5分、といったところだろうか。よく探せばもう少し見つかりにくい場所もあったかも知れないが、ぼくは動こうとは思わなかった。足を休められるのなら、もうどうなっても構うものか。
初めのうち、飛行機は遥か上空を飛んでいたが、ぼくのいる丘の上に差し掛かると、急に高度を落として旋回し始めた。耳をふさぎたくなるような轟音が周辺を支配する。世に言う「超低空飛行」というやつだろう。それこそパイロットと目が合いそうなほどの距離だ。気のせいか、後部座席に乗っている二人の男がこちらを注視しているように思えた。ぼくは気休めだと知りながらも、岩にぴったりと身を寄せるようにして息を潜め続けた。冷気に冷やされた岩の感触が居心地の悪さを倍増させる。今頃になって、ぼくはこの場所を選んだことを後悔し始めた。
時間にして5分弱。飛行機は来たときと同じようなエンジン音を立て、雲間に消えて行く。身を隠していた岩にすがるようにして、ぼくは立ち上がった。やれやれ、とかぶりを振って砂利道の方に足を向ける。自然に、視線も道に行き__いやな汗が背中を流れる。非常にまずいことになった。
頭かくして尻隠さず、とはまさに今のぼくのためにあるような言葉だろう。自分が隠れるのに夢中で、自転車の存在を忘れていた。白い道の真ん中に黒い自転車。旋回する飛行機からでも、よほどの近視で無い限り見落としはしない。そして、こんな朝早く、こんな丘の上に自転車を止めて休憩している者など、ぼくくらいのものだろう。ぼくの居場所は敵に知られてしまった。もはや、ぼくにとどまるという選択肢は残されていなかった。
停滞しそうになる思考に鞭を打って、必死に考える。今の状況を打開するためには、ここを離れるよりほか無い。その際に問題になるのが発見されてしまった自転車だ。貴重な移動手段を失うのは手痛いが、一刻も早く放棄するのが賢明だろう。それも敵に見つからないような場所に。
敵の行動の速さも計算に入れなければいけない。今までのぼくを追う手際からして、あの飛行機から無線連絡を受けた彼らがこの丘を包囲するまでにかかる時間は、長くて1時間、最悪の場合30分程度だろう。
丘の周囲の開けた地形は、今のぼくには牢獄も同然だ。身を隠したくても、そのための場所がまったく見当たらない。文字通り「立ち止まったら終わり」である。
ぼくは、自転車が発見されたことを最大限に利用することにした。敵は、ぼくの自転車を発見したことから、ぼくが全速力で道をまっすぐに走っていくか、あるいは自転車を放置して徒歩で逆方向に逃げるか、どちらかだと考えるだろう。少なくとも、ぼくが敵の立場なら、追い詰められたネズミが噛み付くこともあきらめることもせず、小細工をし始めるとは考えない。すなわち、発見された自転車をご丁寧に隠し始めるなど。
自転車に飛び乗ると、ほとんど転びそうになりながら、一気に丘を下った。小石の凹凸一つ一つにタイヤが跳ね上がる。正面からの風にあおられて、ろくに整えていなかった髪型がさらに崩れた。鏡を見るまでも無く、ひどいことになっているのが分かったが構っている暇はない。とにかく、時間が重要だ。
道沿いに流れていた川の源泉だろうか。丘のふもとには小さな池があった。好都合だ。ぼくは自転車を浅い水底に向けて投げいれた。派手な水しぶきとともに水底の泥が巻き上がり、一瞬だけ自転車が完全に見えなくなったが、しばらくすると元の澄んだ水の戻ってしまう。ぼくは岸辺にあった大き目の石をいくつも拾い、倒れた自転車を隠すように設置した。注意して見ても、そこに自転車があるとは誰も思わないだろう。ぼくは、小さくうなずくと、その場から足早に立ち去った。目指すは、さっき丘の上から見えたあの工事現場だ。
後ろを気にしながらも急ぐ、というのは思いのほか神経を使うものだ。周りを見回し過ぎればどうしても歩くのが遅くなる。
