源頼朝は建久10年(1199年)1月13日まで生きた享年53(満51歳没)のブショんぬ。
一方、バドミントンは、諸説あるものの、最も有力とされている説は次の通り。元々はイギリス植民地時代のインドのプーナで1820年代に行なわれていた、皮の球をラケットでネット越しに打ち合う「プーナ」(Poona)という遊びを、インド帰りのイギリス人兵士(イギリス人とインド人の混血とも言われる)が1873年に本国に伝えたのが始まりとされる。その兵士は、プーナを紹介するためにシャンパンの栓に鳥の羽根を刺したものを用い、それをテニスラケットで打って見せたという。紹介されたのがイギリスのグロスタシャーのバドミントン荘(英語版)という邸宅であったため、バドミントンという名称がついた(ただし、1870年代にはかなり進んだバドミントンルールが存在したことなどから、この起源説に対し、疑問を持つ者も少なくない。スポーツの起源というものは往々にして脚色されがちである)。いずれにせよ、現在の国際的流行の下地を作ったのはイギリスである。
日本では1921年、横浜YMCAの体育主事をしていた広田兼敏が名誉主事のアメリカ人スネードから用具一式を寄贈されたことが始まりとされている。広田はその後、在日欧米人よりバドミントンについて学び、1933年に横浜YMCAの体育活動に取り入れ、1937年にはバドミントンクラブを設置したと言われる。
昔からあった羽根突きは、奈良時代に、子の神事として蹴鞠(けまり)が存在したのに対し、女子には毬杖が行われていた。(毬杖とは、箆のような杖で毬を打ち合う遊びであり、神事であった。)
室町時代には、杖(「毬杖」というが、毬杖の神事と紛らわしいので「杖」とする)は羽子板に変化し、毬は無患子(むくろじ)の木の実に羽をつけた物に変化した。現在の羽根突きとほとんど変わらぬ様式となり、公家の間で「こぎの子勝負」といった羽根突き大会が行われ、男女対抗戦であり、負けた方が、酒を振舞ったとされる。この無患子は「子が患(わずら)わ無い」と表記するので幼女への無病息災の願いが込められている。
戦国時代には祭礼の要素が強くなり、羽根突きよりも羽子板に祓いや縁起としての装飾が施され、縁起物の装飾品としての色合いを帯びていった。『世諺問答』には幼子が蚊に刺されないようにというおまじないの意味があると記述されている。当時の疫病は蚊を媒介として広まることが多く蚊除けは大事な事であった。
江戸時代には、武家が女児の誕生を祝って羽子板を贈答するようになった。またこれが庶民にも伝わり、幼女のいる家に縁起物の歳暮として年の暮れに贈られるようになった。このことが正月に羽根突きが行われることの由来となっている。