瞬く間に一夜が明けた。昨日の晩は何か行動をとらなければ、という焦りに駆られたが、「寝逃げすることも悪くないよね」というWalterの鶴の一声で解散になり、ぼくは個室の軟らかいベッドを堪能することができた。しかし、それを楽しんでいる余裕は無い。とりあえず朝食を、と下階に降りると、Walterは既に起きてScudderのノートに目を通していた。昨日の余裕をたたえた態度は影を潜めている。
「昨日はあなたが寝たあとに、いろいろと手を回しておきましてね。」
どうやら彼は寝逃げしなかったらしい。ぼくが朝食を口に運んでいる間も、喋り続ける。
「フランス人のRoyerという人が明日ここに来ることになっていたのですが、その予定を一日繰り上げて今日にしたんですよ。5時にはロンドンに到着していると思います。まぁこんなことで事態が改善するとは思えませんが、念のためというやつですね。ああ、でも、万が一敵にこちらの情報が流れていた場合、その経路を知る手がかりにはなるかも知れませんけど。」
なぜこんな重要なことをぼくに話すのか、と聞こうとして、気づく。いや、なぜ今まで気づかなかったのだろう。Scudderのノートに書かれていた、「6月15日の秘密会議」。それが行われるのが、ここ、Walterの家だということに。そう考えれば、Walterの妙に自身溢れる態度の根拠も、その立場も、そしてぼく自身の立ち回りも、すべて明らかになるというのに。Walterはぼくがとっくに気づいているものとして話を進めていたのだろう。危うく馬鹿な質問をしてしまうところだった。自分の中でだけ急激に動いた状況に戸惑いつつも、なんとか言葉を口にする。
「海軍の計画は変えられると思いますか?」
海軍の計画が変わる→Black Stoneが既に情報を盗み出していたとしても、問題なくなる
よし、論理は破綻していない・・・はずだ。
「ええ、恐らくは。でも、それはあまり好ましくない事態ですね。軍隊というのは大きな組織ですから、一度立てた計画に大幅な改定は加えられないんですよ。それに、現時点で情報が漏れていなければ何も問題ないわけですし。それよりも、気をつけたいのはこれからのBlack Stoneの動きですね。彼らが、正攻法で__たとえばこの建物に銃を持って侵入したり、あるいは会議に参加する誰かを脅したり__攻めてくるとは考えづらい。そんな単純馬鹿なやり方ではなくて、効率よく詳細まで分かる方法をとってくるはずです。さっき言ったRoyerはここでの会議の後、フランスに結果を持ち帰るわけですが、その内容は誰にも知られていない前提ですから。Black Stoneがそれを盗み出して大公開でもしてくれた日には、たまったものではありませんね。」
「では、Royerがフランスにたどり着くまで、ぼくたちが同行するというのはどうでしょう?そうすれば、あらゆる意味で安全だと思いますが。」
「うーん・・・。あまり意味は無いと思いますよ。今夜ここに来るのは海軍のWhittaker、私、Arthur=drew氏、あとはWinstanley将軍です。海軍のトップも来る予定だったんですが、病欠ということで・・・。で、会議の場でWhittakerがRoyerに計画書を渡して、受け取ったRoyerはポーツマスの港から海軍の船でフランスに戻ります。つまり、計画書は絶えず大勢の人間に守られていて、いまさら私たち二人が増えても、ということになってしまいますから・・・。それよりはここにいて状況を監視していたほうが、メリットは大きいと思いますね。・・・ただ、唯一の不安材料がKarolides首相が殺害されてしまったことで。これは完全にイレギュラーで、計画全体の綻びにもつながりかねません。」
 朝食後、ぼくはWalterと相談し、彼の運転手のして行動することにした。Walter曰く、「リスクを冒したくないのでね。」
家を出て、ロンドン市街に入る。久しぶりに帰ってきた都市だが、あまり感慨は無かった。車を走らせ、向かう先はロンドン市警だ。Walterの顔を見た瞬間に受付の係員が立ち上がって頭を下げた。そのまま奥へ通され、ぼくはトラの威をかる狐の気分を味わった。いかにも重役然とした男が現れる。Walterが笑いながら言った。
「Lang ham Placeでの殺人犯を引渡しに来ました。」
冗談だと分かっていても、一瞬肝が冷えた。
