どうしようもない危機に颯爽と現れ、蔓延る悪を打ち倒し、力無き人々を救ってくれる。誰もが一度は憧れ、反面、在り得ないと知る存在――それがヒーロー。
子供達は彼らの英雄譚に目を輝かせ、やがて成長と共に忘れてゆく。取り分け少年はそんなものは存在しないと知るのが早かった。
今、少年の前に立ったこの男は、身体には燃える炎を連想させる朱のボディスーツを身に纏っている。金色に輝くヘルメットの両側には大きな翼をあしらい、その額からは一本の尖角が天を突かんばかりに伸びていた。
突き出された拳は眩い閃光を放つ。そして両腕を組んで超然と立ち、雄雄しく名乗りを上げるのだ。
それはまさしく、いつかのあの日モニターの中を駆けていたヒーローそのものだった。

リリカル・フロンティア番外編 
――HERO――その名はアルカイザー
前編【ヒーローと少年】

「ヒーロー?」
首を傾げながら、フェイトはシグナムに聞き返した。怪訝な表情からは、明らかに胡散臭いと考えていることが解る。
「ああ。どうも『サントアリオ』という『リージョン』にいて、魔道師をも上回る戦闘能力を持っているらしい」
リージョン――それはこの次元空間に幾つも点在する領域の通称である。大小様々、多くの国家や大陸を内包するものはともかく、島のようなサイズのものなら数え上げればキリが無い。
賑やかさと同時にその裏に危険を孕んだ繁華街『クーロン』、陰陽の術の修行場であり、常に夜の闇が覆う街『ルミナス』、中世日本の景色、文化を色濃く映した『京』etc、それぞれ文明も環境も全く違う世界に最初は戸惑ったものだった。
同様に種族も人間以外に、術に長け人を超える寿命を持つ『妖魔』や、様々な特性を持ち、同種族でさえとても一言では纏められない『モンスター』、果ては完全な自律行動を行う『メカ』までもがリージョン世界には散らばっている。
「でもヒーローなんて嘘っぽいなぁ……」
だが、それほど多様な種族がいても『ヒーロー』などという存在は聞いたこともなかった。
「間違いないらしいがな。少なくとも自分でヒーローと名乗っているくらいだ」
「へぇ……自分で。それは凄いと言うか困ったというか、だねぇ……」
「まぁ……そうだな」
シグナムの談では遭遇したのはヴィータらしい。レリックの捜索中、現れた黄金の戦士はガジェットとモンスターを瞬く間に倒していったのだという。デバイスやその他の武器を使った様子はなく、ガジェットの装甲を砕いたのは光る拳と脚のみ。
彼はどこからともなく現れ、そしてヴィータ達の制止を振り切って姿を消した。
「それだけの存在がこれまでずっと噂レベルだった?」
「以前から存在は確認されていたらしいが、頻繁に姿を現すようになったのはここ数週間のことだ。もしかすると新しい者なのかもしれんが……如何せん情報が少なすぎるな」

訓練後の六課隊舎にて、久々に訓練に参加したシグナムも含めてライトニングの面々は雑談に華を咲かせている。
暫しフェイトとシグナムの会話に空白が生まれると、それまでずっと聞いていたキャロがおずおずと切り出した。
「その人の目的って何なんでしょうか?」
「解らん、ヴィータからの報告を受けて初めて主も調べてみたらしいからな。おそらくはヒーローらしく、正義を成すこと……なのだろう、多分な。これまで姿を確認しているのは、テロリストからの人質救出等大きな事件のみだが、
犯罪組織のアジトの情報を得て踏み込んでみると既に全員が昏倒し拘束されていた、ということも多々あったらしい」
「それもヒーローの仕業だと?」
「逮捕された連中はそう言っている。それは黒い鎧の戦士だったそうだが……」
しかし結局は何も解っていないに等しい。シグナムの発言も「だそうだ」、「らしい」ばかりで要領を得ないのがその証明だろう。
最後に最も重要なことを、思い出したように伝えるシグナム。そもそもこの為にヒーローに関して調査したらしいのだが。
「ヴィータによると奴はこう名乗ったらしい。『ブラッククロス』の野望を打ち砕く者、『アルカイザー』、と」
シグナムと一人を除く全員の表情が強張る。しかし、それは彼の名前に対してではなかった。
その中でただ一人、エリオだけは最後まで口を開くことはなく、誰にも聞こえることのない声で呟いた。
「アルカイザー……」
ヒーロー、その言葉に最後まで複雑な表情を残して。


次の日、休日の朝からエリオとキャロは揃って街へと出た。待ち合わせの場所は空港近くのファミリーレストランである。
「よぉ。早かったな、二人とも」
店内を見回す二人は、すぐに声の人物を見つけて席へと進む。片手を上げて誘導しているのは、ライトブルーの髪を天に逆立てた奇抜な青年だった。
「おはようございます、レッドさん」
いかにも不良っぽい容貌の彼にエリオとキャロは動じることもなく、軽く挨拶をして向かいの席に座る。
レッドこと小此木烈人――彼とエリオ、キャロの出会いは二週間前に遡る。


その日、これまでミッドチルダ以外のリージョンに私用で出かけたことの無かった二人は、エリオの提案で思い切ってクーロンへと出かけた。二人きり――と言ってもデートなどではなく、子供同士でのちょっとした背伸びのつもりだった。
あまり整備されていないであろう狭い街並みには、上にも下にも電飾看板が幾つも設置され、物も人も雑然としていた。人語を解するモンスターが平気で往来を歩いたりしているのはミッドでは見られない光景だが、少なくとも活気だけはある。
リージョン世界の物流や交通の中心にあるだけのことはあって、ズラリと並んだ簡素な露店は見たこともない珍しい物ばかりだった。ショッピングを楽しむことに気を取られ、ここが治安の悪いリージョンであることを忘れていたのかもしれない。
目移りしながら歩いている内に、いつの間にか二人は人ごみに流され、気付けば賑やかで明るい大通りから怪しく暗い裏通り。薄暗く陰湿な空気、表の活気とは打って変わって不気味な静寂に包まれている。
治安の悪さで有名なクーロンも、大通りから外れなければ問題はない。だが、逆に言えば大通りから外れては危険に巻き込まれても何ら不思議はないのだ。
「ねぇ、エリオ君……。私達ひょっとして迷っちゃったんじゃ……」
「だ……大丈夫だよ!表通りに出れば大丈夫……」
と、言いつつ先程から表通りに出ようとしているのだが、迷路のような路地と、この暗さのせいで更に深く嵌っているような気さえする。遠くでスライムのようなモンスターが蠢くのが見えた。
内心エリオも不安を隠せない。だからこそキャロにその言葉を言って欲しくなかったのだが。

