聖油を炸薬代わりにした聖火弾と違い、希少銀の弾丸に極小の呪文を転写した魔法弾――福音弾は激しい光を生み、一帯に風――と呼ぶには生優しい衝撃波をもたらす。
カルヴを貫いた二つの光は中心で交わり、巨大な十字架を形作った。
当然カルヴは塵一つ残さず内部から光に焼かれたものの、衝撃波は正面に立っていたスバルは勿論、滞空していたロゼットをも巻き込み、押し飛ばした。
「きゃああ!」
瓦礫ごと吹き飛ばされ、強かに頭を打ちつけるスバル。片やロゼットは滞空状態だった為か踏ん張りが利かず、もっと酷く全身を打っている。
「くぅ!」
脳が揺れて視界が霞む。吐き気が込み上げてくる。
薄れゆく意識の中でスバルとロゼットは声を聞く。声は微かに、だが確実に二人の耳に届いた。
「お姉ちゃーーん!」
と。
スバルは悲鳴に反応してハッと顔を上げる。まだ視界は揺れているが、頭の内は逆だった。悪魔と対峙した時以上の背筋を走る寒気で意識は鮮明に澄んでいく。
ディバインバスターと福音弾の衝撃は、カルヴの火球で穴の開いた床の周囲を崩落させるには十分だった。
少年は今にも崩れそうな床の縁にしがみ付いている。当て所なくバタつく下半身の遥か下方は完全に炎に包まれて足の踏み場もない。
「助けて……」
自分の身体を持ち上げることもできない少年はもがき、徐々にずり落ちていくしかできない。
「助けて! お姉ちゃぁぁぁん!!」
それはスバルを呼んだものか、それとも本物の姉を呼んだものか。
ただスバルは声が届いた瞬間に跳ね起き、同時に走り出す。立ち上がると目が霞み、危うくバランスを崩しそうになる。それでも、少年の声だけを目指して炎の中を駆けた。
途中、頭をぶつけた際の出血が目に入り、スバルは大きく方向を逸らした。が、逸れたことに気付くより早く、足が勝手に少年の方へと向き直る。
「ありがとう……マッハキャリバー」
血を拭い、相棒に礼を告げる。彼も自分が約束を果たせるように、少年が家族の許へ帰れるように力を貸してくれている。
だからこそ助けなければいけない。泣いているあの子を、あの日の自分を。
しがみ付いていた少年は限界に近づいていた。左腕は痺れて今は右1本で辛うじて指をかけている。
それも時間の問題――それも1分と持ちそうにない。引き攣り震える右腕の痛みを必死に堪えていた。手放してしまえば命はないことを幼心に理解しているのだろう。
姉の所に帰してくれる――その言葉だけを信じて耐えていたが、指は少しずつ滑り、やがて身体は彼を裏切った。
指が外れたことで彼の身体を支えるものは無くなり、炎の中に落ちていく。
「わぁぁあああああ!!」
がくん、と強い衝撃。右腕が思い切り引っ張られて痛みが走る。だが熱は感じず、代わりに感じるのは奇妙な浮遊感。
おそるおそる目を開けると、スバルが少年と全く同じ姿勢で床の縁を掴んでいた。
「お姉ちゃん……」
「ごめんね……。ちょっと遅くなっちゃった……」
少年が落下する寸前にスバルは身体ごと飛び込んで、彼の手首と床の縁とを同時に掴んでいた。
それはほんの刹那のタイミング。それを逃せばどちらかを掴みきれなかったろう。
「大丈夫だから……。今、引き上げてあげるからね……!」
右腕に力を込めて少年ごと身体を持ち上げようとする。パラパラと縁から落ちる破片と手元の亀裂にスバルは目を見張った。そして案の定、更に力を入れると脆くなった亀裂は軋み、割れる。
それは全体からすればほんの少しの綻び。しかしスバルと少年を炎の中に落とすには十分過ぎる綻びだった。
「あっ――」
「バカ!」
叱咤と同時に右腕が掴まれた。
ヴェールは取れ、美しい金髪は埃と煤だらけ。修道服は破れ、スバル同様に血を流しながらも、ロゼットはスバルの腕をしっかりと握っている。
