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6.The Grameen Bank

 バングラディシュは長きに渡って洪水や嵐、飢饉に苛まれてきた国である。幾世代もの間、人々は貧困の中で生活してきた。バングラディシュの貧しい人々が小額であっても融資を受けることができれば、彼らはより良い生活を送ることができる。鶏や牛を育て、ミシン購入して服を作ることが可能になるのである。しかしながら、貧しい人に融資をしようとする銀行はない。
 Muhammad Yunus博士は、この問題を解決しようと決心した。彼は貧しい人々、特に村に住む女性に小額の融資を行うために、独自的な機関を設立した。即ち、Grameen銀行である。2006年、Yunus博士とGrameen銀行はその努力のために、ノーベル平和賞を受賞した。Yunus博士が、どのようにしてこの「微小融資」のシステムが開始されたかを語る。

 1972年、バングラディシュがパキスタンから独立した翌年、私は帰国し、Chittagong大学の経済学部の学部長に就任した。皆が生活水準は上昇していくだろうと考えたが、驚いたことに、バングラディシュは急速に転落していった。1974年には大規模な飢饉が起こり、路上で亡くなる人もあった。
 私は自分が教えていることについて、苛立ちを覚えた。講堂においては、経済の理論は正しいように思われる。全て、上手く行くのである。しかし、そのまま大学のキャンパスから外に出ると、現実の世界は完全に異なっていることが分かる。何も、上手く行ってはいないのだ。私にとって、講堂から現実の世界に、つまり校外の道に出ることは、映画館を退出するようなものだった。映画の中では、全てが整然としている。あなたは英雄が勝つことを期待し、そして実際に英雄は勝つ。しかし映画館から、あるいは講堂から、貧しい路地に出ると、現実の世界は決してそのようではない。全員が負けている。そして誰一人として、勝っていない。
 私は、考えた。
「私が、自分の教えていることを信じないならば、経済を教える意義があるのだろうか?自分が信じていないことを、生徒に信じろなどと言えようか、いや言えない。」
 だから、私は現実の世界の経済を学ぶことを決めた。私の先生たるべきは、バングラディシュの貧しい人々だった。Chittagong大学のキャンパスの近くには多くの村があったため、現実の世界の経済学を学ぶためには、キャンパスを出てそういった村に入るのみで事足りた。私は、村に住む際立って貧しい人と話した。そこにこそ、私が解決すべき問題があるからだ。なぜ彼らは、自身の生活を変えることができないのだろう?なぜ彼らは、生活を改善することができないのだろう?私は話し続け、問いかけ続けた。教師や、調査者としてではない。単に一人の人間として、隣人としてである。なぜ物事は、現状のまま停滞し続けるのだろう?

 ある日、私は竹の箱を作るものの、一日2ペニーしか収入を得られない女性に会った。私には、それほどの重労働をしながら、ほとんど収入が得られないことが信じがたかった。彼女は、その原因を私に説明した。曰く、箱を作るための竹がないため、商業者からお金を借りた。商業者は彼女から非常な低価格で箱を買い取り、貸付額を差し引く。その結果、彼女は一日の労働で2ペニーしか得られないのである。賃金は、ほとんど無いに等しい。奴隷といっても差し支えのない待遇である。
 これは、非常に単純な問題であるように思われた。このような問題を解決するに当たって、難解な理論は必要無い。この女性が、竹を買うことができる小額のお金を、得られるようにすれば良いのである。即ち、この女性はより望ましい価格で箱を売ることができる。私は生徒を連れて、数日間に渡って村を回り、他に商業者からお金を借りていて適正な収入を得ていない人がいないか確認した。一週間の間に、42人の名前が一覧に載った。彼らが必要としたお金は、30ドルだった。
 私は恥じ入った。私が講堂で語っていた難解な理論は、一体何の意味があったのだろう?30ドルのお金で42人もの人々が生活費を得ることのできる現状が、そこにはあった。しかしながら、社会は個人に、そして小事業に小額の融資を行うことができなかった。私はその手段があるに違いないと考え、銀行関係者に会った。私が42人の気の毒な労働者のための30ドルの融資について話した時、彼は笑った。彼は、私の考えは滑稽なものだと考えたようだった。
「貧しい人々に融資を行うことはできない。」
彼は言った。私は、彼にその理由を問いただした。
「融資を受けるには、何らかの保障が必要だからだ。返済できることを示すために、あなたは一定額のお金や、ある程度の土地を保有していなくてはならない。あるいは、良い信用格付けを有している、つまり過去に確実な返済を行っていることが求められる。」
「しかし、彼らは貧しい。」
私は言った。
「彼らは、お金も土地も有していない。そして、彼らが返済を怠ったなどということは無い。銀行が融資を行わないからだ!」
彼はまた笑った。

 私は他の銀行関係者とも会って話したが、結果は同じだった。遂に、1976年、私は自分で何かをすることを決めた。私は自分の名義で小額の融資を受け、村の貧しい人々に貸付を行った。それが、今日私が行っていることの始まりだった。
 私は銀行から融資を受けたため、当然、返済しなくてはならなかった。村の人々が私に返済を行うか否かは非常に重要だった。そうでなければ、私の銀行への返済が立ち行かなくなるからだ。人々は、私が融資したお金を、着実に返済していった。それゆえ、私は銀行に返済を行うことができ、更に多額の融資を受けて貧しい村の人々に提供した。このシステムは、徐々に大規模になっていった。私は、銀行関係者に尋ねた。
「なぜあなたはこれを、自分で行おうとしなかったのか?なぜあなたは、私を先行させ、安全を保障させたのか?それは機能している。あなたは、人々は返済を行わないだろうと言ったが、彼らは支払いを怠ってはいない。」
銀行関係者は言った。
「一つの村の中だから、できたことだ。あなたは生徒を動員したし、あなた自身も懸命に働いた。しかし、私たちが同じ事を行っても、立ち行かなかっただろう。」
私は言った。
「それは面白い。」
「複数の村で行えば、立ち行かなくなるだろう。」
「いいだろう、やって見よう。」
私は、他のいくつかの村で融資を行った。依然上手くいったが、銀行関係者は未だ満足しなかった。彼らは言った。
「いや、まだ規模が不十分だ。」
私は融資を行う地区を国内全体に拡大したが、やはり機能した。しかし、銀行関係者を説得することはできなかった。
 私は考えた。
「なぜ私は銀行関係者を追いかけようとしているのだろう?独自の銀行を設立して問題全体を解決することもできるのではないか。」
 私は中央銀行と政府の事務局に足を運び、貧しい人々のみを対象にした銀行を設立する許可を求めた。これには、多くの時間を要した。遂に、1983年、政府は私たちに独立した銀行を設立する許可を出した。このようにして、Gameen銀行は創られたのだった。
 貧しい人のための銀行であるGrameen銀行は、250万人の会員を擁するまでに成長した。彼らの94パーセントは女性である。私たちは、総計で23億ドルの融資を行っている。微小融資のシステムは、合衆国やフランスを含む60近くの国々で利用されてきた。その成功のために、1997年には、137もの国が参加する微小融資に関するサミットが合衆国で開催された。

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最終更新:2010年05月16日 01:21