7.Brat's First tests

「あなたが家にいた頃使っていた、子供部屋があるでしょう?」
Beeは言った。
「気にしないで欲しいのだけれど、あの部屋はいまはSimonのものになっているの。でも、あなたをお客さんとして扱うわけにはいかないから・・・。」
Bratは、これから子供部屋を使うことに異論は無い旨を伝えた。
「どう、少し部屋を見てみる?先にお茶にしてもいいけれど。」
「・・・先に、見てくるよ。」
Bratは立ち上がり、食堂を出ると階段に向かった。
 後ろにBeeの探る視線を感じながら、Bratは平静を装って足を動かした。こいつは、確かめようとしている。即ち、彼が家の間取りを知っているかどうかを。Bratはそう確信していた。
 落ち着け、とBratは自分に言い聞かせた。Lodingが語ったとおりに動けばいい。階段は目前、2階に上れば、子供部屋への廊下があるはずだ。階段から見て3つ目の扉が子供部屋、庭を見下ろす窓があれば、間違いない。
 果たして、Bratは首尾よく子供部屋にたどり着き、広がる牧草地帯に視線をやった。広葉樹に縁取りされた白い道が緑の草原に走る、イギリスの原風景。ガラス窓の向こう側に風を感じながら、彼は、図らずも自分の「親」になった二人のことを想った。BillとNora、既にこの世にはいないPatrickたちの両親も、あの道を通ったことがあるのだろうか。足元の床が、急速に形を失っていった。この部屋は、BillとNoraがPatrickたちのためにしつらえたものだという。自分にこの場所にいる資格は、無い。
 澱んだ思いを払うように振り返ったBratは、後ろにBeeが立っているのを見て、反射的に表情を繕い、言った。
「・・・Simonは?」
「まだ帰ってないわ。昼ごはんに遅刻するなんて、Janeみたいね。でも、すぐに来るでしょう。あなたも、なるべく早く降りて来て。ああ、その前にシャワーを浴びてきなさい。子供用の浴槽ならあなた一人で使って構わないから。」

 Patrickが4つ目の扉を開け、浴室に入っていくのを見ると、Beeは階下に戻った。少しだけ、気分は軽くなっていた。Patrickは本当に生きていたのだ。彼女は、漠然と信じ始めていた。

