これはどうしたことか――。
燃え盛る炎の前でスバル・ナカジマは立ち尽くしていた。
炎の中で踊るのは巨大な影。
豚に似た――と言うよりも豚そのものの醜悪な顔面。革の衣服を身に付けてはいるようだが、それでも剥き出しの皮膚は強靭で、猛火に炙られても全く堪えていないらしい。
背中には巨体を支えられるのか不安な小ぶりな翼が、そして頭頂部からは二本の角が伸びている。まるでその容姿は伝承やおとぎ話に登場しそうな怪物。
「悪魔……」
クラナガンのとある高層ビル、その最上階で火災が発生。通報に応じて出動したスバルを待っていたのは、炎と煙に巻かれた無数の市民。
避難経路も消火システムも整っているはずのビルだったが、その様子を見るにそれらはまともに機能していないようだった。
逃げ延びた避難者の様子も明らかにおかしい。
青褪め言葉を無くし、問い掛けにもただ首を振るだけの少女。狂乱してスバルにも掴み掛かってくる男。まともに話せる者はいなかった。
スバルには、それが単なる火災にはとても思えなかった。
上には何があるのか、何を見ればこうなるのか。それを確かめる為にも、スバルは下層部を後続に任せて上を目指す。
「行こう! マッハキャリバー!!」
『All Light.』
ウィングロードを駆けてさえ、十数分経っても最上部へ到達できていない。
後続の為に道を拓きつつ、緊急を要する要救助者は確保。
「このままじゃ時間がかかり過ぎる……!」
炎が回るのが異様に早い。最上階からの出火が、あっという間に中腹あたりまで来ている。おまけに外から上の救助に回ったはずのヘリとは連絡が取れない。
飛行できる者も出動している筈なのに。
「甘く見てた……」
逆巻く炎に額にも汗が噴き出す。
こんな炎の中、一般人じゃすぐに煙に巻かれるか、熱気に肺を焼かれてしまう。
原因不明の火災に対してそれなりの準備は整えてきたつもりだったのだが。テロの類か、或いはもっと違う何かか。
『まずは最上階を目指すべきかと』
相棒はこんな時でも冷静な反応を返してくれる。今はそれが有難かった。
ここで考えている時間は無い。応援も大至急こちらに向かっていることだろう。
今すべきは上を目指し原因を突き止めること。そして何より優先すべきことは、一人でも多くの命を救うことだ。
火災現場であちこち打ち抜いて進むのは危険だ。それに、既にたった一人で先行している身。なかなか自分を助けてくれたなのはの様にはいかない。
逸る気持ちを押し殺して、スバルは最上階への扉を慎重に開いていく。
辿り着いた最上階はパーティー会場のようだが、飾りもテーブルも炎に包まれ見る影も無い。
それは並べられていたであろう豪華な料理も――それを食べるはずの者も同じだった。
「ひどい……」
凄惨な宴の跡にスバルは絶句した。
空港火災から始まり、六課以前も、そして以後も災害救助に携わってきた以上、こういったものも見てきてはいる。それでもこれは異常だった。
『鋭い刃物で斬り裂かれた。或いは強い力で引き千切られたものと思われます』
マッハキャリバーの分析にスバルは眉を顰めながらも、黒く焦げた骸に目を落とす。確かにマッハキャリバーの言う通り、その異様さは一目で解った。
何故、焼死体の上半身と下半身が分かれているのか。歯形のような痕も見られる。
また、ある者は片腕だけが見当たらない。何かに喰われでもしたかのように歪な肩口の断面。