「アンタも私に構わずにこの子を逃がしてればよかったのに……」
「ごめん……」
息は荒く顔は随分と青褪めている。全身を強打したのもあるのか、彼女もまた限界寸前らしい。
「いいわよ。私も十分馬鹿だから……」
そう言って彼女はウィンクして見せた。
デバイスで爆走する彼女に追いつくのは難しかったが、どうやらギリギリで間に合ったらしい――ロゼットは内心胸を撫で下ろした。
悲鳴を聞いて彼女が駆け出した時、きっとただでは終わらないだろうと思っていた。あんなに無茶な作戦を本番でやらせる辺り、どこか同じ匂いを感じたからだ。まったく世話が焼ける。
いきなりの連続にきょとんと呆ける少年に、ロゼットは微笑む。
「もう大丈夫……。そっちのお姉ちゃんも大分疲れてるみたいだから……ちゃんと手を握ってあげて。3人で"一緒に"お姉ちゃんの待ってる下に帰りましょ」
ロゼットは足場の無事を確認してからスバルの腕を縁に誘導する。流石に3人を支えることはできない。
少年はようやく少し安心できたのか、泣きながらも少しだけ笑顔を覗かせてくれた。
もう大丈夫――3人のこの言葉は、不安な自分自身に対しての言葉でもあった。その言葉はどうにか現実味を持とうとしていたが、まだ安心はできない。
もう1体の悪魔がいる、クロノの加勢に行かなければ。いや、その前にこの子を安全な場所に避難させる方が先だ。
まだ倒れることはできない。できないのに――。
まず少年の方をロゼットに預けようとするスバルの横で、ふらりとロゼットは炎の穴に倒れこんでいった。
スバルには倒れていくロゼットを目の前にしても何もできなかった。右腕は縁を掴んで左手は少年の手を握っている。
「……!」
叫ぼうにも、できなかった。それがあまりに突然だったから。
ただ倒れていく彼女を目で追うことしかできないスバルの横を影が過ぎった。いや、それは影でなく黒の翼の青年――。
スバルが少年を助けたように上から穴に飛び込んできたのだ。ただ一つ違う点は、彼はロゼットを抱きかかえながら浮遊している。
「ほんとに君はいつもいつも無茶ばっかりして。それと4人で"一緒に"……だろ?」
彼は穏やかに笑いながら胸の中のロゼットに語りかけた。そしてロゼットも少し申し訳なさそうに苦笑いで答える。
「へへ……ありがと、クロノ。その様子じゃ……そっちも終わったみたいね」
――クロノ?
それは元六課後見人で提督でフェイト執務官の兄――じゃなくて、ロゼットのパートナーの少年の筈だ。だが、目の前にいるのは20前後の青年である。
「君も無茶しすぎだよ。まるでロゼットが2人になったみたいだ」
そんなスバルの疑問などお構いなしに、彼はスバルの腕も掴んで引き上げた。つまりロゼットを抱きながら、スバルと少年の分の体重も支えたことになる。
背中の翼といい、どう考えても普通の人間ではないことは確かだ。
「あなたは……誰……?」
「それは……」
搾り出されたスバルの問いに、クロノは目を伏せて困惑を露わにした。ロゼットは気を失う寸前で話せそうにない。
「スバル、私が説明しましょう」
「それよりもロゼットは早く封印した方がいいよ」
そこに助け舟を出したのは、スバルもよく知る以外な人物。
「シスター・シャッハ……。それにセイン……」
ロゼットが懐中時計に手を当て操作すると、クロノの身体は光に包まれ少年の姿へと戻る。
「ロゼット……立てるかい?」
「うん……大丈夫よ。大分楽になったから……」
その場の全員の視線が新たに現れたシャッハとセインに集まる。
シャッハ――聖王教会のシスターであり、ロゼットの騎士としての上司にも当たる存在。
セイン――元戦闘機人であり、シスター及び騎士見習い。教会でシスターとして市民に奉仕することで償いをしたい――本音は管理局よりは教会の方がまだ自由が利きそう、とのことで教会を希望したらしいが、実際はシャッハに首根を掴まれているのが現状である。