「ははは、あなたが犯人だったらどれだけ良かったことか。今すぐ尋問質に送ってみっちりとしごきますよ。まぁ、実際ここ一週間我がロンドン市警の捜査能力は、ほとんどがあなたに振り向けられていたわけですが。っと申し送れました、私はMacGillivrayという者です。立場としては警視総監クラスだと思ってくれて構いませんよ。」
ぼくは頭を下げると、差し出された手をとって握手をした。
「MacGillivary、あなたにもHannayさんの話を聞いて欲しかったのですが、それを話しても差し支えなくなるのは24時間後以降ですね。今日は、あなたから『警察はもうRichard=Hannayを追わない』というお墨付きをもらいたくて来たんですよ。」
「それはもうもちろんです。地方分署にまで通達は済んでますからどうぞご安心を。」
 用が済んだので市警の建物から出ると、Walterが今日一日は自由に行動していい、と言ってきた。
「・・・分かっているとは思いますが、私たちが絡んでいる件に関しては、他言無用です。あと、BlackStoneに気づかれる可能性も捨て切れませんから、なるべく大きな騒ぎは起こさないようにしてください。」

 せっかくもらった自由時間だが特にしたいことも無い。もともとぼくはこのロンドンに嫌気が差して旅を始めたのだから、戻ってきても退屈なだけな事は目に見えている。Walterの家にとどまっていたほうが数段マシだった。ならばなぜ、Walterと別れる前にそれを言い出さなかったのか。一つは、彼の厚意を無駄にしたくは無かったということ。もう一つは__根拠の無い感覚ではあるが__Walterがぼくを家から、つまり会議から遠ざけようとしているように感じたからだ。確かに素人に勝手に参加されて引っ掻き回されたら、向こうとしては迷惑だろう。だが、ここまでの苦労を思うと、簡単に部外者扱いされたのは腹に据えかねた。しかしこれらはあくまでもぼくの予想だから、面と向かって文句を言うこともできず・・・。胸の辺りにわだかまるようなイライラを募らせながら、ぼくは商店が立ち並ぶ街中をうろつきまわった。
 旅の始まりに全財産を引き出してきただけあって、お金には余裕がある。ぼくは高級なレストランで昼食をとった。驚いたことに、荒野に一人でいたとき以上の不安がこみ上げてくる。周りからの視線が常に気になり、ぼくは身を縮こまらせた。自分の周囲にいる全ての人が、ぼくのことを殺人犯だと見ているように思える。こちらに近づいてくる人があるとその度にそいつがBlackStoneかもしれない、と勘違いし、あわててテーブルに手を伸ばして帽子を目深にかぶりなおしたりした。ふと隣の机を見やると、小さな子供がぼくの方を指差して、その母親に何か話しかけている。母親のほうは窓の外に視線を向けて、こちらの方を見ようともしない。容疑者だと気づかれたか、と思いイスを蹴って逃げ出そうとしたが、ふと頭に手をやると帽子をかぶったままだった。ただ単に、屋内で帽子をかぶっているぼくが奇異に見えただけだったらしい。
 一つ深呼吸をすると、窓の外の雑踏に目を移した。こんな様子では、いづれ何らかの騒ぎを起こしてしまう。そうなったらもうWalterと言えどもぼくを庇いきれないだろう。過敏になった神経を少しでも鈍らせるように心がけるしかない。
 時間だけは余るほどあった。Lang ham Placeのマンションには戻れないし、かといってWalterの家に引き返す気も起きなかった。とりあえずは、このレストランで時間をつぶそう。ぼくは追加でコーヒーを一杯注文した。
 今朝のWalterの話が本当なら、そろそろRoyerという人がここロンドンに来る時間だろう。当然のことながら、会議の関係者の視線は彼に集まる。その間に、何か良くないことが起こることは十分に考えられた。それを止められるのは、恐らくは自由に動けるぼくだ。問題は、具体的に何をしていいのかがさっぱり分からないことだった。Wlaterがそこを全く説明しなかったことを考えると、多分ぼくはもうこの物語の配役から外れているのだろう。今朝ぼくに一部の詳細を聞かせたのは、それを聞けばぼくが満足すると踏んだからに違いない。とすると、ぼくの役目はただ単に情報を右から左に流しただけ、ということになる。急に自分が情けなくなり、白地に金の刺繍が入ったテーブルクロスを、危うくこぶしで殴りつけそうになった。
 レストランを出ると、時刻は午後二時を回ったところだった。都会を歩く人の波は、ピークでこそ無いものの衰えた様子を見せない。世界でもトップクラスの交通量を誇る交差点を通り抜けると、それだけで大分体力を使った。苛立ちと不安、それに疲労が重なり、表情が欠落していくのが自分でも分かる。それこそ幽鬼のような足取りで町を歩くうち、西の空が赤く染まり始めやがて完全に暗くなった。
