6月の空は青く晴れ渡り、太陽がさんさんと照り付けている。朝とはいえもう気温は高く、コンクリートで舗装された道路の上から海を見下ろしていたぼくは、額に汗が浮かぶのを感じた。白波が岸辺に寄せては返し、砂浜に茶色くその痕跡を残している。「海の波の数」は無限に尽きないものの例によく使われるが、ここにいるとそれを実感する。ここ一時間ずっとここに座っているが、波の残す水の輪郭には一つとして同じものが無い。さながら、無限に変化し続ける風景画を見ているようだった。
 ぼくとMacGillivrayがBradgateについたころには、もう夜が明け始めていた。時間があればどこかで仮眠を取ったのだがその余裕は無く、簡単な朝食だけをとることにする。食べ終り次第車を駐車場に止めて、徒歩でRuffに移動した。もちろん目的は海辺に降りる39段の階段を見つけることだ。BlackStoneが徘徊している可能性があるので、砂浜を歩き回り一つ一つの階段の段数を数えるのはMacGillivrayに任せた。結果、こうして海沿いの道で時間をもてあましているわけだ。
 ふと水平線近くに目をやると、軍艦と思しき船の凹凸の多いシルエットが横切っていくのが見えた。この辺りで訓練でもしているのだろうか。それを目で追いながら考えた。MacGillivrayは海軍にいた経験があるそうだから、彼はあの軍艦を知っているかもしれない。もし知っているようだったら彼を通じて海軍に協力を要請し、あの軍艦をこの辺りにとどまらせてもらうのが良いだろう。これから起こるであろう事を考えると、いざというときに軍艦からの支援が受けられるのは非常に心強い。
 そのまま1時間ほど待っていると、MacGillivrayが戻ってきた。この暑さの中歩きにくい砂浜を動き回っていたせいか、袖を捲り上げた腕からは汗が噴出している。ぼくの前まで階段を登ってくると、腰を降ろしながら口を開いた。
「この海岸にある階段は全て調べた。いや、中々数が多くてな、この年の体には少々堪えたが・・・。まぁ結果を報告しよう。まず、この目の前にある階段。これは34段だった。で、向こうずらっと並んでる別荘から降りる階段だが・・・手前から順に35段、39段、42段、47段、そして31段。ものの見事に一つに絞られたな。」
39段、の言葉を聞いてホッと胸をなでおろす。ぼくの推理は外れていなかったらしい。断崖の上に立ち並ぶ建物の一つを指差して、言った。
「その39段の階段があるというのは・・・あの家ですか?」
「そうだな。右側の家が建設中なやつだ。ああ、ついでに言っとくと左側は空き家だった。どっちも隠れて待ち伏せるなり見張るなりするには絶好の場所だな。ちょっと調べたところによると、あの39段の家はTrafalgar Houseと大層な名前がついてて、Appletonとかいう爺さんが最近買い上げたらしい。近所に聞き込みしても、この爺さんと話したことがあるという人はいなかったな。で、物売りのふりをして家の戸を叩いてみたんだが、使用人が3人ほどの他は誰も出てこなかった。たまたま留守だっただけなのか、それともこっちの正体に気づいたのか・・・なんともいえないところだが。ともかく、そいつらはBlackStoneについては何も知らないようだったな。」
「なるほど。今のところは迂闊に行動しないほうがよさそうですね。敵に感づかれて逃げられてしまったら、元も子もありませんから。とにかく、シロかクロか判断するにも情報が少なすぎます。」
「うむ。とりあえず私のほうはロンドン市警に連絡を取って増援をよこしてもらおう。夜はバタバタしていて指示系統が乱れっぱなしだったからな。」
「分かりました。ぼくはここでの情報収集が終わり次第Bradgateの民宿に戻りますので、そこで待ち合わせましょう。ああ、それとこれはできればでいいですから、あの沖に浮かんでいる軍艦に協力を要請してもらえますか?敵が海に逃げ出したときに追いかける手段があったほうが良いでしょうから。」