視線を集められたシャッハは全員を見渡して溜息を吐いた。
「下階の要救助者は全て救助完了です。このフロアも全て探しましたが、この子以外は全員避難したか、或いは……」
「だったらまずは僕達も脱出した方がいい。脱出した後で必ず話すから……」
クロノがシャッハの後を継いで脱出を促す。それにはロゼットも賛成した。
今の状況も油断はできない。それに――。
傍らの少年に目を落とす。彼にも聞かせたくはないし、早く姉に会いたい筈だろうから。
シャッハはロゼットを負ぶい、セインは少年を抱えて脱出。ロゼットは体力の消耗が激しく、少年もかなり疲労している為だ。
スバルは脱出するまでずっと彼のことを考えていた。クロノ――スバルよりも小さいその少年は、何度か崩れ落ちそうになるスバルを支えてくれた。
彼の正体に関しては大方の予想は付いている。だが、同時にそれが信じ難くもあった。
それはロゼットと彼が深い信頼で結ばれていること。それに今も、あの時も自分を助けてくれたこと。
そして彼はビルを出る際に一度振り向き、
「AMEN……」
静かに目を閉じた。
おかしなことだ。悪魔が死者に祈るなど――。
「お姉ちゃーん! ありがとうー!」
少年は心底嬉しそうに、スバルとロゼットに手を振った。その傍らで泣きながら何度も頭を下げるのは両親らしき2人と、彼よりも頭一つ高いよく似た少女。
「よかった……」
スバルの口から自然と零れた言葉にロゼットも無言で頷く。ロゼットは微笑みながらも、どこか寂しいような遠い目をしている。
ビルの外は管理局員や医者や看護師etc……様々な人間で混雑している。そしてビルの内部では今も消火活動が続いていることだろう。
混雑から少し離れた公園のベンチにロゼットとスバルは腰掛けている。
「さて……それじゃ話すわよ」
ロゼットが向き直ると、スバルも思わず喉を鳴らす。こう改まれるとこちらも緊張してしまう。
「ロゼット、その前にあなたは身体に異常が無いか見てもらった方がいいでしょう。ちょうど長老〈エルダー〉とシャマル先生も来られていることですし」
だがシャッハがそれを遮った。いつの間にか後ろにはセインとクロノも控えている。
「でも……」
「駄目です! 行ってらっしゃい」
ロゼットは不満そうにするが、シャッハがぴしゃりと言い切ると渋々テントへと歩いていく。
「さて、これでいい? クロノ」
「うん……ありがとう。シスター・シャッハ」
改めてクロノがスバルの隣に座り、じっとスバルの眼を見据えた。その眼はとても深く悲しげで、吸い込まれるような感覚さえ覚える。
「始めに言っておくけど、悪魔に関しては話せることは限られてる。これから話すのは僕とロゼット、そしてヨシュアに関してだけだ」
「うん……」
「察しの通り、僕は悪魔だ。『折れた尖角』、『100人殺し』、『爵位剥奪者』……色んな名前で呼ばれた。僕がロゼットと出会ったあれは4年前……とある孤児院でのこと――」
ロゼットは治療を受けながら過去に思いを馳せる。今頃クロノがスバルに話していることだろう。
ヨシュア――身体の弱い弟は他人の傷を癒す不思議な力を持っていた。魔法とも違う光を帯びて、ほぼ数秒で完治させてしまう力だ。
成長に連れて力は強くなったが、その分ヨシュア自身の身体は弱くなっていった。頻繁に発作を起こし、不思議な力も自身を癒すことはできなかった。
それでも彼は明るい性格を失わずにいてくれた。
ある日、偶然迷い込んだ森の奥の遺跡。最奥の扉はヨシュアが触れることで開き、そこで悪魔の少年と出会ったのだ。今にして思えばあれが封印だったのだろう。
彼は自分をクロノと呼んだ――。
