アットウィキロゴ
いろいろな事が一度に起こった一日が終わり、辺りはもう真っ暗になっていた。時計を見るまでも無く時刻は午前0時を回っているだろう。ゆったりと一所に腰をすえる、とまでは行かないが、いまぼくは確かに腰をおろして背中に体重を預けていた。長い旅をして心地よい疲れに浸りながら、座り込むというのは存外気分のいいものだ。全身の節々を苛む痛みが徐々に和らぎ、呼吸も心なしか安定している。そう考えれば、ここが見上げれば満天の星空が見える丘の上、というのも悪くないように思えたが、いささか寒すぎた。ポケットに手を突っ込むついでに探ってみる。ビスケットが数枚見つかった他は、何も無かった。
 お金、パイプやタバコ、Scudderの黒いノート、その他もろもろの必要と思われるものは全てAlexanderに渡したぼくのコートのポケットの中だ。頼れる友人Jopleyも、つい先ほど解放してしまったので、もういない。つまり、今ぼくはビスケット数枚のほかは完全に身一つで荒野に放り出されていたのである。
 その唯一の財産を少しずつ消費しながら、ぼくは何とか体を温めようと外套の襟を立てたり袖の中まで手を引っ込めたりといじましい努力を重ねていた。しかしながら、どれも風の吹き抜ける夜の寒さを防ぐにはいたらず、体温は下がる一方である。雪山で遭難したときの定番のセリフ、「寝るな、寝たら死ぬぞ!」が頭の中をぐるぐる回る。言われるまでも無く、寒くてそう簡単には眠れそうに無い。
 走馬灯のように、ではないが、ぼくはこれまでの自分の旅を思い返していた。考えれば考えるほど、ぼくは運のいい人間だと思う。牛乳配達員に始まって、最後には嫌っていたJopleyまでが、結果的にぼくを助ける形で現れている。どこまでこの幸運が続くかは分からないが、もしも、全てに決着がつくまで続いてくれるのならば、ぼくは成功を収められるだろう。問題は、途中で運の尽きが来た場合だが・・・。
 こんな取りとめのない思考をつむいでいるうちに、だんだんとまぶたが重くなってきた。もともと暗くてほとんど何も見えはしなかったが、だんだんと視界が狭まってくるのが分かる。睡魔に抵抗する気はなかった。少しだけなら大丈夫だろう、と思いぼくは完全に目を閉じて横になった。

 次に目を開けたときには、すでに太陽が地平線から顔を出し始めていた。どうやら、凍死は免れたようだ。
 「日の出」の定義は太陽が地平線上に観測された瞬間だから、実際には日の出より前に、既に空は白んでいるらしい。つまり今が大体日の出の直後だということは、もうだいぶ前から明るくなっていたのだろうか。だとすると敵がぼくを探しに来ている場合、捜索が始まってからかなりの時間がたっていることになる。ぼくは、ブーツを履くと岩陰に身を隠して辺りの様子を伺った。
 その判断は正解だった。正確には、前半部分、岩陰に身を隠すのが正解だった。最初に聞こえてきたのは、数人分の靴音。朝の静寂の中、距離や方向まで正確に分かった。数百メートル向こう、つまりぼくのいる丘の下からだ。鼓動が速くなってくるのが自分でも分かる。自分の呼吸音を気にしながら、ぼくは岩から顔をのぞかせて靴音のほうに視線を注いだ。灰色と黒が斑状に入り混じった岩の向こうには__黒い背広に色の濃いサングラスの、いかにもその筋の人間らしい男が数人こちらへ上がってきているのが見えた。ご丁寧に大きな岩一つ一つの後ろを覗き込んで確認している。何を探しているのかは、明らかだった。今ここで見つかるわけには行かない。ぼくは丘を登る道からそれた草むらに、音を立てないよう慎重に入り込んだ。逃走経路を考えなくてはならない。
 このまま丘を降りても、敵が分散してぼくを探していた場合、伏せ手に見つかる可能性がある。まず丘の頂上まで登り、そこで、わざと下のほうにいる男たちに発見させる。「つい今しがた、男たちに気づきましたよ」とでも言うように、あからさまに驚いて見せるのもいいかもしれない。ともかく、彼らは、丘の上にいたぼくが正反対に逃げていくと考えるだろう。そして、他の仲間がいた場合は、そいつらに先回りを指示するだろう。その実、ぼくは再び草むらに戻り、男たちが来たのと同じ方向に逃げている、という寸法だ。つい昨日使ったのと根本的には同じ手だが、敵がもうそこまで迫っていることを考えると、今日のほうがより緊迫しているだろう。どうあっても彼らが頂上から遠くにいる間に、丘の上にたどり着かなくてはならない。草が音を立てないように注意しながら慎重に草をかき分けて坂道を登っていく。朝食前の運動としては少々ハードだった。