スバルはこの状況をなんとか分析してみようとするが、どうにも考えが纏まらない。
辺りを見回してみる。かなり広いはずの最上階も、視界の大部分は炎と煙で塞がれていた。
「救助隊です! 誰かいませんか!?」
轟と燃え盛る炎に声も掻き消されてしまう。しかし、スバルはその合間にコツコツと響く靴音を聞いた。
「誰……?」
歩み出たのはまだ10歳かそこらの少年だった。紫の鮮やかな長髪を三つ編みに結っている。
ヘアバンドとコートは彼の瞳を映したように赤い。
「坊や!? 大丈夫? どこか痛いところはない?」
スバルは少年に駆け寄ってまずは笑顔。そして身体を見回してみるが、見たところ異常はない。
しかし異常は彼の言動にこそあった。
「救助隊の人ですか? あの……ここは危険なんです、早く逃げてください」
「何言ってるの? もう大丈夫だよ。その為に私達が来たんだから」
スバルは優しく少年の頭を撫でた。
きっと優しい子なのだろう。こんなに怖い目に遭っているのに、人のことを心配してくれる。
泣くことしかできなかった自分とは大違いだ――そうスバルは思った。
瞳だけでなく顔まで赤く照れながら、少年はスバルの手を払い除ける。
「そうじゃなくって! 悪魔が――」
少年の言葉を遮って、炎の向こうで轟音を伴って何かが爆ぜた。続け様に響く銃声。
「何……? この音……?」
炎の中を睨むスバルを振り払い、少年は出口とは違う方へと走りだした。
「君、ちょっと!?」
「兎も角、消火と救助はもうちょっと待ってて下さい!」
スバルにそういい残し、少年はすぐに見えなくなった。
スバルは少年の言葉を反芻する。悪魔――最後に彼はそう言った。
これが、この火災と惨劇が悪魔の仕業?
「って……そんな訳ない!」
スバルは両の頬を張って気合を入れた。
暫し呆けてしまったが、やはりこんな火事場に放ってはおけない。追わなければ。
「危ないよ! 戻ってー!!」
しかし呼び掛けに少年が答えることはなく、叫びは炎に吸い込まれた。
「ああ、もう! どこに行っちゃったんだろ?」
少年を追ってはみたものの、その姿はどこにもない。見渡す限り瓦礫と炎だけだ。
そういえば、この惨状を目の当たりにしても彼は随分と落ち着いていた。
不思議な少年だ――今のスバルにはそうとしか考えられなかった。
仕方なく、微かに聞こえる銃声を頼りに突き進む。瓦礫を拳で打ち壊し、炎を飛び越えて。
やがて炎の中に影が揺らめきだす。その一つは人影。
「救助隊です!返事をし――て……」
スバルは張り上げた声をそれ以上続けることが出来なかった。
炎が照らし出した影はもう一つ、人影だ。ならば最初に人影と思ったものは?
それは徐々に輪郭を膨らませ、天井に届く程に巨大なものとなった。片割れと比べると、尚更その差が浮き彫りになる。
「悪魔……」
突き抜けた先に広がった光景。スバルの第一声はそれだった。
「ん~? 人間がまだいたのかぁぁ?」
豚顔の悪魔は重く低く間延びした、酷く頭の悪そうな声でスバルに向き直る。
細長い目、突き出した鼻、紅く染まった口。視野の全てをそれに奪われて、スバルは一瞬圧倒されてしまった。
それ故に悪魔の口に緋色の炎が灯ったことにも、横からの叫びにも咄嗟の反応が遅れた。
「馬鹿! さっさと逃げなさい!」
その声に我に帰るも既に遅く、炎は球状に凝縮されて吐き出された。
「くっ!」
回避が間に合わないと判断したスバルは、両腕を交差させる。