 自分に向けて際限なく水を吐き出すシャワーのノズルを、Bratは沈痛な顔で見つめていた。胸中に渦巻くものは、今や不安ではなく良心の呵責であった。Sandal氏に嘘を言うのは、それが詐欺まがいのことであっても、心は痛まなかったし、それどころかどこか楽しくもあった。しかし、Beeを欺くのは、それとは質的に異なっていた。とても、許されることだとは思えなかった。
 生乾きの髪に一抹の不快感を覚えながら子供部屋に戻ってきたBratは、そこに先客がいるのを発見した。それは、使用人の女の子だった。女の子はBratに気づくと、興味深そうに彼の顔を見上げてきた。
「何か必要なもの、ありますか?」
「いや、無いよ。」
Bratは素っ気無く答えた。女の子は言葉を重ねた。
「本当にSimonさんにそっくりなんですね。」
「・・・だろうね。」
「ああ、Patrickさんは私のことを知らないでしょう。私はLanaといいます。Lana Adamsです。それにしても、Simonさんよりずっと年上みたいですね。苦労なさってきたからでしょうか。アメリカまで行ってこられたんでしょう?Simonさんは、その、いい人なんですけど、何でも楽に済ませようとして・・・。だから、Patrickさんが戻ってきて、困っているんですよ。ばかみたいな話ですよね。あなたを見れば、Ashby家の人だって、誰でも考えるでしょうに。だから、あなたがPatrickさんだと言うなら、そのことを否定する意味は無い、そう思いますよ。私のアドバイス、聞いてくださいね。これ以上、あなたがSimonさんに遠慮する必要はありません。」
不可解な言葉を問いただそうとしたBratの言葉は、廊下から聞こえてきたEleanoaの声に遮られた。
「何か必要なものでもあるの?」
女の子は、すぐに答えた。
「Patrickさんに挨拶をしてただけですよ。」
Eleanoaが部屋に入ってくると、女の子は一礼して下がってしまった。Eleanoaはパタパタという足音の方にちらっと視線をやると、すぐにBratの方に向き直って言った。
「いい部屋でしょう?」
「ああ、この壁紙は見覚えがあるよ。」
Bratは答えたが、その思考の殆どは女の子の言葉の咀嚼に向けられていた。Simonは自分がPatrickだと信じようとしていない。「あなたがPatrickさんだと言うなら、そのことを否定する意味は無い。」この言葉が意味するのは、SimonがBratに対して疑念を抱いているということなのだろう。
 では、なぜか。
 Bratは答えの見えない問いを意識の外に追いやり、Eleaoaの後に続いて階下に下りた。食堂では、Beeが飲み物をコップに注いでいるところだった。バタン、と音を立て、玄関の扉が開いた。
「なるほど、戻ってきた、ってわけか。」
Simonは食堂を横切り、Bratの前に立った。その目に感情の色は無かったが、肩が小刻みに震えているのをBratは見逃さなかった。Simonは、何かを恐れているようだった。視線が、Bratの顔の上を幾度も行き来した。
 その恐れの色は、突然に掻き消えた。Simonは、表情をやや緩めて言った。
「多分誰も言ってないと思うけど、俺はお前があのPatrickだって信じる気はぜんぜん無かったんだ。今だって、『俺は信じない』っていう気で帰ってきたんだぜ。でも、もう疑わないよ。お前がPatrickだ。」
Simonは片手をBratに差し出して、言った。
「お帰り。」
 Bratは最も難しい一瞬が過ぎ去ったことに胸をなでおろしたが、一方で言い知れぬ疑問がわだかまるのを感じた。Simonは、何を恐れていた?そして、何を見て安心した?戸惑いは、昼食が始まり、家族が馬の話で盛り上がる間も、消えなかった。
 家族の中で、BratをPatrickと呼ぶのはRuthだけだった。Bratは、Janeがもっと自分に対して心を開いてくれないものかと願い始めた。Brat
にとり
妹がいるなら、Janeのような性格の方が好ましかったからだ。
 Ashby家の人々はBratの語る話を興味深そうに聞いていたが、最初の部分、Patrickが家から出て行った時のことについては、決して触れようとしなかった。この事は、Bratにとってはありがたかった。

 その日の夜夕食を終えた後、BeeはBratにタバコを勧めた。Bratは別の種類のものを持っているから、と言って断り、ポケットからシガレットケースを取り出すと、それを逆にBeeに勧めた。Beeは断ったが、Eleanoaは箱に書かれた名前に気づいた。
「・・・Brat Farrar?誰それ?」
「僕だよ。」
Bratは表情を変えずに答えた。
「あなたが・・・。ああ、Farrarって偽名を使ってたから。でも、Bratっていうのは?」
「分からない。Barfleurの人たちにそう呼ばれたんだけど・・・。多分僕が小さかったからだと思う。」
「Brat!Patrickのこと、Bratって呼んでいい?」
Ruthは声を弾ませて言った。
「・・・まぁ、構わないさ。」
Bratは、仕方ない、というように、肩を竦めてみせた。
「失礼します。」
食堂の扉が静かに開けられ、Lanaが顔を覗かせた。
「Beeさん、お客さんがいらっしゃっています。新聞社の方です。」
「どの新聞社?要件は聞いた?」
Beeは尋ねた。
「Westover Timesです。Patrickさんについて聞きたいとおっしゃっていました。」
Beeは席を立つと、BratとSimonに手招きして言った。
「こっちへ、Brat。Simon、あなたもよ。」
BratはBeeに手を引かれながら、食堂を出て行った。掌越しに伝わる体温は、Bratがこれまで感じたことの無いものだった。
 玄関で待っていたのは、青いスーツを着た若い男だった。
「Beeさんですか?私はWestover Timesの者で、Macallanと言います。そうお時間は取りませんので、少々取材をさせて頂ければと思うのですが・・・。」
「私の甥が戻ってきたことについてですか?」
Beeは言った。
「ええ、まさにそのことです。えーっと、どちらがPatrickさんですか?」
BeeはBratとSimonをそれぞれMacallanに紹介し、彼の質問に答えた。
「それにしても、どうしてWestover Timesは関心を持ったのですか?8年前に甥がいなくなったときには、記事にもならなかったのに。家族には大きな事件ですけど、新聞社からするとそうではないのではありませんか?」
「そんなことはありませんよ、Beeさん。」
Macallanは、含みのある笑みを見せた。
「失踪する人も、亡くなる人も、毎日のようにいます。新聞社は、そういう人たちには興味がありません。でも、Patrickさんのように、死んだことになっていたのに実は生きていたなんていう人は、そういないのですよ。」