 逃走手順は、途中までは上手くいった。
 丘の上にぼくが仁王立ちになったのを見た敵は、口々に何かを叫びながらこちらに走って来た。ぼくは反対側に少しだけ駆け下りると、そこから草むらに飛び込んだ。意識して息をつめ、じっと地面にはいつくばる。しばらく待っていると、騒がしい指令や怒号それに足音が目の前を通り過ぎ、すぐに静かになった。突然の静寂に耳鳴りがする。
 ぼくは周辺に動くものはないか、と警戒しながら道に戻った。2度3度と首を動かして周りを見た末に一気に逆方向に走る。今更のように太ももが筋肉痛で痛んだが、気にしてはいられない。彼らが、ぼくに撒かれたことに気づくまでに、どれだけ距離を取れるかが重要だ。
 やがて一夜を明かした丘は背後に遠ざかり、辺りは閑静な田舎道が続くばかりになった。立ち止まり、息を整える。日は高くなり、鳥の声が聞こえるようになってきた。遠くに目をやれば、煙突と白い煙、その下には農家と思しき家が一軒だけぽつりと建っているのが見える。道沿いに流れる小川の音が、動いた後の暑さに心地よい。辺りにぼくを追うものの気配は無い。水を飲んで一休みしてもいいだろう。ぼくは道を外れて土手を下った。
 小川の水は、水底が見えるほどに澄み切っていた。わずかに水草が生え、その間を小魚が縫うように泳いでいる。一般に、小魚の生息できる水は、清潔だとされている。この小川なら、水を飲んでも大丈夫だろう。少なくとも、致死的な化学物質が含まれていることは無い。流れる水をすくうため、手を水面に近づける。その手が、水に触れるかふれないかのところで、水面に影が映りこみ__それはぼくに飛びかかってきている黒服のものだと気づく。心臓が跳ね上がるかと思った。
 考える前に体が動き、ぼくは岸辺の地面を転がっていた。小石が服の上から肌にめり込み、鈍痛を走らせる。ほとんどよろけながら立ち上がると、体当たりを空振らせた体格の良い男が、髪から水を滴らせながら岸に這い上がってくるのが見えた。すさまじい形相でこちらを見てきた。走りよってその顔面をブーツの底で蹴りつけようとして、踏みとどまる。敵が一人とは限らない。案の定、土手の上から「いたぞ、こっちだ」という怒鳴り声が聞こえてきた。ぼくは攻撃をあきらめ、助走をつけて小川を飛び越えると、農家の煙突を目印に全力で走った。「リアル鬼ごっこ」が現実になるとは思ってもみなかった。まったく、ぼくの苗字はHannayだというのに。

 ところどころに切り株や大き目の石の転がる整備されていない道を疾走する。外套はこんなマラソンまがいの運動をするには厚すぎ、また重量もあったのでもはや邪魔にしかならなかったが、敵に追われている状態では放棄するわけにもいかない。腕が汗で蒸れて非常に気持ちが悪かったが我慢するしかない。
 先ほどから何度も、わき道から突然飛び出してきた黒服に捕まりかかる、という状況に陥った。おそらく、敵はこの辺りの地理に詳しいのだろう。ぼくが走ってきた道はかなり曲がりくねっていたから、近道を通って先回りすれば難しい話ではない。対して、ここがどこかも分からないぼくにできるのは、少しでも速く足を動かすことだけだ。わき腹の痛みが、耐え難いほどになってきた。農家までの距離はあと数百メートルといったところだ。たどり着いたらかくまってもらうか、でなければ勝手に進入して隠れればいい。地面を強く蹴りつけ、残りの距離を一気に走りぬけた。
 広く手入れの行き届いた庭と、生垣。それに干草を入れるための塔状の建物。農家の典型ともいえる外観をした一軒家の門の前で、一息つく。もう安全だ、と思ったのではない。安全は、このまま農家に走りこんで、かくまってもらえることが分かった時点で、初めて保障される。では、なぜそうしないのか。
 ぼくはある種の不自然さを感じていた。敵の追い足が鈍すぎる。さっきまで、ぼくの背後には常に数人分の気配があったが、今はそれが感じられない。それこそ、座り込んで一休みしてもいいのではないか、と思えるほどに。考えてみれば、このほとんど人がいない荒野の上でぼくを捕まえるのに、わざわざ走って追うというのもおかしな話だ。なりふり構わず、自動車や飛行機を動員しても、誰の目にもとまらないだろうに。それに、ぼくが何を目印に走っているかは明白だっただろう。そこにあらかじめ人員を配置しておくこともできたはずだ。
