私は18年に生まれた__両親の莫大な財産を受け継ぎ、また博学才栄であった私は化学の分野に身をささげ、すぐに大きな成功を収めた。若くして、私の元には化学界の要人たちから協力の要請が殺到し、同世代の友人たちが外で遊びまわっている間、賢者の老人がそうするように屋内で思索にふける毎日であった。
 その実、私はそんな堅苦しい生活に嫌気が差していた。なるほど、世間から見れば、私という人間は堅実で思慮深い化学者だっただろう。だが、私は心の深層において、楽天的で享楽な一面を持っていたのだ。即ち、欲求という素顔を理性の仮面で覆い隠していたという訳だ。もちろん、これは恥ずべきことではない。二面性を持たない人間などいはしないのだから。だが、このある種諦念とも言うべき真理に、若い私は気づかなかった。私は自分の内面に苦悩し、葛藤を抱え、遂に素顔と仮面を完全に別々に扱うすべを身に付けた。
 私には、純粋さ、正直さというものが微塵も無かった。私の人格を二分する二人は、どちらも私であったのだ。実直な若き化学者も、無責任で奔放な遊び人も。先にも述べたが、それはごく自然なことだ。だが、昔日の私はどうしてもそのことが許せず、やがてこう考える様になった。いっそ、その二人に一つずつ、体を与えてやれたらどんなに素晴らしいだろう、と。そうすれば私の中の享楽家は、化学者に臆面を感じることなくその本能の欲しいままに遊びまわることができる。そのためには、何か特別な手段が必要だった。たとえば、そう、化学薬品。『二つの異なる肉体を一つの身に宿った精神たちに分け与える薬』だ。普通の化学者なら不可能だと一蹴するだろう。だが、私の才の非凡はそれを許さなかった。私はありとあらゆる書籍を読み漁り、昼夜の別なく研究室に篭るようになった。自由奔放に生きるために、さらに勤勉さを増してしまったこの皮肉を笑ってくれ。ともかく、私は結論にたどり着きつつあった。薬を作ることは、可能。だが、そのためには塩基に属するある物質が必要だった。幸いに、私の名を出すと簡単にその物質は手に入った。必要なものは、全て揃った。
 ただ一つ、加えて要求されるものは、覚悟。私は最後の実験を始めようとし、何度も躊躇してやめた。わずかなミスが命取りになりかねない、他ならぬ私自身が出来上がった薬を飲むことになるのだから。だが、最後には私の知識欲が生存本能を上回った。

 その夜、人知れず、私は準備した全ての薬剤混合し__はじめ赤色だったそれは、紫、緑と変化した__目的のものを作り上げた。しばらくそれを前に立ちすくみ__一気に飲み込んだ。
 胃の中で、嵐が猛り狂っているようだった。満腹の腹に更に食べ物を押し込まれているようでもあった。体中の骨が悲鳴をあげ、痛みが脳を直撃した。目に映る物全てが輪郭を失って回転し、立つこともままならない。私は恐怖に支配されながらわが身を襲う災いに耐えていたが、そのうちに、何か全身に力がわきあがり、恍惚感があふれ出しているのに気づいた。野生的な衝動が体中を駆け巡っていた。残酷で、異常で、正義に悖るような考えを、私は紡ぎ出していたのだ。その狂気の中で、私の理性と呼べるものはもはや体を成していなかった。『もし、これこそが悪の本質であるならば、』つぶやいたのを、記憶している。『善など、下らないものだ。』
 私は床から立ち上がり、普段の自分からは考えられないような思考の奔流を楽しんでいた。そして、突然あることに気づく。背丈が、低くなっている。(当時私の研究室(現在の書斎)には鏡が置いてなかったが、これ以来、私は書斎に姿見を取り入れている。薬を服用した際の、外見的変化を見るためだ。)時計を見ると、時刻は午前3時であった。使用人たちは寝静まっている、この体のまま私の寝室に行っても差し支えないだろう、と考えを紡ぐ。寝室になら、当時から鏡が置いてあったのだ。私は研究所を出ると裏庭を横切り、私邸に入った。乱暴に足を踏み鳴らしながら、だ。足音に気を使うべきだったのだろうが、このときは全くそんなことは意識に無かったのである。幸いにも、誰にも見つかることなく、私はEdward Hydeとの対面を果たした。
