3月とはいえロンドンはまだ寒く、夜になると屋内でも暖炉に火を入れなければならないほど気温が下がる。雪こそ降らないものの木の葉が舞い踊る屋外は見るからに寒々しく、進んで外出しようとするものは少数派だ。その夜、Uttersonは夕食をとると暖炉の火に当たりながら読書に没頭していた。パチパチ、とくべられた薪が爆ぜ、火の粉を散らす音、時折のページをめくる音だけが部屋に響く。そんな中にノックの音が転がったのは、もう午後八時を回った後だった。
「ドアの外の者、そんなところにいないで入ってきたらどうですか?」
Uttersonが入室を促すと、ギィ、と軋んだ音をたて、木製の扉が開く。分厚いコートを脱ごうともせず立っていたのはJekyllの召使、Pooleだった。明らかな焦燥の色が浮かんだその表情を、Uttersonは半分肘掛け椅子から立ち上がりながら見つめた。
「こんばんは。突然に申し訳ありません、Uttersonさん。」
Pooleは短い挨拶を口にする間に2、3回舌を噛みかけた。
「構いませんよ、Pooleさん。ずいぶん慌てているようですが、どうかしたんですか?」
Uttersonがソファを勧めると、Pooleは小さく首を横に振って断った。深呼吸をすると、今度は落ち着いて言葉を紡ぐ。
「・・・博士の様子がおかしいんですよ。部屋に閉じこもって鍵を掛け、私たち召使が言っても開けてくださらないんです。」
「Jekyllにはよくあることだと思いますよ。彼の癖、というか習慣は、私以上にあなたも知っているでしょう?昔から、研究に夢中になると部屋から出てこなくなりましたし。今は調子が悪いようですけど、それはここ何週間続いてることですから、今更慌てるほどの事でもないですよね。」
「はい、確かにそうなんですが・・・。ただ、何か様子がおかしいというか、怖いくらいで・・・。ああ、それもここ一週間くらいずっとそうなんですけど、さすがにこれ以上はまずいというか、限界というか。」
Pooleは話しながらも落ち着かない様子で狭い部屋の中を行ったり来たりしていたが、やがて足を止めると目の前の床を何かを探すようにじっと見つめた。
「まずは落ち着いて話してみてください、Pooleさん。Jekyllは昔からの友達ですから、協力は惜しみませんよ。」
Uttersonは、難事件に巻き込まれた依頼主に話す時の口調を意識して言った。
「何か恐ろしいことが、博士に起こっていること確かなんです。ただ、どう説明したらいいか・・・。そうだ、Uttersonさん、今から博士の自宅に行ってご自身で状況を見ていただけませんか?多分、私の言いたいことが解っていただけると思います。」
「ええ、遅かれ早かれ行くつもりでした。すぐ出かけましょう。」
Uttersonは外套を羽織ると家を出て、寒空の下歩き出した。前を向いていた彼は、後ろを歩くPooleが何かを探るような視線をその背中に投げかけていることに気づかなかった。
二人がJekyll博士の私邸に着く頃には夜はだんだんとふけ行き、青白い月が雲に覆われて見え隠れしていた。風はますます強くなり、木の葉や紙片をいたるところに舞わせる。植え込みの細い木は可哀想なほど左右にしなり、その度にヒューヒューと情けない音を立てた。Pooleはかじかむ手でそっとノッカーを叩いた。
「何も間違いが起きていなければいいんですが・・・。」
Pooleは声を抑えて言った。Uttersonは返事を軽くうなずくにとどめ、黒く沈み込むような色の扉を注視した。やがて中からパタパタと慌しい足音が聞こえてくる。ガチャ、という開錠音と共に扉が細く開き、中からか細い声が聞こえてきた。
「Pooleさん、ですよね・・・?」
「ああ、ドアを開けてくれ。」