逆に小走りになると、周辺警戒がおろそかになってしまう。ただでさえ、だんだんと強くなり始めた陽気に集中力が切れれかかっている今のぼくには、荷が重過ぎた。ともあれ、ぼくは無事に目的の工事現場までたどり着いた。
国営の建設業者の名前が入った看板が最初に目に飛び込んでくる。道自体が細いからか、工事現場は貧相なものだった。工員の詰め所の建物も、随所に錆付きが目立ち古臭い。たぶん、自治体がこの事業を発注した理由は、来年度の予算を少しでも多く取りたいから、というただそれだけだろう。まったく、税金の無駄遣いも甚だしい。
詰め所の周り一通り回ってみる。やはりというべきか、本来こういった工事現場にあるべき重機の類は、まったく無かった。工員が手作業で道の舗装をしているのだろうか。これではいつまでたっても、延々と続くこの道の工事を終えることなどできないだろうに。しかし、この工事現場の規模が小さいこととはぼくにとっては都合がいい。あのアパートから脱出したときと同じ手だ。ここにいる工員の誰かになりすまして、敵をやり過ごす。
しばらく待っていると、表の扉が開いていかにも末端労働者、といった風体の男が出てきた。全体的にくたびれていて、髪もまったく整えられていない。古ぼけた外套とベレー帽に、そこだけが新しく見えるメガネ。もっとも、ぼくも今は人のことを言えるような外見ではないが。続けて2、3人出てくると思いきや、出てきたのは、結局彼一人だった。つまり、ここの工事はこにの男が一人で行っているのだ。なんとも不遇な話である。
詰め所の扉を、音を立てて閉めるなり、太陽のほうを向いてまぶしそうに目を細めながら、大きく伸びをする。ぼくがいるのに気づいているのか、いないのか、誰にとも無く話し始めた。
「まったく、こんなところにくるくらいなら、農家をやめなければ良かった!」それはそうだろう。
「農家をしていた頃は、俺もいっぱしの経営者だったのに・・・。」当たり前だろう。
「今はここで、うるさい役人に見張られながら毎日毎日終わる当ての無い作業の繰り返しだ!」しかたないだろう。
「空気が悪くて目は痛くなるし頭も痛くなるし・・・。」それはお気の毒に。
「そこのあんた、いい加減何とか言え!」なんて面倒くさい話の振り方だ。
ぼくはきわめて紳士的な対応を心がけた。
「どうかなさったのですか?体調がすぐれないご様子ですが・・・。」
「ああ、やっと口を利いたか。聞いてくれよ、昨日は娘の結婚式でなぁ。一晩中飲み明かして、気がついたら朝の4時だったんよ。おかげで吐き気はするしめまいはするし・・・普段だったらこんな田舎道の工事、サボっちまうところなんだが、今日に限ってお役人が定期監査ってやつで見張りに来やがるのさ。だから、家にとって帰して一寝入りするわけにもいかんし、かといってこのまま仕事をしてもうまくいくはずないし、間違いなく俺はもうクビだよ・・・あああ、俺の人生はどん底だぁ!仕事を失った父親なんぞ、娘夫婦が世話してくれるわきゃねぇし、新しい仕事を探しても、こんな中年の男一匹雇うような酔狂なやつもいねぇだろうし・・・」
大げさな身ぶり手振りで自分がいかに悲惨な状況にいるかを語り続けている。このままそれを聞いているのも面白いと思ったがこれ以上時間をつぶすと、敵が、ぼくがここにいることに気づく可能性がある。
ぼくはきわめて紳士的な対応を心がけた。
「なんですって、それは大変ですね。ぼくでよろしければ、今日一日だけならあなたの代わりに仕事をすることもできますよ?ちょうど背格好も同じですし。問題は、監査に来るという役人が、あなたの顔を知っている場合ですが・・・。」
「おお、それはありがたい、よろしく頼むよ。役人については大丈夫だ。あいつは俺たちの顔なんかいちいち見ていやしない。それに今の監査役は、つい一週間まえに仕事に就いたばかりの新米だ。どのみち俺の顔なんか知ってるわけないだろう。さぁ、こっちにきてくれ、仕事の説明をするから。」