 鏡に映った彼__私は、思ったとおりHenry Jekyllよりもずっと背が低かった。(これは、このときまだHenry Jekyll、つまり私の中の善がEdward Hyde、私の中の悪よりも強かったためではないか、と私は考察している。)そしてまた、HydeはJekyllに比べ、明らかに醜悪な外見をしていた。鏡の中から私を見返す目には、憎悪がたぎっている。しかしながら、私はその外見がすこぶる気に入った。Jekyllの顔は穏やかだが、どこか平坦だ。その点、Hydeのそれは生々しいまでに生き生きとしている。(その後、Hydeとして何度か行動しているうち、私はHydeの外見と行動が、周囲の人に思わぬ影響をもたらしている事に気付いた。Hydeとしての私に合う人は皆、私にすさまじい嫌悪感を覚える様なのだ。これは、恐らく、Edward Hydeが完全に純粋な悪であることに起因すると考えられる。あらゆる人間は善悪両面を併せ持つことは先述の通りだ。どんな凶悪な犯罪者でも、わずかばかりの善を抱いているのである。だが、Hydeは違う。好感を持たれる要素を一切排除したのが彼の人格であり、外見なのだから。)
 私は長いこと鏡の前に立ち、自分を見つめていた。一向にもとの姿に戻る気配は無い。『失敗したか・・・?』心のどこかでそう考えていた。『もしそうなら、すぐにでも屋敷を離れなければならない。召使たちに見つかったら、警察に通報されてしまう。』しばらく考えた後、私は実験室に取って返し、震える手で先ほどのものとは真逆の効果を持つ薬を作り上げた。即ち、Henry Jekyllを呼び起こす薬を。それを、躊躇無く飲み干す。再び全身に激痛が走り、気づけば外見も、人格も、Jekyllに戻っていた。

 その夜に私が起こしたことは、後からでは悔やんでも悔やみきれない過ちだった。実験自体は決して失敗ではない。いや、むしろ大成功といていいだろう。だが、この世界における比類なき悪、Edward Hydeの人格を、私は世に解き放ってしまったのだ。かつて、私はHenry Jekyllが理性という牢獄の中に閉じ込められているように感じた。だが、鉄格子の役割は中のものを束縛することだけではない。理性の鉄格子は、外側に溢れる悪から内側の私を守っていたのである。Edward Hydeは完全な悪だ。対して、Henry Jekyllは完全な善ではない。Jekyllを以ってHydeを制するのは、もとより不可能だったのだ。
 しかし、だからこそ、私はHydeを歓迎した。私は彼の存在を全力で隠蔽し、その裏で好きなときに彼になれるよう取り計らった。ロンドンの貧民外に一室を借りて、そこに必要な衣類と礼の薬を置き、使用人を雇いさえした。最初のうち__神がいるならば、許して欲しい限りだが__私はこの危険な所業が楽しくて仕方なかった。高名なJekyll博士には決して得ることのできない自由を、Hydeは手にしていたのだ。
 私がHydeでいたときに行ったことの数々は、とても語るに忍びない。それを償うかのように、Jekyllはこれまで以上に紳士に、親切に振舞うようになった。だが、時が過ぎるにつれ、その均衡は崩された。HydeがJekyllの統制を無視し、時には撥ね付けるようになったのだ。