8.Battle bigins

 Macallanが帰って言った後、Beeは皆で馬を見に行かないか、と提案した。Bratは適当な乗馬服を持っていなかったが、Simonが見繕ってくれることになった。
 BratはSimonの後に続いて2階に上がり、SimonとPatrickが共に使っていた部屋に入った。部屋にはSimonが誰かと共有していた形跡は全く無かった。まるで、初めからずっと、Simonが一人で使ってきたかのようであった。寝室と書斎の役割を兼ね備えたその部屋には、本棚と、Simonが乗馬競技で得た銀の賞杯が目立つ位置に置かれていた。
 上着と下穿きを洋服ダンスから取り出したSimonは、振り返って、Bratが賞杯に目をやっているのを見た。Simonは口の端を持ち上げて、言った。
「覚えてるか、俺、お前に勝ってその賞杯もらったんだぜ。馬で賞をもらったのは、その時が最初だったかな。」
「・・・僕に勝って?」
咄嗟には答えられず、Bratは疑問形の答えを返した。Simonは畳み掛けた。
「ああ、Old Harry杯だよ。いつもお前が勝ってたんだけど、そのときは俺がパーフェクト・スコアで完勝だった。」
「そうだったな、」
Bratは言った。ふと見ると、本棚の影にはさまざまに光沢を放つ賞杯がずらりと並べられていた。
「それからも、活躍してたみたいじゃないか。」
「まぁ、悪くはなかったかな。」
Simonは言った。
「これからは、もっと上手くやって見せるさ。ああそうそう、お前がベッドの隅に掛けてたあれなんだけど、覚えてるか?」
Bratは何気ない風を装ったSimonの言葉に、含むものを感じて言った。
「木彫りの馬だろ?Travestyだったかな。もちろん覚えてるさ。」
肩越しに、Simonが表情を硬くする気配を感じたが、Bratは続けた。
「その馬の親まで想像してた覚えがあるな。えーっと、Bog Oakと・・・Irish Peasant?」
 Bratは壁に掛けられた鏡に目をやり、Simonの様子を窺った。Simonは目を見開いてBratの方を凝視していたが、彼が鏡越しに見つめていることに気づいてか、すぐに元の温和な顔を取り戻した。
「・・・ほら、これならいいだろ。多分合うと思う。」
Bratに乗馬服を差し出すその手は、しかし、心なしか震えているように見えた。