ぼくは、男について砂利道の脇に立った。見ると、均等に切りそろえられた石のブロックが山と積み上げられている。とりあえず、彼が着ている作業服とメガネを借り受け、ぼくの上着をわたす。
「まず、俺の名はAlexander=Turnbullだ。ただ、たいていのやつはEckyって呼ぶから、そっちで呼ばれても返事してくれ。仕事自体はこのブロックを道の脇に並べてくだけだ。な、簡単だろ?」
確かに簡単だ。これなら工員は一人で十分だし、重機も必要ない。しかし、この仕事に何か意味はあるのだろうか?いよいよ、自治体が予算を取るためだけにこの仕事を発注した、というぼくの予想が真実味を帯びてきた。だがまぁそこは問題ではない。
「わかりました。それでは、ぼくが責任を持ってこの仕事を引き受けます。さぁ、あなたは家に帰って体を休めてください。」
「おう、ありがとうよ。俺も5時には戻るからそれまでよろしくな。」
挨拶もそこそこに、Alexanderは気だるそうな足取りで去っていた。心なしか千鳥足である。彼が家にたどり着く前に敵に見つかり、敵が彼をぼくだと勘違いして捕まえでもしたら非常に困るのだが。まぁ、無事にたどり着くのを祈るばかりである。ぼくはぼくで、自分の仕事に取りかからなければ。疲れた体を酷使して、ぼくはブロックのひとつを持ち上げた。思いのほか重い。腰が砕けそうになった。とりあえず腹ごしらえだ。Alexanderが置き忘れていったらしいサンドイッチをありがたくいただいた。
服を取り替えたとはいえ、完全に安全ではない。道路監査役はともかく、敵がここに来た場合間違いなくぼくに気付くだろう。
ぼくの顔はすでに敵に知られている可能性が高い。手始めに、ぼくは顔中に土を塗りたくった。目にまで土が入り、赤くはれ上がる。覚悟はしていたが、不快なことこの上ない。服や手にも同様に泥をつける。鏡があれば、薄汚い全身泥まみれの男の姿が見えたことだろう。ふと足元を見ると、異様に高価な靴が目に入る。ぼくがロンドンにいた頃に買った革靴だ。Alexanderと靴を取り替えるのを忘れたことに気がついた。石ブロックをけり付けたり土を擦り付けたりして、古く見えるようにする。あまり効果があるようには思えなかったが、しないよりはマシというものだろう。注視されない限りは、誰もがぼくをAlexanderだと思い込むに違いない。
ここまでしたにもかかわらず、とあえて言おう。現に、やってきた道路監査役はぼくをAlexander=Turnbullだと信じて疑わずまるで妻に「まぁ、こんなにホコリが」といびる姑のようにぼくの仕事に文句をつけてきた。だがしかし、ぼくを執拗に追いあけてきた、あの二人組みの男は、ぼくに何らかの違和感を感じたらしい。
「やあ、いい朝だね。」
車を止めると、窓を開けて太ったほうの男が声をかけてきた。やせて根暗そうなほうは助手席から注意深くこちらの様子を伺っているようだ。よく見ると、ぼくが盗み出して乗り回した末に崖から落とした車とまったく同じ車種、構造だ。ぼくは、これからこの種類の車を目にしたら気をつけるように肝に銘じておいた。
「まったくおっしゃるとおりでさぁ、旦那。」
Alexanderのスコットランド訛りを意識して発音する。我ながら上出来だった。
「こんな大自然のなかで仕事ができるなんてうらやましい限りだよ。いい職場を見つけたね。」
太ったほうが窓から身を乗り出すように言葉を続けてくる。本気で言っているのだとしたら、ずいぶんと能天気なものだ。一方やせたほうは相変わらずこちらに刺すような視線を送っていた。
「そりゃあ、上を見ても、下を見ても、きりなんて無いでしょうよ、旦那。」
