1945年の12月、Johnnyが学校から私たちの元に帰ってきた時、彼は健康で元気に見えた。16歳のJohnnyは、他の多くの子供たちと同じように第二次性徴期の心身の成長のさ中にあった。私たちは共にたくさんの時間を過ごし、1月に学校に戻る直前、電車に乗り込みながらJohnnyは言った。「父さん、この1カ月は本当に楽しかったよ」。感情を口に出すことが少ないJohnnyのこの言葉に、私は少なからず嬉しさを感じた。
1946年の3月、Johnnyはまた私たちの元を訪れた。妻のFrancesと私は、ニューヨークで開催されたいくつかの素晴らしい公演にJohnnyを連れていった。Johnnyは様々な物理学の講義を聴き、Francesはまた彼を、偉大なイギリスの指導者であるWinston Churchillを敬する食事会に出席させた。Johnnyはゲームをし、化学に没頭し、そして私が書き始めていたInside U.S.Aという本の最初のほうを読んだ。
Johnnyは疲れているように見えたが、私はさほど気にしなかった。Deerfieldでの忙しい学生生活、そして彼が少年から男性へと成長しようとしている表れだろう、と思ったのだ。Johnnyはいつものように、私たち一家を診察するTraeger医師の訪問を受けた。医師は私たちに、Johnnyは完全に健康だと言った。Johnnyはまた眼科医にも診察を受けた。こちらは重要なものであった。彼は前年の夏、眼に問題があると診断され、その改善に当たるように言われていたのだ。眼科医も、これといったことは特にないと言った。実際、彼の眼はかなり良くなっていたのだった。
年の初め、Deerfieldの少年がポリオという深刻な病気にかかってしまった。この病気を患うと、大抵、首が動かせないという症状が最初に出てくる。このような事態に対する当然の行動として、学校側は生徒家族への情報開示を行った。
4月の第3週に、校医であるJohnson医師からの連絡があった。彼は、Johnnyに首が動かせないというポリオの症状が見られるが、彼が実際にポリオにかかっているとは思っていないと話した。心配はいりませんよ、とJohnson医師は言った。少年にはよくあることです、と。実際、Johnson医師は、彼がJohnnyの首について連絡をしているのは学校でポリオが流行しているのを私たちが知っているから、ただそれだけだ、と言った。Jonnyがポリオのような病気にかかっているなどと思わないことだ、と彼は老婆心を起す私たちに釘を刺した。
後になって、Johnnyはその自分の病気について決して他人に話さない姿勢から、自分から校医に診てもらおうとはしなかったことが分かった。しかし友人の一人が、Johnnyが首を動かせないことに気づき、彼に診察を受けさせたのだった。そして、賢明なJohnson医師は、Johnnyをより詳しく診られるように病室に入れた。もし友人とJohnson医師の適切な行動がなかったら、Johnnyはその日の内に死んでいただろう。そしてこの診察は幸運にも、あるいは不幸にも、予想もしない結論を導き出した。
4月25日木曜日の午後3時ごろ、ニューヨーク市内に居を構える私の私宅の電話が鳴った。ほんの少し前に、私は執筆中の本の一部を書き終わったところで、その夜にはJohnnyにそのことを電話で伝えるつもりでいた。
即座に、訪れる悪報に備える暇も与えず、Johnson医師は言った。「Springfieldからお招きした医師の方に、息子さんを診ていただいています。脳神経医のHahn医師です。彼に変わりますので少々お待ちください。」
一瞬の間をおいて、電話口から別の声が聞こえてきた。
Hahn医師は低く抑えた声で言った。「あなたの息子さんの脳に、腫瘍ができているのではないかと考えます。」
正面から、まともに突風を受けたような気がした。私はあまりに動転し、口から勝手に出てきた言葉は、語尾の震えた情けないものだった。「しかし、それは危険な病気なんですよね・・・?」
Hahn医師は残酷にも、断定した。「ええ、とても」。Johhnyの脳に腫瘍ができていると考えるその根拠を説明しながら、「事は寸刻を争います」と彼は繰り返し言った。その後、私はTracy Putnam医師とも話した。彼は腫瘍治療の権威であるという。実際、Hahn医師とJohnson医師は、私への通達に先んじてPutnam医師に連絡を取っていた。その後の一時間、私は電話にくぎ付けになった。Traeger医師と話し、校医と再び話し、外出中であったFrancesに話し、Putnam医師とももう一度話した。そして、Traeger医師に二度目の連絡をすると、私はPutnam医師の事務所を訪れた。Putnam医師を待ち、Deerfieldに行くことにしたのだった。