 昼とは別のレストランで食事を取り、今晩のことを考える。路上生活者にまぎれて外で寝るのは遠慮したかった。かといって一般の宿泊施設やアパートのぼくの部屋は、BlackStoneに対する不安が大きい。やはり、Walterには悪いが彼の家に戻ることを決めた。そうと決まれば、と立ち上がる。窓際の席に座っている灰色の背広を着た男がこちらを見た気がして、ぼくは帽子のつばを引き下げた。
 ロンドンの中心街からWalterの家までは多少距離があったが、歩けないほどではない。ぼくは気分を落ち着かせる目的も兼ねて、徒歩での移動を開始した。黙々と歩いていると道幅は徐々に狭くなり、やがて周囲は街灯の淡い明かりが照らすばかりになった。もう都会の喧騒は後ろに遠ざかっている。人ごみと言えるほどの人はおらず、辺りには数人の人が家路をたどるばかりになっていた。
 ふと前方に視線を移すと、数人の男性のグループがこちらに向かって歩いて来るのが目に入る。暗くて顔が良く見えないまま互いに近づき、街灯が作る円形の光の中ですれ違うと__そのなかに見知った顔があるのに気づいた。Marmaduke Jopleyだ。向こうもぼくに気づいたらしく、一瞬口をぽかんと開け、止めるまもなく大声で騒ぎ始めた。
「やつだ、やつが来たんだ!殺人犯のRichared=Hannayが来たんだ!ほら、あいつを取り押さえろ!」
ついに騒ぎを起こしてしまった。しかも、その原因は決してぼく自身ではない。ぼくは、自分の運の悪さを呪った。
 案の定、Marmadukeと一緒にいた男たちがぼくの周りを取り囲む。取り立てて腕っ節が強そうな者はいないが、いかんせん数が多い。これ以上大事にせずに抜け出す方法はないかと考えてると、Marmadukeがぼくの前に出てきた。勝ち誇ったような笑みを浮かべながら口を開く。ぼくは、今朝から感じていた怒りが、頂点に達しつつあるのを自覚した。
「・・・笑うな、まだ笑うな、こらえるんだ。警察だ、警察が来てから勝ちを宣言しよう。そこの男、警察を呼んでから何秒経ちましたか?」
「・・・32、33、34、35秒。」
「Hannay、僕の勝ちダぐはアッーーーーーーーーーーー!!」
 正拳突きは、これでもかというほどきれいに顔面を直撃した。派手に吹き飛んだMarmadukeは地面に倒れ、鼻を押さえてうずくまる。血が滴っているところを見ると、どうやら鼻血がでたらしい。殴った瞬間に何かが砕ける嫌な音がしてぼくの右手も痛んだが、それを差し引いても大戦果だった。ぼくはとてもすがすがしい気分で辺りを見渡した。夜風が汗をかいた背に心地よい。瞬間、その背中が靴底で蹴り飛ばされ、今度はぼくが冷たい道路を転がった。
 殴っては殴られの乱闘は、実際には10秒ほどで終結していた。ぼくが到着した警察官に腕をつかまれ、取り押さえられたからだ。ぼくを抑えているのとは別の警官が、Marmadukeに話を聞いている。やつは折れた歯を気にしながら懸命に喋っていた。
「あいつが殺人犯で、車が脅されて、僕は気がついて話しかけたところがいきなり殴られて・・・」
「落ち着いてください。証言に信憑性が無い、ということになってしまいますから。」
ぼくは、警察はもはやぼくを追っていないということを忘れ、動転して抑えられていた腕を振り払ってしまった。やってしまった、と後悔したがもう遅い。ぼくには逃げる以外の選択肢が無かった。
 ほとんど周りを見ずにひたすら走り、Walterの家にたどり着く頃には心臓が飛び出しそうなほど早鐘を打っていた。焦る手つきでドアを叩く。後ろを気にしながら、早く開いてくれることを祈った。祈りは通じた。出てきた執事に、早口に説明する。
「少しトラブルに巻き込まれましてね、ああ、でもWalterさんのためだったんですよ。詳しくは説明できませんが、誰かがぼくを探しに来ても、ぼくはいないと言っておいてください。」
「承知しました、Hannay様。」
「それと、Walterさんはどちらに?少しお話したいことがあるんですが。」
「旦那様は今会議に参加されています。申し訳ありませんがしばらくお待ちいただけますか?」
ぼくは玄関ホールのイスに座った。暖められた屋内の空気は走った後の体には暑すぎた。手で顔をあおぎつつ、部屋を見渡す。広いはずなのに、植木鉢や大きな傘立て、テーブルと電話等さまざまなものが並べられているためか、どこと無く手狭な感じがした。ふと、誰かの視線を感じて視線を上げる。目が合ったのは、踊り場の壁にかけられたカモシカの首だった。

