ひたすらに歩き続けて、3時間ほどがたっただろうか。たどり着いた丘の上で岩に腰を下ろし、ぼくは次の行動について考えていた。頭痛がしつこく続き、気分が全くすぐれない。左腕はほどんど動かせないほどになっていた。火薬の煙を吸い込んだことに始まって、長時間直射日光を浴び続け、さらには脱水症状にも苛まれ__体調を崩す要因はあげたらキリが無いだろう。ホッとため息をつくと脱力し、ひざに体重を預ける。緊張し続けていた筋肉が弛緩し、このままずっとここに座っていられたらどんなに良いだろうと思った。
ぼくはAlexander=Turnbullの家に、つまりあの工事現場の周辺に一度戻ることにした。Alexanderに渡してしまったぼくの荷物を取り戻すためだ。Scudderの黒いノートが必要になる機会はまだまだあるだろうし、それに何よりこの小汚いコートを着続ける事だけは避けたい。こんな格好のまま都会に出たら、間違いなく職務質問のターゲットになってしまう。
Alexanderから荷物を取り戻したら、そのまま電車で南に向かえばいい。そしてSir=Harryが紹介してくれたWalter=Bullivantに会い、全ての真実を話す。ここまでの行程は早ければ早いほどいい。始まるであろう戦争に対してイギリス政府が何らかの対策をとるまでに、ある程度の時間を要するし、そしてぼく自身も、彼と共にいればある程度の身の安全が保証されるからだ。
今後の見通しが立ったので、ぼくは重い腰をあげて立ち上がった。これ以上この場で休んでも、体調は改善するどころか、悪くなる一方だろう。上を見上げると、澄んだ空に星が瞬いていた。この寒空の下ならば死場としては悪くないかもしれないが、残念ながらぼくにはまだなすべきことがある。一歩を踏み出した。それだけでも脳が揺さぶられ、胃の中が撹拌されるような悪寒が湧き上がってくる。ゆっくりとした足取りで丘を下った。Alexanderの家まで30キロといったところだろうか。万全な上体でも一晩でたどり着けるかどうかの距離だ。この調子では、どう考えても踏破する前に夜が明けるだろう。昼間に、この荒野を歩くことの危険さは身にしみて分かっていた。どこから飛行機が飛んでくるか分からないし、隠れる場所も少ない。明日の日中はどこか安全な場所にとどまり続けるのが賢明だろう。
丘の谷間をはしる細い道を、それこそ虫の這うような速度で進む。夜の空気は、肌に刺すような冷たさを感じさせた。時間ばかりが過ぎるが、一向に距離が稼げない。だんだんと上半身が前かがみになってきた。ふと、口の端に自嘲の笑みが漏れた。今のぼくの様子を誰かが見ていたら、きっと幽霊か何かだと勘違いするに違いない。両手をだらりと下げ、とぼとぼと歩く薄汚いコートを着たモノ。カニバルグールやゾンビといった昔話の化け物がいやでも頭に思い浮かぶ。そんな怪物もどきが、国家の命運をかけて働く。ずいぶんとシュールなホラー映画だ。
ぼくの体調は一向に回復せず、やっとまともに動けるようになる頃には、十日が過ぎて、日付は6月12日になっていた。その間、Alexanderはいやな顔一つせず、また余計な詮索をすることも無く、家で休ませてくれた。彼は朝早くに例の工事の仕事に行き、夕方には帰ってくるとずっと暖炉のそばに座っていた。ぼくはとにかく安静を意識し、起きている時間は新聞を隅々まで目を通して過ごした。ぼくが濡れ衣を着せられているLang ham Placeでの殺人事件は既に下火になり、6日が過ぎた頃には全く紙面に載らなくなっていた。ぼくはこの逃走劇の中で一回も警察には捕まっていないから、進展が無さにメディアの興味が醒めてしまったのだろう。
家を出るとき、Alexanderにせめてもの謝礼としてお金を渡そうとしたが、彼は断固として受け取ろうとしなかった。最終的には食事代だけでも、と無理やりに数枚の紙幣を握らせ、ぼくは最寄の駅__といっても20キロほどの距離があったが__に向けて歩き出した。久しぶりに出た外のまぶしさに、思わず目を細める。すがすがしいほどの快晴だ。深呼吸をした。脳に酸素がいきわたるのを感じる。引きこもりから急に脱却したら、こんな気分になるのかもしれない。足取りも軽く、ぼくはその日のうちに目的の駅までたどり着いた。