ビクビクしながら路地を進むと、物陰からはチラチラと何かが覗いている。怯えるキャロがエリオのBJの袖を摘む。
「エリオくぅん……」
「大丈夫だよ……僕が付いてるから……」
それでもキャロの震えは止まらない。エリオの根拠のない励ましはキャロの不安を取り去ることはなく、次第にエリオへも伝染した。
モンスターだろうか? 息を整え、思い切ってストラーダを構えて飛び出すと、
「うぉ!?」
切っ先を突きつけられた男が仰け反った。彷徨っている時間は短いはずなのに、随分久し振りに人間を見たような気がして、エリオは自然に安堵の息を漏らした。
「デバイス? お前ら……魔導師か? それにしちゃ随分と可愛い魔導師だが……道にでも迷ったか?」
最初はこんなところをうろついている彼を警戒したものの、彼はストラーダを突きつけられても怒りもしない。
困り顔ながらも心配してくれる男の微笑みがとても温かくて、エリオとキャロは次第に警戒を解いていく。
「ええ……帰り道が解らなくて……」
男を信用して経緯を話すエリオ。並のモンスターに遅れを取ることはないが、この辺りのモンスターがどれほどのものか解らない以上、このまま迷い続けたくはない。
何よりも迷っているという不安から早く逃れたかった。
「じゃあ付いてきな。空港まで送っていってやるよ」
「本当ですか!?」
ようやく頼れる存在を見つけてエリオとキャロは、ぱぁっと顔を輝かせる。
「ああ、大丈夫だ。任せときな」


それから十分ほど歩いただろうか。周囲の景色は変わることなく、むしろ怪しくなっていく。こちらを遠巻きに見るモンスター、路傍に転がる白骨にエリオとキャロの背中に寒気が走る。
「あの……本当にこっちで合ってるんでしょうか? なんだか違う方向に来てるみたいなんですけど……」
どうにも違う方向に向かっている気がしてならない。いよいよ堪らなくなってきたエリオは男にそう言ったのだが、
「大丈夫だって。俺はこれでもクーロンの裏通りには詳しいんだぜ?」
返ってきたのはまたも"大丈夫"。しかし今度のそれは不安を消すことはなく、反対に猛烈に掻き立ててくる。しかし、今ここで別れたとしても無事に帰れるとは限らない。
もしかすると、状況は先程までより危険になっているのかもしれない。
ツンと鼻につく異臭は下水だろうか? 汚水の臭いと、日の当たることのない薄汚いコンクリートに張り付いたカビや、その他のゴミの臭いが相まって嗅覚を刺激する。
「何だか気持ち悪い……」
キャロはこの異臭に敏感に反応しているようだ。無理もない、実際エリオも鼻が曲がりそうだ。おそらく彼女の場合は気疲れや不安も関係している。
「仕様がねぇな。嬢ちゃん、良かったらこれでも飲みな」
男が懐を探って取り出したものは小さなボトル。透き通った容器の中には黒い液体が満たされている。

「わぁ、ありがとうございます」
匂いから察するにコーヒーだ。しかもかなり濃い。これなら他の臭いは気にならなくなるだろう。
湯気を立てるコーヒーを熱そうに啜るキャロが、あんまり美味しそうに飲むものだからエリオも気付けば喉を鳴らしていた。
「あの、僕も貰っていいですか?」
「ああ、好きなだけ飲みな」
男はにこやかに笑ってキャロから返されたボトルをエリオへと投げ渡す。エリオは少し危なっかしい手つきでそれをキャッチ。
口を付ける直前でエリオはふと気付く。これはキャロが数秒前まで飲んでいたものである。ということはこれは間接キス――。
エリオの顔が見事に朱に染まる。それなのにキャロはきょとんとして小首を傾げていた。
「どうしたの、エリオ君? 顔が真赤だよ?」
「な、なんでもない! なんでもないよ!」
ぶんぶん首を振ってやましい考えを頭から振り払う。それでも顔の火照りは消えなかったので、エリオは照れ隠しで中身を一気に呷った。
「うっ……げほっげほ!」
喉を流れた液体は酷く苦く、少し熱かった。


「キャロ? どうかしたの?」
更に数分後、後ろを歩くキャロの足取りが急に重くなった。疲れもあるのかもしれないが、彼女とてそれなりに鍛えている。まだ迷って一時間程度しか経っていないのに、幾らなんでも消耗するのが早すぎる。
「うん……。疲れたって言うか……急に眠くなってきて……」
前屈みになりながら辛うじて歩いていたが、やがて壁に縋るようになり、仕舞いには膝から地面へと倒れこんでしまった。
「キャロ!?」
キャロの明らかな異常にエリオが駆け寄る。倒れたキャロはすやすやと寝息を立てていた。
「寝て……る? これは……――!」
突如、エリオも急激な眠気に襲われた。
鈍くなっていく頭で必死にこの状況を整理する。可能性は幾つも――否、一つしか考えられない。
「あなたは……」
前を歩いていた男は冷ややかにエリオを見下ろし、口元を歪めた。
「悪いな、これも仕事なんだ」
その言葉でエリオは全てを理解し、己の浅はかさを呪った。こんな所でモンスターに怯えるあまりに、この男が怪しいと解っていても飛びついてしまったことを。
「デバイス込みで、お前達ならきっと高く売れるだろうさ。特にそっちのお嬢ちゃんは……」
エリオは下種な笑みを浮かべるこの男を心底憎いと感じていた。しかしそれ以上に許せないのは、自分自身。道を間違えてしまったのも、男を頼ってしまったことも、コーヒーに何の警戒も抱かなかったことも、全て自分のせい。
ならばせめてキャロだけでも守らなければ。エリオは霞む眼でストラーダを振りかぶり――自らの左太股に突き刺した。
「くぅ……ぅぁぁ!」
点々と血がコンクリートの地面を染める。痛みで声も出せない。だが、お陰で意識は少しだが冴えてきた。
「キャロは……僕が守る!」

 

だがエリオはこの時、背後の陰から現れたもう一人の男――スキンヘッドにサングラスといういで立ちの、どこにでもいるゴロツキ――に気付かなかった。そしてその男が、血を流しおぼつかない足取りでストラーダを構えるエリオに拳銃を向けた。瞬間、

「なるほど。迷い込んだ観光客をこうやって売買してるって訳か」

背後の男の更に後ろからの声。振り向いたエリオは拳銃を向けた男よりも、声の主に目を奪われた。水色の髪を逆立て、服装は逆に眩しいくらいに赤で統一している青年だ。
「誰だ!」
背後の男が向き直るよりも早く、
《スライディング》
青年は滑り込んでくる。素早い動きに反応できなかったゴロツキの足を容易く払う。
「う、うわぁ!」
縦に一回転して、ゴロツキは頭を強かに打ちつけ昏倒した。スライディングだけではない。倒れこむ瞬間に青年が腕を取って回したのだ。
リージョン世界では、剣術や体術を極めた人間はA~Sランクの魔道師にも匹敵すると言われる。もしや彼もその類の者だろうか。
「て、てめぇええ!」
《精密射撃》
仲間を倒され、逆上した男は懐から拳銃を抜いて青年に発砲。青年は動じることもなく、左腕を盾にした。
凄まじいスピードで迫る弾丸は、しかし呆気なく、空しい金属音を立て、青年に届くことはなかった。ワンダーバングル――実弾の類であれば大型拳銃『べヒーモス』やガトリングガンですら弾く。『アグニSSP』程度の小型であれば造作もない。
だが、その小さな腕輪の性能もさることながら、弾道を見切っていなければ不可能な芸当であることはエリオにも理解できる。
「な……な……!」
男とエリオが驚愕する間に、青年は男に一歩の距離まで接近する。手刀で拳銃を叩き落し、男の胸倉を掴んで引き寄せた。
「おい、お前……『ブラッククロス』を知っているか?」