 自室に戻ったBratも、その実、少なからず戸惑いを感じていた。一体どういうことなのだろう。Simonは、Bratが木彫りの馬のことを知らないものだと思っていた、ということなのだろうか?そうでなければ、Bratがあの彫刻のことを知っているそぶりを見せただけで、あんなにも驚くはずが無い。
 それが意味するところは、ただ一つだった。
 SimonはPatrickが生きていて、戻ってきたということを信じてはいない。しかし、それなら、なぜそれを信じたふりなどしたのだろう?「お前はPatrickじゃないし、何と言おうと俺はそうは思わない。」こう喚くSimonの声が、Bratの耳の中で幾度も反響を起こした。
 Bratは目を瞑り、顎に手をやった。Lanaが語ったことからして、Simonがこのように考えていたことは明白だろう。では、どうして彼は考えを変えたのだろうか。罠か、とも疑ってみる。それなら、確かに、Simonの柔和過ぎる態度にも説明がつく。
 最大の疑問は、Simonが、自分に会う前から、自分がPatrickでないと知っていたらしい、その点にある。そして、実際に顔を合わせたとき、Simonは自分がPatrickではないと確信した様子だった。その上で、なぜ、自分をPatrickとして受け入れるふりなどするのか?
 借り受けた乗馬服を身につけ、階段を下りながらも、Bratは絶えずこの疑問に頭を悩ませていた。その足が、突然止まった。彼は、Simonと初めて顔を合わせたときの様子を思い返し、気付いた。Simonは、あの時、何かを恐れていた。そして、その恐れは急速に消え去り、Simonは安心した様子を見せた__すなわち、Bratが本当にPatrickであることをこそ、Simonは恐れていたのではないか。
 では、Simonが自分の欺きを見破っているならば、彼はなぜ自分を受け入れたのか・・・。思考は、堂々巡りだった。あるいは、Simonは、自分が致命的な過ちを犯すのを待っているのかもしれない。追い詰められた鼠が自ら檻に飛び込むのを待つ、残酷な捕食者のように。
 それがお前の心中なら、と考える。目に物を見せてやる。Simonは、まだ、Bratが「家族として受け入れられる」という最初の難関を乗り越えたことに気付いていない。そして、気付いたなら、Bratを陥れようとさまざまな手を打ってくるだろう。
 Travestyは、その幕開けだった。あの木彫りの馬のことは、Patrickか、でなければAshby家の者にしか知り得ない。彼が子供の頃に好んだ玩具など、他の誰が知っていようか。
 恐らく、Simonもそう考えたはずだ。だから、彼はBratが彫刻を知っていたことに驚き、混乱すらしたのだろう。
 Bratは心底、Alec Lodingに感謝していた。彼は選ぶ職業を間違えたのではないか、と思う。Alecは役者としてはあまり優秀でないようだったが、しかし、教師になっていれば非常に成功していたのではないだろうか。Kew Gardensで費やされた時間は、確実に、Bratの中にAshby家に関する情報として息づいていた。
 Bratの中に対流を起こしていた罪悪の感覚は、今や、高揚に変わっていた。この危険な遊びは、最早遊びの域を超え、身を賭した戦いにまで発展していた。そして、その敵は、Simonであった。

