尻餅をついて後ずさるUttersonの前を、斧の刃が擦過して行った。Pooleが全体重をかけて振るったそれは狙い過たず書斎の扉に命中し、ガスッという鈍い音と共に深い創痕を穿つ。取っ手の金具が細かく振動し、無機質な金属音が響いた。だが扉は、材質・構造共に頑丈で、簡単には壊れそうになかった。Pooleは息を荒らげながら血走った目で目の前に立ちふさがる黒い壁を凝視し、依然それが健在であることを確認すると、機械的な動作でもう一度斧を振り上げる。振り下ろそうとして・・・その身を硬直させた。
「ウボアッーーーーーーーーーーッ」
部屋の中からの悲鳴、いや獣声。続けて、ドタッと何か重い物を倒すような音が聞こえてきた。Uttersonは驚愕の内にも破壊作業を再開するように目で促したが、それを待つまでも無くPooleは力任せに斧を振り下ろしていた。
「うっおーーーーッ!!」 ガスッ
扉にめり込む二撃目。刻まれた溝がさらに深くなり、向こうから光が漏れてきた。
「くっあーーーーッ!!」 ガスッ
更に叩き込まれる三撃目。蝶番が軋むような、嫌な音を立てる。
「ざけんなーーーーッ!」 バリバリバリッ
耐久限界を超えた衝撃を受け、扉はついに大穴を開け、倒れた。
UttersonとPooleは、扉が倒れるのを茫然自失とした様子で見つめていたが、それは時間にすると1秒の何分の一かの短い間でしかなかった。Uttersonは不器用に立ち上がりながら、Pooleは斧を手放すのも忘れ、部屋に走りこむ。

カーペットの上には、うつ伏せに男が倒れていた。がっしりとしてはいるが背の低いその体格には、明らかに合っていないスーツを着込んだ背中。Pooleが直立不動で見つめる中、Uttersonはそれに近付いて仰向けにひっくり返した。
「・・・ッ!」
「・・・私の予想通りでしたね。」
果たしてその顔は、忘れもしない、Edward Hydeその人のものだった。その表情は、憎悪一色に染め上げられている。
「死んで、いるんですか?」
Pooleは斧をそっと床に置き、Uttersonの肩越しにHydeを覗き込んだ。
「ええ、確かに。脈がありません。とすると、さっきの悲鳴は・・・。」
ふと見ると、Hydeの右手が何かをしっかりと握り締めている。Uttersonが既に死後硬直しかかっている指を強引に開くと、中から透明な小瓶が転がり出た。コロコロ、と軽い音を立て、部屋の隅まで転がっていったそれをUttersonは恐る恐る拾い上げた。中は空だったが、液体の入っていた形跡があった。それを見つめながら、Uttersonはつぶやくように言った。
「これは・・・何かの毒物か・・・?じゃあ、Hydeは自殺して・・・。」
窓から見えるおぼろげな月は、白い街灯の光と相あまって、窓枠をさながら一枚の風景画のように仕立て上げていた。対照的に二人の男が佇むその部屋は火を宿らせる暖炉によって暖かく、明るく、しかしぞっとするような気配が渦巻いている。即ち、死の気配が。
「・・・遅すぎたのかも、知れませんね。Jekyllを救うにも、Hydeを裁くにも。」
「ッ、博士・・・。」
「何にせよ、Jekyllの遺体を見つけなくては、弔ってやることもできません。探しましょう。あるとすれば、この建物です。」
二人は書斎を出ると、研究所を隅々まで探した。しかし、Jekyllの生死を決定付けるものが見つかりそうな様子は無かった。そしてそれは、UttersonにもしかしたらJekyllは逃げ延びているのかもしれない、という淡い期待を抱かせた。
UttersonとPooleは、路地に出る研究所の正面扉に向けて階段を降り、歩いていた。Uttersonが前を行き、Pooleが追従する構図だ。二人分の足音だけが奇妙な残響を残しながら耳に響く。もし、もし奇跡が起こってJekyllが生きているとすれば、路地への扉を通って逃げた可能性が高い。無意識のうちにそう考えた事に、Uttersonは無論気づいていない。だが、その行動は思考に忠実に従っていた。やがて、見慣れた扉の初めて見る裏側を、Uttersonは目の前にした。引き手の表面をそっと指でなぞる。埃が、厚くかぶっていた。