青年の第一声はそれだった。殴られるか咎められるかとビクビクしていた男としては意外な問い掛けだったろう。
「あ、ああ。う、裏家業をしている奴でブラッククロスを知らねぇ奴なんざいねぇよ」
「お前もその一員か?」
胸を掴む腕がギリギリと引き絞られる。睨む眼は炎のように燃えている。
「ち、違う! 俺みたいな小者じゃ連絡も取れねぇ、本当だ!」
「そうか……」
「頼む、許してくれ! 俺も弟や妹を食わせる為に……。自立してる上の妹、養子の決まった下の妹の他にもまだ弟が――」
「……もういい、行け。でも、もうこんな仕事はするんじゃないぞ」
青年は掴んだ腕を緩めて男を軽く突き放す。彼の意外な行動に、男は呆気に取られているようだ。
「ちょっと……ぐっ!」
ストラーダを地に立てて跪いていたエリオは、犯罪者を見逃す行為に抗議しようとする、が出来なかった。立ち上がろうとした際の激痛にそれは中断されてしまう。
「おい、大丈夫か? 足を怪我しているな。立てるか?」
エリオに手を伸ばす彼の表情はとても優しげで柔らかだった。しかし、今のエリオにその笑顔を素直に受け取ることはできない。そう言ってまた騙されるかもしれないのだ。
青年は噛み付きそうな目で睨むエリオに溜息を吐き、キャロの様子を見ようと彼女に近づく。
止めなければ。そう思うのだが、またも眠気に襲われる。
(くそっ! こんな時に……!)
歯痒く思うエリオの意思とは裏腹に、意識を溶かす甘い誘いに身体は傾いていく。
震える腕でもう一度ストラーダを振り上げる。狙いはもう片方の太股。取り柄である両足の移動力を奪われてまともに戦えるはずもないが、それでも痛みが2倍になれば少なくとも意識は冴えるだろう。
キャロを、仲間を守れるなら足など惜しくない。この時は本気でそう思えた。
「――!!」

 

 

振り下ろされるストラーダはそれ以上に強い力で止められた。掴まれた腕が痛かった。
腕を掴む青年は怒るでもなく、笑うでもなく、ただ無言で首を振る。振り切ることはできた。だが、無言の言葉に気圧されそれ以上力が入らなかったのだ。
エリオの景色は、次第にぼやけていく。薄暗い風景、青年の顔、全てが霞んでいく中で、青年の背後でナイフを取り出す男を捉えた。
「ぁ……」
声を出そうとするが、今度は眠気のせいか上手く発声できなかった。男はナイフを腰溜めに構え、青年の背中に忍び寄る。
「……ぁ、危ない!!」
エリオが絞り出した声と同時に、突き出されたナイフを青年は左に半身を逸らしてかわす。身体ごと突き出した為、男は体勢を崩した。
すかさず足を払い、ナイフを叩き落す。次に男の身体を逆さに持ち上げ、
《スープレックス》
軽く跳躍。そのまま叩きつけるつもりだろう。この固い地面に叩きつけられれば、当然無事では済まない。
「うわぁあああああああ!!」
男の悲鳴が裏通りに轟く。エリオも思わず目を瞑るが、いつまで経っても鈍い音は聞こえてはこない。
恐る恐る目を開くと、青年は足を立てている。男は逆さ吊りのまま、涙やら鼻水やらを垂れ流して荒い息を吐いていた。
それにエリオは不思議と安心した。悪人とはいえ、できるなら殺したくない。命を奪われるところを見たくはない。
安心すると忘れていた眠気が再びぶり返してくる。今度は逆らわず、エリオはそのまま目を閉じた。
青年を信用した訳ではない。ただ、そうしてもいいような――そんな気がしただけだった。
意識を完全に失う直前、エリオはふわりと身体が浮くような感触を覚えた。


目が覚めて最初に目に入ったのは蛍光灯の眩しい光。
「ぅ……」
片手で光を遮り数秒、ようやく意識がはっきりしてきた。周りを見回すエリオ。
白い壁、無機質な作りの部屋にベッドが幾つかと、棚には包帯や薬類。医務室のようだが、管理局のものではない。
「ここは!? っ……!」
寝かされていたベッドから飛び起きると太股が痛んだ。どうやら夢ではないらしい。証拠に傷口には丁寧に包帯が巻かれている。
「キャロ! キャロは!?」
「ぅ……ん……。エリオくん……?」
声は隣のベッドから。キャロは眠たげに目を擦っている。
「キャロ! 大丈夫かい!?」
見たところどこにも傷は無い。まだ寝惚けているキャロは状況が理解できていないようだ。
「ここ、どこ……?」
「解らない。でも取り敢えず外に出よう」
誘拐するつもりなら意識を失っている内にデバイスを取り上げるだろうが、二人ともデバイスは手元にある。それでも警戒するに越したことはない。
ゆっくりと扉を開くと、
「あら? 起きたのね」
左上から女性の声。見上げると紫の髪の女性が微笑んでいる。化粧のせいか、エリオにはフェイトやなのはよりもずっと大人っぽく見えた。
「ここは……?」
「出口まで案内するわ。付いてきて」
彼女はエリオの問いに答えることもなく、歩き出す。普通の一本道の廊下の左手には下への階段がある。
気にはなったが、女性が右の上り階段を行くので二人は大人しくついて行くことにした。