 Bratが階段を下り、食堂に戻ると、Simonたちは準備を整えて待っていた。
「ついてきて、」
Beeが言った。
「先に小屋の方を見ましょう。」
BratはBeeに手を引かれ、馬小屋へ向かった。逆の手には、同じようにSimonが引かれていて、傍目には仲の良い親子そのものであった。Eleanoaと双子は、その後について歩いて行った。
 馬小屋の辺りを見て回るのは、Brat
にとり
退屈ではなかった。ペンキの色が新しく、花壇の添えられた小屋は作り物のようであった。Bratは、ここの馬は自分が今まで見てきたものとは違う、かなり楽な飼われ方をしているのだろうと思い始めた。
 しかし、実際に馬を見るうちに、彼は考えを改めることになった。あの輝くような毛並みは、厳しい教練ときめ細かい世話なくしては望めないものだ。
 小屋の奥へと足を進め、ふと気付くと、Bratの周りにいるのはSimon一人になっていた。Simonは一番奥の一角に陣取った、特に大きな一匹を指差し、言った。
「ほら、その馬、良く育ってるだろ。この小屋の奥の方の数匹には、格別に目をかけてるんだけど、そいつが一番成長が良い。Timberって言って、今年で4歳になる。」
 Tinberは黒毛で、頭の部分に白い斑があった。少なくとも外見の点において、その馬は、Bratがそれまで見てきたどれに比べても勝っているようだった。しかし、Bratは、その馬にどこか違和感を感じてならなかった。Simonは、Timberを通路に連れ出して、得意げに言った。
「どうだ、欠点を見つけるのが大変なくらいだろ。」
「確かに、きれいな馬だね。堂々とした顔をしている。」
「そうだな、誇るに足る馬だよ、こいつは。乗り心地も良いし、跳躍力もある。」
 Bratは前に進み出て、Timberの頭に触れてみた。Timberは、退屈そうに足を踏み鳴らした。
「こいつ、今日はまだ外に出ていないんだ。」
Simonは言った。
「ちょっと乗ってみないか?」
「是非とも。」
Simonは頷くと、小屋の管理人を呼んだ。
「Timberの鞍を持ってきてもらえるか?」
「承知しました。」
 管理人がTimberに鞍を取り付けている間、BratとSimonは他の馬を見て歩いた。
「君は、どの馬に乗るんだ?」
Bratは尋ねた。Simonは直接には答えず、言った。
「・・・自分でここら辺を見て回りたいだろ。でも、あまりTimberを熱くさせるなよ。」
「分かっているさ。」
Bratは、鞍に手を付いてTimberに飛び乗ると、小屋の出口へと歩かせた。後ろに、Simonが声を上げるのを聞いた。
「その馬、癖があるからな。気を抜くなよ。」
 Bratは、慎重にTimberを門まで歩かせた。彼は、一度馬から下り、門を開け、再び乗り、門を抜け、もう一度下り、門を閉めた。Timberは神妙な態度で、Bratに付き従った。Bratは、柔らかい草の上にTimberを走らせ、丘が見えてくると、鞍を蹴り、駆け上がらせた。TimberはBratの期待する通りか、それ以上の動きをして見せた。丘を越えて続くなだらかな道を、Timberは風を切って疾走した。
 Bratは、これまでにも、速いといわれる馬に乗ったことはあった。また、Timberと同じくらいの速さで走ることのできるものも珍しくなかった。だが、この馬ほど滑らかな走るができる馬を、彼は見たことが無かった。Bratは、頬を流れる風を心地よく思った。風景は急速に後ろへ流れ、Bratは道の途切れるところにたどり着いていた。振り向き、視線を地平線へと飛ばす。Latchettsと馬小屋が、さながら風に波打つ草原に浮かぶ船のように見えた。少し首を傾けると、Clareと教会の白い屋根が丘の端に覗いていた。彼の目の前の風景は、Alec Lodingに見せられた地図の顕在化したものだった。そこに記されていた事を思い返す。向こうに見える丘の名は、Tanbitchesで、10のブナの木が植えられていたはずだ。しかし、幾度数えても、木は7しかなかった。丘の向こう側には、先刻来たのとは別の道が走っていた。海岸へと続くその道は、8年前、Patrickが通った道に違いなかった。
 突然に、Patrickの死が、鮮烈な色を伴ってBratの胸中を駆け巡った。一人の人間の死を、自分は、良い様に利用している。
 Bratは、Patrickの辿った道を、視線で追った。形容しがたい空虚を、彼はかみ締めていた。美しいイギリスの風景を前にしても、彼の心は慰められることは無かった。初めて味わった家族の感覚も、Timberのような素晴らしい馬も、空しさを募らせるばかりだった。
 ただひたすら、Patrick Ashbyに申し訳が立たなかった。