 ある夜、Hydeは通行人の見ている前で、子供を傷つけた。その通行人は、Utterson、君の親戚のEnfieldだったのだ。ああ、なんという偶然か。窓の下に君たちが来たとき、私は彼の顔に直ぐ気づいたよ。私がHydeであった時に出会った彼は、私を激しく糾弾し、周りに居る人たちとともに賠償金を支払うよう強く命じた。だが、その正義感溢れる行動も、そのときの私には疎ましく感じられたのだ。私はその場から逃れるための手段として金を払うことに同意し小切手と現金を渡したが、そのときは全く反省などしていなかった。むしろ自分の邪魔をされたことに怒りを覚えたほどだ。
 恥ずかしいことに、Jekyllとしての私もまた、このことに関して反省は殆どしなかった。ただ、Hydeの存在が明るみに出たことを恐れたのだ。私はHyde用に新しい銀行口座を作った。更に、筆跡を変える練習もした。私は、これで安心だと確信した__だが、それは間違いだった。
 HydeによるCarew氏の殺害より2ヶ月ほど前のことだ。私はHydeとして町を練り歩き、えもいわれぬ満足感とともに自室に帰った。ベッドに入る前、私は件の薬を飲み、Jekyllに戻ったことを確認すると、眠りに落ちたのだった。翌朝、私は奇妙な感覚とともに目を覚ました。掛け布団の上に置かれた自分の手に目をやる。Jekyllの手は大きく、色白で、血色もよい。だが、私が目にしたのは、骨ばって、くすんだ茶色をし、毛の濃いずんぐりとした手__Hydeの手だった。
 胃が裏返ったような気分の悪さと恐怖で、私は少なからず動転した。『ベッドに入る前、確かにJekyllに戻ったはずだ。』私は考えた。『でも、今、薬も飲んでいないのにHydeになっている。何が起こったというんだ!?』そして、更なる問題に気づく。この時間になると、もう家の中にはいたるところに召使たちがいる。この外見のままでは研究室に移動することすらままならない。
 一瞬絶望的になったが、召使たちが既にHydeがこの家にたびたび出入りしているのを知っている事に気づいた。そこで私はHyde用の服を着込むと、堂々として屋敷の中を通り、研究室へ向かった。Pooleが目を見開いてこちらを見た時の顔は今でも忘れない。しかし、驚きながらもJekyllとしての私を気遣っていたその表情に、Hydeの私は気づかなかった。10分ほど後、私は再び薬を服用するとJekyllに戻り、何事も無かったかのように朝食をとっていた。
 いや、正確には、座るだけ座ってほとんど食事には手をつけていなかった。悠長に食事をするには、あまりにも事態が緊迫しすぎていた。その朝に至る前から、私は私の中に占めるHydeの割合が増大しつつあることを感じてはいた。そしてその体格がよくなってきていることも。しかし、まさか外見が勝手に変わるなどということはあろうとは・・・。
 『もしこのままHydeに主導権を握られてしまったら、どうすれば良い?』かつて無いほど、私は悩み、惑っていた。最初の頃は、一回分の薬ではHydeになれず、2倍量の薬を飲むことがあった。今は、もはやそんなことにはならないだろう__至って簡単にHydeになれるようになったからだ。問題は、Jekyllに戻ること、Jekyllで居続けるのが困難になっている点。私の精神と肉体をめぐっての善と悪の熾烈な戦いは、悪の勝利で幕を閉じようとしていた。
 それから2ヶ月の間、私は意志を強く持ち、何とかJekyllの顔を表に出し続けた。しかし、それが限界だった。Jekyllの勤勉実直な暮らしぶりは、もはや私には退屈なものでしかなかったのだ。(いや、私は意志を強く持つことすらできていなかったのかも知れない。なぜなら、私はHydeの住居と衣類を処分することを、考えすらしなかったからだ。)ともあれ、ついに私の意志は折れた。薬を調合すると、私はそれを飲み干して夜の街に繰り出した。