今度は扉が完全に開き、Pooleに続いて屋内に足を踏み入れると、Uttersonは大勢の人がホールに集まっていることに驚いた。皆同じような仕事着を着込んでいるところを見ると、この家の使用人たちなんだろう、と判断する。彼らは一様に、怯えを全身から醸し出していた。暖炉は暖かい光を放っていたが、それは彼らの不安を和らげるのに何ら効果をもたらしていないようだった。しかし、いかに勤務時間外とはいえ、使用人が主人の家で仕事をするでもなくたむろしているのはいただけない。仕事に対して誰よりも実直なUttersonは空気を読まずに咎める声を上げた。
「何をしているんだ、君たちは!いくら主人の目が届かないからといってこんなことは・・・。」
「Uttersonさん、皆不安と緊張で疲れているんですよ・・・。」
PooleはUttersonをたしなめたが、そういう彼自身にも疲労はのしかかってきているようだった。UttersonとPooleが口を閉ざすと、他に誰も声を出すものは無く、部屋を異様な静けさが包み込んだ。窓の外の風の音が不気味に響き、部屋の静寂を際立たせる。皆神経が過敏になり、少しでも何かしらの音がする度に肩をびくつかせた。その空気に耐えかねたのか、召使の女の子が声を上げて泣き出した。それに触発されたのが、他の使用人たちも急に立ち上がって叫び始める。
「くぅ、もう我慢できん。悪いが言わせてもらうぞ!みんなが憧れる使用人なんてなぁ、そう簡単にはなれないんだッ!」
「博士ッ!私は仰せの通りにッ・・・!」
Uttersonは呆然と事態を見ていたが、Pooleは、
「・・・静粛に!」
小さく息を吸い込むと鋭く声を発した。だが、その声音には自分自身の恐怖を押さえ込もうとしている感じがあった。
「・・・だれかランプを。今からUttersonさんについて来ていただいて博士の様子を伺いに行き、この状況を終わらせる。」
燕尾服を着た中年の男性がPooleに携帯式のランプを渡すと、PooleはUttersonの方に向き直って言った。
「Uttersonさん、どうぞこちらへ。」
Uttersonは緊張した面持ちでうなずくと、Pooleの後に続いて裏庭を横切り、Jekyllの研究所に向かった。相変わらず強い風が唯一の光源であるランプの光を明滅させる。Pooleが前を向いたまま小声で言った。
「博士に気づかれないよう、なるべく静かに行動してください。博士の声を聞いて欲しいのですが、あなたの声を向こうに聞かれたらまずいので・・・。ダンボールを用意できればよかったのですが、なにぶん時間が無かったものですから。それと、もし博士に気づかれた場合、中に入るように言われるかもしれません。そのときは、絶対に入らないでください。」
「Jekyllが部屋に入れてくれるというなら、好都合じゃないですか?」
PooleはUttersonの方を向くと、小さく首を横に振りながら言った。
「確かめたいことがあるので、今はまだ・・・。それに、もし私の予想が正しかったらあなたの身に危険が及びますから。」
Uttersonは、どうやら事態は思った以上に緊迫しているようだと認識を改めると、足元の地面に注意しながら研究所に近づいて行った。
建物の正面扉に手を掛けると、Pooleは慎重に取っ手を引いた。少しだけさび付いた音が出たようだが、風の音にまぎれてほとんど聞こえない。足を踏み入れると室内はUttersonが思っていたより掃除が行き届いているようで、床板がランプの光を反射して光沢を放っていた。部屋の奥のほうには木箱がいくつも雑然と転がり、壁の前に置かれた棚にはいくつも薬ビンが置かれいている。その右手には二回の研究室へと通じる階段があり、訪れるものを飲み込む魔物の口のような不気味さを放っていた。PooleはUttersonに耳打ちした。
「私はその階段を登って博士に来客を告げてきます。Uttersonさんは返事の声をよく聞いていてください。」
Uttersonは首を縦に小さく何回も振った。Pooleはそれに対して軽くうなずくと、Uttersonに背を向け、ことさらに足音を立てて階段を登っていった。しばらくするとノッカーを叩く音、さらに呻くような声が聞こえてきて、Uttersonは心臓が早鐘を打つのを感じた。さらに、会話が静寂を突き破って伝わってくる。