「僕とロゼットとヨシュアはすぐに仲良くなって、2人も頻繁に会いに来てくれた。僕の知っている次元世界の話に2人は目を輝かせて、一緒に冒険家になる夢も話してくれた」
クロノは思い出を懐かしむようにぽつりぽつりと昔話を続ける。時に可笑しく時に悲しく、昔のロゼットと同調するように。
「天空を流れる魂の大河〈アストラルライン〉に行くんだ、って」
そこでクロノは一度息を吐き、複雑な面持ちを見せる。その表情に隠されていたのは怒り。
「でも、そんな他愛の無い日々はいつまでもは続かなかった。ヨシュアのことでロゼットが僕に相談に来たある日、僕のかつての仲間、いや共犯者が訪ねてきたんだ」
大鷲の姿を借りた罪人〈とがびと〉、『アイオーン』。クロノを再び仲間に誘った悪魔。
来れば尖角を返す、と。でもクロノはそれを断った。
あいつはそれを予測していたのだろう。既にヨシュアに手を伸ばしていた。
病に苦しむヨシュアの心に付け込み、クロノの尖角を渡して――。
「尖角って……?」
「君が戦った奴にもあっただろう? 悪魔は尖角を通じて霊素〈アストラル〉――君達で言う魔力を半永久的に吸収できる」
確かに2本の尖角があった。だが、青年の姿――本来のクロノにはそれが無かった筈。
「ああ、僕の尖角は奴に……アイオーンによって折られたんだ」
彼はそこで再度言葉を切る。見ているだけで彼の辛さが伝わってくるようだ。
「ごめん……。辛いならもう……」
「いや、いいんだ。話させて欲しい。君は……どこかロゼットに似ているから」
振り向くと、シャッハとセインも伏し目がちで沈黙を保っている。
「孤児院に戻ると、院の全員がヨシュアによって時間を止められていた。それが悪魔の持つ時間凍結の能力。僕の尖角を無理矢理融合させたヨシュアは頭の中のノイズに苦しみ、力を暴走させたんだ」
クロノはきつく歯を食い縛り、拳を握った。きっとこれが彼にとって最も勇気の要る部分なのだろう。
「尖角の無い僕は無力だった。それを止める為に、ヨシュアを取り戻す為に僕はロゼットと契約したんだ……」
「契約……」
「霊素は命の欠片……。霊素を吸収することのできない僕が力を使うには、彼女の魂――すなわち寿命を貰うしかない……」
彼女の懐中時計は彼女自身の時間。彼女の疲労は魂が直接吸われていたから――。
「シスターとセインは……知ってたんですか?」
シャッハもまた悲痛な顔で俯く。拳は固く握られて震えている。
「ええ……そうまでしてもヨシュアを取り戻すことは叶わなかった。結局ヨシュアはアイオーンに誘われるままに消えてしまった……。それでも諦めない為に彼女は悪魔に魂を売ったのです」
「ロゼット……30までは生きられないだろう、なんて笑いながら言ってたよ……」
ようやくスバルは理解する。クロノはこれをロゼットに話させたくなかったから、彼女を追い払ったのだと。
どうしてそんなことを笑いながら言えるのだろう。何が彼女をそこまでさせるのだろう。
「まだ何も終わっていないからよ。ヨシュアは何処かで生きてる。私もまだ生きてる。
あの子を失ったまま生きるくらいなら、たとえ命を燃やしてでも私は一緒にいたい。クロノとヨシュアと私の3人で行こうって約束したんだから」
スバルが振り向くと、ロゼットが腕組みをして立っていた。
「何泣きそうな顔してんのよ。アンタ……兄弟はいるの?」
そんなに泣きそうな顔をしていただろうか。スバルは袖で目を擦ってから答える。
「姉が1人……」
答えた声は自分で思っていた以上に涙声だった。
「兄弟が苦しんでれば助けるのが、過ちを犯したなら止めるのが兄弟の義務……違う?」
こくこくと首を縦に振るスバル。
彼女はとても強い――そう思っていたが、それを聞いて得心がいった。それはごく当たり前のこと、自分も同じだったから。