無言で廊下を歩き階段を上る間、エリオはキャロに念話であの後のことを簡単に説明した。但し、足のことだけは適当に誤魔化して。
「さぁ着いたわよ」
扉の向こうは蛍光灯よりも柔らかいシャンデリアの光で照らされていた。
清潔で落ち着いた内装の店内には、整然と並べられたテーブルと椅子、純白のテーブルクロスの上にはワイングラスが伏せられている。
「レストラン……?」
その一角にはエリオを助けた青年が座っている。テーブルに並んでいるのは、どうやらパスタ料理のようだ。
「よぉ、起きたのか。このイタメシ屋は俺の馴染みの店なんだ。腹減ってるだろう? 食っていけよ」
完全呆気に取られていたエリオとキャロの疑問を先読みして、青年は隣の女性を指差す。
「お前らを治療してくれたのはそのお姉さんだ。クーロンのそこらの医者よりも信用できるし、腕も確かだぜ」
「あらあら」
隣の女性は頬に手を当てて妖艶な微笑みを浮かべている。照れているのかどうか、その表情からは読み取れない。
「あなたは……?」
意表を突かれたエリオはそんな言葉しか思いつかなかった。キャロはというと、彼女も完全に思考停止しているようだった。
「俺は客船型リージョンシップ『キグナス号』の機関士、『小此木烈人』。レッドでいい」
「レッドさん……」
「あの人はどうしたんですか?」
キャロの言うあの人とは、エリオ達を罠に嵌めようとした男のことだろう。
「あいつならパトロールに突き出してきた。色々訊きたいこともあったしな」
「じゃあ……どうして僕達を助けてくれたんですか?」
彼はそんな質問するのがおかしいとまでに、
「子供が攫われようとしてるのを助けるのに理由が必要か?」
エリオの質問を笑い飛ばす。だが、そんなお手本のような答えは今のエリオには信じられない。優しい言葉の、その裏を疑わずにはいられない。
「本当の理由は何なんですか……?」
レッドは彼の睨みつけるような真摯な眼差しに苦笑した。幼いが故の真っ直ぐさを懐かしがるように。
「俺にも妹がいたんだよ。だから……それもあったのかもな」
たった一言だったが、"いた"という部分だけで解る。どんな理由だろうと、もう会えないのだろう。だからそれ以上を訊こうとはおもわなかった。
「そう言うお前らは何でクーロンなんかにいたんだ? 子供には5年は早い街だぜ。隙あらば他人の足を掬ってやろうって奴らも多いんだ。不用意に踏み込むには危険だって覚えておくんだな」
レッドの忠告は確かに正鵠を射ている。しかし、否、だからこそそれはエリオを激しく苛立たせた。
正面から戦えば100%、絶対に負けなかっただろう。それでも現実にエリオとキャロは罠に掛かって売られ兼ねないところだった。足を傷つけてでも守ろうとしたが、結局は何もできなかった。
「僕を子供扱いしないでください!」
エリオの怒鳴り声に、その他の客が数人驚いて振り向く。
思わず口を吐いて出た言葉は、自分が子供だと認めたのと同じ。何故だろうか、フェイトやなのはには子供扱いされても悔しくなんてなかった。自分が子供だということも自覚しているつもりだった。

「……行こう、キャロ」
エリオはキャロの腕を掴んで無理矢理出口へと進む。レッドも介抱してくれた女性もそれを止めようとはしなかった。
「エリオ君? お礼言わなきゃ……」
「……」
キャロは礼を言わないことを抗議しようとエリオの顔を覗き込み、それきり何も言えなかった。無言で手を引くエリオの目には涙が一杯に滲んでいた。キャロにはその涙の訳までは知る由もなかったが。
背伸びの代償――それは自分の未熟さと弱さを痛感させられた悔し涙。


帰ってからはフェイト達にしつこく追求され、かなり絞られたものの、なんとか厳重注意で済ませられたのは幸運だっただろう。
それでも浮かない顔のエリオを見かねたキャロはキグナスと連絡を取り、レッドを呼び出したのである。エリオは嫌がったが、キャロに本気で凄まれると仕方なくレッドと会うことにした。
そこで二人は改めて助けて貰った礼と疑ったことに対する謝罪を済ませた。レッド本人は全く気にしていない様子だったのだが。
それから三人は互いの事情を多少話した。シンロウ、マンハッタン、ヨークランド、オウミ――レッドの話す様々なリージョンの話は、殆どミッドチルダ以外のリージョンを知らない二人には新鮮なものだった。
どうやらレッドも、二人に様々なリージョンを教えるのは面白いらしく、次第に三人は打ち解けていった。
会えるのはレッドの休みと二人の休みが重なる日、しかもキグナスがミッドチルダに寄港している時のみなので、三人が会うのはこれが4度目である。
「レッドさんは今度はどこのリージョンに行くんですか?」
興味津々といった様子のキャロ。キャロは随分とレッドが気に入ったらしい。
「確かシュライクだ。済王陵と武王の古墳くらいしか目ぼしいものはないな。怪し気な研究所と……他は静かな住宅地だ。本当、何の変哲もない……」
シュライクを語るレッドは昔を懐かしむような、どこか遠い目を見せる。
「そうなんですか。またお土産話聞かせてくださいね」
レッドは言うなれば今の二人にとって社会勉強の先生のようなものだろうか。他人な分、フェイト達だと訊きにくいことも訊けるし、言いたいことも言える。
「僕はシンロウの王宮を見てみたいな。後はネルソンで帆船を見てみたいです」
自分とレッドも打ち解けたと思う。勿論レッドが好きか嫌いかで言えば好きだし、尊敬もしている。彼の話もとても面白くて惹かれる。
だがエリオは、自分の彼に対しての感情はそれだけではないような気がしていた。
「私はあの時のレストランで食べられなかったのが少し残念です。いつか行ってみたいなぁ……」
「その時は2人以上の保護者同伴だな。あの辺りは安全とはいえ、クーロンはクーロンだからな」
「もう大丈夫です。あんまり僕達を子供扱いしないでくださいよ、レッドさん」
まただ。彼と話すと一度は必ず言っている。スバルやティアナに子供と呼ばれても全然気にならないというのに。

「そういうところが子供なんだよ。食べてるものもな」
レッドがからかうように、ニヤニヤして指差す。
テーブルのエリオの前に並べられているのは小盛のハンバーグとミートスパゲッティに、サラダとスープ、ドーム状に盛られたチキンライスには何処かの旗が棚引いている。俗に言うお子様ランチ的なものである。
「これは……色々食べたかったから……」
「ふふっ、エリオ君可愛い」
立ち上がって反論しようとすると、クリームを口の周りにいっぱい付けてストロベリーパフェを頬張るキャロがクスクス笑うのでエリオは赤面しながら着席した。
本当は"僕達"でなく、"僕"を、と言いたいのかも知れない。彼には何故か侮られたくない、負けたくないと思う。
背伸びした自分を、無理をしていた自分を見られたからか。
それともあれくらい僕でもできる、僕はこんなものじゃないと思うからか。
キャロが懐いているからか。
彼がなのはやフェイトのように遥かに高い存在だったならこんなこともなかったのか。
この気持ちが何なのかは当のエリオにも解っていないが、少なくとも単純な"嫉妬"や"憧憬"といった言葉で片付けられるものではなかった。