ぼくは用意してきた望遠鏡を覗き込むと、39階段の家にピントを合わせた。まず白く塗られた壁と、カーテンの閉められた窓が視界に入る。家全体が見えるよう視点をずらし、観察を続けた。
 昼時になって胃が空腹を主張し出すまで辛抱強く望遠鏡を覗き続けたが、たいした収穫は得られなかった。MacGillivrayが言っていた通り確かにその家には老人が住んでいた。庭で新聞を読みながら海を見ていて、さっきの軍艦のほうにも時折視線を飛ばしている。彼こそがあの農家でぼくを捕まえた老人だと思うのだが、残念ながらこの距離では顔までは見えない。ぼくが何度も倍率を変えたり場所を移したりと四苦八苦しているうちに、新聞をたたんで家の中に入っていってしまった。これ以上ここにとどまっても仕方が無い。ぼくは望遠鏡をしまうと、約束の民宿に向けて歩き始めた。
 とても歯がゆい気分だった。状況から言って、間違いなくさっき見えた老人はBlackStoneのボスだろう。だが、肝心の証拠が無い。警察官を動員してあの家を押さえようと思っても、違った場合のリスクが多き過ぎる。無辜の住民に迷惑をかけることになる上、本物には逃げおおせられてしまうだろう。だからこそぼくは覗きだと勘違いされるのも構わず、数時間にわたって観察を続けたのだが・・・見れば見るほどに、あの老人がただの避暑に来た隠者に思えてくるのだ。彼はぼくの目を引くような目だった行動を何も取らなかった。ただ単に新聞を読み続けていただけなのだ。
 MacGillivrayと合流した後、例の家と海の両方が見渡せるレストランで食事を取った。彼のほうも目立った進展は無かったらしい。ただ、6人の警察官を応援に呼び、軍艦については目下交渉中だそうだ。今後の予定について話し合っていると窓の外の景色に景色に変化が現れた。沖合いから、波を蹴立てて一艘の黄色いヨットが岸辺に近づいてきている。青い海の上に円弧の軌跡を描きながら滑るように動き、あの家の前の砂浜から数百メートルほど離れた海上に停泊した。MacGillivrayと顔を見合わせる。あのヨットがBlackStoneのもので今夜の脱出に使われるとしたら・・・今のうちにこの予想の真偽だけでも確かめておく必要があった。
 近くの漁港で船を借り、釣りに来た観光客のふりをする。ヨットとの間につかず離れずの距離をとりながら、午後を釣りをしながら過ごす。避暑地として人気が高い所だけあって、魚は良く釣れた。一杯になったクーラーボックスを前に、MacGillivrayと二人考え込む。魚の収穫はあったが、BlackStoneの気配は全く感じられない。少なくともこうして遠巻きに見ている限りは。ぼくたちは、意を決して、あのヨットに近づいてみることにした。波に対して舳先が直角になるよう舵を取りつつも確実に距離をつめる。MacGillivrayの操舵の腕は上々だった。すぐにヨットの黄色い帆が目前まで迫り、船首に黒いペンキで書かれた船名が読み取れた。 [Ariadne] それがこのヨットの名前らしい。ぼくはこちらに手を振っている相手側の船員に声をかけた。
「こんにちは、今日は風が穏やかでいいですね。」
どうやら彼はドイツ人で、英語が理解できなかったらしい。代わりに別の男が返事をしてきた。
「ああ、全くだ。ここら辺は朝方は風が強いんだが、午後からはだんだんと弱まってくるらしい。調子に乗って釣りして、いざ帰ろうと思ったら全く風が無くて動けません、なんて事態にならないように気をつけないとな。」
ぼくはそのまま会話を続けたが、不審なところは何も見当たらなかった。と、突然それまで喋り続けていた男が口を閉ざし、入れ替わりに別の男性が話しかけてくる。曰く、彼はここら辺に別荘を持っている金持ちで、地元の漁師をガイドに釣りを楽しんでいるらしい。釣果や釣れる魚について熱心に尋ねてきた。流暢な英語だったが、アクセントと抑揚に違和感がある。多分ネイティブスピーカーではないのだろう。
 ぼくとMacGillivrayは船を返すと、さっきのヨットについて話し合った。
「・・・どう思われましたか?」