バリアで防げるだろうか。祈りにも似た思いで火球に相対したスバルを、横からの衝撃が吹き飛ばす。
「わぁぁぁ!」
横跳びに転がったスバルの足元を火球が抉った。煙が晴れると、そこには大きな穴が階下まで口を開けている。
「痛たたた……何ぃ――ぐっ!?」
スバルは頭をさすりながら起き上がろうとするが、BJの襟を掴まれ物陰に叩き込まれた。
そこで、ああ、彼女に体当たりされたのか――と、ようやく気付く。脇腹に頭突きされたらしくジンジンと痛む。
「ハァハァ……アンタ死ぬ気? あんなのBJだけじゃ防げっこないわよ」
悪魔に気付かれないよう押し殺されてはいるが、彼女が心底怒っているのは伝わってくる。
あの悪魔、鈍重な見かけそのままに鈍いらしく、物陰に隠れたスバル達を探して徘徊を始めた。しかし彼女の言う通り、階下まで大穴を開ける火力。あの火球を喰らっていれば危なかっただろう。
「ありがとう。あなたは……ひょっとして……」
金髪と青い瞳の少女。歳はスバルとそう変わらないだろう。胸には鎖で懐中時計を下げている。
髪を覆うヴェールと、脛まで隠す黒の修道服はスバルの知るものとは少々趣が違うが、それは紛れもなく――。
「見ての通り、聖王教会のシスターよ」
両手に2挺の拳銃を握っていることを除けば、だが。
「聖王教会のシスターが何でこんなところにいるの?」
「悪魔を封じたロストロギアが今日、このパーティーでお披露目されるっていう情報がを掴んでね。もう少しで確保できるところだったんだけど……遅かった。突然封印が解けてこの有様……」
少女は周囲を包む炎に、僅かに目を細めた。
2人は物陰に潜んだままだ。このまま隠れていれば暫くは時間を稼げるだろう。
「悪魔……?本当にあれは悪魔なの?」
「そうよ、聖王教会は世界に悪影響を及ぼす悪魔の対処を秘密裏に行ってるの。それが悪魔祓い〔エクソシスツ〕」
聖王教会――ロストロギアの研究、保管を行っている宗教組織としか知らなかったスバルは大いに驚いた。
しかし独自に教会騎士という強力な戦力も有していた。それもこういうことならば頷けないこともない。
「アンタ管理局の魔導師なんでしょ? あれを倒すの手伝ってくれない?」
「でも……まだこの階に男の子が残ってる。先にその子を安全な所に逃がさなきゃ……」
スバルはあの少年の安否が気に掛かっていた。彼はまだこの階にいるはずなのだ。
「紫のお下げの男の子で……10歳くらいの……」
「あ~いいの、"それ"は放っといて」
スバルが特徴を話すと、少女は手をひらひらさせて言い放った。最初の神妙な面持ちも、途端に拍子抜けした表情に変わる。
「ちょ……! こんな危険な所に一人にしておく訳にはいかないでしょ!?」
「大丈夫よ。そう簡単に死にゃしないから」
なんて無責任な発言なのだろう。こんな火の中では人など容易く死んでしまうことを自分は知っている。ましてや火災だけでなく悪魔なんてものまでいるのに。
スバルには彼女が本当にシスターなのかも疑わしく思えてきた。
「そうはいかないよ! 私行かなきゃ!」
「だからちょっと待って。あいつは――」
「離して!!」
掴んだ少女の腕を力一杯振り解くスバル。
彼女はきっと家族から、兄弟から逸れて独りきりになったことがないのだ。取り残されることがどんなに怖いことか知らないからそんなことが言える。
スバルに嫌悪と怒りを込めて睨まれ、流石に少女も頭に来たらしい。