ロンドン方面の夜行列車は出ていなかったため、ぼくはその夜を駅の待合室で過ごした。ここが都会だったならホームレスや酔っ払いに絡まれるのではないか、と心配もしたのだろうが、田舎の駅にはぼく以外には誰一人としていなかった。こころなしか、外を吹き抜ける夜風が大きく聞こえる。蛍光灯の薄暗い明かりに照らされているうちに、心細さがこみ上げてきた。暗い窓の外の輪郭の無い気配に何度も耳をそばだてる。結局その夜は一睡もできなかった。
ようやくホームに滑り込んで来た始発列車に乗って南へ向かう。睡眠不足にまぶたが重くなったが、寝てしまったら乗換えがままならなくなる。授業中に寝ていて先生に机の角を蹴り飛ばされ、それがみぞおちに入って痛い思いをしたハイスクール時代の記憶がよみがえって来た。シートの柔らかさについつい意識を失いかけつつも、寝過ごすことなく3回の乗換えを成功させ、午前8時にはロンドンの西に位置するArtinsewll駅に到着した。
駅から出ると、町の空気全体が湿っているのが分かった。比喩表現ではなく、辺りに水場があるとき特有の、あの感じだ。川か湖があるのだろうか。ここに住んでいる限りは、水に苦労することは無いだろう。整った町並みといい、悪い感じの町ではなかった。駅前の通りを道なりに歩き続ける。街路樹を数えるごとに商店街や人々に喧騒は後ろに流れ去り、気がつくと緑の多い谷の中を歩いていた。見ると、中型船ならやすやすと入ってこれそうな河川がその底に流れている。水は美しく澄み切っていて見ているだけでも涼しくなってくる。組織的な漁業が行われているらしく、岸辺には大小さまざまな船がつながれていた。見ると、それらよりもやや上流よりに、橋が架かっている。約束の場所だ。
橋げたから身を乗り出すようにして、川の中ほどを見つめる。口ずさむ歌は、民謡の"Annie Laurie"だ。すると、橋の向こうから一人の漁師がぼくと同じ歌をハミングしながらこちらに近づいてきた。肩幅が広く堂々とした体躯で、幅広の帽子をかぶっている。ぼくの前に立つと軽く微笑みかけてきた。親切そうで、それでいて知性的な顔がこちらを向く。
「やぁ、今日は水が澄んでいるね。絶好の釣り日和だよ。」
ぼくは、軽くうなずいて見せた。
「あそこにいる大きな魚が見えるかい?あれを捕まえようと、昨日は徹夜してしまってね。」
「見えないな、どれのことを言っているんだ?」
「あれだよ、ほらあの水草のそばにいる・・・。」
「ああ、あれか。なるほど、あれは大物だ。まるで[黒い石]のようだな。」
男は一つ口笛を吹き鳴らすと、そっと耳打ちをしてきた。
「・・・Twisdonさんですね。」
「いえ、」
一瞬Twisdonというのが誰のことかわからなかった。そういえば、と思い出す。ぼくがSir=Harryに対して使った偽名だ。ということは、この男がWalter=Bullivantなのだろう。
「あ~、つまり、ぼくがそうです。」
「これからは、自分の名前を一つに絞っておくことをお勧めしますよ。」
口の端に笑みを浮かべながら言ってくる。余裕をたたえた表情は、綱渡りを続けてきたぼくには非常に心強かった。と、男が急に真顔に戻る。川沿いの家の一つを指差した。
「5分待ってから、あの家の裏口に来てください。それでは、また後ほど。」
ぼくたちは、さも軽い立ち話でもしていたようなふりをして分かれた。
辺りを適当にぶらついたあと、言われたとおりに裏口の戸を叩く。すぐに内側から扉が開けられた。背中に竹の棒でもつけているのではないのかと思うほどに背筋の伸びた執事然とした初老の男性が顔を覗かせる。
「お待ちしておりました、さぁ、どうぞこちらへ。」
厚いじゅうたんの敷かれた廊下を歩き、個室に通される。洗面用具と新しい背広が用意されていた。
「この部屋のものはご自由にお使いいただけます。隣の部屋はバスルームになっておりますので、ご利用ください。お食事は一時間後でございます。」