「よく探せ、この辺りにいるはずだ!」
 突然の怒声がそれ以上の思考を遮断した。どんな不自然があろうと、それがぼくにとって都合よく作用したのは間違いない。それに、今は他に選択肢が無い。無理やり自分を納得させると、門扉のノブを回し、扉をおす。鍵はかかっていなかったようでスチール製の二枚扉はあっけなく開いた。

 庭に入り込むと、ぼくが来るのを予期していたかのように、開いたドアの向こうに老人が建っているのが見えた。髪がほとんど無く、人のよさそうな顔をした男性だ。年は、70過ぎといったところだろうか。厚いメガネの奥からじっとこちらを見つめている。ぼくは、砂利が立てる音を気にしながら彼に近づいていった。
 間口にたって、老人と正面から向かい合う。ぼくはなんといったらいいか分からず、言葉を探した。こんなときに限って、説明の仕方が見つからない。気ばかり焦るが、どうしようもなく、口の端からほとんどうめき声のような音を漏らすだけに終わってしまった。突然、老人が口を開く。ぼくは、「何の用だ」と聞かれると思い必死で思考を巡らしたが、空回りするばかりだった。沈黙を破り、思ったよりも若々しい声が伝わってくる。
「あわてることは無いよ、君。」
ゆっくりと紡がれる思いがけない言葉。返答すら思い浮かばず絶句してしまった。と、老人の視線がぼくの背後に移る。それにならって後ろを見やると、数人の黒服が門の前で何か話し合っているのが見えた。ここにいては、見つかってしまう。動転したぼくは、思わず老人を押しのけて玄関に転がり込んでしまった。
「なるほど、あそこにいるのは警察の・・・。朝からご苦労様だなぁ。」
老人が、目を家の外に向けたまま背後のぼくに話しかけてくる。ゆっくりと振り返ると、家の奥のほうを指差して言った。
「あの左側の部屋に隠れるといい。私は警察なんぞに仕事の邪魔をされるのは嫌だからね。かくまってあげよう。」
ぼくの方からは一言も口にしていないにもかかわらず、話が通った。なかなか話の分かる老人だ。ぼくは、ぼくは軽く目礼をして家に上がりこんだ。部屋のいたるところに本の山がつまれ、それに囲まれるようにして書斎机が置かれている。どうやら、この老人は物書きらしい。それならば、言動が多少変わっているのもうなずける。
 言われたとおりに廊下を通り抜け、見るからに重そうな黒塗りの扉を押し開けた。どうやら倉庫として使われているらしく、木箱が数個にイスが一脚、それに古めかしい本棚がおかれている。窓は手の届かない位置にひとつしか無く、部屋全体が、闇がわだかまったように薄暗かった。ふと背後をうかがうと、老人が机に向かい、ペンを走らせ始めていた。部屋に足を踏み入れると、執筆の邪魔にならないよう、慎重に扉を閉めた。
 イスに腰を下ろし、息を吐いた。たまっていたホコリが舞い上がり、採光用の窓から差し込む光の筋の中を踊っているのが見える。時間的にはもう9時過ぎなのだろうが、この狭苦しい部屋にあってはそれも定かではない。急に、自分が昨日からほとんど何も食べていないことを思い出した。空腹をごまかすため、ぼくは天井に打ち付けられた釘の数を数え始めた。

 数える釘が100を超え、いい加減に見上げる首が痛くなってきた頃、目の前の扉が開いた。光に、思わず目を細める。ドアを開けて入ってきたのは、先ほどの老人だった。人のよさそうな笑みを浮かべながら言う。
「警察の人には君が丘の向こうに走っていったのを見た、と言っておいたよ。もう、これで安心だろう。」
ぼくは、礼を言いつつ立ち上がろうとして__肩口を押され、再びイスに座り込んだ。驚いて、老人のほうを見る。その表情は別人ではないかと思うほど恐ろしく歪められていて。ぼくはそれが笑顔だと気づくのに数秒かかった。
「・・・っと、まぁ、茶番はこれくらいにしてだ・・・。」
ぼくの凍りついた表情を尻目に、老人が言う。よく見ると、その視線は一所に定まらず、さまざまに動いている。突然、Scudderの言葉がよみがえって来た。”ハエのように眼球を四方に動かせる、若者のような声の老人は、危険だ”まさに、目の前のこの男のことではないか。門の外で感じた違和感は正しかった。飛んで火に入る夏の虫とはこのことだ。ぼくはつめが食い込むほどこぶしを握り締めた。呼吸を合わせ、タイミングを計る。次にこいつが何か喋った、その瞬間・・・。
「『上手くやつらを撒けた』と思っていただろう、Richard Hannay君?ふむ、なんとまぁ幸運な朝じゃあないか・・・。」