9.He has his tricks

 BratはTimberの背から下りると、草の上に座り、風に体を任せた。Timberは辺りの草を食べ始め、Bratの意識はやがて眠りに飲み込まれた。

 背後からの声に、Bratは身を竦ませた。
「こっちを見ないで、
 動かないで、
 目を閉じたままで、
 私は誰?」
Bratは指示を聞かず、振り向き、見知らぬ女の子が驚いた顔で立っているのを見た。
「あっ、ごめんなさい。Simonさんかと思っちゃいました。」
「ああ、違うよ。」
Bratはようやく覚醒しつつある思考を働かせて、搾り出した。彼が身を起こす前に、女の子は脇に飛びのいて言った。
「えーっと、ずっといなくなってた、Simonさんのお兄さんですよね。本当にそっくりで、びっくりしましたよ。同じような服着てるから、ますます分かりにくくて・・・。私は、Sheila Parslowといいます。Clare Parkの学校に通っているんですけど、ご存知ですか?」
「ああ、」
Bratは、Eleanoaの言葉を思い出しながら答えた。裕福な子供たちの通う、学習を強制しない学校、だったか。Bratの生返事も気にしない様子で、Sheilaは続けた。
「私、Simonさんの気持ちを捕まえようと頑張っているんですけど、難しいですね。SimonさんはTanbitchesの丘が嫌いらしくて、向こうに行くことは滅多に無いんですよ。普段は、あなたが乗って来たその黒い馬で、Simonさんが分かるんです。Clare Parkは退屈なところですから。何か、もっと、刺激のようなものが欲しいんですよ。」
「Simonは、君の彼のことが好きなのを、知っているのかい?」
「好き?やだなぁ、好きなわけじゃありませんよ。ただ、SimonさんはGates家の女の子に夢中ですから。その人のこと、知ってます?」
Sheilaは尋ねた。
「乗馬を教わっているんですけど、上手くなってるとは思えませんね。」
「僕にできることは無さそうだな、どちらにせよ。」
Bratは地面から身を起こしながら答えた。
「それに、もう行かなくては。」
「それは残念。私、Clareに来て以来、あなたほど素敵な人は見たことがないです。Simonさんに、あなたのお名前を教えてもらったんですけど、えーっと・・・。」
「Patrickだ。」
Bratは、Sheilaの方を見ずに答えた。彼の意識は、8年前、Tanbitchesの丘を越え海岸に向かったPatrickその人に向けられていた。
 BratはゆっくりとTimberを走らせ、Latchettsへと丘を下った。その門を見ると、BratはTimberの鞍を蹴って駆けさせた。
 門が近づくにつれ、BratはTimberの走りに違和感を覚え始めた。右脚が、妙に意識されているようなのだ。Bratは一度止まらせようと鞍を蹴ったが、Timberは聞かなかった。それどころか、馬は、一層強く地面をけり始めたのだった。振り落とされないよう必死でしがみつくBratを意にも介さず、Timberは門へと突進し、直前で右折、ほとんど壁に擦りつきながら停止した。鞍が、木製のフェンスを削る嫌な音を立てる。そこに人間の足があろうものなら、たちまちに、関節を無視した方向に折り曲げられていたことだろう。
 Bratは、Timberが門の前で右折するのを感じると、左足を引き抜いて右側に投げ出していた。結果、彼の足はフェンスともども削り飛ばされることを免れたのだった。彼を救ったのは、その経験がもたらす感覚であった。

