虚数が現実で実感できる場面はどこ?
数式では知っていても、それをどこ利用で利用しているのかわからない。
-1の平方根と知ってしても、実数ではないとわかっていても
それが現実に存在しないのなら、なぜその概念が必要になる場面があるのだろうか。
教養としてあるのなら、それも使う場面が少なからずあると思うと、
それを使う場面が想像出来ないのが困った所。
1か0、yesかno、そう表せないから出来たのかなと想像するけど、
自分には人間の思考内でしか存在しないものとしか理解できないのだろうか。
科学で使われているのだろうか。
プログラミングで記号に使うけど、虚数として使っているのか?
たとえ概念がわかって、それがどう影響するかを理解しても、
自分には実感することができない事は虚数に限らないか…。
自分には知識もないし、行動を起こしていない。
数年前と比べたらまともに考えられるようになったけど、
当時は行動を起こさなかったことを後悔して、
生きる気力もなくしかけていた時期もあったのを覚えている。
今はそれが不可解で頭で分かろうとするより
有るがままを素直に受け入れてみれば、理解できるのだろうか。
不思議に思わずに済むのだろうか。
現実に存在しなくとも、ありえない二乗ではないし理解できるのだろうから、
虚数空間にあるものは現実に干渉しない訳ではないし
きっと空間も跳躍出来るだろうな。
今の自分が特定の相手に伝えられるのは、こんなものだろう。
大半には意味不明なものにしか思わないし、ありきたりな勘違いもするだろう。
足りない心がマイナスになるのは二つを掛け合わせればの話。
自分が把握していない部分は多々あるのだろうけど、
現状を受け入れて新しく補間できるものがあるから、
現実や虚数空間にあるものを自分なりに知ってみれば、現実が変わるのかもしれない。
それでも実感することは不可能な事か、マイナスに思う事ばかりだろうが。
しかし、生きていれば0にはならない。
それが自分の生きている理由なのかも。
プラスにならないことが大半で、数少ないものを失いながら生きているとしても、
それが0ではなく現実のどこかで残せるのなら、生きる価値は十分にあるのかもしれない。
できる事なら良い影響を与える人でありたいけど、
生きていくことが一番大切だと今では心から思えるから。
眠る事と同じくらいに朝起きる事が好きになった。
たったそれだけの変化が起きただけで自分が好きになれる。
一年前には考えもしたくなかったけど、「自分」を感じられることに喜びを見い出せた。
生きている実感はあったが、生きる実感を強く感じたのはそうそうなかった。
今でも辛い事が多い分人生が嫌になるけど、今では昔以上に自分を表現できる事が嬉しい。
表現するには知識や行動が必要で、自分には足りていないけど
数年前に後悔していた行動が、今の自分を表現する糧になっていることを実感できる。
矛盾していてもいい。自分が生きて何かを残すことができる事が望んでいる事だとわかったから。
どうせ死ぬ事はいつか来るし、それまでに何か残す事で望みが叶えられる事があるだろうし、
正解だけが答えではないし、素直な答えを出せれば、
自分の望んだ答えが分かるかもしれない。