当たり障りの無い返事をする。ふと、この二人はとてもうまく分業を行っているな、と思った。饒舌なほうが相手の注意を引き受けている間に、もう一人が遠慮なく観察し、状況を分析する。彼らの業界では割と当たり前なのかもしれないが、ただの一般人のぼくには十分な脅威だった。
と、やせたほうが太ったほうに何事か耳打ちをする。太ったほうは、とてもとてもうれしそうな笑顔を浮かべた。その顔を、やおらこちらに向ける。ぼくは、鬼が出るか蛇が出るか、と少なからず身構えた。
「ところで、君のそのブーツだが・・・」
なんだ、そんなことか、と瞬間安心し__ぎょっとなった。今、ぼくがぼくであることがバレとしたら、それは間違いなくAlexanderと靴を交換し忘れたことが原因だ。それ以外に判断要素が無い。彼らは、巧妙にそこを突いてきた。
「・・・なかなかよさそうな物だね。さぞかし値が張っただろう。それにしても、ここら辺じゃあまず手に入らないだろうね。うーん、さしずめロンドンあたりで買った、ってところかな?君はロンドンにいたことがあるんだろうか。」
落ち着け、と自分に言い聞かせる。まだこいつらには、ぼくがぼくだと断言できる証拠は無い。逆に、次にぼくがどんな反応をするかによって、そこを判断しようとするだろう。ほら、ぼくは片田舎で働いている、偶然に高価な靴を履いていただけの労働者なんだ。何か話せ、沈黙は自分の正体を明かしているようなものだぞ・・・!
「ああ、この靴ですかい。これなら去年ここを通りかかった男からもらったんでさぁ。」
駄目だ、これでは。詳しい状況を説明しろ、といわれたら必ずボロがでる。何とか表情は平静を保ち続けたものの、全身から冷や汗が噴出してきていた。笑顔の形にゆがめたままの口を、太った男が開く。他人の言葉が、これほど恐ろしいと思ったことは無かった。
「そうかそうか。まぁ、それはいいんだ。そんなことより、この写真を見てくれ。この男、今朝早くここを通らなかったか?ああ、自転車か徒歩かどちらかだと思うんだが。」
果たしてそれは、上空から撮影された岩にへばりついている男__つまりぼくの写真だった。写真を撮られてしまったのは非常にまずいが、最悪の事態は免れた。ぼくは、思い出そうと懸命に頭をひねっているふりをした。
「いやぁ、俺は今朝4時までずっと飲み明かして__ああ、ほら、娘の結婚式だったんよ。けど、そんなやつは見た覚えがねぇですなぁ。へぇ、役に立たなくてすいません。」
「いやいや、協力感謝するよ。それでは、われわれはもう行くとしよう。君も、仕事、がんばってくれたまえ。」
チップのつもりだろうか、一本だけタバコを投げ渡してきた。ポケットにしまおうとして、ふと考える。これを渡してきたということは、彼らはぼくがAlexanderだと勘違いしてくれたのだろうか。それとも、ぼくに「まだ気づかれていない」と錯覚させるための罠だろうか。十中八九後者だろうと思った。
ところで、ぼくの体力が疲弊していたこともあって、仕事はまだ山のように残っていた。一つ一つがとんでもなく重いブロックをあと50個、といったところだろうか。それらの山を半ば呆然と見つめているうちに、はたと気づく。もうぼくの敵は去っていった。だから、もうここでAlexanderのふりをし続ける必要は無いのではないか。そうと決まれば早速、と動こうとして腰を上げ__遠くのほうに一台の車が止まっているのが目に入る。車種、構造、間違いなく「あの車」だ。細かいところまでは見えないが、運転席と助手席に一人ずつ人が座っているようにも見える。さっきの二人組みが引き返してきて、ぼくの様子を観察しているのだろう。まったく油断ならない相手だ。ぼくは、いかにも「少しだけ休憩していたんですよ」というような様子をして見せた。一つのびをしてからブロックに手をかけ、持ち上げる。腰骨がいやな音を立てた気がした。しばらくはここを離れられそうに無い。