たいていの人間は言葉を発している最中、無防備になる。言語中枢という脳の高度な部分が稼動するため、他の部分の働きが弱まるからだ。ぼくは、老人がぼくの名前、「Richard Hannay」を口にするのを耳にした瞬間、イスから立ち上がる勢いを利用して、掌底を下腹部に叩き込んだ。さぁ、後はこの家から逃げ出すだけだ。
 ボスッという嫌な音を立てて、倒れこんだのはぼくの方だった。何が起こったのかわからない。気づけば、視界は上下逆になり、わき腹が熱をもったように痛む。辛うじて目を老人のほうに向けると、暗い銃口が二つこちらを向いていた。黒服を着た男が二人、銃を持って老人の背後に立っている。いつの間に入ってきたのだろう。一瞬「撃たれたか」と心配になったが、血は出ていなかった。どうやら素手でノックダウンさせられただけらしい。ぼくを殺すつもりは無いようだ。少なくとも、すぐには。 襟首を掴まれ、イスに座らされる。さながら捕虜の尋問のようだが。ぼくに、抵抗する気力は残っていなかった。
「ずいぶん威勢がいいな、Hannay君。Scudderの遺志は、そんなに君にとって重要だったのかな?」
ぼくは、見え透いている、と知りながらも嘘を言った。
「何を言っているのか分からない__分かるのはお前が警察を呼び戻そうとしていることだけだ!それに、Scudder?Hannay?そんなやつは知らない・・・。ぼくの名はAinslieだ。」
ぼくは、ここにいる誰とも直接あったことは無い。それは、相手にとっても同じことだ。仮に、この老人がぼくの写真を見たことがあったとしても、今のやつれたぼくは、その写真とは似ても似つかないだろう。だから、ぼくがRichard Hannayであることを証明する手段は無いはずだ。逆に、ぼくと直接会ったことのある者__たとえばあのやせた根暗と太っちょの二人組み__がここに来る前に、何とかして逃げ出さなくてはならない。
「ふむ、Ainslie、か。君にたくさんの名前があるのは知っているよ、Hannay君。だから、「今」君がどんな名前かなんて、気にしないさ。それにしても、警察を呼び戻す、ねぇ。まったく、傑作じゃないか。」
老人は、未だあの歪んだ笑みを浮かべながら話す。背後にたたずむ銃で武装した黒服といい、映画の一こまのような情景だ。だが、ぼくにはそれを楽しんでいる余裕は無かった。
「・・・?何を言っているんだ、お前は?ぼくは、二度と警察に追われるのはごめんだ。だから、盗った金は全部手放す。ほらこれでいいんだろう?」
言いつつ、床に4ポンドほどの小銭を叩きつける。ちゃりん、という金属音が部屋に響き、硬貨は部屋の隅のほうまで転がっていった。
「警察など呼ばないさ、」老人が言う。
「これは、私と君との間の、きわめて個人的な問題だからね・・・。」
「・・・何がなんだか分からない」
ぼくはなおも嘘を言った。
「スコットランドのエジンバラの港に入ってから、運に見放されてばかりだ!崖の下の事故車から少しばかりくすねたら警察に追われる羽目になって・・・2日間逃げてようやく逃げ切ったと思ったら、この始末、もうたくさんだ!」
ぼくの迫真の演技が功を奏したのか、それともぼくを陥れるために仕組んだ罠か分からないが、老人が次に発した言葉には、若干の疑念が込められていた。
「・・・本当にRichard Hannayで無いのなら、君のここ一週間の行動を話してくれるか?」
「嫌だね。」
ぼくは即答した。これは、空腹を満たすチャンスかもしれない。
「ぼくは、ここ2日間ろくに何も食べていないんだ。警察に追われる身だったからね、わかるだろ?・・・と、言うわけで、何か食べるものをくれるのなら、ぼくの壮大なる物語を聞かせてやろう。」
老人はため息をつくと、背後の男に何か食べ物を持ってくるように命じた。男は銃を油断無く構えたまま出て行き、もう一人が部屋全体をカバーできるような位置取りに移動する。なかなか統制が取れている、とぼくは妙なところに感心した。
 すぐに、トースト数枚が運ばれてくる。ぼくはそれをほとんど奪い取るようにして受け取ると、千切りもせずに直接口に運んだ。マナーとしては褒められたものではないが、食欲には抗えない。食べている間、老人がドイツ語で二言三言、ドイツ語で話しかけてきた。「味はどうだ」「そんなに腹が減っていたのか」等々。ここでぼくが何か答えれば、ぼくはドイツ語が話せるということになり、言い訳がより苦しくなる。まったく、食えない男だ。ぼくは、何も分かっていないような顔をして、老人のほうを見つめ返した。いつの間にか、3枚ほどあったトーストを全部食べ終わっていた。
