馬鹿って言われた。今まで何度も言われた言葉。
けれど、今それを言ったのは、電話の向こうの妹。
夕食の献立について聞いて来た真衣――ゲンブさんは温泉の一件で監視を外され、今は永がついている――は、俺の声音がどこか重いのに気付いたのか、
『啓兄ちゃん……なにかあったの?』
と聞いて来た。見たこと、聞いたことをそのまま話すと、
『それで、啓兄ちゃんは何かしたの?』
とまた尋ねて来た。だから俺は、
『何も。……当人の問題だ。それに、俺が手を出した所で、事態が悪化するだけだからな』
自嘲を込めたその言葉に返って来たのは、
『―――啓兄ちゃんの、馬鹿ッ!!』
生まれて初めて聞く、真衣の本気の怒声だった。面喰ったのは俺だけではないらしく、永が『ッ、何!?』と電話の向こうで当惑するのが聞こえた。それを知ってか知らずか、真衣は続けた。
『当人の問題? 手を出したら悪化する? そんなんだから解決しないんだよ、そんなこともわかんないの!?』
『い、いや、しかし』
『しかし、じゃないでしょ!? いじめの対応って、啓兄ちゃんは加害者の方ばっかり見てるじゃない!! いじめられてる人を支えてあげようって気はないの!? 啓兄ちゃんがそんなに冷たいなんて知らなかった!!』
恐らく、今の真衣の背後には阿修羅が浮かんでいるに違いない。それくらい、真衣の言葉は迫力と、真剣みがあった。
『それともなに? 自分がいじめられるのが怖い? 啓兄ちゃんってそんなに弱かったんだ?』
『ッ、馬鹿を言うな!!』
『じゃあ、何でその張間さんって人を助けてあげないの!?』
『自分で解決できなければ、また同じ事が繰り返されるだけだ!! 他人が解決出来る問題じゃないんだよ!!』
精一杯の反論だが、これは本音でもあった。辛いだろうが、この苦痛を乗り切れねば張間に未来はない。
そう、思っていたのだが、
『馬鹿じゃないの!? 啓兄ちゃん、なんで、なんでわかんないの!?』
『自分だけじゃ解決できないから、その人は苦しんでるんじゃないの!?』
『!!』
言葉を失った。……考えてみれば、俺は自分を基準に考えていなかったか? 俺は強かった。危機を察知する力で、危険は避けて来た。だが、張間は? 抗う力はなく、ましてや抱え込み型の性格だ。……果たして、そんな彼女が一人で、1人だけでこの問題を解決できるか?
答えは否。断じて否。
それが出来るのなら、そもそもこんな事態には陥っていない。1人で解決できないから、ターゲットにされるのだ。実際、全国の例を見ても、1人でいじめを解決できた事例はほぼない。自殺と言う最悪の事態を招いたケースの方が多いくらいだ。
アズマ先生や玉置先生は心情的には味方で間違いないが、立場が邪魔をして大きく介入できない。では……誰が、彼女を守る?
『……真衣』
『何?』
『………俺は、どうすればいい』
自分でも驚くほど、その声は弱弱しかった。思えば、俺は一人だった。俺の世界には真衣しかいなかった。その真衣がいなくなって、渋々外に出た。戻って来たから、元に戻った。俺は強い。張間は弱い。そこが違うだけだ。いや、もう一つ違うとすれば、彼女は他人を思って抱え込むが、俺は自分の世界に閉じこもって他を拒絶した、それだけだった。強かったおかげで暴力沙汰はなかったが、陰口や物を取られたことはあった。ただ、気にとめていなかっただけで。
『簡単だよ』
そんな俺を導いてくれたのは、電話の向こうの声。
『まずは、話をしてみればいいんだよ?』
『……それでいいのか?』
『うん。重たい荷物でも、1人で持つより2人で持った方が、絶対楽なんだから』
……ああ。
『……そうだな。そうしてみるか』
『そうだよ。ボクサーと同じだよ』
……何でそうなる?
『戦うのはリングの上で、1人。後ろには支えてくれる人が、励ましてくれる人がいる。でも、その人には応援もセコンドもいない。そういうことでしょ?』
ああ、なるほど。
そんな会話があったのが、少し前。今俺は、とりあえずそうしてみようと張間を探している。と、
「ん?」
鞄を持って学校を出た、その本人を見つけた。
「早退か……」
なら明日にするか。そう思った瞬間、
「……待て。追いかけよう」
予感が走った。能力ではなく、経験に基づくカンが。こういう場合、このまま家に帰してしまうと一人で抱え込んでしまい、事態が悪化する。受け入れられなくても、とにかくまずは、「味方がいる」ということを教えておく。そこからだ。
決断してから行動が早いのが、俺の長所の一つ。早退届を提出し、俺は鞄を引っ掴んで飛び出した。
偽善者、「偽善」に走る
(そうだ、たとえ偽善でも)
(やらないよりは、よほどいいはず)
(後悔するなら、行動してからだ)
最終更新:2011年10月13日 21:25