執事が去ると、ぼくはベッドに腰を下ろした。スプリングがきいていて、面白いように反動がある。子供の頃だったら喜んでこの上で飛び跳ねたに違いない。窓の外には、さっきの橋が見えた。山の端に消えつつある夕日といい、一枚の絵画のような景色だ。驚いたことに、Walter=Bullivantは最初からぼくを信用する気でいてくれたらしい。客観的に見れば、それはとても無用心なことに思えた。ぼくには殺人容疑が着せられているのだ。ふと、壁にかかった姿見に映った自分が目に入る。ぼさぼさの髪に脂の浮き出した肌、それにぼろぼろの衣服。どこをとっても凶悪犯人にしか見えなかった。どうあっても食事までに何とかしなくては。
シャワーを浴び終わると、新しい服を身につけ、ダイニングに向かう。ぼくを見ると、Walter=Bullivantが軽く手を上げてきた。一つ会釈をしてから席に着く。この場所で、全ての真実を余すことなく語れるように頭の中を整理した。少しだけ、鼓動が速まる。手に持った黒いノートを我知らず握り締めていた。意を決して口を開く。
「まずはお礼を言わせてください、本当にありがとうございます。Harryさんやあなたの協力が無ければ、ぼくはここまでたどり着けなかったと思います。その上で、申し訳ないのですが、今の段階でもまだ、ぼくは隠し事をしています。この席で、その全てを明らかにさせてください。ああ、それとご存知の通りぼくは警察に追われる身です。それは濡れ衣ですが、ぼくがここにいればあなたにまで迷惑が及ぶことになるかもしれません。そうなったらいつ追い出されても構いませんので、お気遣いのないようお願いします。」
一息に言い切った。じっと視線を注ぎ、相手の反応を待つ。
「ふむ・・・まぁ、とりあえず食事にしましょう。冷めてしまったら、料理人が悲しみますからね。」
思わず、脱力してしまった。
ともあれ、食事もワインもすばらしかった。ぼくはハイ・ソサエティには縁が無かったが、その一端が垣間見えた気がする。多分こんな機会はこれからの人生でもう一回あれば良いほうだろう。ぼくが美味しかった、と感想を言うと、Walter=Bullivantは目を細めてうなずいた。
席を立って、居間に移る。ぼくたちがソファに腰をおろすと、すぐに目の前のテーブルにコーヒーが置かれた。何から何まで行き届いた家である。
「さて、私はHarryから頼まれたことは全てしました。話によるとあなたから何か興味深いことが聞けるということでしたが。それを教えてもらえますか、Hannayさん。」
ぼくが名乗っていないにもかかわらず、Walter=Bullivantはぼくを本名で呼んだ。いつの間に調べたのだろうか、全く仕事が早い男だ。それとも、橋の上では分かっていて偽名で呼んだのだろうか。
ぼくは、全てを語った。まずは始まりの夜にScudderがドアの前にいたこと。彼が殺されるまでの数日間どんな風であったかを話すのを、Walterは面白そうに聞いていた。2,3度微笑む。彼は生前のScudderと面識があったのだろうか。次に、Scudderが殺され、ぼくは牛乳配達員になりすましたこと、そして黒いノートこと。「そのノート、ここに持ってきましたか?」早口に聞いてくる。ぼくがポケットから取り出して見せると、Walterは安心したようだった。ぼくは、Scudderのノートに書いてあった内容については触れないでおいた。Sir=Harryのこと、工事現場で働くはめになったこと、Marmaduke=Jopleyのことを話し、逃げ込んだ農家が敵の拠点だったことに至った。「禿頭の老人、ハエのような眼球__私は、その男が嫌いでしてね・・・家を爆発させた、か。すばらしい活躍ですよ。」
ぼくが話し終えると、Walterは立ち上がって暖炉のそばに歩み寄った。暖かい光がその顔を照らす。
「・・・もう、警察については心配ありません。彼らは、今後はあなたを捕まえようとはしないでしょう。」
ぼくは驚いて、思わずWalterのほうをまじまじと見つめてしまった。
「真犯人が捕まったんですか?」
「いいえ、でも、少なくともあなたが犯人ではないことは明らかにはなりました。」
「・・・どうやって?」
「殺されたScucder自身が、生前に言っていたからです。ああ、私は彼と多少面識がありましてね。彼は変わっていましたが、正直でもありました。そのScudderから、5月31日に手紙が届きましてね。」
何かおかしな疑問を浮かんだぞ、その時点ではScudderは死んでいるはずなんだが?[つきつける]くらえ!