「私……あの子のこと何でも知ってると思ってた。ずっと護ってあげようと思ってた。でもあの子は同情されるのが嫌だったんだ。だからアイオーンの口車に乗せられて……」
その瞳は強い意志と決意に彩られて、輝きはクロノとスバルの心にも光を差す。
「でもそうじゃない……。守るとか守られるとかじゃなく"一緒に"、そう伝える為に戦うの。もっともっと強くならなくちゃ……そうでしょ、クロノ?」
「ああ、そうだね……"一緒に"強くなろう、ロゼット」
シャッハとセインも同様に微笑む。もしかしたら、これこそが彼女の強さなのかもしれない。魔法が使えなかろうと、傷つこうと消えない決意こそが。
「それなら……早速帰ったらカリムとケイトのお説教が待ってますよ。今回の件、あなた達の責任ではないとはいえ、事が大きくなり過ぎましたから事情聴取も兼ねて」
シャッハが手を叩いて促す。対する2人は急に苦虫を噛み潰したような顔に変わった。
「その後は私とユアンで戦闘訓練ですから、覚悟しておくように」
「あははは、大変だねー2人とも」
それを見ていたセインが他人事と笑うが、シャッハの視線は彼女にも向いた。それも鋭い視線が。
「セイン、そっちはあなたも参加ですよ」
「嘘!?」
途端に空気が和やかに変わって、ロゼットはクロノやセインと笑いの中にいる。
彼女は可哀想、とか不幸だ、と言われるのを嫌うだろう。そう思われることも。
だから自分も思わない。彼女は大事なものを取り戻す為に必要な力を、パートナーを持っている。
「何いい顔してるんですか、スバル。あなたの隊長さんもカンカンでしたよ、すぐに連れてきてくれと頼まれました」
「え~……」
がっくりと項垂れるスバルを見てロゼットやクロノも笑う。お説教は勘弁だが、今は3人と笑い合えることが少し嬉しかった。
「さて……と、それじゃ帰ろっか、クロノ」
一頻り笑って3人とスバルは別方向へと別れる。そして最後にロゼットからスバルへ右手が差し出された。
「まだ自己紹介してなかったでしょ? だから――私がロゼット・クリストファ。あっちはクロノ」
「あ、うん……。スバル・ナカジマ」
スバルも慌ててその手を握り返す。固く握った手は温かかった。
「ありがとう。アンタのおかげで助かったわ」
「ううん……。こっちこそ」
スバルは首を振る。
自分も助けられたし、彼女を助けもした。それでいいのだ。
一方通行でなく、"一緒に"。それが彼女の望む在り方。
「ねえ、ロゼット。私も、もっともっと強くなるね」
「うん、その時は……また"一緒に"頼むわ」
厳重な警備も堅牢な防壁も彼は突破してきた。潜入など不可能な筈の監獄を、彼は力ずくで正面から壊してきた。
「あなたが……ジェイル・スカリエッティ?」
「そうだが……?」
金髪の、まだ幼さを残した少年は黒のスーツの上下を着崩している。しかしスカリエッティの目を奪うのはただ一つ、こめかみから後ろに伸びる一対の尖角。
なるほど、拘置所――その中でもとびきり警備の厳重なここまで一直線に破壊するなどと、人間には不可能な芸当をやってのけるのはこの尖角があるからか。
「名前を聞いてもいいかね?」
「ヨシュア……」
どこか虚ろで夢見がちな瞳で答える少年に、スカリエッティは然程興味は示さなかった。
「いや……私が聞きたいのは君のことだよ」
彼が指した先にいるのは、ヨシュアと名乗った少年の肩に止まっている鷲だった。
指されたことがさも愉快と、大鷲はけたたましく笑う。
「ハハハハハ! こりゃあいい。流石だよ、ジェイル・スカリエッティ。俺が来たのはアンタを俺の計画に誘う為だ。この世界をひっくり返せるぜ?」
「……」
スカリエッティは沈黙を守っている。
正直、心惹かれる内容ではない。今更管理局に恨みがある訳でもないし、別段世界を破滅させたい訳でもない。