その頃、六課隊長室で八神はやては一人――比喩でなく文字通り――頭を抱えていた。
「ブラック……クロス……」
ヴィータからの報告にはやては戦慄した。ガジェットとモンスターが同時に出現、これまでスカリエッティがモンスターや妖魔を使役してきたことはなかった。
そしてヒーローの言を信じるならば、これはスカリエッティとブラッククロスが繋がったことを意味している。
ブラッククロス――次元世界の闇に潜む巨大な次元犯罪組織である。麻薬、政治家誘拐、密輸、武器製造、暗殺etc。
相当の武力を有し、世界中のありとあらゆる犯罪はどこかでブラッククロスに繋がっているというのは、あながち誇張でもないのだ。
規模の割りにその内情は全く知られていない。解っていることは四天王と呼ばれる幹部が4人、そしてブラックレイの存在。
ブラックレイとはブラッククロス所有の戦闘艦である。数少ない目撃例によるとエイ型の漆黒の船らしい。目撃例が少ないのは目撃した船の悉くが撃沈されているからだろう。
何より恐るべきは、その機動力とステルス性能。XV級すら撃沈したと言われているが、真偽は定かでない。
「これはもしかすると……」
最早六課だけの手に負える事件ではなくなるかもしれない。活動範囲も恐らくミッドには収まらないだろう。
そんな時の為の六課ではあるが、相手が相手である。色々局内での面倒も増えることは確かだ。それを考えると頭痛が止まらなくなるというもの。
「なんにせよ、今は真偽を確認することが最優先やね……」
誰もいない部屋で、はやては一人頭痛薬を含んだ。

 

 

数日後、シュライク。レッドの言う通りの閑静な住宅街くらいしかない。
フェイト、シグナム、エリオ、キャロのライトニング分隊もこの日ここを訪れていた。
「ねぇエリオ君。あれってキグナスだよね?」
「うん、本当に白鳥の形なんだね」
発着場で見かけた白鳥の船、客船キグナスを見てキャロが感嘆の声を上げた。次元空間内の混沌を進む船の形状はどんなものでもよいとはいえ、純白の翼を広げた巨大な白鳥には流石に驚きを隠せない。
初めて訪れるシュライク、それにキグナスの美しさに目を奪われるエリオとキャロ。任務中だとシグナムが軽く諌めている時、
「(済王陵付近の公園に戦闘機人出現。至急向かってください!)」
目標を発見したとの通信が入る。同時に二人の顔も一気に引き締まり、弾かれたように走り出した。
深部に立ち入った者は一人として戻らないと、永く封印されてきた曰く付きの済王墓。しかし、その中にレリックが眠っているという可能性がある。今日はそれを調査にやってきたのだ。
そしてレリックがある所には必ず現れるのが彼女ら戦闘機人。しかし彼女らが公園で一般人の前に姿を現す――それが不審であることは誰もが疑問に思っていた。


「うわぁぁぁぁぁん!! ママー!」
済王の古墳すぐ傍にある公園。そこでは奇妙な光景が繰り広げられていた。
「ちょ、大人しくしてほしいッス!」
「どうしよう……ほら、泣かないで。お菓子あげるから」
そこでは気絶している現地管理局員と眠らされた母親のすぐそばで、泣き叫ぶ子供達を戦闘機人達が捕らえていた。
ウェンディとセインはなんとか子供達を宥めようとしているが、トーレは暴れる子供の手を強く握って途方に暮れている。

スカリエッティ博士の命令に従って行動するのが、自分達戦闘機人が生まれた意味である。しかし、今回ばかりは博士の意図が読めなかった。
今回与えられた任務、それは3,4人子供を攫って生命科学研究所へ連れて行けというものだった。これまでのドクターならば有り得ない指令。
Dr.クラインとやらと接触してから、ドクターの雰囲気が変わったのは確かだった。
「(トーレお姉様、確保したなら至急生命科学研究所へお願いしますわ)」
命令を聞かされた際に疑問を口にもしたが、答えは返らなかった。そして自分達に拒否権は無い。
「ああ、解っている」
生命科学研究所――詳しくは聞かされていないが、怪しげな研究を行い近隣の住民は近寄ろうともしないらしい。
「離して! ママ、ママァー!!」
腕の中では年端もいかぬ少女が、腕をへし折らんばかりに強くもがいている。これが人が生きようとする力なのだろう。
研究所で何が行われているのか知らないが、恐らくこの子達が母親や父親と会うことはもう二度と無い。母に抱かれることも、父に撫でられることもきっと叶わないのだ。
仕方のないことといえ、罪の無い子供の人生を奪わなければならない。泣き叫ぶ少女の声、涙、感触――全てがトーレに痛みを与える。できることなら全ての感覚をカットしてしまい衝動にすら駆られるほどに。

トーレは暴れ続ける少女を薬で眠らせて抱きかかえた。同様にしたセインやウェンディも同じく表情を曇らせている。
「なんでこんなことしなきゃいけないんスか……?」
「……行くぞ」
ウェンディの問いにトーレは答えない。彼女もまた、それに答える術を持たなかったから。だから誰にも聞こえないように心で問いかけるしかなかった。
(ドクター……貴方は……)

 

 

生命科学研究所へと向かう為に公園を出ようとした時、公園に飛び込んできた一人の男がトーレの前に立った。
「その子達を何処へ連れて行くつもりだ!」
レッドはトーレ達の前に立ち、拳を構える。ブラッククロスの手掛かりを求め歩いていた時、公園からの悲鳴に駆けつけたのだ。
戦闘機人、その存在は知らずとも目の前の彼女が只者でないことは感じている。
「何故邪魔をする……、といっても……当然のことだろうな」
トーレは自嘲気味に含み笑いを浮かべ、抱えた少女をセインに預ける。
「セイン、頼むぞ。私は相手をしてから行く」
「トーレ姉、でも……」
一般人などその気になれば振り切ることは容易い。しかし生命科学研究所へ入るのを見られるのは得策でない。そして何より、
「今は少し憂さを晴らしたい……」
「……わかった」
セインとウェンディは子供を抱えて走り去った。レッドとしては追いたいところだが、目の前の女がそうもさせてくれそうにない。
離れた位置からでもピリピリした気配を感じる。
(多分、俺よりも格段に強い……)
しかしそれは生身での話である。彼は足を開いて大きく息を吸い込み、唱える。
「へん――」
「レッドさん!?」
それを遮って乱入してきたのは、既にBJを着用しているエリオ・モンディアルだった。
「お前……何でここに!?」
「レッドさんこそ!」
ストラーダを構えてレッドに並ぶエリオ。既にエリオを魔道師と知っているトーレは全く動じていない。
「私は二人でも構わない。行くぞ!」
《鬼走り》
トーレは地を擦るのではないか思う程に身を屈め、拳を突き上げる。発生した衝撃波は一直線にレッドとエリオへ向かい、会話に気を取られる二人を飲み込んだ。
「うわっ!」
「くっ!」
見た目の割りに傷は無いが、この一撃で彼女の技量が相当であることを、レッドは再確認する。
「他の皆には子供達を追ってもらいました。レッドさん、ここは僕がやりますから逃げて下さい」
「そうか、だったらここは俺だけでなんとかする。だからお前は子供達を助けに行くんだ」
その言葉にエリオは目を見張った。が、すぐにトーレを向いて答える。
「駄目です、僕は管理局員です。民間人を危険に晒したままにはできません」
《金剛神掌》
トーレは畳み掛けるように高速でエリオの懐に潜り込む。ISを使用していた為に咄嗟に反応できなかった。闘気の塊と化した正拳がエリオ目掛けて放たれた瞬間――。
「ぐぅぅ!!」
レッドがライドインパルスの速度に反応し、間に割り込んでいた。防御したはずなのに、腕は真赤に腫れ上がり、摩擦の煙を微かに立ち昇らせている。