「博士、Uttersonさんがいらっしゃいました。お会いになりますか?」
「・・・Uttersonが。どこに待たせている?」
「ご邸宅のホールでお待ちいただいています。」
「それなら会わない。お引取り願え。」
「かしこまりました、博士。」
Pooleは階段を下りるとUttersonに手招きしてもと来た道をたどり、Jekyllの自宅ホールに戻った。大勢の使用人たちの視線が二人に集中したが、Uttersoは別のことを気にしてそれでころではなかった。その顔は蒼白を通り越して真っ青になっている。Pooleは、そんなUttersonの顔をチラッと窺うと、手で合図をして他の召使たちにあてがわれた自室に下がるよう命じた。若い使用人に一人がおずおずと言った。
「・・・いいんですか?Pooleさん。いざというときのために、俺たちも起きてた方が・・・。」
「いや、いい。新参のお前らをこれ以上は巻き込めない。」
Pooleは召使たちがぞろぞろとホールを出て行くのを確認するとUttersonに尋ねた。
「どうでしたか、Uttersonさん。さっきのは博士の声でしたか?」
震える声で、Uttersonは言った。
「・・・変わって、いた。前にあったときから、さらに。」
「変わった・・・、確かにそうですね。私はここで20年も働いていますが、あれは博士の声ではありません。・・・ここからは私の予想ですが、博士は誰かに殺されてしまった可能性が高いと思います。8日前、『おお、神よ!』と聞いたのを最後に、博士本人の声は以来一回も聞いていません。多分、さっきのあの声は、殺人犯の声なんですよ!」
Uttersonは落ち着こうと努めながら言った。
「・・・変な話じゃないですか、Pooleさん。本当に誰かがJekyllを殺したなら、犯人がその場にとどまる訳ないでしょう。本当にその断末魔の声は博士のものだったんですか?」
「私も最初はそう思いました。でも、確かに聞いたんです。あれは、博士の声でした。」
「・・・で、ここ8日間研究室に閉じこもっているのが殺人犯だと・・・。そいつはどんな様子でしたか?」
「はい、どうやら何かの化学薬品を探しているようでした。でも研究所には置いてなかったらしく、階段のところに薬品の名前を書いたメモ置いて、手に入れるように指示してきたんですよ。博士も仕事は忙しいときはよくそうされたので、私は疑いもせずメモを持って業者に買い付けに行きました。薬品は簡単に手に入ったので持ち帰って博士、いや犯人に扉越しに渡したんですが、すぐにつき返されてしまいまして・・・。『純粋なものが欲しい。』そう言っていました。私は新しく渡されたメモを持って薬品を返品しに行きました。・・・素人の私にはそれが何の薬で何に使うのかは分かりませんでしたが、それでも研究室の中にいるものが喉から手が出るほど欲しがっていることは良く分かりました。」
「そのメモはとってありますか?」
Pooleは首を縦に振ると、胸ポケットから黄色く変色しかかった紙切れを取り出した。
「これです。どうぞご覧になってください。」
Uttersonはメモに目を落とし、行間を読むかのごとくじっと見つめた。難解な専門用語の羅列の下に、汚い字で書きなぐられた数行を目にする。曰く、
『返品理由:純度不足/利用不可 注文品備考:18年/Henry Jekyll博士に同一の化合物を生成している筈 “即刻”Jekyll博士宛に送付のこと “超重要”』
「なるほど、業者への注文書きにしては奇妙なメモですね・・・。普通、相手がいつ同じものを生成した、なんて書かない。」
「多分、先方もそう思ったでしょう。それに内容もどうやらおかしいらしくて、最初に私が持ち帰った薬は十分に純粋だったんです。薬品を扱っている化学者の方が、『今の技術でこれ以上純粋にするのは無理だ。』とぼやいていましたから。」
「Jekyllが化学に関してそんな勘違いをするとは思えないな・・・。やはりそのメモ、殺人犯、かどうかまでは分からないけど、少なくともJekyllとは別人が書いたのか・・・。」