 それは、猛獣を檻から放つにも等しい、愚かな行為だった。その夜、私は狂人となり、理由も無しにCarew氏を殺害するに至ったのである。杖を老体に振り下ろすたび、私はただ恍惚とした悦びを感じるだけ__良心の呵責やそれに類するものは一切無かったのだ。一切の行為が済んだ後、私はHyde用の住居に走り、Hydeの存在の証拠となる一切の文書を処分した。罪を恥じたからではない。むしろ、そのときの私はなんともいえない興奮に取り憑かれていた。そのままの状態で私は家路をたどったのだ。研究室で薬を調合しているときも、私は口笛を吹き鳴らしていたように記憶している。『あなたの健康をお祈りして・・・哀れなDanvers Carewさんwww』薬を飲み込むその瞬間まで、私はこんな言葉をつぶやいていたのだ。もはや慣れてしまった激痛の後、残されたのは「自分」の行動思い返し、青ざめるJekyll一人だった。私は膝をつくと、普段は信じない神に許しを請い始めた。
 再び自分を取り戻した私は、Hydeと決別する決心を固めた。路地から研究所に通じる扉を施錠し、その鍵を壊して投げ捨てた。『永遠にさらばだ、Hyde。』私は囁いた。
 翌日、Carew氏殺害のニュースはロンドン中に知れ渡っていた。ある使用人の少女がHydeの行いの一部始終を見ていたらしい。さらに、その少女はHydeを知っていて、犯人がHydeという者だ、ということまで公表していた。私の半身は、警察に指名手配されることになったのだ。
 ある点において__不謹慎な事だが__私は若干の安心を感じていた。警察がHydeを追ってくれれば、もう彼がこの世界に姿を現すことはできない。もし姿を現せば、良心あるロンドン市民が彼を警察に突き出すことは明白だからだ。
 再び私は真面目に幸せな暮らしを営み始めた__良く晴れ、澄み渡った1月のある日までは。その日、私は公園のベンチに座り、日差しを楽しんでいた。子供達の遊ぶ声が耳に心地よく、満たされた心持で彼らを眺めていた私は。突然強烈な悪寒に襲われ、全身を震わせた。悪寒も震えも直ぐに治まったが、その代わり、あの忌まわしい恍惚感、万能感が湧き上がり・・・。ふと下に目を転じると、なんということだ、私の手は骨ばり、浅黒くなり、毛深くなり__私はHydeに戻ってしまっていたのである。つい先ほどまでは有名な化学者だったものが、次の瞬間に犯罪者に様変わりする。あまりの恐ろしさに、私は呆然として立ちすくんだ。
 どうしたら研究所に戻り、薬を調合することができるだろう?犯罪者となった今、屋敷から研究所に入るのは不可能だ。召使たちは、私を警察に突き出すに違いない。そして、研究所の正面玄関は、他ならぬこの私が使用不能にしてしまった。外部からの助け無しには、もはや私が元に戻る手段は無い。私が頼れる化学者のつてといえばLanyonだが、彼にコンタクトを取るのは難しすぎる。よしんばコンタクトが取れたとして、この姿の私を家に入れろなどと、到底頼めはしない。さらに、Lanyonに頼るとなれば、彼に私の研究室から薬の材料を持ってきてもらわねばならないが、それにも相当な困難が伴う。とても実行不可能なように思われた。
その時、私はあることに気づいた。Hydeでいるときの私はJekyllのときの私と、外見において大きく異なるのは既に述べたとおりだ。だが、Hydeになったときの私の筆跡はJekyllのそれとさほど変わらない。(だからこそ、Hydeのことを隠蔽するために私はわざわざ筆跡を変える練習をしたのだが、ここではそれが幸いした。)であるならば、手紙によってLanyonに連絡をつけることができるではないか!