「レッドさん!?」
「……解ってないな。お前が今、何よりも優先すべきは子供達の救出だろうが。俺は自分の身くらい自分で守れる。だから行け」
これも正直な気持ちではあるが、流石に本当の理由は言わないで伏せておく。
(お前がいたら戦えない、なんて言ったらまた膨れるかな?)
「何よりこいつは俺を殺す気はない」
エリオは未だ釈然としない表情だったが、やがて短く頷く。レッドも軽く微笑んでそれに答えた。
「よし、行け!」
エリオの脱出の隙を作る為に、レッドはトーレへ駆け寄る。同時にエリオも公園を離脱し、生命科学研究所へ向かう。
《ローリングクレイドル》
隙を作る為にも一度投げて距離を取りたい。が、正面から組めると思ったのが甘かった。
《当て身投げ》
伸ばした腕を取られ、すかさず鳩尾に肘鉄を入れられ、そのまま投げ飛ばされる。一連の動きがあまりにストレートに決まり、レッドは声も出せず転がって悶絶した。
「――!!!!」
「もういいだろう。そこで寝ていろ」
言い捨てて公園を去ろうとするトーレ。こんなことをしても憂さなど晴れるはずもなく、もやもやしたわだかまりだけが胸に残っている。
「待てよ……」
だが、レッドは立ち上がっていた。あれほど叩きのめしたというのに、まだ立ち上がってくるのは、トーレには理解できなかった。
「まだ……立つのか」
「子供達を……返せ」
ふらふらになりながらもレッドは立っている。形勢は絶対的に不利。しかし、まだ彼には切り札が残っている。
「へんし――」
《三角蹴り》
先程の金剛神掌とは比べ物にならない本気の速さ。街灯を蹴り、勢いを乗せた脚はレッドの腹にめり込んだ。
せめて苦しまないよう、一撃で昏倒させるつもりで放った蹴りだ。レッドは静かに崩れ落ち、そのまま意識を失ったらしく、もう起き上がってくることはなかった。
気絶したレッドを見つめて、トーレは顔を顰めた。不快な気分だけを残したまま通信を飛ばす。
「セイン、ウェンディ、研究所に引き渡したら撤退だ。それ以上付き合う必要は無い」


「ここ、見た目は普通の研究所みたいだけど……」
エリオは3人に合流し、今は研究所内を4人で探索している。傍目には異常は見られないが、エリオにはこれだけでも十分に気分が悪い。
所内に漂う薬品のような臭い、そして何故か獣臭。無機質な空気――過去の忌まわしい記憶、かつていた研究施設を思い出す。

「でも……誰もいませんね」
所内は無人だった。受付らしき場所もあったが、人影どころか痕跡も見られない。
仕方なく捜索を始めると、意外にすぐ人を発見できた。研究室らしき部屋に白衣の男性、まず間違いなく研究員だろう。
「時空管理局の者です。こちらに誘拐犯が子供を連れて逃げ込んだはずなのですが、何かご存知ありませんか?」
フェイトの問いに男は答えない。まったく聞いていないのか、虚ろな瞳でブツブツとうわ言を呟いている。まるで薬物中毒のような異様さは寒気を感じさせる。
「所長に面会を希望したい。所長室の場所を教えてもらえないだろうか?」
シグナムの問い――所長というキーワードに男の肩が震え、機械のような動作で振り返る。虚ろな瞳はかっと見開かれ、やがてその口も開かれた。
「何故こんなことに……。俺は間違っていたのか?」
掠れた声で告げると、男の身体が膨れ上がった。皮膚は甲殻と化して緑に染まり、脚は百足のように一つに結合され、背中からは無数の鋭利な突起。
蟷螂を思わせる鎌のような鋏を振りかざし、目は昆虫の如く鋭く伸び、歯は牙となった。
「な……」
全員が言葉も無く見守る中、男はモンスター『ゼロディバイダー』へと完全に変態を遂げた。


既に人としての意識は残っていないのか、独特の呼吸音を立てて鋏はキャロへと伸ばされる。
それでもキャロは動こうとしない。ようやく状況を認識して回避を取ろうとした時には、鋏は彼女の細腕に噛み付こうとしていた。
「キャロ!」
《ディフレクト》
寸でのところでフェイトが鋏を叩き落す。流石にフェイトやシグナムは、驚きながらも素早く危機に反応していた。
「……どうする? シグナム」
「やるしかないだろう……」
フェイトに対しシグナムは即答した。元は人、だが今は耳障りな音で鋏を鳴らしながら、攻撃の機会を窺っている眼前のこれを見れば当然の答えと言えた。もう――人とはいえない。
「そんな!? この人は人間なんじゃ……?」
「モンスターが人の振りをしていた可能性もある。非殺傷で様子を見てみよう」
フェイトはキャロに答えながらも、頭をフルに回転させる。その上でこれが妥当だと判断した。
《逆風の太刀》
「はっ!」
バルディッシュを構えてゼロディバイダーに突進。下に構えられていたバルディッシュは、交差した刹那に切り上げられる。それはまさに逆巻く風のような剣筋。
ゼロディバイダーは唾液を吐き出しながら悶え苦しむ。仕留めるには絶好の機会だ。
《チャージ》
次にエリオががら空きの腹部に、十分に力を溜めた一撃を叩き込む。敵は耳をつんざく金切り声を上げてのたうち回り、やがて動かなくなった。


「後は結界を張って応援に任せよう。調査の必要があるからね」
フェイトは捕縛結界の詠唱に入る。が――倒れていたゼロディバイダーが唐突に跳ね上がり、フェイトの腕に喰らいついた。
《吸血》
BJを貫通して刺さった牙はフェイトの血を啜り上げる。すぐに口内は真赤に染まり、溢れた血液を床に点々と零した。
エリオも、キャロも既に"それ"を人とは見ていない。瞳に映っているのは、ただ恐怖と嫌悪のみ。
《無拍子》
エリオよりもキャロよりも、バルディッシュを振り上げるフェイトよりも速く動いたのはシグナムだった。すべての予備動作を省き、レヴァンテインは高速で鞘を走り、ゼロディバイダーの頭を容易く切り落とす。
ごろりと分かたれ転がった骸からは遅れて血が流れ出した。その体液さえも、やはり人のそれではない。

「無事か? テスタロッサ」
「うん……ごめん」
差し伸べられた手を取らずにフェイトは立ち上がった。牙が鋭かった分、傷口もそんなに酷くはない。
《スターライトヒール》
「ありがとう、キャロ」
キャロの治癒魔法に礼を言って、フェイトはエリオに歩み寄り、膝を屈めた。当のエリオは顔面蒼白で小刻みに震えている。
「ごめんね……油断してた」
責められると覚悟していたエリオは、はっと顔を上げる。彼女は申し訳なさそうに苦笑していた。
「でも……どんな理由があっても私達に油断は許されない。今回だってシグナムが助けてくれなかったら危なかったと思う。迷ったり油断してたら、誰かが危険な目に遭うんだもんね……」
「すみません……フェイトさん」
搾り出すように、ようやく一言だけエリオは発する。
「ううん、もういいの」
優しい言葉を残してフェイトは立ち上がる。きっと自分を気遣ってくれたのだろう。だが、エリオにはそれが余計に苦しかった。