Pooleは少しためらう様子を見せた後、ゆっくりと言った。
「・・・ええ、それは確かです。実は、私は研究所の殺人犯らしき者を見たんですよ。」
Uttersonは驚愕を隠せずPooleを見た。Pooleは一つうなずくと、言葉を継いだ。
「私は、そのとき、断り無く研究所に入りました。書斎のドアが開け放たれていたので、博士が何か探し物をしていらっしゃると思ったんです。彼は、果たして、研究室の隅のほうでごそごそと木箱を漁っていました。私は声を掛けようとしたんですが、突然にその男がこちらを向いたんです・・・。それで、男の顔が悪趣味なマスクに覆われているのを見たら声が詰まって・・・。そいつは、私以上に驚いた様子で、何か獣じみた声を上げて書斎へと駆け上がり、中から鍵をかけてしまいました。」
「・・・複雑な話ですが、だんだん状況が飲み込めてきました。」
Uttersonは眉間にしわを寄せ、腕を組みながら答えた。
「Jekyllは今、病気を抱えてる。ここまでは間違いないし、今までもそう考えてきた。でも、それはただの病気じゃない。Pooleさん、多分Jekyllはその病気__いや、病気というよりはむしろ化学実験の失敗か何か__のせいで外見が変わってしまったんですよ。これで全部説明がつきます。誰とも会おうとしないのも、声が変わったのも、マスクをしているのも、そして良く分からない化学薬品を探しているのも・・・!そうだ、Jekyllは外見を元に戻すために躍起になってるんだ!・・・だから、私たちがこれ以上心配することは無いと思います。」
PooleはUttersonの勢いに押され、しばらく目をしばたかせていたが、すぐに真顔に戻ると首を横に振って言った。
「・・・私は、やはりあの男は博士じゃないと思います。体格が違いすぎますから。病気にせよ、薬にせよ、慎重が10センチも20センチも低くなるなんてありえません。それに、あのマスクの下の顔が博士のものだなんて、とても・・・。やっぱりあの男が博士を殺したんだ!」
Uttersonはしばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように口を開いた。
「・・・いっその事、書斎の扉を叩き壊しませんか?そうすれば、全てに結論が出ますよ。」
「しかし、使用人が主人の持ち物を壊すのは重大な規約違反で・・・。」
二の足を踏むPooleにUttersonは畳み掛けた。にやりと笑って言う。
「いざとなったら私が何とかします。なに、法律家の権限を最大限に使えば器物損壊くらい簡単にもみ消せますよ。」
「そういう事なら・・・。分かりました。研究所に斧があったはずです。行きましょう。」
研究所に向けていそいそと歩き出そうとするPoole。その背中に向けて、Uttersonは疑念の言葉をぶつけた。
「・・・っと、その前に、Pooleさん。もし本当に書斎に閉じこもっている男が殺人犯なら、私たちの身に危険が及ぶかもしれません。だから。ここはお互いに嘘や隠し事がない方がいい。Pooleさん、あなたはさっきから『博士が既に殺されて、殺人犯だけが部屋に残っている』、という説にずいぶんこだわっていますが、それはどうしてなんですか?まだ本当にJekyllが死んだのか、確かなことは何一つ分からないのに。まるでJekyllが死んだことを揺るがない事実として受け止めているみたいじゃないですか。」
Uttersonは鋭い視線でPooleの戸惑ったような顔を射抜いた。Pooleはしばらくの間、何を言っているのか分からない、という様子だったが、状況を飲む込むと血相を変えて怒り出した。
「そ、それは、私が博士を殺して、それを別の誰かのせいにしようとしてると、そういいたいんですか!?そんな馬鹿な話があるか!私はこの20年何の問題も起こさずまじめに勤め上げて・・・!」