「どっちつかず、だな。状況から言って怪しいのは間違いないが、かといって断定もできない。」
「そうですね、結局状況は動きませんでしたが・・・何もしないよりはマシでしょう。彼らが本物だった場合・・・」
ぼくの顔を見せるだけでもプレッシャーになる、と続けようとして気づく。ぼくは顔を出すべきではなかった、敵にぼくたちが追ってきていることを教えるようなものではないか!このままでは敵の逃走計画が変更されてしまう・・・いやそれ以前に、なぜ敵はこの場所にノコノコ出てきた?敵がScudderを殺したのは、逃走計画を彼に知られてしまったからだ。ノートの内容が明らかになった今、それは間違いない。だが、その知られてしまった計画通りに動く必要がどこにある?逃走経路を知られてしまったなら、変えればいい話だ。そうすれば安全は確保され、仮に誰かがScudderのノートを解読したとしても、それは何の意味も持たなくなる。むしろその情報に踊らされた警察が捜査の目を曇らせるかもしれない。しかし、現実にBlackStoneはこの場所で脱出の準備を整えている__いや、まだ不確定だがそれを仄めかすような状況にはなりつつある。なぜこの場所に拘るのか。分からないことが増え、思考はますます混乱した。
 ぼくはあの家__Trafalgar Houseを見張り続けることにした。今のところBlackStoneがその気配を見せる可能性があるのは、そこをおいて他にない。さっきは望遠鏡で見ていたが、今度はもっと近くによって肉眼で見てみよう。新しい発見があるかもしれない。そうと決まれば、早速移動を開始した。
 Trafalgar Houseの隣に位置する建設途中の家に入り込む。ほとんど骨組みしかできていなかったが、2階部分に上がることができた。ここからなら身を隠しつつ、庭の様子を注視することができる。積み上げられた木材の影から顔を出し、芝生の敷かれた広い庭に視線を注いだ。
 Trafalgar Houseの庭では二人の男性がテニスをしていた。一人は午前中に見た老人だ。近くに見えたその顔は、間違いなくあの農家で見た老人だった。外見に似合わず鋭いステップを踏んでいる。年寄りの冷や水、という言葉を知らないのだろうか。もう一人は、若いが太った男で、こちらは外見どおりの重鈍な動きをしていた。こいつも見知った顔だ。あの道路工事現場で、ぼくに盛んに話しかけてきた男。しかしながら、二人共怪しい様子は全く無い。途中でもう一人やせた男が加わり、3人で交代しながらのゲームになった。3人が皆、心の底からテニスを楽しんでいるように見える。ある人によると天衣無縫の極みとはテニスを楽しむ心だそうだが、彼らにはどう見ても使えそうに無かった。ボールが2つに割れたり、それを見切って打ち返したりすることも無かったが、見ていて飽きない試合ではあったと思う。それは彼らにとっても同様であったらしく、水分補給のために家に入っていくまで、終始笑顔でいた。ぼくは「いい試合だったよ」と心の中で言ってからその場を立ち去ろうとして__結局何の収穫も無いまま時間だけが過ぎてしまったことに気づき、落胆した。ここにはBlackStoneが来ているはずだ。現に老人と太っちょ、それにやせた男というぼくがお世話になった3人組そっくりな面々が目の前にいた。彼らを迎えに来ているに違いないヨットも、沖合いに止まっている。しかもそのヨットには、ドイツ人が乗り合わせていた。状況はぼくの推理を裏付ける方向に進んでいる。しかし実際に見てみると、彼らはどう見てもただ純粋に休暇を海辺で過ごしている人畜無害なイギリス人だ。それこそ、良く似た別人ではないかと思えるほどに。もうわけが分からなかった。
 こうしている間にも、イギリスとフランスの作戦書がドイツに渡る危険性は膨らみ続け、ヨーロッパを巻き込んだ戦乱は徐々に迫ってきている。気ばかりが焦る中、ぼくは急にアフリカで知り合った古い友人の話を思い出した。曰く、『人間は他人の視線を感覚で感じ取ることができる。だから、どんなに精巧に隠れても、自分が相手を認識した瞬間相手も自分を認識する。逆に相手に真実を気取らせずにいるためには、自身を隠すのでは無くさらけ出し、それでいて相手が気にもとめないようなものになりすませばいい。この際に重要なのが、自分を、なりすまそうとしているものだと自分の中で信じ込むことだ。』