 数分後、扉のベルが玄関ホールに鳴り響いた。Marmadukeたちではない。彼らはさっきここに来て、執事に追い返されていた。その大活躍だった執事が一人の男を家の中に招き入れている。その顔は、イギリス人で新聞に目を通すものなら誰でも知っているであろう者だった。グレーの髭に明るく青い瞳。イギリス海軍を束ねるLord Alloa大佐だ。
 ぼくはイスに座ったまま20分近く待った。多分、会議はもうすぐ終わるだろう。Royerはフランスに戻るために11時にはここを離れるからだ。
 前触れ無く内側からドアが開くと、Alloa大佐が中から出てきた。続けて取り巻きと思しき男が数人が歩いてくる。後に続く者がいないことを見ると、大佐だけが会議を途中退場したのだろうか。ぼくの前を通るとき、Alloa大佐は目を合わせてぼくのほうをじっと見つめてきた。数秒のことだったが、ぼくは心臓が跳ね上がるのを感じた。目が合ったことに驚いたのではない。目が合って、なおかつAlloa大佐がぼくの事を知っている様子だったことに、驚いたのだ。ぎょっとした表情のまま固まったぼくを尻目に、大佐は悠然と歩き続け、やがて玄関から外へ出て行った。呪縛から解き放たれたように、ぼくの思考は高速回転をはじめた。
 さっきの男は、確かに新聞で見たAlloa大佐だった。少なくともそう見えた。だが確か今朝のWalterの話だと、海軍のトップ、すなわち大佐は病欠することになっていなかったか?いやそれだけならまだ分かる。病気が良くなったから会議に参加できた、こんな可能性も捨てきれないからだ。でも、さっきの大佐の様子。あれは明らかにぼくをRichard=Hannayだと認識していた。ぼくは大佐に会ったことも無いのに。・・・もしもさっきいたAlloa大佐が偽者だったとしたら?替え玉を立ててまでここに来るメリットがあり、なおかつぼくを知っている者。心当たりは、一人しか居ない。
 ここまでの考えは、根拠の無い予想でしかない。なにか、根拠たりえるものは無いか。ふと、目の前の黒い電話が目に入る。予想の真偽を定める方法は、すぐそばに置かれていた。受話器を手に取り、台帳を片手に番号を回す。呼び出し音が聞こえ、すぐに先方で受話器が上げられた。
「夜分遅く失礼いたします。ぼくはRichard=Hannayという者です。Walter=Bullivant氏からの言伝があるですが、Alloa大佐がご在宅でしたら、お取次ぎいただけますか?」
「申し訳ありません、在宅ではあるのですが、現在療養中で、自身のお部屋で休んでいます。差し支えなければ、ご用件承りましょうか?」
召使と思しき女性の声を聞き、その内容の意味するところ理解して__血の気が引いた。そのあとは、自分が何と言ったかすら覚えていない。気づけば、ぼくは受話器を置いて座り込んでいた。腕の震えが収まらない。ぼくの役回りは、まだ終わっては無く、それを最悪の形で思い知らされた。
 依然会議が続いている部屋の、重い扉を左右に開け放つ。自分が通れるだけ開けば十分だったが、慣性にひきづられた戸板は壁にぶつかり、大きな音を立てた。部屋中の注目が集まる。その視線の中には、Walterのものもあった。
「お世辞にもいいタイミングとは言えませんよ、Hannayさん」
「いや、いいタイミングです。」
ぼくは努めて落ち着いた声を出した。
「数分前に、ここを出て行った男は誰ですか?」
「Alloa大佐ですが、何か?」
Walterは怒りと戸惑いの混じった目でこちらを見てきた。体面に構っている余裕は無かった。
「ぼくも、Alloa大佐を廊下で見ました。でも、彼は偽者なんです。大佐のお宅に電話をしました。彼はここ一日ずっと病気で寝ているそうです。」
「じゃあ、さっきの大佐は・・・。」
誰かがつぶやいた。ぼくは、すかさず答えた。
「・・・BlackStoneにしてやられましたね。」
部屋の中には5人の男がいた。年齢も、外見もさまざまな彼らは一様に口を閉ざし、何かに怯えるように互いを見つめていた。
暖炉の薪が、大きく爆ぜる。火勢が強くなったが、部屋は一向に温まらなかった。 

戻る                                次へ

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2009年01月05日 17:28