「そんな目で、見ないでくれ!」
「家に帰りたい……母さんに会いたいよぉ」
「私はただ、真実が知りたかったのだ」
「病を知らぬ不死身の体。記憶容量限界の無い脳。何故この価値を認めない?」
「もう、元に戻れないのだ。……殺してくれ!」
「赤い血の流れる体が欲しいよう……」

全て所内捜索中に出会った研究員達の遺した言葉である。喜ぶ者、嘆く者それぞれだったが、結局は全員が最初の研究員同様にモンスターと化した。
母の名を呼んだ者は人の原型すら留めぬスライム『ゼラチナスプランター』に、自らの身体を誇った者は巨大な悪魔『ゼフォン』に、
人の肉体を恋しがった者は血すら通わない『化石樹』へと変貌した。
狭い所内、そしてモンスターの強靭な生命力。ただでさえ強力なモンスターが徒党を組んで現れた以上、非殺傷で済ませる余裕は無く、結局は誰一人として救うことは叶わなかった。
ここは全てが狂っている。フェイトやシグナムでさえ、次第に無口になっていった。それは肉体の疲労ではなく、研究所の異常さと研究員達への哀れみによる精神の疲労に他ならない。
4人は複雑な所内を彷徨い歩く。応援の到着にはまだ時間が掛かるようだ。子供達も見つからない。そして――。

『ナシーラ所長の指示書』
――モンスター、妖魔、人間は常に一定量に保つよう補充すること。
モンスターの能力吸収による、変身効果については更に詳しい研究が必要。
研究員は希望者から順に実験を行うこと。情報の漏洩を試みた者にも処置を施すように。
能力の低いもの、侵入者との接触以外に最低限理性と肉体を保てないであろうもの、これら失敗作は全てブラッククロスへ処分、運用を委託している。
彼らから情報が漏れる可能性は低いと見ていい。研究に支障はないはずである。
件の警察まがいの機関についても同様。いらぬ心配は、捨て置くように――

 

 

資料室、机の引き出しに仕舞われていた指示書を発見したのはエリオだった。
恐れていた疑惑が確信に変わる。研究員達の言葉の意味がようやく理解できた。
人間を妖魔やモンスターに変える――これが、或いはこの人体実験の先にあるものが、研究所の求める真実なのだ。
指示書にはブラッククロスとの繋がりに関してもはっきりと書かれている。これは今回の事件だけでなく、ルートを辿ることができればブラッククロスの捜査においても重要な証拠になる。
頭ではそれを理解していても、身体は勝手にこの文書を破り捨てようとしている。
研究員達の言葉が自らの記憶と一つとなり、怒りのままにここの全てを破壊したくなる衝動に駆られる。しかし指示書を引き裂く寸前、エリオの腕が掴まれた。
「エリオ、これは重要な証拠だ。指示書に限らずこの部屋の全ての資料、研究所の全ての物もな。だから我々は極力これらを保全する義務がある」
穏やかな口調とは裏腹に、シグナムの腕はエリオの腕をきつく掴んで放さない。
――解っている。そんなことは全部解っている。それでも抑えようのない憎しみが、行き場を無くしてエリオの胸中で渦を巻いて膨れ上がっていた。
「解って……います」
一言、そう答えてエリオは先に資料室を出る。外ではキャロが既に待っており、エリオを見て短い悲鳴を上げた。
それもそのはず。今の彼はまるで天敵を前にした獣のように目を血走らせ、喰いしばった口の狭間から荒い息を吐き出していたのだから。


更に何人かの成れの果てを屠り、地下を降り、機械の合間を縫っていくと一際大きな部屋へと出る。3階分はあろうかという高い天井。実際、壁に沿って二階と三階に足場がある。おそらくは中心の何かを高所から見る為だろう。
広さも研究所全体の何分の1かと思うくらいの面積はある。
その中心に一人の女性が立っている。歳の頃はおよそ30過ぎあたりの、知的な雰囲気の美人だ。
「あら? ここまで来るなんて勤勉な学生さんね。私は当研究所の所長ナシーラ。見学してみて如何だったかしら?」
「私は時空管理局本局所属、フェイト・T・ハラオウン執務官です。あなたを研究所職員に対する人体実験及び、犯罪組織ブラッククロスへの組織的協力の容疑で逮捕します」
フェイトは、人を食ったようなナシーラの態度も表面上は冷静に受け流す。だが本心では、全てを操りながらにやついた笑いを浮かべるナシーラを、今すぐにでも殴ってやりたいくらいだ。
話しながらもフェイトは思う。自分やシグナムはこうして本心を隠して冷静に振舞うこともできる。
「もう一つ――」
「子供達を何処へやった!!」
フェイトの発言を遮ってエリオが吼える。
しかしエリオは違った。大人びていても彼はまだ子供である。こういった状況ならば、キャロならば悲しみが先に立つだろうが、エリオは純粋に怒りを剥き出しにしていた。
非人道的な研究施設にいた自身の過去も相まって、今その怒りは憎しみにも変わり、エリオを暴走させている。
「子供なら別室で実験の準備中よ。今はまだぐっすりと眠っているわ。"今は"、ね」
「実験!?」
「でも貴方達がそれを見ることはできないわ。さぁ、私のとっておきをお見せしてよ!」
ナシーラが手に握ったスイッチを押すと同時に、彼女の足元の床が開く。円形のゲートからせり上がってくるのは巨大な甲羅。
黒く鈍く光る大砲を鎖でがんじがらめに固定した巨体。長く伸びた首と柱のように太く逞しい四つ脚。
天井まで届くかと思うほどの巨体を震わせ、竜は雄叫びを上げた。
「これが『地竜』。私の最高傑作よ」

 

 

ナシーラの言葉はフェイト達の耳には聞こえていなかった。耳をつんざく程の地竜の雄叫びにかき消されたのだ。
地竜の背に乗ったナシーラは何かを囁いている。まだ聴覚が戻っていなかったが、どうやら地竜は眼前の人間を敵、或いは獲物と認識したらしい。今度は重く低く唸り、4人を睨みつける。
《鉄球》
直後に地竜の背中の大砲が戦いの号砲を轟かせた。大砲から発射された鉄球は、人の身体よりも大きい。こんなものが直撃すればBJ越しとはいえ容易く全身を砕かれるだろう。
フェイトとシグナムは飛行することでそれを素早く避ける。キャロも二人に手を引かれて逃れた。たった今まで立っていた床は、鉄球が半ば埋まり無数のヒビを走らせている。
「キャロ! ここならフリードが飛び回るだけのスペースがあるよ!」
「はい、フェイトさん!」
《竜魂召喚》
キャロの周りを飛び回っていたフリードリヒが光に包まれ、真の姿を解放する。フェイトの手を放し、キャロは巨躯を現したフリードへと跨った。
空を飛ぶと眼下の状況がはっきりと掴めた。発射の瞬間、いち早くエリオが咄嗟に回避したのは見えたのだが――。