 この話の真偽は分からないが、少なくとも今のぼくには正しいように思えた。ぼくはさっきまで3人の男を注視していた。注視したということは認識したということだから、つまり向こうもぼくの存在に気づいていたということになる。見られていることに気づいた彼らは、ぼくが気にもとめないであろう一般人になりすました。自分たちが休暇を楽しんでいるイギリス人だと信じ込んだのだ。彼らがAlloa大佐に化けて会議に侵入してきた者と同一人物だとしたら、この程度はたやすいことに違いない。
 どちらにせよぼくがここから見張り続けていても、時間が浪費されるだけだろう。ぼくはその場を立ち去ることにした。時刻はまもなく8時を回ろうとしている。辺りは既に暗くなっていた。徒歩でBradgateに戻る。MacGillivrayのところに行くと、彼は応援に来た6人の警察官の配置を考えているところだった。ぼくに気づくと、軽く手をあげてみせる。お互いに現状報告をした。
「あの沖の軍艦のことだが、どうやら協力してくれるらしい。ただし今夜限りだ。明日にはドッグ入りしなくてはならないそうだからな。あとすべきことは部下たちの配置を考えるだけだ。」
「十分ですね。多分この夜で全てに決着がつきますから。ぼくの方は進展なしです。彼らの完璧な『休暇に来た実業家』の演技を見ただけで終わってしまいましたよ。」
 簡単に夕食を取る。これから起こることに対し、ほとんど何の備えもできなかった。挫折感が湧き上がってきたが、今は絶望している暇も無い。食事を終えると、ぼくは思い切った行動に出ることにした。現状を打開するには、一気に状況を動かすしかない。MacGillivrayとも相談し、警官の配置を1から考えなおす。準備は整った。
 Trafalgar Houseに向けて再び足を進める。冷たい潮風が肌に心地よい。断崖の上にたたずむ家々の窓からは明かりが漏れてでていた。きっと食事時なのだろう。海上に目をやると、ヨット[Ariadne]と今朝この道から見えた軍艦、そのほか数隻分の灯火が輝いていた。岬の先端には灯台があり、光の筋を方々に放っている。閑静な避暑地は平和そのものに見えた。
 数分後、ぼくはTrafalger Houseの正面扉の前に立っていた。MacGillivrayと部下の警官たちは、もう配置についただろうか。背後の様子を伺ったが、そこには闇の帳がおりているだけだった。視線を前に戻す。重そうな黒い扉には、そこだけが金色に輝くノッカーが取り付けられていた。一つ深呼吸する。肺までいきわたった空気を吐き出すより前に、ぼくはノッカーに右手の甲をたたきつけた。
 内側から扉を開いたのは使用人の女性だった。ぼくはMacGillivrayから借りた警察手帳を見せながら、威圧的な態度をこころがけつつ言葉を紡いだ。
「突然押しかけて申し訳ありません。ぼくはロンドン市警方面から来たRichard=Hannayという者です。Appletonさんはご在宅ですか?」
「ええ、いますが・・・。ああ、すいません、どうぞこちらへ。」
戸惑いつつも家に中へ招きいれられた。
 ぼくは使用人を押しのけてそのまま真っ直ぐに進み、扉を音を立てて開いて機先を制する、という刑事ドラマのような展開を予定していたのだが、残念ながら失敗に終わった。壁にかかった数枚の写真が目に入ってきたからだ。そこにはどこかの学校での集合写真や野原で遊ぶ子供の姿が映っていて__ぼくが上がりこんだのは、どこにでもあるイギリスの一般家庭の玄関先だった。もしかしたら、本当に間違いなのではないか。一瞬そんな疑念にとらわれているうちに使用人は廊下をどんどんすすみ、慌ててぼくが追いかけた頃には、「お客様がいらっしゃいましたよ。」という声が聞こえてきた。