「ぼくは船乗りで、いまは病気の弟に会うために、イギリスに向かっているんだ。エジンバラの港から電車を乗り継いでスコットランドを横断していたんだけど、困ったことに金がなくなってしまってね。しばらく徒歩で東に向かっているうちに、崖の下で事故にあった車を見つけたんだ。そのサイドポケットに入っていたお金をいただいたら、警察沙汰だよ。まったく、ついて無いったら!」
一息に言い終える。現状考えられる中で最も自然な嘘だ。賽は投げられた。ぼくは、ほとんど祈るようにして老人の次の言葉を待った。
「・・・悪くない嘘だ。しかし、状況設定がありがち過ぎるね、Hannay君。」
どうやら、今の作り話で老人はますます混乱したらしい。言葉がキレを失っていた。
「だから、そのHannayって言うのは誰だよ!もういい、こんなところでお前と、銃を持ったごつい兄さんと、それからそのHannayとか言うやつと時間をつぶすくらいだったら警察に捕まったほうがマシだ。さあ、爺さん、素敵な食事をありがとう。そこをどいてくれるか?」
「・・・いや、今解放するわけには行かない。君には、このままこの部屋にいてもらおう。」
老人は、部屋に備え付けられたベルを鳴らして執事を呼んだ。多少余裕を取り戻した様子で、命じる。
「5分以内に車を用意しろ。昼食に招待したい人がいるんでね。」
「承知しました。」
そのまま、ぼくの方に品定めでもするような視線を送りながら出て行こうとした。ぼくは、引き止めるように叫んだ。
「何をするつもりか知らないけど、最後には必ずぼくがHannayなんかじゃない、ってことがわかるだろうよ!」
「カール、」
老人がドイツ語で執事に話しかけた。
「この男を、私が戻ってくるまで、裏の部屋に閉じ込めておきなさい。」
「承知しました。」
老人がいなくなると、執事がぼくに「立て。」と短く命じてきた。言われたとおり立ち上がる。左右に銃が突きつけられ、歩くように強制された。精一杯の抵抗として、歩くときに前を歩く執事の靴につま先をぶつける。軽く無視され、我ながら子供じみている、と反省した。

 つれてこられた部屋は、さっきの部屋に輪をかけて暗く、じめじめしていた。あちこちに空の瓶や小箱が散乱し、足をとられそうになる。大きな本棚が、部屋の真ん中に鎮座していた。採光用のが申し訳程度についているが人間一人がぎりぎりで通り抜けられる程度の大きさで、あまり役に立ってはいないようだ。空き箱を踏み台にして、窓に手を伸ばしてみたがはめ込み式らしく動く気配が無い。あきらめて床に飛び降りると、何かに滑ってしたたかに頭を打ち付けてしまった。小さく呻き声が漏れる。まったく、ついに運にも見放されたか。
 床に転がったまま考える。あの老人は、敵の中で唯一直接ぼくに会ったことがある、太っちょと根暗の二人組みを呼びに行ったに違いない。「昼食に招待」と言っていたか・・・。つまり、今から2時間ほど後にはぼくは彼らと引き合わせられ、その時点でぼくの負けは決まるわけだ。あの二人組みとぼくはもはや旧知の仲だ。彼らは、見まごうことなくぼくをRichard Hannayだと判断するだろう。こうなってくると、警察がぼくがここにいるのを見つけ出し、逮捕してくれたほうがマシなように思えてくる。警察に捕まれば、少なくとも命の安全は保障されるだろう。
 起き上がって、かぶりを振る。相変わらず薄暗い部屋だが、だいぶ目が慣れてきた。と、奥の壁に何か亀裂のようなものが走っているのが見える。空き瓶を蹴散らしながら近づき、指で触れてよくよく調べてみると、金属質の縁取りに同じく金属製の取っ手__どうやらこれはかなり大き目の物入れのようだった。他にすることも無いので、取っ手を引っ張る。腕にぐっと力を入れると、さび付いた音を立ててが開いた。中に手を差し入れて探る。最初に手に触れたのは紙の小箱で、目を凝らしてみるとそれはマッチ箱だった。一本擦って火をつける。光は弱かったが、無いよりはいい。暗い物入れの中が橙色に照らされ、そこにある物のシルエットが分かるようになった。長方形の黒い影が横たわっている。手にとってよく観察する。それは、木材を釘で強固に接合して作った箱だった。ずっしりと重く、振るとカタカタという乾いた音が出る。ここまでして手にしたものだ、開けてみない手は無い。壁に思い切り投げつけてみた。鈍い音が部屋の中に響いたが、外に伝わるほどではないだろう。ぼくをここに閉じ込めている強固な木製の扉が、今はありがたい。ちょうどいい防音壁になってくれている。繰り返し壁に叩き付けると、木材の腐食した部分が砕ける破砕音が小さく聞こえてきた。近づいて、あらわになった中身を手にとって見る。『火気厳禁:第一種爆発危険物』驚いたことに、それは固形の爆薬だった。それも相当に強力なもの。あの小さなガラス窓を吹き飛ばすには十分過ぎる威力だろう。