「アンタに何が解るってのよ!? あいつら放っておいたら、私もアンタもビルごと潰れ兼ねないのよ!」
少女は再びスバルの腕を取り、更に力を込めて引いた。
言い争う二人は更にエスカレートしていく。それは悪魔の遠い耳にも届き、悪魔はゆっくりと声のする方へと向いた。
「ギギギギ……そこかぁぁ?」
「いい加減にしろよ!!」
悪魔そっちのけで掴み合いになる寸前、怒号が二人の耳を劈く。
声の主は先程の少年だった。
「君達は2人とも任務に来てるんだろう!? それがこんな所で喧嘩してどうするんだ! 君達のすべきことは悪魔を倒すことと、人を助けることだろ!?」
彼の尤もな意見に2人もしゅんとして項垂れた。
こうしている間にも炎は広がって、悪魔は人を襲っているかもしれないのに。
「……悪かったわ」
「あ、うん……こっちこそごめん……」
2人ともお互いに熱くなり過ぎた自分を恥じた。それを見て少年はふっと微笑むが、すぐに笑みは消える。
「悪魔はもう一体いる。それもあの悪魔よりも更に機敏に飛び回る奴だ」
「ええ!?」
スバルと少女は声を揃えて驚いた。現状でさえ持て余しているのに、あんなものがもう一体――。
「ヘリを落としたのも、下の階に炎を広げたのも多分そいつだろうね」
冗談ではない。下からは救助隊が来ているし、避難した市民もまだ大勢留まっている。
ましてや外に逃げられでもしたら――最悪の状況がスバルの脳裏を掠めた。
「私が頼んだ結界はどうなってるの?」
「もう張ってあるよ。もう一体の方も誘き出して結界に閉じ込めてある」
少年は親指を立てて誇らしげに答えた。少女もほっと胸を撫で下ろす。
どうやら二人はチームらしい。それならそうと教えてくれれば良かったのに――スバルはそう思わないでもなかったが、口には出さないでおいた。
「流石は私の相棒。それでそいつは何処に?」
「この階の何処かに」
――少女の笑顔が固まった。そしてスバルも。
ということはつまり、外に逃げられない悪魔がもう一体、この階層のどこかで三人を狙っている。
「最悪……」
溜息と一緒に吐き出された少女の言葉には、スバルも内心頷かざるを得なかった。
文句を言おうと少女が少年に"拳を振り上げた"瞬間――。
「そこかぁぁ人間んん!」
「うわぁ!?」
隠れていた瓦礫が弾け飛び、転がる3人をそれぞれ飛礫が打ちつける。
「痛ぅ……」
なんだか今日はこんなことばかりだ――スバルはそっと一人ごちた。
「何でもっと狭い範囲に閉じ込めないのよ!?」
「どこもかしこも火に囲まれてるから仕様が無い!」
「アンタが怒鳴るから見つかっちゃったじゃん!」
「あんなところで喧嘩してるなんて頭悪過ぎ!」
逃げ回りながらも2人は口喧嘩を止めない。
仲が良いのは結構だが、状況を考えて欲しい――そんなことを考える間もないほどスバルも切迫している。
背中から飛んでくる火球を避けるのもそろそろ限界が近くなってきた。
「聖火弾〈セイクリッド〉は!?」
「効いてりゃとっくに倒せてる! アイツ皮膚が無茶苦茶硬いの!」
「"アレ"はどう!?」
「反動が大きくて接近しなきゃ使えやしないわよ!」
また背後で爆発が起き、床の破片が背中を叩く。直撃すれば消し炭だと考えると足も止まらなくなる。
悪魔は感覚は鈍くても、素早さは見かけによらないようだ。
「何でもいいから手があるならやってよ~!」
プロがこれではどうしようもない。かくいうスバルも正面から対応する方策を持つ訳ではなかった。