 ぼくが足を踏み入れたリビングルームには、3人の男性がいた。一人は老人、もう一人は太っちょ、最後が痩せて暗い顔。こうして近くで見れば分かる。もはや疑う余地は無かった。こいつらがBlackStoneだ。老人が3人のまとめ役をつとめ、太っちょがAlloa大佐に化けたのだろう。消去法でいくと痩せっぽちの根暗がSccuder殺害の実行犯、ということになる。
「・・・あなたがHannayさんという方ですか?Appletonは私ですが・・・。えっと、どのようなご用件で?」
老人がイスに座ったまま体だけこちらに向けて聞いてくる。その指は、テーブルの上で湯気を立てているティーカップをつかんだままだ。中身は紅茶かと思ったが、意外にも、イギリスではあまり飲まれることの無いコーヒーだった。老人は目をしばたかせ、心底驚いた様子でいたが、ぼくはもうそんな演技にはだまされなかった。
「ぼくは前にあなたにお会いしたことがある筈です。」
ぼくは声が震えないよう、一語一語アクセントを意識しながら言った。こういうときは、一挙手一投足が勝ち負けを左右する重大な要素になる。さらに言葉を紡いだ。
「自分で、なぜぼくがここに来たか分かりませんか?」
老人が、周りにいる男二人をおどおどとした様子で見渡すと、太っちょたちはぼくと老人の顔を交互に見比べて首をひねりはじめた。やがて、ぼくの方に不安そうな視線を送りながら口を開く。
「・・・心当たりがありません。本当にあなたとは会ったことが無いと思います。」
「そうですか、では・・・。」
しばらく間をおく。注意が十分ぼくに集まってから、続きを一息に言い切った。
「あなたたち3人に逮捕礼状が出ているからです。」
「逮捕礼状!?いったい何のことですか!」
「5月23日、ロンドン中心街Lang ham PlaceでFranklin.P.Scudderという男性が何者かに刃物で殺害されました。その実行犯としての容疑があなたたちにかけられています。」
一瞬、部屋の中に静寂が落ちた。その後、男たち3人が堰を切ったように喋り始める。
「殺しただなんて、そんな名前のやつは聞いたことも無いのに!」
「何日構えの新聞に載っていたな。しかしまさかこんなことになるとは。Percy、お前殺してないだろうな?」
「落ち着け、みんな。ほら、叔父さん、コップがひっくり返りそうだぞ。きっと何かの間違いさ。俺はそのときイギリスにいなかったし、Bobは病院だったじゃないか。叔父さんは確かにロンドンにいたけど、23日に自分が何をしてたか説明すれば良いだけだ。」
「・・・確かにPercyの言うとおりだな。ふむ、23日か。ああ、丁度Agathaの結婚式の次の日じゃないか。そうだ、確かCharlie Symonsと昼食を食べて、夜にはCardwellさんの家を訪ねたんだった。ほら、Hannayさん。あのタバコはCardwellさんからいただいたものですよ。」
老人は、机に上に置かれたシガレットケース1箱を指差した。痩せて暗い顔の、Bobと呼ばれた男が言葉を続ける。
「俺たちは、ロンドン市警に協力するのはやぶさかではない。でも、この件に関しては明らかにあんたらの勘違いだ。そうだろう、叔父さん。」
「もちろんさ。・・・当然協力はしますよ、Hannayさん。でも逮捕するというなら、それなりの証拠を提示していただかないと筋に合いません。私たちは3人ともアリバイを言ったわけですから。そのタバコは持って行っていいですから、万一さっきのアリバイが崩れるようなことになったらもう一度おいでください。」
ぼくは、自分の中で何かが音を立てて瓦解するのを感じた。完全に、してやられた。会話を続けるうちに何かしらのぼろを出すと思ったが、これでは手を出しようが無い。この3人がBlackStone__イギリスを陥れようとしているスパイであることは明白だったが、それを証明する手段は無かった。
「さあ、Hannayさん、もう私たちが殺人犯でないことはお分かりいただけたと思います。あとは、もうあなた次第ですよ。強制的に私たちを逮捕するか、それとも理性的な対応に努めるか。」
