(草稿)

「~である」と「~するべきだ」を分けたので有名なのはヒュームで、このはヒュームのギロチンとよばれている
「~である」(is)という命題からは推論によって「~すべき」(ought)という命題は導き出せない
これは理性からの推論と道徳的判断の区別からきている
またG. E. ムーアがこの二つを混同するのは自然主義によってだと指摘した
自然主義とはまず自然なものを受け入れ、その上に考えを重ねるものなので
その自然に対して無批判になってしまい、結果的に肯定することになってしまうからだ

ここらへんは一つの結節点で 倫理学でも多くの立場があるらしくて調べるのがたいへん

だけれども「~である」を「~するべきだ」という政治的主張だと読み替えるべきだという考え方もある
これはムーアが言ったことと逆だが、自然主義への批判というところはおなじだ
「~である」を一つの透明な事実として無批判にとると、その中の「~するべきだ」という指令を暗に肯定してしまう
ここで、「~である」と「~するべきだ」を、オブジェクト指向のカプセル化のようにセットで考えることで、
自然主義でなくても起きる問題だということがわかってくる

たとえば「ホロコーストは無かった」という事実認定は、すぐに思い作るところでは
ドイツ擁護や、ホロコーストの事実を振りかざして不当な権力として用いるものへの非難という
政治的主張の産物とも読み替えられる
あと南京事件も

ニーチェのようだが、これは歴史学ではごくオーソドックスな問題なのだ
フロイトは、そのことを知っていたので、「記憶が無い」という事実を、「無意識の抑圧」という力に読み替えた
最終更新:2015年04月30日 09:59