ConnecticutのNew HavenでFrancesと落ち合った。外も見えない雨の夜を車を飛ばして走り抜け、私たちは10時ごろDeerfieldに到着した。私とFrancesは胸中の不安を隠せず、車の座席で何度も身じろぎした。Putnam医師はほとんど口を開かなかった。そしてDeerfieldの学校について5分もしないうちに、Johnnyは死を避けられないのだと、私は知ってしまった。
もちろん医師たちが「あなたの息子さんは死ぬでしょう」などとはっきり言ったわけではない。ではなぜそう考えるのかと聞かれれば、医師たちの固く引き結ばれた口元やしわの寄った眉根、その表情に表れていたと言うほかない。最も深刻な顔をしていたのはHahn医師であった。私はこの人のよい医師と二度と会わなかったが、話している間、彼が必死で表情を繕っていた様子は決して忘れない。また、彼が私とFrancesに別れを告げるときの面持ち、態度も忘れられない。彼は、これからJohnnyに起こるであろうことを知っており、それを何とか隠そうとしていたのだった。もちろんそれらは私もFrancesも知りえないことであり、そして可能な限り知らないままでい続けるべきものであった。Hahn医師は、Johnnyの歩まねばならない悲惨な運命を知った私たちがどうなってしまうか、気遣ってくれたのである。
Johnnyの病気がここまで重いのを知らず、Johnson医師はその朝、JohnnyをGreenfieldに送り検査を受けさせていた。Johnson医師は、看護婦を一人Johnnyに付き添わせていた。
その看護婦が、Johnnyの足取りが少しおかしい事に気付いた。ドアを通りぬけるとき、Johnnyは左側の壁に近づきすぎたという。看護婦はJohnnyをもっと細かく診察し、そして左右の目がバラバラに動いていることを見出した。彼女はこれを重く見て、Johnson医師に報告する。Johnson医師はJohnnyの眼を診ると、事の重大さに気付き、慌ててHahn医師を呼んだ。
Hahn医師はJohnnyに、背骨から隋液を取り出して調べる脊椎穿刺という検査を受けさせた。この検査により、隋液が脳や視神経を強く圧迫する状態にJohnnyが陥っている事が明らかになった。
この脊椎穿刺は、Johnnyが受けねばならなかったたくさんの検査の、ほんの始まりに過ぎなかった。Johnnyが受けた検査は、どれも恐怖心と苦痛を伴った。そして、どの検査でも、Johnnyは再検査を受けることになった。
Johnnyの治療に当たる医師の数は、かなりのものだった。Johnnyは亡くなるまでに32、3人の医師の診察を受け、その中には世界的に有名な者も何人かいた。ただ一人を除いて、彼らは皆Johnnyを愛し、その治療にあたってくれた。数人は、人生をかけてJohnnyを救おうとしてくれたのではないかと、本当に思ってしまう。
大勢の医者の内主治医を務めたのは、4月25日の夜、私とFrancesをDeerfieldに連れて行ったTracy Putnam医師であった。彼は紳士的で、理解のある人だった。その時、私はPutnam医師がどれほど有名な人なのか知らなかった。私は、彼が外科医であることすら知らなかったのだ。当時、彼はニューヨークで2つの要職を担っていた。ニューヨークの有名大学での脳科学の教授職と、大病院での脳神経科主任である。
Putnam医師はJohnnyをニューヨークに送る決定をし、私たちは早朝に発った。Johnnyを車に運び入れる時、体温を保つため、看護婦が彼の顔を黒いカバーで覆った。Francesは看護婦を手伝っていたが、私はその様子に目を向けることができなかった。冷たく激しい雨が降り、長い道程はお世辞にも快適とは言い難かった。FrancesはJohnnyが眠ろうと努める間、ずっとその手を握っていた。
翌朝、Johnnyの容体は病院までの長旅について話せるくらいには回復した。その眼も、良くなっているようだった。しかしその日の遅く、日付が変わらないうちに、Johnnyは激しい頭痛を起した。ほんの少しの幸運に目を向けるなら、Johnnyがその闘病生活で苛まれた強い痛みはこれが最初で最後だった、という事が見出されよう。
脳は体の他の部位の痛みを統括するが、脳それ自体の痛みを感じる神経は存在しない。従って脳を切り刻んでゆけば、切り刻まれている人は痛みを感じなくなる。頭痛が起こるのは、脳の周囲の物質が何かを圧迫している時と、脳の周囲の物質が何かに圧迫されている時のいずれかである。この日起こったのは、まさにこれだった。Johnnyは怒ったように恐ろしい痛みについて話し、私たちに説明しようとした。