 私は近くを通りかかったタクシーに乗ると、運転手にLanyonの家のすぐそばのホテルに、と頼んだ。もちろん直前まで着ていたJekyllの服はその時の私には大きすぎ、タクシーに乗り込むのも一苦労であった。そんな私の様を見たタクシーの運転手は笑いをこらえきれず、プッと噴出し__一応弁解しておくと私自身は軽く眉をひそめただけのつもりだったのだが__乗り込んできた客の凄まじい形相に青ざめることになった。その態度がHydeの私は気に食わなかった。すぐにでも運転手を引きずり倒し、殺してしまいたい衝動に駆られたが、一分の理性、いや生存本能がそれを押しとどめた。ここで騒ぎを起こせば、何もかも絶望的になってしまう。
 私が沸きあがる殺人衝動を押さえ込むのに苦心している間にもタクシーはロンドンの町を行き、目的のホテルにたどり着いた。私がお金を払ってタクシーから降りると、運転手はアクセルを踏んで逃げるように去っていった。
 私は、ホテルのフロントロビーに足を踏み入れた。そこでも、私は嘲笑の憂き目にあう。周りの客は嫌悪感を露にしたり声を上げて笑い出したりするし、礼儀正しいはずのホテルマンたちですら、互いに視線を交わしながら営業スマイルとは呼べないほどニヤニヤしていたのだ。だが、それらは全て、私の怒りの表情一つで消え去った。皆、張り詰めたような沈黙の中、私から目をそらしてそっと歩き去っていった。
 私は、唯一その場から逃れられない受付係のもとに行き、一人部屋に紙とペンを用意して欲しい旨を伝えた。彼はか細い声で『かしこまりました、お客様・・・。』というと、すぐに私を部屋に案内した。
Hydeでいるときに身の危険を感じるというのははじめての経験だった。彼__ここでだけは、どうか『彼』と書かせて欲しい__はとてもじゃないが人間とは言えない。その時、Hydeの心を満たしていたのは恐怖と憎悪、悪しき感情だけだった。だが、彼は愚かではなかった。Hydeはこれから書く二通の手紙__一通はLanyonに、一通はPooleに__に自分の全てがかかっていることを重々承知していた。即ち、失敗は死を意味する。
 部屋に通された私は机に向かうとペンを握り、手紙を慎重に書き上げた。それを従業員に渡し、あて先に直接届けるように言うと、私は数時間を部屋に篭って過ごした。夕食は部屋に持ってこさせた。持ってきたウェイターは青ざめ、恐怖におののいた顔をしていたが、もう慣れたものだった。
 そして、夜を待ち、満を持して私はホテルをチェックアウトした。タクシーを捕まえ、辺りを周回するように言う。運転手は私の注文どおり、ロンドン市内を縦横無尽に駆け巡った。
 運転手がいい加減に無駄な運転に飽き、無用な勘繰りをする様子を見せ始めると、私は中心街のはずれでタクシーを降り、徒歩で移動し始めた。時折すれ違う通行人からも、私の外見はさぞかしおかしく見られていたことだろう。一人の女性が、『マッチは要りませんか?』と果敢にも話しかけてきた。私が気の毒なその女性の顔面を強打すると、彼女は悲鳴を上げて逃げていった。だがそのときの私は全く気にかけず、計画が成功しつつあることに気分を高揚させていた。
 Lanyonの家に到着すると、私はドアベルを乱暴に鳴らした。手紙は確かに届けられていたようで、彼はすぐに玄関に姿を現した。私を見て旧友が浮かべた顔は、そう、道行く人や運転手、ホテルマンのそれと全く同じ、恐怖だった。ああ、なんと言うことだろう、私は最も古い友人にすら見限られてしまったのだ。この苦しみは、誰にも分からない。誰にも分からない。私と同じ境遇になった者でなければ。Hydeの私もこのことは相当に堪えたようで、次の瞬間には羞恥と、何よりも自分自身への憎しみに満たされていたように記憶している。だが、そこから先のことは良く覚えていない。気づけば私はJekyllの姿になっていて自分の家の書斎におり、そのまま泥のように眠った。
 翌朝、私は疲れきり、やつれてはいるものの、いつもどおりの朝を迎えた。Henry Jekyllとしての時間が戻ってきたのだ。