「使われた形跡が、無い・・・。」
胸の奥から無力感が広がり、ため息が漏れる。その目に、月光を受けて輝く何かが映った。腰をかがめて手を伸ばす。床に無造作に放り出されたそれは、壊れた鍵だった。
「・・・これは、鍵?この扉の鍵だとすると・・・。」
続く言葉を、Pooleが引き取った。
「Hydeはどうやって研究所に入ったんだ・・・?」
一瞬Uttersonの中でPooleへの疑いが再燃したが、彼はそれをすぐに打ち消した。Hydeは確かにこの研究所にいた。Pooleの言葉はもはや疑いようも無い。
「・・・何がなんだか分からない。一度書斎に戻りましょう、何か見つかるかもしれない。」
Pooleが神妙な顔をして頷くのを見る前にUttersonは踵を返し、書斎へと急いだ。

暖炉の炎が揺れる書斎で、二人は何か手がかりになるものは無いかとあちこちを漁った。書斎にはJekyllの几帳面な性格が顕著に表れており、引き出しや箪笥の中はほぼ完璧に整頓されている。だがそれらの合間をぬって、明らかに整理が行き届いていない箇所があることに、Uttersonは気づいた。それは、書棚の本の山であり、化学薬品のビンを納めた箱の中であり、そして仕事机の上であった。間違いなくHydeの所業だろう、と考える。
「Uttersonさん、これを・・・。」
背後からの声に、Uttersonは半身だけをひねって振り返った。Pooleは床に落ちた一冊の本を指差していた。そのカバーは無残に引き剥がされている。床に接触した数ページは斜めに折れ、決して消えないであろう折り目が刻まれていた。Jekyllが本を大切にしていた事を思い出し、Uttersonは訝しげな目でそれを見つめた。重い腰を上げて立ち上がると、本を拾い上げる。パラパラと一通りめくると難解な化学用語がずらりと並び、時折Jekyllの直筆と思しき走り書きがなされていた。
 本を置いて立ち上がろうとしてふと視線を上げると、顔中に疲れを浮かべた中年の男の顔が目に映り、Uttersonは一瞬目をしばたかせた。鈍った頭が回転し、それは鏡に映った自分なのだと認識する。
「・・・鏡?」
まるでそれがそこにあることにはじめて気づいたかのようなUttersonの言葉に、Pooleは怪訝そうなまなざしを向けた。
「鏡がどうかしましたか?」
Uttersonは立ち上がると、鏡を見つめながら言った。
「普通、書斎にこんな大きな姿見は置きません。なぜJekyllはこんなものを・・・?」
Pooleはそういえば、といった様子で眉根にしわを寄せると、何事か考える様子を見せた。Uttersonはそれには構わず、まだ目を入れていない仕事机の引き出しに手をかけた。鍵はかかっていなかったらしく、乾いた音を立てて開く。期待を込めて覗き込むと、中は空だった。Uttersonは自嘲の笑みを浮かべつつ、引き出しを力任せに押し戻した。バタン、という大きな音に何事かと振り向いたPooleの目の前、唇を笑いの形にしたままのUttersonの足元で__机の天板の下、上からでは死角になって見えない部分から、小ぶりなパケットが落下した。
驚いて走りよったPooleと、状況が分からず突っ立ったままのUtterson。Pooleはパケットの表面に小さな、しかし明らかにJekyllの字で『宛:Utterson』と書かれているのを目にし、無言のままそれをUttersonに差し出した。差し出されたそれを、Uttersonはのろのろとした仕草で受け取った。中には、3通の封筒が入っていた。
「・・・開けてみたらどうですか?」
Pooleの言葉に、Uttersonは慎重に一通目の封を切った。中からすべりでた白い便箋に目を通す。その表情が驚愕に変わる。
「これは、Jekyllの遺書・・・?いや、一箇所だけ、変わってる。」
「差し支えなければ、どの辺りが・・・?」