 偶然に手に入った爆薬を手に考える。なぜこんなにも都合良く、こんなところに置いてあったのだろう。まるで三流サスペンスのような展開だ、伏線も何もあったものではない。それはともかく、敵による罠、ということは考えられる。ぼくは火薬の専門家でも何でも無いのだから、使い方を誤れば、窓ガラスごと木っ端微塵になるか、あるいはガラスを破砕できずに、敵にぼくが逃走しようとしているのを知らせるだけの結果に終わってしまうだろう。だが、よくよく考えてみると、これらの結果は必ずしも敵にとって都合よくは作用しない。火薬の量が多すぎれば確かにぼくは死に、自動的に口封じになるだろうが、それと同時に敵まで爆死する可能性が出てくる。逆に少なすぎれば、死亡者は出ないまでも、最悪の場合この家が全焼するだろう。どちらにせよ、敵がぼくを陥れる目的でここに火薬を置いたと言うことはないようだ。つまり、この爆薬はまさに天からの助けというやつなのだろう。
 ぼくは、とても久しぶりに、感謝の気持ちを込めて十字を切ろうとした。まず手を額に持って行き、次に・・・手順を忘れていたのであきらめた。我ながら、信心深さのかけらも無い。窓枠に手をかけて爆薬をどの程度使うべきか考えながら、ぼくは少しだけ反省した。
 導火線を窓際から部屋の隅まで引き伸ばす。そのまま火をつけると直接ぼくのところまで衝撃波が伝わってくるので、本が満載された本棚を対衝撃用の障壁として利用させてもらうことにした。側面の板に手をかけ、体重を乗せて押す。かなり重量があったが少しずつ動き、最後には強固な壁として爆風をさえぎる位置に移動させることができた。本棚に背中を向け、導火線を左手に保持したままマッチに火をつける。ジジッと小さな音が出て、火薬のにおいが鼻腔をくすぐる。その炎を見つめながらひとつ深呼吸をすると、ぼくは意を決して導火線の先端に着火した。

 固くより合わせた紙に可燃性の油を染み込ませた導火線は、マッチの火に炙られ、たちどころに発火温度に達すると、その名に違わず一端の火を先へ先へと導いた。暗い部屋の中でも赤く目立つ火種は、静かに、だが確実に窓際の爆薬を目指して動き、ついに火薬の詰められた箱の中へと入り込む。熱を受け取った炸薬が一瞬にして周囲の酸素と化合し、急激にその体積を増す。膨張力を吸収し切れなかった外郭の木箱はいとも簡単に吹き飛ばされ、燃え盛りながら辺りに火の粉を散らした。軍用火薬の爆発力はその程度では減衰することなく部屋全体に伝播する。鉄の壁さながらの、高圧空気の衝突で部屋中のガラスというガラスが一瞬にして砕け散った。強固な鉄筋コンクリートの壁やマホガニー扉は粉々になることこそ無かったが、力学的な弱点、すなわち重心から亀裂を走らせ、やがてその表面の一層を崩落させた。部屋の外壁はもはや突けば崩れるような状態だったが、爆発の第二波は容赦なく襲い掛かった。細かいひびが大き目の溝になり部屋の構造自体を歪ませる。パラパラと、細かいコンクリート片が重力に引きずられて落下し、ガラス片の飛び散る床の上に新たな色合いを付け加えた。

 導火線に火を付けると、心の中で秒読みをする。導火線の長さから言って、爆発まで後5秒といったところだろう。陳腐な言い回しだが、一秒が永遠に感じられた。こういう時に体感時間が引き延ばされるというのはどうやら本当らしい。それにしてもこんなときにまで無駄な思考を絶やさないぼくは、実は心に余裕のある人間なのだろうか。唇の端が持ち上がるのを待たず鼓膜が破れそうな轟音が背後から響き__ぼくは本棚ごと目の前の壁に叩きつけられた。

 目を開けると、辺りには黄色い煙がもうもうと立ち込めていた。どうやら火薬が多すぎたらしい。部屋全体がミシミシ音を立てている。心なしか床も揺れている気がした。まったく、窓一つ壊せれば十分だったのに。心の中で悪態をつくと、衝撃を受け止める役目を終えてほとんどど壊れかかった本棚に手をつき、立ち上がった。