 だが、私はその時間が突然に奪われてしまうことを知ってしまった。昨日のように、いつHydeが姿を現すか分かったものではないのだ。私自身が望んで彼を作り出し、彼も私の一部であるはずなのに、いまや私たちは互いに忌み嫌い、否定しあっていた。JekyllはHydeが粗野で、乱暴で、どうしようもなく醜悪な事を嫌悪し、HydeはJekyllの脆さを秘めた正義感を憎んでいた。一つの体の中でこんなことが起こってはとても身が持たない、必ず弱い方が消滅することになる。この場合、消滅するのはJekyllの方だ。彼は、生存への欲求だけはとんでもなく強い。自分の片割れである私を消し去っても、一顧だにしないだろう。そして、その消滅のときは刻一刻と近づいていた。
 実際、その朝の朝食を取り終わった後書斎に向かって歩いていると、私は昨日と同じような悪寒に襲われ、慌てて研究所に駆け込んで薬を作り上げる頃には、完全にHydeの姿になっていた。このとき、私は元の姿に戻るために、二倍量の薬を飲まねばならなかった。そして、それでもなお6時間後には再びHydeが活動を始め、私はその日2度目の服用を迫られた。
 状況はその後も悪化し続けた。私は、もはやJekyllの姿で目を覚ます、ということができなくなっていた。イスに座って少しの間うたた寝をするだけでも、Hydeはこれ見よがしに私の体を占有するようになってしまったのだ。そして、Hydeの意識が高まっている間、彼は私__Jekyllに、悪質な嫌がらせを繰り返した。本は棚から引きずり出され、ペンで塗りつぶされる。時には引き裂かれていることさえあった。そうしたHydeでいるときの自分の蛮行を目にするたび、私はたまらなく虚しく、悲しい気持ちになるのだった。そんなことが重なるうちに私は次第に寝るのが怖くなり、当然のごとく体調を崩していった。つまり、Jekyllはより弱体化してしまったのだ。
 残りの薬が少なくなったことを受け、私はPooleを通じて材料を手に入れさせた。だが、それは役に立たなかった。どんなに慎重に生成しても、薬が赤から紫には変わるのに、緑には変わらないのだ。一度飲んでみたが、当然のごとく何も起こらない。わずかな期待とともに鏡を見つめても、Hydeの醜い相貌が見返してくるだけだ。
 私は最初、薬が純粋でないのだと思った。だから、それを返品したりもした。だが、良く調べてみると、薬は十分純粋であったのだ。何がいけないのか。これは予想に過ぎないが、恐らく、私が第一回目に薬を生成したあの時、原料に微量な不純物が入っていたのだろう。多分、原料を受注した業者も気づいていなかったに違いない。それが実験を成功に導いたのだとすれば、あの薬は、二度と再現不可能だということになる。つまり、手持ちの薬が尽きた時点でJekyllとしての私は消滅するのだ。まぁ、遅かれ早かれそれは訪れることだ、覚悟はしている。

 これ以上の自白は、もはや意味が無いだろう。Utterson、君は十分に分かってくれたはずだ。俺がどんなに愚かしい人間であるかを。そして、笑ってくれ。自由を掴みそこない、死を掴んだ哀れな男の末路を。そうだ、お笑い種ついでにHydeでいるときの俺がここ最近どんなであったかを教えてやろう。彼は、机に突っ伏して泣いているんだ。自分の過ちを恥じているんじゃない、警察に捕まることを恐れてだ。ドアが叩かれるたび、彼はビクンと身をすくませる。今まで何人もの人間を苦しめてきた男が、罠にかかった動物のように怖がっているのだよ。
 Jekyllとしての私が消滅した後の彼のことは、もはや私があずかり知ることではない。勘違いしてくれるなよ、私に責任が無いといっているんじゃない。責任を取る手段が無いといってるんだ。彼が最後までのうのうと生き延びて警察に捕まるか、あるいは自殺を選ぶかは、だから、私には分からない。
 さて、この手紙は、最後の薬を使って取り戻したJekyllの心が書いているものだ。これ以上時間が経てばHydeが目を覚まし、せっかく書いた手紙もばらばらに引き裂かれてしまうに違いない。だから、ここまでにしよう。さらばだ、Utterson。君と知り合えて本当によかったと思っている。

最期の時を生きるHenry Jekyllより

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最終更新:2009年06月26日 16:43