感想(2012/2/12)
全然関係ないのだが、私は最近の文学界には少々納得がいかない。
門外漢の私が何を言っても無意味なのだが、読むに値しない本が大量に出版されていて面白い本に出会うことが出来ない。
基本的に私は効率的に物事を進めるのが嫌いで、いや苦手でブルドーザーのように本を読んでいたのですが、最近の本で感心できた本が無い。
これは文学界の問題ではなく、出版会の問題なのかもしれない。
本を出すということを商売と考えていたら、とりあえず出しておけば図書館に大量に収蔵されるだろうから最低水準以上の本を出しておこうという考えなのだろう。
しかし、読む人からしてみたらその程度の本を読むのは時間の無駄にしかならない。
本来、文学というのは時代の反映であり、先駆けであったものだ。
世界においては思想や発展とともに文学はあった。
日本においても、江戸時代は庶民の文化だった出版が明治維新とともに新しい考えを広めたり、口語と文語を統一したり、時代を進めたりしてきた。
その当時、文章を書いていた人たちの教養は、現在の作家のそれと比べると比較にならないだろう。
しかし問題はそこだけではないような気もする。
昔の作家はまだどんなものになるのか解らない日本の文章というものを手探りで、体当たりで作り上げてきた。
翻って、現在の作家は完成された日本の文章の中で新しい時代を描き出すことに挑戦していない。
最近取り上げられる現在の作家が書く時代小説というのは、もう箸にも棒にも引っかからない。
江戸時代の情緒を感じたいのなら落語でも聞いている方がよっぽどましだ。
まぁ、落語も最近はだらしない感じもするが。
二葉亭四迷や夏目漱石も文章の参考にして、口語と文語を結びつけた落語に昔日の勢いが無いのは当然だが、才能が古い世界に流れないのは残念だ。
ニフティで若手の落語を配信しているが、聞いて楽しめるレベルに達している若い人がいないというのは悲しいというか不思議だ。
文学のほうでは、50年代後半から70年代までのSF以降、時代を反映しているといえる文学があったのだろうか。
私は文学とは認めないが、80年代以降のライトノベル(笑)あたりが時代を反映しているというのなら、この時代はたいしたことの無い時代だという証明だ。
本当の問題は読者のほうにある。
大抵の問題は生産者じゃなく、消費者にある。
本来、教養を高め知識を深めるべき読者が買う本こそが良く買われる本になるべきだが、そのエネルギーをなくした読者は本を買うのをやめた。
現在、月に一万円以上本を買っている人は少ないだろう。
私もだいぶ前にそんな時期は過ぎてしまった。
そして実は図書館が敵だ。
便利な図書館でふらっと立ち寄ってかなり専門性の高い本を読むことが出来る。
どんな地方都市でも、文学の分野はかなり充実している。
長々とくだらないことを書き連ねてきたが、何が言いたかったかというと有象無象が文章を書き散らかしているおかげで読むべき本に行き当たるのが難しくなっているということと、文学が時代を反映したり増してや先駆けたりする力を失っているということを言いたかった。
もっとも現在という時代が時代の大きな変換点で、文章で表すのが難しい時代だとも思う。
さらには有形無形のタブーがあちこちに有り、名前を出すことも出来ないということもある。
山崎豊子さんの一連の作品のようなものは綿密な取材と編集陣の度量がないと出ないだろうし、似たようなものはもう出ないだろう。
政治批判や団体に対する分析の文章はリアルなものは出版するのも困難だろう。
逆に、出版されている政治批判や団体分析というのは、ある意味的外れで批判分析された側が許容できる範囲のものでしかない。
この行き詰った時代を切り開く道筋を文章が示せないのは残念だが、それなら俺がやるというにはあまりの力不足。
食うための文章をやっているやつらは全員、餓鬼道に落ちれば良いのに。
前置きが長くなったが、さてこの本は時代小説に見せかけて現在を切ろうと言うちょっとしたチャレンジです。
もちろん完全な成功とはいえないでしょうが、普段時代小説を書かないという割には時代の雰囲気も良く醸せ出せている。
おじいさんが生まれたときに明治維新が起こったという時代の近さが情景を描く手助けになっているのかもしれません。
しかし、携帯電話など新しい道具が出現したことで小説が書きにくくなったという人は努力が足りない。
最終更新:2012年02月12日 23:41