 煙を吸い込まないように注意しながら窓際へ歩み寄る。靴底と床の間でガラスやコンクリートの破片が擦れる嫌な音がしたが気にかけている余裕は無かった。上を見上げると、一筋の光が差し込んできていた。なかなか神々しい。当然というべきか、窓に嵌められた厚いガラスも粉々に砕け散っていたようだ。軽く飛び上がって窓の桟に手をかける。何かが指に突き刺さり、血が出た。気にせず、そのまま懸垂の要領で上体を引き上げる。窓から、広い外へ身を投げ出した。肩口からの落下。左腕に激痛が走った。さっきの爆発で何かがぶつかったのかもしれない。ただ落ちただけとは思えない痛みに、思わずうずくまる。
「なんだ、何が起こった!?」
「分からない、まずあの男を捕まえてある部屋を見て来よう!」
屋内から、複数の足音と怒号が聞こえてきた。視線をぼくが吹き飛ばした窓に向ける。黄色い煙がとどまることなく噴出してきていた。少々派手にやりすぎたかもしれない。敵が状況を把握して、ぼくが逃げ出したことに気づくまでが勝負だ。ぼくは、節々が悲鳴を上げる体に鞭を打って立ち上がると、よろよろと歩きだした。この有り様ではそう遠くにはいけないだろう。ここの建物のどこかに身を隠して、夜を待ち、体力を回復してから逃走するしかない。さぁ、どこに隠れようか。
 敵に見つからないように辺りに気を配りながら、そして負傷した左腕を気にしながら小走りに移動する。見上げる先は、干草を入れるための塔だ。外壁のくぼみを利用すれば屋根の上まで登れないこともなさそうだ。この敷地にある建物の中で一番高いのがあの塔だから、まず見つかることは無いだろう。白亜の壁に手足をかけてよじ登る。左手に体重をかけるたびに鈍痛が脳天を突き抜ける。思わず手を離しそうになり、ぐっとこらえる。この高さから落ちたら、それこそただでは済まない。全身全霊の気をたぎらせて、なんとか屋根の上まで登りきることができた。緩やかな傾斜の屋根の上に倒れこみ、脱力する。注意していたにもかかわらず、煙を吸い込んでしまったらしい。頭痛と吐き気が頭を苛む。今できることは全てした。後は見つからないことを祈るばかりだ。ぼくは少し眠ることにした。

 顔に降りかかる直射日光と下から聞こえてくる喧騒で、ぼくの意識は急速に覚醒した。辺りを見渡す。壁の無い高いところにいることを思い出し、足元がおぼつかなくなる嫌な感触を味わった。まだ敵に見つかってはいないらしい。下を見下ろすと、あの禿頭の老人と、太っちょと根暗の二人組み、それに数人の銃を持った男たちが植木を掻き分けたりダンボール箱をひっくり返したりしていた。現実的に考えればダンボールの中に大の男が隠れることなどできるわけが無いのに、ずいぶんとご丁寧なことだ。と、黒服の一人がこちらを見た気がして、ぼくはあわてて屋根の中央のほうに這って行った。これはひょっとすると見つかってしまったかもしれない。しばらくすると、塔の入り口の扉を揺らす音が伝わって来た。ぼくは、上がってくるんではないかと心配になったが、ドアには鍵がかかっていたらしい。
「くそ、ここの鍵はどこだ!?」
「落ち着け、そこはもうずっと前から施錠されていただろ?どうやっても入り込めないさ」
「それもそうだな・・・。とすると、外か!車を回せ、まだこの辺りにいるはずだ!」
ぼくは心の中で、「落ち着け」といったほうの黒服に感謝した。すぐに人の気配は遠ざかり、何台もの自動車が走り出す音が聞こえてくる。ホッと息を吐き出した。もうここにいれば安全だろう。
 当面の脅威は去ったが、ぼくにはまだ問題が残されていた。のどの渇きだ。ただでさえ収まらない頭痛に加え、脱水にもなりかかっていた。初夏の日差しは、思ったより強い。最悪の場合、日中症になってお陀仏だ。遠くのほうに視線を飛ばす。ぼくが水を飲もうとして結局飲めなかった小川が見える。今すぐにもここから走り去って心行くまで水分を補給したかったが、今の状況ではこの敷地から出ることもままならないだろう。あきらめるしかなかった。