 BratはTimberを止まらせると、門を開けながら、言った。
「なるほど、それがお前の癖ってわけか。」
Bratが後ろに目をやると、Timberは少しだけ顔を傾けて彼の方を見返してきた。
「僕を危ない目に遭わせたその癖は、さぁ、誰の役に立つんだろうな。」
Bratほ再びTimberに乗ると、門に向けて歩かせた。Timberは何事も無かったかのように、真っ直ぐに門を通り抜けていった。
 馬小屋の入り口には、Eleanoaが待っていた。
「おかえり、Timberに乗ってきたの?」
Eleanoaは少し驚いた様子だった。
「Simonはその子の癖、説明してくれた?」
「・・・ああ、一応ね。」
癖があるから気をつけろ、程度にしか言わなかったことは、黙っておく。
「そう、なら良かった。その癖、全然直らなくて困ってるのよ。」
「君が世話をしているのかい?」
Bratは尋ねた。
「ええ、私がLerridgeで買ってきたの。もとの飼い主のFelixさんが、亡くなって・・・誰も言ってくれなかったんだけど、次に買った人も・・・Timberが同じようにしたせいで、亡くなってたらしくて、それで安かったらしいのよ。危険だったから、ってことね。」
「まぁ、見た目にはきれいだから、気持ちは分かるよ。」
Eleanoaはうなずいて言った。
「きれいだし、それに脚の力も本当に強い。でも、危なかったらどうしようもない。今日は、どうだった?」
癖は出なかったか、と尋ねられていることを悟ったBratは、一瞬の逡巡の末言った。
「一回だけだ。門のところでね。」
「Timberの癖が怖いのは、滅多に出なくて、乗ってる人にも予想できないからなのよ。あなたは無事で済んで幸運だったわ。」
「門に着く前に、何となく違和感があったからね。それに、この馬はどこか自信家だ。動きが他のとは違うから、何かあるんじゃないかとは思ってた。」
「自信家、確かにそうね。事故に見せかけて乗っている人を殺せるほど、賢いんだから。」
Bratはうなずきながら考えた。Timberの危険さは、ただ教練されてない、というのとは違う。もっと狡猾で、故意的なものだ。
 Bratは、この危険な馬に、自分を乗せたSimonの顔を思い浮かべた。SimonがTimberの癖を説明しなかったのは、ただ忘れていただけなのか、あるいは・・・。あの温和な表情の裏側で、彼は何を考えているのだろう。

 その夜の夕食の席、BeeはPatrickに視線をやり、考えた。この難しい状況の中で、彼は、上手くやっているだろうか。George PeckとNancyが同席していたが、Patrickは落ち着いた様子で静寂を保っていた。
 Simonを育て上げてきたのは他ならぬBeeで、彼女はその結果に概ね満足していた。しかし、自分の力で生きてきたPatrickは、Beeが手をかけたSimonよりもさらに成熟しているようだった。
 Simonはことさらに明るく振舞い、Beeは少しだけ心が痛むのを感じた。彼は、Latchettsが最早自分のものにはならないということを、受け入れている。Simonが自分勝手で、強欲な人間であればそのような態度に出るはずが無い、とBeeは考えた。

 テーブルの反対側から、Bratも、Simonにそれとなく目をやっていた。だが、彼はBeeとは異なり、Simonに同情的になるはずも無かった。単に、彼が敵だから、というのではない。Bratは、Simonという人間に、えも言われぬ不快を感じたのだった。「ことさらに明るく振舞っている」ふりをしているSimonの様子を、Bratは苦々しげに見つめた。
 Simonの様子を見つめているうち、Bratはごく最近会った誰かを思い出した。彼は、その誰かに似ているように思われるのだ。一体誰だろう?Aelc Lodingではない、もちろんSandal氏でもない。では、一体誰か?

 その夜遅く、Bratは自室のベッドに横になり、一日に起こったことを思い返していた。彼はさまざまな面で自分を助けてくれたBeeに感謝すると共に、わずかに自責の念を抱えていた。家族の中にいる、というのは、Brat
にとり
心地よいものだった。しかし、果たして、自分はそうするに値する人間なのだろうか。
 Bratの意識は徐々に眠りへと向かっていった。まぶたの裏に、Simonの穏やかな顔が浮かんできた。彼は、その裏に隠された真意を暴き出そうとその目を見つめ返した。Simonの皮膚は、すぐに形を失い、流体のように流れた。再び形を成したとき、Bratが見たのはTimberの美しい毛並みだった。

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最終更新:2010年01月29日 17:44