どれほど走ったか――。
もう何十分にも思える気もするし、まだ1分も経っていない気もする。きっと後者だろう。
揺らめく炎の中、スバルは爆音に紛れて微かに声を聞いた。
「お姉ちゃ~ん……」
声の方向に目をやる、男の子だ。金髪の気弱そうな少年が泣きながら姉を呼んでいる。
「そんな!? まだ人が残ってたの!?」
服はボロボロになって身体中擦り傷だらけだが――生きている。確かにまだ生きている。
だが、それも束の間のことだろうか。
豚の悪魔よりもずっと細身の、それでも大きな影を3人は火中に見た。頭部には左右に突き出した尖角〈ホーン〉。
気付いていないのか、それとも足が竦んでしまっているのか。子供は逃げようとはしない。
「駄目! 逃げてぇ!」
マッハキャリバーは示し合わせた訳でもないのに主の意思に答え、火花を散らしながら全速で影へと迫った。
ここからでは間に合わない――そう頭のどこかで解っていながらも、諦められない。
スバルは振り上げられた腕、その先に鋭く尖った爪を止めようと急ぐ。
高々と掲げられた腕がまさに振り下ろされようとしたその時、スバルの背後から光が輝いた。
「『クロノ』!!」
「『ロゼット』!!」
ほぼ同時に互いの名を呼び、少女――ロゼットは胸に手を当て、少年――クロノは両足を深く沈めて力を溜める。
ロゼットの胸の懐中時計が眩い光を放ち――動かなかった針は、カチリと決して戻ることのない時を刻み始めた。
スバルの横を飛び越し、炎の中の悪魔へと飛び込んだのは黒い影。
いや、それは影ではなく翼。
紫の長髪、スラリとした長身の青年。その背中には漆黒の翼が羽ばたいていた。
「坊や、こっちに!」
「う……うん!」
スバルは突如現れた青年に目を見張ったが、今度はすぐに伸ばされた少年の手を取り、身体ごと抱きかかえた。
そして身体を捻り急速反転、一気に悪魔から遠ざかる。振り返ると、青年は悪魔ごと炎の中に消えていた。
「尖角が無い!? 『カルヴ』、こいつは罪人〈とがびと〉だ! 契約者を、そのシスターを殺れ!」
ただ張り上げた悪魔の声だけが響く。
「おおぉぉ! 『グーリオ』ォォ!」
突然の乱入者に驚きつつも、指示通りカルヴと呼ばれた豚の悪魔は標的をロゼット一人に絞る。
『罪人』、『契約者』――その言葉の意味はスバルには解るはずもなかったが。
ただ解ることは、悪魔は彼女を狙うということだけ。ならば助けなければ。
「来るな!」
だがスバルが踏み出した足は、その一言で容易く止められてしまった。
一方ロゼットは、たった一人カルヴに対して聖火弾を撃ちつつ、スバルから遠ざかっていく。着弾と同時に十字の光が幾つも弾けるが、強固な皮膚を穿つにはとても威力が足りない。
「アンタはその子を連れて逃げて!」
「そんな!?」
彼女の疲労は相当なものだ。声からも勢いが感じられなかった。
「もともとアンタの仕事はそれでしょ!? こっちは"私達"の仕事!」
これは彼女が作ってくれたチャンス。本来ならば少年の安全を確保するのが先なのだろう。
だが、その結果待っているのはほぼ確実な彼女の死。
「ギギィ……効かねえなぁぁ」
首をもたげてまたも火球を吐くカルヴ。ロゼットは床を蹴って転がるも、火を帯びた飛礫までは避けきれていない。
「くぅぅ!」
苦しげに呻いて火が燃え移った修道服の裾を引き裂いた。
――バリアジャケットじゃない?