「不満か……。俺と一緒に来ればアンタに面白い研究テーマとその場所、そして実験材料を提供しようと考えてるんだがな」
「ほう……。詳しく聞かせてもらおうか」
これに彼は興味を引かれた。世界を破滅させたい訳ではないが、実験の結果、世界が破滅しようと別に構わない。
「ここじゃゆっくりとは話せない。一緒に来てもらえればそこで話すんだが?」
暫く逡巡した結果、スカリエッティは重い腰を上げる。
新たな研究、新たな実験――その目の奥には狂気染みた悦びが輝いていた。
「それで君の名は?」
「アイオーン。アンタと同じ罪人だよ」
「予告?」
『シャッハ』
「どういうことですか、ユアン!? 群体〈レギオン〉の割合をこれ以上増やすなんて……」
ユアン・レミントン牧師。外見は30少々といったところだが、実年齢は不明だ。その理由は彼の肉体にこそある。
「もう戦いのゴールは見えている。だからあと少し走り抜く為に、最後まで戦い抜く為に」
さらっと言い放つ彼は、誰よりその危険を知っている筈なのだ。
レギオン――悪魔の体細胞。それは宿主に異常な再生力、そして身体能力をもたらす。割合を増やす程に悪魔に近づいていくのだ。身体だけでなく心までも。
「止めて下さい! あなたは40%のレギオンを宿しています。これ以上増やせば何が起きるか……」
眠ることすら必要とせず、許されない。気を抜けばレギオンは人の部分を食い尽くそうと動き出す。
尚且つ、専門家の調整でバランスを保たなければ死に至る、酷く不安定な身体なのだ。
身体に埋め込まれた電極。張り巡らされた神経。まるでコンピュータのような肉体。
胸の中心には大きな傷痕が走り、それだけが彼の"人間"の残滓だった。
「それなら私がレギオンを移植します……!」
「駄目だ、君がそんなことになればカリムが泣く」
そう言い残して去っていくユアンにシャッハは何も言えなかった。
本当ならば背中に泣き縋ってでも止めたい。だが、自分はカリムを護る為に在る。だからその分先陣の彼に負担を負わせてしまうのを止めることはできない。
「あなたが死んでもカリムが泣きます……」
精一杯考えても、シャッハにはこの程度の言葉しか掛けられなかった。
『セイン』
突如飛来したブーメランブレードをセインは『ディープダイバー』で辛うじて回避する。
「これは……セッテ!」
「セイン、あなたがあくまでドクターの妨害をするなら、あなたに壊れてもらわなければなりません」
「そんな……」
脱獄したとは聞いていたが、それでも何故彼女が自分を襲って殺そうとするのか、セインには理解できない。
「何で……」
背後に気配――と、感じた時には既にセインの側頭部は蹴り飛ばされていた。
「うぁああ!」
軽く数mを飛ばされたセインは、現れたもう1人を霞む目で確認する。
目に見えない程に素速い蹴り。こんなことができるのは――。
「トーレ姉……」
「私達はドクターによって望まれ、生まれた。我々の望みはドクターの望み。自分の生きる意味や生き方を探すなど考えてはいけない。いや、とうの昔、生まれた時から決まっている」
あくまでも博士に忠誠を誓い、博士と運命を共にすることを選んだ4人。迷うことなく己の道を決めることができた4人がセインには内心羨ましくさえあった。
「本当にトーレ姉とセッテなの……?」
トーレは厳しい人だったが、誰よりも妹思いで面倒見も良かった。こんな風に妹を傷つける人ではない。
それを確かめる為に、セインが駆け寄って手に触れようとした瞬間にトーレの姿は掻き消された。この消え方にも見覚えがある。
「クア姉……!」
「駄目よセインちゃん。あなた達がドクターを裏切った時点でもう私達は姉妹じゃないの。姉なんて呼ばないでほしいわね」