ニューヨークの病院に移った日、激しい頭痛に苛まれて以来、Johnnyを傷つけたものはただ一つだった。手術の前、彼は髪をそり上げなくてはならなかったのだ。確かにそれは16歳の青年にとって、この上なくつらい事だっただろう。彼は私の手をとって外聞なく泣いた。そしてJohnnyは、どうしたら学校に戻れるだろう、と私に尋ねた。彼の学校では、髪をそり上げるヘアスタイルは許されていなかったのだ。彼は自分の頭を見て笑おうとしたが、その口からは小さく神経質なうめき声しか出てこなかった。
Johnnyの最初の手術は1946年4月29日に行われた。彼は午前11時に手術室に入り、そして午後5時20分に戻ってきた。脳の手術は、慎重を極める必要があるため長時間に渡る事を知ってはいたが、私とFrancesはその6時間をかつてないほど長く感じた。
腫瘍は放っておけば際限なく進行していく病気である。Johnnyの最初の手術が終わった後、私の最大の懸案事項は、Johnnyがガンと呼ばれる病気にかかっているかどうかということだった。全てのガンは腫瘍だが、全ての腫瘍がガンだというわけではない。つまり、Johnnyの腫瘍がガンであるかどうかは、まだ分からないのである。ただの腫瘍は脳にできたものであっても、背骨の神経を傷つける恐れはあるもののガンのように全身に広がったりはしない。しかし、それがガンであったならば、脳が破壊されるまで頭蓋骨のなかで広がり続けるのだ。だから、それがガンかどうか分からなくとも、腫瘍はできるだけ早く摘出されなくてはならない。また、脳は硬い頭蓋骨に囲まれているため、内部には腫瘍が拡大するための空間が無い。もし頭蓋骨を切り開き手術を行わなければ、腫瘍が脳を圧迫し、患者は死に至る。
外科医が手術によって特定する、腫瘍の種類も先行きを決める重要な要素になる。現在のところ、医学的に50種類の腫瘍が知られているという。腫瘍の位置もまた、問題になってくる。頭蓋骨よりの部分にある腫瘍のほうが脳の内側にある腫瘍より、簡単に摘出できるからだ。
初めの内、Johnnyの腫瘍は内側よりの、それゆえに悪い位置にあると予想されていた。Deerfieldにいた時、Johnson医師にどのような手術が必要になるか尋ねた事があった。彼は首を横に振りながら答えた。「脳のこの部分にできた腫瘍となると、手術の成功例は少ないですね」。
しかし手術に当たった医師たちは、腫瘍がJohnnyの脳の頭蓋骨よりにあることに気付いた。これによって、手術はいくらか楽になったようであった。もちろん、一般的な手術に比べれば十分に危険であったのだが。腫瘍の間の違いとしては、他に、拡大速度が上げられる。一部は拡大が速く、一部は遅いとなると、その遅れて拡大したほうが後になって発見されることになる。Johnnyの腫瘍が速いペースで拡大したことは、良くない表れだった。また、腫瘍の形状や硬さなどの性質も違いとして上げられる。硬く、はっきりした形の腫瘍は、小さな部位に分かれて脳のどこにでも広がる腫瘍より摘出しやすい。後者のほうは、摘出はほとんど不可能だとさえ言われている。もし外科医が深く切り込みすぎれば、患者は失血死してしまう。また、脳の健全な部分を大きく傷つけてしまっても、やはり患者を死に至らしめることになるだろう。
午後4時30分、Traeger医師が手術を終えて戻ってきた。Johnnyの病室の近くで私たちと顔を合わせた彼の表情からは、悪い知らせがありありと読み取れた。5時間少々の間に、彼は5つも老けこんでしまったように見えた。私とFrancesも、Traeger医師も、自分の感情を抑えるのに必死だった。私は彼に、1つだけ尋ねてみた。「腫瘍は簡単に摘出できそうでしたか?」。彼は、言いにくそうに答えた。「いいえ、そうは見えませんでした・・・」。
5分後、Putnam医師も手術室から戻ってきた。彼は足早に歩いてはいたが、しかしその様子は戦争から帰ってきた兵士のようだった。私は「両親はどこですか?」と呼ぶPutnam医師の声を、ほとんど他人事のように聞いていた。Putnam医師は私とFrancesを目にとめると、廊下をこちらに向けて歩いてきた。
「腫瘍はリンゴほどの大きさがありました。半分は取り出すことができましたよ。」
脳とはなんとも不思議なものだ、と私は思った。リンゴほどの大きさを持つ危険な物体が、Johnnyの頭蓋骨の内側に、彼を死に至らしめることなく存在できるのだから。腫瘍の半分は依然残っているにもかかわらず、Johnnyの容体はおおむね安定していた。脳を構成する物質に感覚はなく、Johnnyの腫瘍はそういった物質の中にあったのである。
最終更新:2009年10月13日 18:19