私はその日、辛く厳しいウェイトレスの仕事を終えて家路についていました。
日付も変わり、繁華街はともかく住宅街は静まり返っていました。
お耳をそばだてても聞こえるのは庭の植物が爆発的に成長する音だけです。
なのに何だか視線を感じたんです。
赤平さん? いいえ、あの人はランチタイムに補導されていたので違います。
振り替えると、道端の樽から白いルシェ耳が覗いていました。
その耳はだんだんせり上がってきて、眠たそうな目までが見えました。
その生き物は世にも柔らかい声でこう鳴きました。
「ふかー」
あ、今の私の声すごく似てました。
ええ、イクラクンです。
彼女はふかふか鳴きながらどんどんせり上がり、ついには短い足までが見え、
その下にまた別のイクラクンの頭が見えてきました。
「わわわ、増えるイクラちゃん」
今思えば不用意な発言でした。
「ボク、イクラちゃんじゃなくてイクラクンだよ!」
怒声は時間帯を配慮して私への直接ぴこ耳通話で浴びせられました。
私はお耳を震わせて一目散に逃げ出しました。
「ぎゃー」とか叫んでたかもしれません。
私、怒られるのがすっごい嫌いなんです。
随分走った後、目の前に誰かの後ろ姿が見えました。
白くてまるっとして小さいルシェでした。
私は人心地ついてその子に駆け寄りました。
「助けてイクラクン! イクラクンに怒られてるの!」
するとその子は背を向けたまま呟いたんです。
「お嬢さん、そのイクラクンは……こんな顔じゃあありませんでしたか?」
くるりと振り返ったその顔は――間違いなく、イクラクンでした。
私はお嬢さんと呼ばれたのが嬉しくて耳をピコピコしてましたが、ハッと正気に戻って「ちょっとふかーって鳴いてごらん」と言いました。
果たして、その鳴き声はイクラクンの柔らかボイスでした……!
私は死に物狂いで目の前のイクラクンの脳天のツボを適切な強さで突きました。
こうするとイクラクンは詠唱ポーズで30秒間静止するんです。
(※過去スレ参照のこと)
その隙に私はとことこ逃げました。
きゃーきゃーって。
50kmぐらい走ったでしょうか。
うっかりゆミロスに着いて引き返したからそれぐらいだと思います。
その間中イクラクンの温かな視線が背中に降り注いでいました。
カザンに着いた私はお耳を激しく振動させて警戒にあたりましたが、効果は疑わしいものでした。
その時です。
「道行く可愛いカリユ、何かお困りゆかな?」
声のした方を見ると、赤いマフラーとかっこいいベルトを装備したイクラクンが塀の上でポーズをとっていました。
「あのねイクラクン、実は痴漢が」
「おっと、ボクはイクラクンじゃなくてイクラマンなんだよね」
よく見ればベルトの中では一粒のイクラがぐるぐる回っていました。
ちょっと塀からはたき落としたい気持ちを抑え、私は言い直しました。
「あのねイクラマン、」
「ボク、イクラマンじゃなくてイクラクンだよっ!」
「うわぁこの子面倒くさい」
思わず口に出るぐらい面倒くさかったことを覚えています。
イクラマンはマフラーを耳にしまい、ベルトをカボチャズボンにしまい、ふかーっと怒りました。
なんとその姿は
「げぇっ、イクラクン!」
「ふふふ、気づいてしまったようだね」
何やら得意げなイクラクンを塀からはたき落として向こう側のヒラタケ農園に沈めると、私は無我夢中で家に逃げ帰りました。
後ろ手にドアを閉め、ほっと一息ついたときでした。
台所から何かを揚げる音がしていました。
恐る恐る懐のイクラクンにEX発動してもらい照明を得、台所を照らしました。
そこでは踏み台に立ったイクラクンが油揚げを作っていたのです……!
歯の根が合わなかったのでピコ耳通話で尋ねました。
「イ、イクラクンは何で油揚げを……?」
イクラクンはゆらりと振り返り、背後の火に照らされながらふかりと無表情に笑っていました。
そして背筋のむず痒くなる声でこう言ったのです。
「ふふふ、お前に食べさせるためさぁ」
「ぎゃー!」
私は悲鳴を上げてスッ転びました。
「ぎゃー!」
手元のイクラクンが巻き込まれて悲鳴をあげました。
「ぎゃー!」
お料理イクラクンが油揚げを焦がして悲鳴をあげました。
そして私はすやすやと気絶しました。
目を覚ましたのは次の日の昼でした。
あれは悪夢だったのかと耳を傾げても答えは出ません。
むくりと起きると、お腹にすっごい丸文字のメモが置いてありました。
『ボク達が心を込めて運びました』
「うむむーぅ」
暗号解読に明るい私にも理解できず耳を90度傾げていると、なんだか体がくすぐったくなってきました。
それもそのはず。
私の脚の間やパジャマのお腹の内側や首元で、恐ろしいイクラクン達が丸まってすやすや眠っていたのです。
「こしょばい!」
私はそんな恐怖の悲鳴をあげ、ぴょーいとベッドから跳ね起きました。
振り払われたイクラクンは私の体温が残る箇所に集まると、ふかふかと二度寝を始めました。
テーブルの上には狐色を通り越した色の油揚げ。
その横にはものすごい丸文字で『焦がしちゃってごめんなさい』と書き置きがありました。
一口で食べたそれは、ちょっと苦かったです。
ああ怖かった。
おしまい。
* * * *
「――どう? 怖かったでしょ!?」
カリユは半べそで怪談を語り終え、酒場の客達を見回した。
薄暗くしてある店内を埋めていたハントメーンは一様に青ざめ、ぶるぶると震えていた。
途端に得意げになったカリユは「これでみんな夜一人で油揚げを作れないねっ」と朗らかに笑った。
ひどいかわいさだ。
キザなマスターまでも油揚げ用の豆腐をそっとしまい、イクラクンに至っては油揚げを豆腐に戻して自らの頭に乗っけた。
「それじゃあ今夜の六花亭ホラー劇場はこれにて……」
「たのもー!」
バターンと扉を開けて入店するはナムナ、その手にはお冷やのつまみにしようというのか大量の油揚げ!
「お冷やと無料の漬物を所望するでござ」
「「「「ぎゃーー!!」」」鬱」
カリユが、マスターが、エメル様が、大量のハントマンが、一斉に悲鳴をあげた。
「!?」
ナムナはさっと油揚げを盾のように構える。
それを見てさらに強まる悲鳴の渦。
半泣きでおろおろするナムナ。
ふにゅっと気絶する可愛いかりゆ。
それを心を込めて運ぶイクラクン。
コーンコーン。
かりゆぅぅぅぅぅぅぅぅぅ
最終更新:2013年05月05日 00:13