 ふと視線をずらすと、奇妙なものが見えた。近くに見える丘は、そのほとんどが背の高い木に覆われていたのだが、そのうちのひとつが、刈り取られたように地面をむき出しにしていたのだ。ちょうど航空写真で見たゴルフ場のような様子だ。ただ明らかにゴルフ場と異なるのは、その形が縦長の長方形をしていること、そして中央に車輪が転がった跡が二筋つけられていることである。ぼくは、あの広場は、敵が飛行機を発着させるのに使っている飛行場なのだろうと考えた。こっそりと離着陸をするにはかなりいい位置だ。あれでは高いところから見ない限り飛行場だとは気づかない。よしんば着陸、あるいは離陸するところを見られたとしても、遠くからでは飛行機が丘の上を飛んでいくようにしか見えないだろう。
 あれが飛行場だとすると、まずいことになった。今飛行機が到着すれば、屋根の上のぼくはいとも簡単に見つかってしまうだろう。この塔の上に隠れる事のメリットは、下からの視界が遮断されていることで__逆に上から見れば丸見えなのだった。ここまできてあの狭苦しい部屋に逆戻りするのはごめんだ。ぼくは、夜が早く来るように祈りながら屋根の上で半日を過ごした。

 遠くから、かすかにエンジンの音が聞こえてくる。はじめは蚊の羽音ほどだったそれは次第に大きくなり、ついには丘の向こうからその本体が姿を現した。敵の飛行機だ。ぼくの見立ては正しかったらしい。見事な三点着陸を見せると土を蹴立てて地面を走り、滑走路の端ぎりぎりで静止した。
 時刻は6時を回った頃だろうか。日が暮れかかり、辺りに夜の帳が降り始めていた。ねぐらに帰る鳥が、V字の群れをなして飛んでいる。この暗さでは、屋根に潜むぼくの姿が飛行機に乗っていた者に見られたとは考え辛い。時間は、そして宵闇は、ぼくの味方だった。上手く敵をやり過ごせた。後はこの恐ろしい家から逃げ出すだけだ。
 飛行機から降りてきた人々がこの家に入っていき、周りが静けさに包まれる頃には、もう午後9時過ぎだった。もうそろそろ行動に出てもいいだろう。相変わらず続く頭痛に顔をしかめながら、ぼくは屋根からそろりそろりと足を下ろした。暗くなってきているとはいえ、近づいてよく見られたら、たちどころに発見されてしまう。音を立てないように気を配り、なおかつ迅速に行動する必要があった。突然、家に正面扉が開き、懐中電灯をもった人影が出てくる。ぼくは「見つかったか」と身を固くしたが足音と明かりは徐々に遠ざかり、門から出て行った。胸をなでおろす。まったく、心臓に悪い。塔からの降下を続けることにした。
 慎重に、すばやく、地面に着地する。ひざを折って衝撃を吸収したが、左肩と頭に鈍痛が走った。痛みに耐えながら立ち上がり、小走りに門の逆方向へ移動する。門から堂々と出て行くのは危険すぎた。裏手から、生け垣を乗り越えて行くほうがいいだろう。家の影からそっと裏庭の様子を伺う。爆発して吹き飛んだ窓から明かりが漏れている様子は無い。誰もいないようだ。ぼくはそっと助走をつけて、生け垣の土台に飛び乗った。針葉樹の葉が肌にちくちくと刺さったが、気にせず通り抜ける。降り立った先は、視界の開けた空き地になっていた。
 敵の家の敷地から出たとはいえ、まだ油断はできない。辺りに歩哨がいる可能性は否定できないし、そうでなくても何らかの形で侵入者を知らせるための警報が設置されているだろう。ぼくは、周りに最大限の注意を払いながら足を進めた。自分の吐息がことさらに大きく聞こえる。息を詰めるようにして、一歩を踏み出そうとして__月明かりに照らされ、ワイヤーロープの影が地面に横たわっているのが見えた。良く見ると、地上60センチくらいのところに念入りに艶消しされた金属線が張られている。これに触れていたら、サイレンが鳴り響くか、あるいはどこからか銃弾が飛んでくるか、とにかく何かのトラップが発動していたことだろう。危ないところだった。ほとんど地面をはうようにして、ぼくはワイヤーの下をくぐり抜けた。地面の冷たさが熱を帯びた頭に心地よい。立ち上がると、体についた土を払った。数メートル進むと、さらに同じような金属線が張られていたが、ぼくはこれも事前に発見し、さっきと同じ要領で突破した。後ろを振り返ると、家からは50メートルほど離れていた。ここより先にはさすがにトラップは無いだろう。警報を鳴らしても到着するまでに時間がかかりすぎるし、問答無用で銃弾が飛んでくるようにしたら、味方が引っかかる可能性が高いからだ。ぼくは後ろに遠ざかる明かりと、痛む左肩を気にしながら敵の牙城から走り去った。
戻る                                次へ

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2009年01月03日 21:45