彼がその光景を見てしまったのは、本当に偶然だった。
久しぶりの外出に目的はなく、グライダーで一通り飛び回った帰り道。
ストラウル跡地を通った時に、赤黒いものを見つけたのだ。
眼を凝らせばそれは、自らの血の海に溺れるキリだったのだ。
慌ててその場に降り立つと、既に彼は衰弱しきっていた。
体に無数の切り傷、刺し傷。誰の仕業かは容易に想像できた。
声をかけると僅かに目を開いた。
意識はある。助かるかもしれないと彼はキリに手を伸ばした。
「…いい…。」
かすれた声をキリは発した。聞き間違いかと思うほどに、弱い声だった。
「小生の、ことは…いい。貴方は、今一度、身を隠し…。」
「そんなことできるもんか!今、応急処置を…。」
彼は連絡を取ろうと、一度その場を離れようとした。
不意に何かにぶつかったのは、その直後だった。
振り返りざまに何もないところで、額を思い切りうったのだ。
ふらつきながらそこを確認したが、やはり何も見えない。
結界か何かか?だとしたらここから動けないじゃないか。
彼は焦り出す。ここから動けないなら、この場で処置を施すしかない。
彼は服の中にしまいこんだメスを取り出した。
次の瞬間、彼はそのメスに活目せざるを得なかった。
今取りだしたばかりの新品のメスが、その変化がすぐにわかるほどの速さで錆び出したのだ。
突然の出来事に驚いた彼は、しかし急がないとと別のメスを取り出す。
ところがそのメスも空気に触れるなり変色し、もろくなっていった。
彼の思考は既に冷静な判断を欠いていた。
取り出す手術道具は皆たちどころに錆び、脆く崩れていった。
地面には新たに銀と赤銅が入り混じったスペースが出来上がっていた。
とうとう手元の道具は、朽ち果て尽くした。
「どうして…。」
その一言さえも、喉から絞られるようにしてしか出なかった。
今、目の前で一つの命が果てようとしているのに。
結界を張られて身動きが取れず、応急処置もできなくなってしまった。
彼はゆっくりと、細い息を吐く男を見た。
「…もう、いいと、言ったで…ありましょう…。」
細切れの言葉を紡ぎながら、キリは吐き出した。
「小生は、もう、長くない…。貴方に、お願いが、あり、マス…。」
「『主を任せた』なら、お断りだよ!僕にはそんなことできない!」
彼は肩につかみかかりながら叫んだ。
「弱気になるんじゃない!君らしくもないじゃないか!」
せめて、一秒だけでも、意識を保ってくれ。その一秒で、助かるかもしれないんだ。
しかし彼のそんな思いも空しく、空に消えて行くだけだった。
その男は、不意に笑い、もう声にならない声を発した。
最期の言葉と確信したのだ。
姿は虚空に溶けだし、先は長くないことを悟った。
待ってくれ。そう叫ぶ彼に罪悪感を覚えながら。
しかし最早これしかできないと。
頬に、気持ちの悪い雨が落ちた。
次第にそれは、滝のように強くなっていった。
足元の器具に、錆なんてひとつもついてなかった。
目の前の血の海に、最早あの人の姿は、なかった。
「主を…、
百物語組の皆を…よろしく、お願いします、「第二の主」…。」
偶然と突然に捧ぐ
やがて彼…千尋は、パートナーである
ミサキに発見され、
その血だらけの足で、秋山家へと向かったのだった。
最終更新:2012年05月20日 19:41