「その一週間前には、Scudderは死んでいるのでは?」
「彼の手紙はスペインやニュー・キャッスルを経由して1週間かけて届くんですよ。消印は5月23日でしたね。」
「彼は、何と?」
「危険にさらされている、ということでした。Lang ham Placeで、ある男性に匿ってもらっている、と。彼はきっと自分が殺されることを予期していて、そのときに後を取ってくれる人を探していたのでしょう。ともあれ、その手紙から私はあなたが犯人で無いと判断して、そのことを警察の高官に話したんです。」
瞬間、胸のつかえが取れたような気がした。これで、ぼくの唯一の敵は祖国の敵、ということになる。
「では、そのノートを見せてもらえますか?」
ぼくはScudderのノートを手渡すと、そこに書かれているのが暗号のカギを教えた。彼は一瞬にしてそれを理解すると、ノートに目を通し始めた。その表情が徐々に深刻なものになる。心なしか、暖炉の火が弱まった気がした。やがて、Walterは口を開き、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私にも、ここに書かれていることの全ては分かりませんでした。ただ、この全ては必ずしも真実では無いと思います。まず、15日にロンドンで秘密会議が行われること、これは正しい。良くこの事実にたどり着いたものだと思います。でも、Black Stone、これについてはかなり事実と異なった記述がされていますね。Scudder自身が故意にドラマティックさを演出しようとしたのか、それとも本当に分からなかったのか、そこはもう確かめようがありませんが・・・。」
Walterは一度言葉を切った。何か考え込んでいるようだ。ぼくは沈黙を守ることにした。
「Black Stone・・・。これでは、まるでどこにでもある安っぽい物語ですね。あとKarolides首相についても書いてありますが彼が殺されるとしたら、その頃には多分私たち二人は死んでいるでしょう。・・・いや、ここが彼の勘違いなのかもしれない。それにしても、Scudderが殺されたことを考えると、何か良くないことが起ころうとしていて、彼がそれに関する重大な発見をしたとしか・・・。でも、ここに書かれているのは海軍の計画だけか・・・。全く良く分からないな。」
突然部屋の戸が開き、召使が入ってきた。
「お取り込み中失礼します。旦那様、ロンドンから電話が入ってございます。」
嫌な予感が走る。Walterも同じ感じを覚えたのだろうか、しばし視線を絡ませると、小走りに走っていった。パチパチという、暖炉の薪がはぜる音だけが部屋に響く。ぼくは押し黙ったままScudderのノートを見つめていた。その表紙の黒さが、心なしか際立って見えた。瞬く間に5分が過ぎ__再び部屋の戸が開いて、蒼白になったWalterが戻ってきた。
「・・・疑ってしまって、Scudderに謝る必要がありそうですね。」
無言で先を促す。
「Karolides首相が、本日午後7時に、銃で撃たれ亡くなりました。」
ぼくは、思わずイスから腰を浮かせた。
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