罵られても仕方ないとは思っていた。それでも妹のことを見守ってきてくれた姉達ならいつかは理解してくれる。
だが、そんな想いは幻想だったと気付かされてしまった。
「セイン……彼女達はレギオンに支配されてしまってる。操られているんだ。戻れるかは分からないけど……このままじゃ侵食は進む一方……」
セインの側に降り立ったのは悪魔の姿をしたクロノ。
「クロノ……。でもどうすれば……」
「少なくとも今は……これしかない」
悪魔はレギオンを操作して自らの右腕を剣に造り変える。セインから隠された彼の表情は苦痛に満ちていた。
『スバル』
空を往く巨大な箱舟、魔界〈パンデモニウム〉の中枢部で二人は対峙する。
スバルの前に立つ彼は、尖角と己の力に翻弄された哀れな少年。だが今のスバルには脅威でもあった。
「ヨシュア……だよね? すぐに分かったよ、ロゼットとよく似てる……」
「ロゼット……姉さん」
尖角と肉の接点からは太い神経が伸びている。それが彼を侵食していることは素人のスバルから見ても明らかだった。
「そう……あなたの姉さん。ロゼットがあなたを呼んでるの。だから正気に戻って……」
「何を言ってるんだい? 僕は正気だよ」
「違う……」
「さあ、姉さんの所に案内してよ。世界を編み直して、邪魔者は全て止めて、僕達だけで穏やかに過ごすんだ……」
彼の虚ろな瞳には誰も映っていない。スバルもロゼットも自分さえも。
ただ形の無い姉の幻影だけに囚われている。
「駄目だよ……今のヨシュアじゃロゼットを悲しませるだけだから」
彼はまるで夢の中を彷徨っているよう。幻想の中で、都合のいいものだけを求めて。
もう言葉は通じそうにない。
「ふぅん……。なら君はもう要らないよ……」
ヨシュアは軽く首を捻る。直感で危険を感じたスバルはすかさず飛び掛かった。
対するヨシュアは手を翳しスバルの拳を受け止めるつもりのようだ。
殺すつもりのない非殺傷の拳とはいえ、まともに受けきれるものではない。このまま押し切って叩き込む――スバルはそう判断した。
「ハハッ、単純だね……」
翳したヨシュアの手から光が溢れる。光はスバルの拳を包み、その勢いを止めた。
正確にはスバルが驚きのあまり振り切れなかった。何故ならば、彼女の肩から先は凍りついたように動かなくなっていたからだ。
「これは……」
時間凍結――ロゼットから聞いていた筈なのに、それと気付くことができなかった。
「その腕はもう使えないね」
拳を開くことも肘を曲げることもできない。彼の言うとおり、これでは使えそうにない。
だが――。
「うぉぉおおおおお!」
右が駄目ならば左がある。咆哮を上げながら、余裕の笑みを浮かべるヨシュアの頬にナックルの無いスバルの左拳がめり込む。
これまで虚ろに笑みを張り付かせただけだった表情に、今初めて驚きの色が表れている。派手に倒れた口元からは一筋血が流れた。
「本当は私がやるべきじゃないんじゃないかって思う。誰よりもヨシュアと話したいのは、ヨシュアを止めたいのはロゼットだから。決着を着けるのもロゼットの役割……」
ギンガと対した時を思い出す。戦いたくはなかったが、今ではそれが自分が成すべきことだったとも思う。
「でもロゼットには……もう、時間が無いから……だから」
痛む拳を握ってヨシュアに突きつけるスバル。目には僅かに涙が滲んでいた。
「だから少しだけ私がやる。ぶっ飛ばしてでも目を覚ましてもらう。その尖角へし折ってでもロゼットの所に連れて帰る!」
時代を駆け抜けた少女がいた。横には常に一人の悪魔がいた。
そして傍らには2人の旅を支え、時に導き、見届けた者達がいた。
これはその全ての人々の物語――。
20008年春 連載開始予定
最終更新:2007年11月25日 21:21