Johnnyの退院が許されたのは、6月1日の事だった。彼は私たちと共に私宅に戻ったが、6月20日までは毎朝病院でX線治療を受けなければならなかった。それ以降は、彼は静かな夏をニューヨークから100マイル離れたConnecticutの別荘で過ごすことを許された。
X線治療は、Johnnyの体に少なからず悪影響を出した。彼が病院から車までの数ヤードを歩き切れないほどに消耗してしまうことも、何回かあった。腫瘍が縮小しているか、X線治療の効果を検証するには早すぎたが、医師たちは6月20日を過ぎてもなおJohnnyに治療を受けさせ続けることは賢明ではないと判断した。
X線が多すぎれば、腫瘍だけでなくあらゆる物質が破壊されてしまう。また、それは血液、骨、肌にも危険である。Putnam医師がどの程度の割合の腫瘍を摘出するかを決断するのと同じくらい慎重に、医師たちはどの位のX線治療をJohnnyに施せるかを判断しなければならなかった。
Johnnyの退院から6月20日までの朝は、陰鬱なものだった。混み合う道に悩まされながら、街を横切るように車で走った。できるだけ慎重に、Johnnyを病院の中に導いた。医師たちはJohnnyが診療机に乗るのを助け、彼の頭に眼に見えない力の治療を施していった。方法を学んでJohnnyに包帯を巻きなおしてやり、しばらくの間医師たちと話し、そして家へと車を走らせた。
治療を受けてから家に戻ると、Johnnyは予想通りの行動を取った。彼は、私とFrancesが用意した腫瘍に関する本を読み始めたのである。私たちは機転を利かせ、その本を隠してしまった。なぜなら、その本には、ほとんどの脳にできた腫瘍は最後には失明につながると書かれていたからだ。どうしてその本が無くなったかをJohnnyに説明せねばならなくなった時、私たちがどんな言い訳を並べたかは覚えていない。Johnnyはしばらくの間は怒っていたが、やがて私たちの『奇行』を受け入れてくれた。
アメリカ北東部、Madisonの別荘は休養には最適な場所であった。近くには海岸もあり、病気を抱える人には全ての面で完璧だった。Johnnyの部屋は別荘の最上階にあったが、その夏の間、彼が上り下りに苦労することはなかった。
別荘には、Johnnyの好きな本や音楽、そして彼の勉強に必要なものが全て揃っていた。彼は海岸沿いに歩き、Francesと共に日に当たり、海に足を浸し、そして彼のボートで遊ぶこともできた。彼の仕事部屋は、別荘から100ヤード離れた、私たちが車を止めている建物の中にあった。そこには化学薬品や機械部品、岩石など、Johnnyが遊んだり実験をしたりするのに役立つものが取りそろえられていた。
その夏、Johnnyはベッドに寝たきりでいる必要はなかった。彼が、1時間かそれ以上仕事部屋に入りきりで作業に没頭しない日は無かった。彼は、自身の特別な方法で勉強に当たろうとした。彼がそこまで回復しているのを見るのは、私にとってもうれしい事だった。彼はその夏を、本当に満喫していた。
私は、たとえ病気であるときでも、Johnnyが他人に気を使っていたことを覚えている。彼は学校の友人や同年代の青年たちに訪ねてきて欲しかったようで、そして実際に訪ねてきた者も何人かいた。しかし、彼は自分から彼らに声をかけるべきかどうか分からなかった。誘われた側が、Johnnyが屋外の遊びに参加できないために退屈に思うのではないかと、彼は恐れていたのである
Johnnyが最も恐れたことは、彼の病気が私たち家族の将来の計画を変えてしまうのではないかということだった。Francesの仕事や私の本について、彼の病気が与えている悪影響について、Johnnyは悩んだ。実際、私はその時まだ、10月1日に締め切りを迎えるInside U.S.Aの半分も書き終わっていなかった。Johnnyは、それを、私が与えられた締め切りまでに仕事を終えるのは難しいであろう事まで含めて知っていた。
Johnnyの様子を見に仕事部屋へ足を運んだ私に対して、彼が尋ねるのはいつも同じ事だった。「それで、昨日は何ページ書いたんだい?」。
Francesも私と同じように、書き物をしていた。彼女は毎日、その日に起こったことを書き留めていたのだった。Johnnyはよく彼女に対して、さらにたくさん書くことを優しく勧めた。「有名になれるかもしれないんだよ、母さん」。彼は口癖のようにこう言った。
Johnnyに対して私たちは、一体どこまで話せばよいのか。私とFrancesにとって、これは、解決しなくてはならない重要な問題であった。もしJohnnyの腫瘍がほとんど消えかかっていると言うのならば、彼の頭から飛び出している膨らみを、どう説明づけたらいいのだろう?しかし、より重要な問題があった。どうしてJohnnyは、こんなにも過酷な経験をしなくてはならなかったのか。
私は、痛みは人生の一部である、何の意味のない痛みなどないとJohnnyに言って聞かせた。また、痛みは成長につながる、とも話した。実際、それら過酷な体験を耐え抜けば、彼の脳はかつてよりも健康になるかもしれなかった。しかし、彼は私の言うことを信じてくれたようには見えなかった。
私が自分の中で、常に考え続ける問題もあった。なぜJohnnyは彼の最も優れた部分である脳を、患わなければならなかったのか?
どうしてこの問題に、冴えた答えが見つけられよう。私たちに起こった事の全ては、悲しみ以外の何ももたらしてはくれないのだろうか?そして、もしそこに理由があるのなら、それは何なのか。
Johnnyはかつて、私に言った。「問題を過小評価するよりは、過大評価するほうが良い」。それはまるで、彼が、すでに始まっていた生と死を分かつ戦いに備えていたかのようであった。
最終更新:2009年10月13日 18:20