完全に立場は逆転していた。でも、確かにぼくは今二者択一を迫られている。即ち、素直にここを出て行くか、あるいは付近に潜んでいるであろうMacGillivrayたちを呼ぶかだ。すぐには決められず押し黙ったまま突っ立っているぼくに、老人が声をかけてきた。
「まぁ、あなたのお仕事の都合もあるでしょうから、そうやすやすとは決められないでしょう。トランプでもしませんか?4人必要のに、3人しかいなくて困っていたところなんですよ。」
くそ、こいつぼくに選択肢が無いことを知っていて・・・。人を馬鹿にした態度に腹を立てつつも、ぼくはテーブルについて自分の前に配られたカードを回収した。
 ぼくはこういったゲームが得意な方なのだがこの晩はすこぶる調子が悪く、ずっと負け通しだった。

 柱時計が時を告げる重い音を聞き、ぼくは我に帰った。熱くなっているうちにゲームの回数は既に20回をこえ、時間だけが流れてしまったようだ。ぼーん、ぼーん、と10回重低音が響く。時刻は10時を回ったところだ。満潮まであと17分。ぼくは良い事を思いついた。このままゲームを続けていたら、彼らは脱出しそこねてしまう。必ず何らかの形でぼくを追い出すか、あるいは彼らのうちの一人だけがこの席を抜け出そうとするはずだ。丁度そう思った瞬間、老人が口を開いた。
「Hannayさん、もうこんな時間です。そろそろ結論を出されたらどうですか?」
ぼくは白々しく答えた。
「目下検討中です。もう少し待ってください。そうですね、あと20分ほど。」
「・・・そうですか。それはそうと、Bob、時間はいいのか?もうそろそろ出発しないと今晩中にロンドンにつけなくなってしまうぞ。電車に乗り遅れたらどうする気なんだ。」
「ああ、そうだな。じゃあ俺はそろそろ・・・」
「駄目です、今行っては。ゲームが続けられなくなってしまいますから。」
「Hannayさん!?あまりご冗談を・・・」
「駄目です。座ってゲームを続けましょう。」
「あのですね、こちらにも都合というモノが・・・」
「知ったことではありません。勝ち逃げしないでください。」
ぼくは強情に痩せた男を引きとめ続ける。そして『勝ち逃げしないでください』を口にしたその瞬間、部屋の空気がそれまでとは明らかに異質なものになった。老人の顔を見る。演技の仮面を取り払った彼の顔はそれまでと同じ人間のものとは思えず__両の目が、ハエのように四方に動いていた。
 ぼくは、口笛を吹き鳴らした。合図だ。
 だが、動いたのはぼくだけでは無かった。太っちょが部屋の隅に走り、電灯のスイッチに手を掛け、押し込んだ。電気が消え辺りが闇に包まれる。ぼくはイスから立ち上がって男たちを取り押さえようとしたが、多勢に無勢で押し戻されてしまった。
「Franz、急げ!」
誰かがドイツ語で叫んでいる。
「迎えのボートが来てるぞ!海岸に走れ!」
次の瞬間、部屋に懐中電灯を持った警察官数人が駆け込んできた。光の筋がぼくを押さえつけている老人と太っちょ、それに今まさに窓から外へ飛び出した痩せっぽちを捕らえる。ぼくは老人に肘鉄を食らわせ、太っちょを足払いで倒すと窓際に駆け寄った。開け放された窓から、芝生の上を走っていく黒い影が月明かりに照らされ鮮明に見える。躊躇無く後を追って飛び降りた。
 芝生の上を転がって着地の衝撃を殺すと、服を軽く払いながら立ち上がり、数メートル先を走る影のあとを追う。影は一瞬こっちを見た後、身を翻すと庭を横切っていった。その足が39段の階段の一番上にかかり、落ちたのではないかと思えるほどの速度で駆け下りていった。ぼくも後を追おうとして速度を上げる。体勢を崩しながらも最上段に足をかけ、ずいぶん長いな、と下を見下ろした瞬間__突然目の前が真っ白になり、ぼくは意識を失った。

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最終更新:2009年01月05日 17:34