魔法を使わない時点で気付くべきだったのかもしれないが、彼女の銃も特殊なのは弾丸のみ。おそらく銃自体はデバイスではない。
つまり彼女は魔道師ではないのだ。攻撃面ではいざ知らず、防御の面では頼りない。そして肝心の銃弾も効果があるようには見えなかった。
何度目かの火球はロゼットの真横に着弾。走る足取りは明らかに重く鈍く変わっている。そして――。
「くっ……囲まれた……」
一言、苦々しくロゼットは呟いた。
彼女の迷いを感じ取ったのか、腕の中の少年は上目遣いにスバルの顔を覗き込んだ。目には涙が滲み、身体は恐怖に震えている。
これから自分がしようとしていることは多分間違っている。必死に助けを求める、あの日の自分を置き去りにしようとしている。
"悪魔をここで倒せなければ彼らが外へ出てしまう"だとか、"後から来た応援が餌食になる"だとか――様々な思いが胸中を駆け巡る。
それでもこの重みを喪うことは絶対にできない。だが同時に命を選ぶこともできそうにない。
故にスバルは"綱渡りの選択肢"を選んだ。
「ごめん、坊や。ちょっとだけここで待っててくれる? 絶対にお姉ちゃんのところに帰してあげるから……」
スバルは抱いていた少年を少し離れた陰にそっと下ろす。しかし少年はスバルのBJをしっかと握り締めて離してくれなかった。
「行っちゃうの……?」
「ごめんね……すぐに戻るから」
傍を離れると聞いて少年は不安に表情を曇らせる。
こんな危険な場所で子供を一人にするなんて、なんて残酷なのだろう。
「でも危なくなったら私を呼んで。何があっても駆けつけるから……ね?」
優しく頭を撫でて微笑むスバル。その言葉は彼と自分自身への、せめてもの誓いだった。
強く握られた服を解くことはせず、ただ少年が離してくれるまでスバルは彼の頭を撫で続ける。
「絶対……帰ってきてね?」
「うん……」
「あのお姉ちゃんも一緒に……」
「うん。だからほんのちょっとだけ……行ってくるね」
少年にバリアを張ってスバルは立ち上がる。これで炎からは身を守れる筈だ。
キッとカルヴを見据えるスバル。あれほど大きく見えた巨体が今は不思議と小さく見える。
確かにあの悪魔は強い。しかし倒せない相手でもない。
力任せな大振りの攻撃に直線的な移動。離れて見ると動きの粗が見えてくる。自分が冷静さを取り戻したせいもあるだろう。
ティアナの様に策を弄するでもなく、速さだってエリオに比べればずっと遅い。火球だってキャロが操るフリードと違いただ闇雲に撃つだけ。
そしてなによりも――怒ったなのは程恐くはない。
「いける……!」
過信でなくそう思える。ただ、それには彼女の力も必要だ。
「行くよ! マッハキャリバー!」
『All right, my master.』
少年の視線を背中に感じながら、スバルは火の中へと――カルヴへと一直線に道を作った。
「まずいわね……」
荒い息を吐きながらロゼットは呟く。
BJほどではないが、戦闘用の修道服でもある。多少のダメージならばなんとでもなるのだが、生憎と火球の威力は多少では済まない。現に左手は火傷が酷く、銃を取り落としてしまった。
四方を炎に囲まれ、あちこちを負傷している状態で突破は難しい。ただでさえ眩暈を感じてきた今の状態では尚更だ。
「ギギギ……終わりだなぁぁ……」
カルヴは火の壁の向こうでロゼットを見下ろして舌なめずり。完全に勝利を確信しているのか、すぐに仕掛けるつもりはないらしい。
悪趣味にも自分が焼け死ぬのを眺めているつもりだろう。
状況は最悪。クロノの助けは期待できないし、聖火弾は通じない。
それでも彼女は諦めていなかった。最後の可能性に賭けて切り札を装填する。
反動が大きい上に、これでも強固な皮膚を貫けるかは定かでない。仕損じれば二度目は無いことも覚悟している。
諦める気も無ければ引く気も無い。二人で"一緒"に奪われたものを取り戻して三人で"一緒に"旅をしようと誓ったのだから。
痛む左手を無理矢理動かして照準を固定するロゼット。
「神様でも聖王様でもいいから……当たってよね……!」
祈りを込めて引き金に指を掛けると同時に、ロゼットの足元に光の道が伸びた。
