ジョージ・メレディス
(George Meredith)
(1828~1909)
略歴
イギリスのポーツマス出身。父は仕立て屋で母は5歳の時に死んだ。14歳の時に母の遺産ドイツの学校に入った。その後ロンドンで弁護士見習いとなったが、やがて文学に目覚め1849年に初めて詩を発表した。その年に作家ピーコックの娘で6歳年上の未亡人と結婚したが、この最初の結婚では妻が画家と駆落ちしてしまい、その体験を基に小説を書いた。再婚し今度は平穏な家庭生活を送ったがその妻も1885年に先立ってしまい、また晩年には病に悩まされ、特に聴覚の衰えが酷かったという。時代はダーウィンの進化論の衝撃により、それまでの価値観が大きく揺らいだ時であった。メレディスはダーウィニズムのポジティヴな面に光を当てることによって、比較的上手く妥協することができた。彼はダーウィニズムの中の「進化」の思想に着目し、人間社会のこれまでの進化、そしてこれから先も発展していくであろうという、期待したのだ。しかしながらそのためには利己主義を廃し、より理性的な利他の精神を発揮するべきだ、というのが彼の作品のテーマである。しかし作品の売れ行き自体は満足のいくものではなかったようで、新聞雑誌への定期的な寄稿と、出版社へ持ち込まれる原稿の下読みで主な収入を得ていたという。ただ晩年には生活も安定し
テニスンの後任の文芸家協会会長となり、また1905年に勲功章を授与された。
作品
『詩集』(Poems,1851)は「谷間の恋」(Love in the Valley)が含まれている詩集(この詩は後に改作)。
『シャグパットの毛剃り』(The Shaving of Shagpat,1856)は自由奔放で空想に満ち、それでいて警句に富んだ作品。長髪を何よりも尊敬するペルシアのある町を舞台に、奇妙な毛が生えていることから王や高官に対して倣岸不遜な態度を取る仕立て屋シャグパットの毛を、名剣アクリスを手にした宮廷理髪師長の甥の青年が剃り落とすという物語。
『リチャード・フェヴェレルの試練』(The Ordeal of Richard Feverel,1859)は、先に述べたように、彼の妻に逃げられたという実体験から着想を得て書かれた作品である。身勝手で自己中心的なフェヴェレル男爵は、妻に駆け落ちされると、残された息子を自ら創案した教育方針に則って教育しようとする。
『エヴァン・ハリントン』(Evan Harrington,1861)は港町の仕立て屋の息子エヴァン・ハリントンが、貴族たちよりずっと紳士的であることを示すことで、上流階級を風刺した作品。
『モダン・ラブ』(Modern Love and Poems of the English Roadside,1862)もまた妻に駆落ちされた経験から書かれた詩。夫婦が破綻し妻が自殺するまでを、16行の詩を50編連ねた独白の形で描いた。
『サンドラ・ベローニ』(Sandra Belloni,1864)は当初Emillia in Englandという題であったが1889年に改題された。ロンドンへ亡命したイタリア革命家とイギリス婦人の間に生まれた女性歌手エミリア・サンドラ・ベローニと、富裕な商人の息子ウィルフレッドとの不遇な恋を描いた。
『ビーチャムの生涯』(Beauchamp's Career,1876)は名門出身で海軍に入りクリミア戦争に参加、その後急進派となったネヴィル・ビーチャムが、フランス女性、イギリスの貴族令嬢、そして良妻賢母の女性という風に、恋愛を重ねる毎にほぐされていく過程を描いた恋愛喜劇風小説。
『利己主義者』The Egoist,1879は、名家当主ウィロビーが、全くの利己的動機から結婚相手を捜し求める物語である。そしてその利己主義は相手の女性を不幸にし、またそれは自らにも跳ね返ってくる。
『十字路館のダイアナ』(Diana of the Crossways,1885)はアイルランド生まれの賢く美しい孤児の女性ダイアナが、初婚に失敗しながらも最後に幸せな結婚をする物語。
『喜劇論』(An Essay on Comedy,1897)は1877年に行った講演及びその後の雑誌での発表である。書物として出版されたのが1897年。各国の古今の喜劇を概観し、喜劇の成立条件や喜劇精神((comedic sporit))の社会的効用を説くという、笑いの考察としては画期的なもの。
最終更新:2009年11月09日 17:27