ぼくは路肩に腰を下ろしていた。4時半を回り、時刻は5時に近くなっている。監査に来た役人は激励とも脅しともつかない言葉をのこして、3時には帰ってしまい、もういない。ぼくを見張り続けていた二人組みの男たちも、いつの間にかいなくなっていた。これで、当面の脅威は去ったことになる。ぼくは、これからどのようにして、Sir=Harryの言っていたWalter Bullivantという男の下まで行けばよいか考え始めた。夕日が差して、あたりがオレンジ一色に染められている。今なら全力を挙げて何かに取り組めそうな気がした。
そうしているうちに、一台の車が通りかかった。二人乗りの黒いオープンカーだ。それとなく目で追っていると、ぼくの目の前で停車する。運転手の男がタバコを指差しながら手招きしていた。どうやら、火をつけてほしいらしい。ポケットからマッチを取り出そうとして__思わず運転手の顔をまじまじと見つめてしまった。あろう事か、こいつはぼくの知り合いで、とても強欲で金の亡者という言葉が似合う、そしてぼくが毛嫌いしているMarmaduke Jopleyという男だった。腕っ節は強くなく、気弱な小男。とても好都合だった。
マッチに火をつけ、タバコに火をつけてやる__ふりをして、Jopleyの腕を強くつかんだ。そのまま力任せにねじ上げる。何かが砕けるような嫌な音。突然のことに、Jopleyはとてもおびえた様子を見せた。小さくうめき声をもらす。実にいい気味だ。
「やぁ、Jopley君」
ぼくは親しげに声をかけた。口の端に微笑を浮かべてみる。優位に立った人間がこのような表情を見せると相手は恐れを抱く。さっきの太った男から学んだことを実践した。どうやら、成功したらしい。
「だ、だれだ、お前は・・・金か、金がほしいのか・・・?それだったらいくらでもくれてやるだから見逃してくださいお願い します・・・」
そのまましゃべらせ続けても良かったが、あいにくとぼくが欲しいのは金ではなかった。
「ぼくの名は、Hannayだが・・・覚えているかな?」
「お前は・・・そうだ、殺人犯だな・・・!」
どうやら、Jopleyはぼくの事を新聞で読んでいたらしい。3面記事にしかなっていなかったというのに、まったく見かけによらず几帳面なやつだ__いや、ぼくの知り合いだということでこいつのところにも警察の事情聴取が入ったのかもしれない。なんにせよ、ぼくが殺人犯だと思われていることは、非常に都合がいい。
「・・・お察しのとおり殺人犯です。そう呼んだほうがいいでしょう?」
Jopleyはぼくの腕を振り払うと、車の反対側に飛び降りようとして__何かにつまずいて助手席に身を投げ出す形になった。
「・・・罠だ、これは罠だっ・・・!ロンドンの殺人犯がこんなところにいるというのはおかしいじゃないか!それが罠だという証拠!」
「まぁ落ち着くんだ。」
ぼくはJopleyが助手席に倒れたのをいいことに、運転席にはい上がった。
「ぼくは確かに殺人犯だが、別に君を殺したいわけじゃない。ただ、君のそのコートと帽子、それに車をちょっと借りたいだけなんだよ。もちろん心の優しいJopley君なら貸してくれるよね・・・・?」
返事を聞く前にJopleyからコートと帽子を剥ぎ取ると、身に着けた。それまで着ていたAlexanderの外套とベレー帽をJopleyに押し付ける。これで、万が一敵に見つかっても危険な目にあうのはJopleyだ。
Jopleyが何か言っていたが、ぼくは気にせず車を発進させた。砂埃が巻き起こり、ぼくが苦心して並べたブロックが見る見る後ろに流れていく。車を盗むのはこれで二度目だが、警察がぼくを追う理由がまたひとつ増えてしまった、とぼくは遅すぎる後悔をした。
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最終更新:2009年01月03日 21:41