「跳んで!! 思い切り!」
背後から灼熱の壁を突き抜けてきたのはスバルだ。ロゼットと重なるウィングロードの上を減速もせずに滑走する。
「アンタなんで!?」
「いいから早く!!」
「~~分かったわよ!」
衝突限界で、ロゼットも意味が解らぬままに跳躍した。ジャンプはスバルの膝程度の高さだったが、すかさずスバルはロゼットの靴裏を押さえ、
「うぉぉおおおおおおおおお!!」
咆哮とともに、力の限りロゼットをカルヴへと"打ち上げた"。
かつて相棒を高々と放り投げ、馬鹿力とお墨付きを貰っただけのことはある。投げ上げられたロゼットはほぼカルヴの頭上に届きそうだった。
そのままスバルは一直線に標的へ迫る。勢いは衰えることなく、むしろスピードをそのままぶつける為に加速する。
「ギギギ……悪足掻きしやがってェェ!!」
カルヴが雄叫びを上げて炎を溜める。獲物を奪われたのが余程気に食わないのか、声と殺気が大気を震わす。
「グォォォォォ!」
放たれた火球の熱はカルヴの怒りのままに膨れ上がり、火球というよりもプラズマの光球にまで到達しスバルを正面から迎え撃つ。
受ければ塵一つ残らないだろう。バリアもシールドも無力な光を前に背筋が震える。
それでも軌道は変えない。このラインから自分が動けば彼女の狙いがぶれことになるから。
あくまでも正面から一直線に辿り着く。その為に必要なものは速さ――。
「フルドライブ! ギア・エクセリオン!!」
『Ignition. A.C.S Standby.』
両足に生まれた光の翼が風を掴み、スバルの加速を更なる高みへと導く。
――もっと、もっと速く!
主の意思に呼応してマッハキャリバーは輝きを増す。
スバルは体勢を崩さないギリギリまで身を屈め、
「うぉぉりゃあああああ!!」
力を振り絞り速度を爆発させた。
「ギギィ!?」
光球はスバルの頭上、数cmを掠めて過ぎる。もうコンマ数秒遅ければ蒸発していたことだろう。
少しでも怖気づいて速度を緩めるか、軌道を変更していればこの結果は無かった。ほんの一瞬の踏み込み、前進する勇気が一度きりの好機を作る。
「ディバイイイイイン――」
がら空きの懐に潜り込んでしまえばもう迷うことは無い。
カートリッジは全弾ロード。左手に生み出したスフィアを叩きつけ、砕けんばかりに脚を踏み込み、全身を捻って右の拳で真芯を捉える。
「バスタァァアアア!!」
拳によって打ち出されたスフィアは、光の帯と化してカルヴを貫く。背後の壁まで貫通し文字通りの風穴がカルヴの腹に開いた。
自身の体勢も顧みない無茶な全力全開にふらつくスバル。だがそれだけの価値はあった。
「ガハァッ……!」
腹部を襲った一撃に苦悶の悲鳴を上げることもできずに、天を仰いだカルヴ。口は大きく開かれパクパクと酸素を取り込む。
「やった!?」
そう拳を握った瞬間――ディバインバスターの光も消えぬ間に、それを凌ぐ光が頭上からカルヴごとスバルを包んだ。
「うわわわぁ!?」
ロゼットは空中で忙しなく手足をバタつかせる。彼女の行動は察しがついたものの、まさかこんなに高いとまでは思ってもみなかった。
人の思考が光よりも早いかは不明だが、少なくともロゼットが落下するまでに幾つかの可能性を見出し、実行するだけの時間はあった。
ロゼットの眼下にはカルヴの頭頂部が見える。ここに撃ちこむ――とも考えたが、それではこんな危険な賭けに出た理由としてはやや弱い。
ロゼットは錐揉みしながら空中で器用に体勢を維持する。そして"それ"は起こった。
「――バスタァァアアア!!」
スバルの叫びがロゼットへの合図となる。
――迷える子羊に安寧を。
カルヴの口が上向きに開かれた時、ロゼットはスバルの意図を瞬時に理解した。
――狼の牙に一時の休息を。
広い口の中に照準を合わせ、落ちていく身体を必死に維持しながら引き付ける。仰け反ったカルヴの間抜けに開いた口と銃口、己の視線が直線で結ばれた時――引き金は引かれた。
――そして悪魔に死の鉄槌を。
「福音弾〈ゴスペル〉!!」
最終更新:2007年11月25日 21:17