Pooleの食い入るような視線に、Uttersonは便箋から目を上げて言った。
「財産の相続先が、私に、なってます。」
「えっ、それは・・・。いえ、Uttersonさんが遺産相続することに文句はありませんけど、でも・・・。」
「そうです、どうしてHydeはこの遺書を始末しなかったんでしょう。いくら机の下に隠してあったからって、一週間もここにいて気づかないはずが無いのに・・・。それとも、Hydeの狙いはJekyllの財産じゃなかったのか・・・?」
言いながら、Uttersonは二通目の封を切った。中には、くすんだ色の紙切れが入っていた。
「Jekyllの直筆の・・・手紙、か?日付が・・・、今日の!?」
「そんな、まさか・・・!」
PooleはUttesonの手から紙切れをひったくるように受け取り、じっと見つめた。
「確かに、今日の・・・。じゃあ、博士は今日まで生きて・・・?」
「・・・そういうことになりますね。じゃあ、彼は今もどこかに隠れている可能性が高い、のか?」
Pooleは震える手で紙切れをUttersonに渡す。受け取りながら、Uttersonは床の上に転がったままのHydeの死体を見つめた。
「本当に、Hydeは自殺したのか・・・?Pooleさん、冷静に考えましょう。でないと、酷い目を見るのはJekyll本人だ。」
「そこに、答えが書かれているかも・・・。」
読むのを躊躇する様子を見せるUttersonに、Pooleは二度目の怪訝そうな視線を送った。
「・・・いざとなると怖いものです。手の震えがとまりません。」
「Uttersonさん、しかし・・・。」
「分かってます。全てを知って、全てを終わらせましょう。」
Uttersonは、静かに、朗々と、手紙を読み上げた。
『親愛なるUttersonへ 君がこの手紙を読んでいるということは、僕は既に姿を消しているのだろう。君やLanyonに迷惑をかけっぱなしだった僕を、許せとは言わない。いや、君のように正義感を持った人間は、真実を知れば、多分僕を軽蔑すると思う。でも、やはり、君にだけは本当のことを知っておいてほしいんだ。まず、Lanyonからの手紙を、そしてこのパケットに入れておいた三通目、僕の自白を読んでくれ。勝手を言ってすまない。 運に見放され、全ての幸福を自ら手放した愚者Jekyllより』

読み終えると同時に、Uttersonは手紙を握りつぶした。Jekyllが死んだか、少なくともUttersonたちの前に二度と姿を現さないであろう事は、明白だった。
「馬鹿か、お前は・・・ッ!私がお前を軽蔑するなど、そんなことは・・・。」
「お気持ちは分かりますが、Uttersonさん、どうかここは博士の言うとおりに・・・。最期の、遺志ですから。」
Pooleは、顔を俯せながらも最後まで言い切った。
「・・・無論、そのつもりです。Pooleさん、あなたを殺人犯なんて言って、本当にすまなかった。そして、ありがとう。Jekyllの隠してきた何かにここまで肉薄できたのは、あなたのおかげだ。」
「いえ、謝られる必要はありません。私も、Uttersonさんを疑ってしまいましたから・・・。ましてやお礼なんて、とんでもない。このことは絶対に口外しませんので、Uttersonさんはご自宅でお手紙と博士の自白を読んでいらしてください。」
Uttersonは、書斎から足を踏み出しながら腕時計に目をやって言った。暖炉の火は消えかかり、ランプの光だけが文字盤を照らし出す。
「今が午後10時過ぎ・・・、12時までには全てを知って、お伝えしに戻ってきます。ではそのときに、また。」
「ええ、私は屋敷の中で事後処理をしておきます。それでは・・・。」
Uttersonは自宅へと、夜の道を駆けた。雲は薄く切れ、月はようやく本来の光を取り戻しつつある。ロンドンを満たしていた雨の気配は、徐々に流れ去っていた。

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最終更新:2009年06月26日 16:40