「そこまでは言っていません。でも、私が今、書斎の中にいる者に悪い印象を持っているのは、全部あなたの言葉を信じたからだ。客観的に考えると、あなたの説明には不自然な点が多すぎる。可能性として、あなたがJekyllの殺害に関与しているかもしれない、だから詳細を話してくれ、と言ってるんです。」
「この、い、言わせておけば・・・!っ、ま、まぁ仕方ない。いいでしょう、全て話します。私の考えでは、あの書斎にいる者はHydeだと思います。私がやつを研究所の階段下で見かけたときのやつの挙動はHydeそのものでした。それに、あの一目見ただけで嫌悪感を抱きたくなるあの雰囲気も奴と酷似してましたし__Uttersonさん、今までにHydeに会ったことはありますか?」
「ええ、一度だけ・・・。確かにとても嫌な印象を受けましたね。」
「それなら解っていただけるでしょう。奴の醸し出す雰囲気は本当に独特ですから。ともかく、これで書斎の中にいる者が殺人を犯しても何も不思議ではない、そうですよね?」
Pooleの背後で暖炉の薪が、パチッと音を立て、一際たくさんの火の粉が飛び散った。Uttersonからは、逆光になりPooleの表情が良く見えない。彼は目の前に立つ初老の召使の顔を覗きこむようにして言った。
「いいえ、まだ不十分です。書斎の中の者が確かにHydeならあなたの言うとおりですが、今のところそいつがHydeであると判断できる根拠はあなたの言葉しかありませんので・・・。」
Pooleは目を見開くと肩を怒らせて猛然とUttersonに食って掛かった。
「ッ、あ、Uttersonさん、あくまでも私を信用しないというのなら、こちらにも相当な・・・。いや、まさか!もしや、博士を殺したのは・・・そうだッ!お前が博士を殺したんだな・・・!何が器物損壊をもみ消すだ!お前がもみ消そうとしてるのは殺人じゃないかッ!」
「なッ、何訳の分からないことを言ってるんだ!私がJekyllを殺すなんて、そんなことがあるはずないじゃないですか!JekyllはLanyonが死んだいま、私の唯一無二の親友ですよ!それなのによりによってそんなことを・・・。それに、何より、動機が無い!ええ、動機で言ったらあなたの方がよほど怪しいですよ!20年も主従関係が続けば必ずお互いに不満がたまるでしょう。私はそういった動機での殺人事件をいくつも見たことがある・・・そうだ、やはりあなたがJelyllを、そう考えればつじつまが・・・」
「合うものかッ!動機が自分には無い!?十分あるじゃないですか!あなたはここ一ヶ月ほどずっと博士を訪ねて来て、そのたびに断られてた、それで一方的に恨みが募って・・・!」
二人はいまや互いににじり寄り、相手の顔に向かって怒鳴りあっていた。
「馬鹿なことを言わないでくださいよ!私はそんなことでJekyllを恨んだりしませんし、仮にそうでも研究所の書斎には入れないから、犯人にはなりえませんよ!でも、Pooleさん、あなたは違う!あなたはこの家の召使だから、簡単に、誰にも怪しまれず書斎に近づける・・・そうか、やはりお前が・・・!この殺人犯め、警察に突き出してやる!」
Pooleは一瞬後ろによろめいたが、すぐに反論の口火を切った。
「そんな、私は博士を殺してなんて・・・いや、そうだ、思い出したぞ!確か前にこの家の裏庭にUttersonさんらしき人ともう一人男が来て博士と何か話してるみたいだったって、使用人の誰かが・・・!あんた、そのとき何をしてたんだ!?まさか殺人のための下調べを・・・?」
今度はUttersonがよろめく番だった。
「た、確かに私は前に裏庭に無断で入ったが、それはただJekyllと話したいと思ったからでッ・・・。」
Pooleは瞳に狂気をにじませながら言った。暖炉の火をその眼球が反射し、まるで目の中で炎が燃え盛っているかのよう。
「違うだろう!それなら使用人の私に一言言うべきだ、おかしいじゃないか!」
「で、でも、お前は自分が、自由にJekyllに近づけることについて、何の弁明もしていない!怪しいのはお前も同じだ!さっきのメモだって怪しいもんだ、自作自演かも知れないじゃないか。」
「ふざけるな、私が博士を手にかけるわけが無い!」
「だったらいったい他に誰が殺せるって言うんだ!」
UttersonとPooleは息を荒らげながらしばらく無言でにらみ合った。無限にも等しい数秒間が流れた後、Pooleが突然に声を上げる。
「そうだ、Hyde!あいつは研究所の鍵を持って出入りしてた、やっぱり奴が博士を・・・。」
Uttersonはしばらくの間何かを探るような視線をPooleに注いでいたが、やがて一つ頷くと、言った。
「・・・分かりました。ひとまずはJekyllがHydeに殺されたというあなたの仮説を支持します。ただ、どっちにせよ書斎の中は確かめないといけない。異論は無いですね?」
「ええ、もちろんです。では、早速・・・。」
先に歩き出したPooleを追って、Uttersonは暗い裏庭に足を踏み入れた。ジャリッ、ジャリッという規則正しい二人分の足音が建物の間にこだまする。まるで新鮮なりんごを齧るようなその音に、Uttersonはえもいわれぬ不安を覚えた。一方のPooleは無言のまま前へ前へと歩み続ける。まもなくして、二人はしん、と静まり返った研究所内に立っていた。夜が更けるにしたがって空を登り続けた月は、雲の切れ間から時折顔を覗かせ、部屋の中にも青白い光を差し込ませている。
「斧は、あの隅のほうにおいてあります。私が取ってきますので、少し待っていてください。」
つかつかと歩いていこうとするPooleを、Uttersonは手で制した。
「何があるか分かりません。二人で取りに行きましょう。」
「ッ、あなたはまだ私を・・・!」
「言ったはずです、あなたの仮説を支持したのは、ひとまず、だと。」
「・・・分かりました。でも、私の、あなたに対する疑いも晴れたわけではないですから、お忘れなく・・・。」
互いの一挙手一投足に細心の注意を払いつつ部屋を歩く二人の様子は、朧な月光のもと、有体に言って不気味だった。やがて闇になれた彼らの目に、鈍い輝きを放つ斧が見えてくる。UttersonとPooleは我先にとそれを手にし、二人で一本の柄を持った。と、そのとき、上階の書斎からトッ、トッ、と足音が響いた。Uttersonは身をすくませたが、Pooleは慣れていたようで落ち着いたまま上を見やった。が、もちろん見えるのは天井の木目だけだ。
「・・・奴は、薬品をいじっているとき以外は、いつもああして歩き回ってるんですよ。それに、子供じみた声で泣いたり・・・。全く、泣きたいのはこっちですよ。」
「今更、そんなことは恐れるに足りません。行きましょう。」
Uttersonは右手で斧の柄を握ったまま階段に近づいた。左手で同じ斧を持つPooleも必然的に追従する。階段下で一瞬の躊躇を見せると、二人はそれを一段一段登りはじめた。その間にも、書斎からの足音は途切れることなく響き続ける。ついに、二人は階段を登りきり、扉の前に立った。互いの腹を読み合うようにPooleと視線を絡ませると、Uttersonは扉を強くノックした。
「Jekyll、私だ!」
しばらく間をおいたが、返事は無い。再度の声かけ。
「どうしても、今会わなきゃならないんだ。駄目だというなら、扉をぶっ壊してでも入る。」
「・・・Utterson。」
中から、低い声が返ってきた。
「頼むから、もうほっといてくれ。」
Uttersonは前を向いたまま、背後に向けて言葉を紡ぎ始めた。
「この声、確かにHydeの・・・。Pooleさん、扉を、ッ!?」
突然に、斧をつかんだ右手を力任せに引き上げられ、思わずそれを手放しながら、驚いて背後を見やったUttersonの目に映ったものは。
「博士を返せッ!死ね、人殺しぃぃぃ!」
両の目を見開きながら斧を振り上げるPooleの姿だった。
ガスッ ドタッ
悲鳴が、厚い壁ごしに外へ漏れることは無かった。月の光が、一人の男の死を飲み込んだ研究所を、虚しく照らし出した。
最終更新:2009年06月26日 16:35