「エリオ!?」
「! エリオ君!?」
フェイトとシグナム、キャロが同時に驚きの声を上げる。エリオは回避のみならず、既に地竜に向かって突進していた。
地竜は邪魔な蟻を踏み潰すように、足踏みでエリオを狙うが、脚の間を掻い潜るエリオを捉えられてはいない。
《地震》
しかし至近での一際大きな足踏みの衝撃が地面を揺らし、エリオの足を捕った。バランスを崩し転倒するエリオを狙って再度地竜が足を浮かす。
「ちっ!」
《シュツルムファルケン》
弓状へと変化させたレヴァンティンから放たれる矢が地竜の左目を抉り、足は大きく外れた場所に地響きを立てる。
構わずエリオは四つん這いの状態から跳躍。爪どころか、ストラーダさえ満足に立たない皮膚に刃を引っ掛け、更に高く跳ぶ。それでも高さは地竜の胴の半ばまでだが、目標の姿は見えた。
《スピーアアングリフ》
ならば後は突き抜けるのみ。エリオは地竜の口が自分に向いたことにすら気付いていない。当然、その口内の温度が急激に高まっていることにも。
《高温ガス》
吐き出される間近になると、空気の流れも可視化される。異変に気付いたのはフェイト――だが今のエリオを止めることはできないし、そんな暇もない。
《プラズマランサー》
相手がこの大きさだ。誘導することも、狙いをつける必要すら無い。数秒で作れるだけの魔力弾を発射する。
20を超える魔力弾が地竜の脇腹や首に突き刺さり、地竜は堪らず口内の高温ガスをあらぬ方向へ吐き出した。着弾の煙が晴れると無数の傷が身体に刻まれている。
エリオを助けたくとも、地竜が闇雲にガスを撒き散らすせいで接近することも難しい。


(気付いていたはずなのに……!)
彼の心の傷がいかに深いものかも、彼が傷を与える者を決して許さないであろうことも、全て自分が一番解っている。
エリオがここに来て不安定だったことも、怒りに震える彼が戦いに影響を及ぼすかもしれないことも気付いていた。
それなのに何もしなかったことが今更になって悔やまれる。
戦い方自体は教えたことを忠実に守っていたから、怒っていてもどこかで冷静な部分が制御しているのだろう、と勝手に解釈していたのかもしれない。
しかしそれは繰り返し繰り返しの訓練で、その身に染み付いたことを実践したに過ぎなかったのだ。獣がどれだけ昂ろうと狩りの仕方を忘れないように。
エリオの狙いは間違いなくナシーラだ。彼女が地竜を操っているからには、それを止めれば地竜が止まる可能性はある。それでもフェイトは止めたいと思う。
今の彼の姿が始めて出会った頃にダブって見えるのだ。違うのは憎しみをぶつける相手が一人であることと、戦い方を身に付けているだけ。放っておけば、きっとエリオはナシーラを殺めてしまう。それだけは何としてでも避けたかった。

 

 

「うぉぉおおおおお!!」
穂から噴出する魔力エネルギーの勢いによって、ストラーダはエリオの身体ごと猛スピードで飛ぶ。
切っ先も視線もナシーラに定め、阻むものは何も無い。
「はぁぁあああああ!」
しかしナシーラは、雄叫びと空気を震わす殺気を当てられてもびくともしない。それどころか不敵に笑みを浮かべたままだ。
そして穂先が刺さらんとした間際――エリオの身体が側面からの衝撃に跳ね飛ばされた。
《尾撃》
「うわぁ!!」
ナシーラは微動だにしていない。指一本すら動かしていないはずなのに、だが現実にエリオは叩き飛ばされたのだ。
吹き飛ばされる瞬間、エリオが見たものは"尾"。彼女の白衣の下から伸びる長く鮮やかな色をした蛇の尾。
「私を倒せば地竜は止まる。でもそう簡単にいくかしら?」
脱ぎ捨てた白衣の下には――何も着ていなかった。艶かしい肌を晒す上半身。しかし腰から下はまさに蛇そのもの。爪は鋭く尖り、美しい髪の下は人のそれではなかった。
「妖魔……!」
『ラミア』という半人半蛇の妖魔がいる。男を誘惑し魅了する妖魔である。ナシーラの姿はそのラミアに酷似していた。
「別に元から妖魔だったから人体実験をした訳じゃないわ。私は正真正銘の人間――"だった"と言うべきね。私にとっては自らの身体さえサンプルに過ぎないもの」
「狂ってる……!」
改めてフェイトは思った。自分の身体も、他人の身体も躊躇わずモンスターに変えてしまう。これを狂っていると言わずして何と言うのか。
「そんな言葉は聞き飽きたわ。それより、そこの坊やを放っておいていいのかしら?」
エリオは未だのた打ち回る地竜の足元すぐに着地している。意識はあるが、すぐには動けそうにない。
「エリオ!」
フェイトはガスにも構わずエリオに向かって飛ぶ。高温ガスの直射はBJ越しでも彼女の肌を焼いた。それでもフェイトは飛び続ける。
「フェイトさん!」
《ブーストアップ・アクセラレイション》
キャロの援護を受け、フェイトはBJを焦がしながらも、燃え尽きる前に高温ガスを抜けた。
(もし止めることができなくても、せめて一人で戦ってるんじゃないって伝えたい……)
《ハーケンセイバー》
「はぁあ!」
魔力刃は弧を描き、地竜の皮膚を切り裂く。それによって再度地竜は足を止めた。
その隙にエリオは立ち上がり、態勢を立て直す。顔つきは戻っていないが、正面から攻めても無意味であることは理解したようだった。
地竜とナシーラは強敵ではあるが、勝てない相手ではないことも解ってきた。攻撃は確かに通っている。
それに応援も要請した。仮に攻めきれなくても持ち堪えれば増援が来る。
しかし、ナシーラはフェイトの考えを見透かすかのようにまたも笑った。それは奮い立つ4人の戦意を挫く――悪魔の笑み。
「ブラッククロス様……お力を……」
天を仰ぎ、両手を広げて捧げた祈りは彼のものへと届き、部屋を暗黒の結界で覆い尽くした。


何時間経っただろうか。冷たい雨が頬を打ち、レッドは混濁した意識が冴えていくのを感じていた。意識を失っていたのかもはっきりしない。
「目が覚めたか、レッド……」
どこかで聞いたことのある声に、僅かに顔を動かしてみる。それだけで全身を激しい痛みが襲う。
「あんたは……アルカール?」
漆黒の鎧の戦士、アルカール。サントアリオのヒーローであり、自分を『ヒーロー』にした男。アルカールは不甲斐ない自分を叱るでもなく、笑うでもなく、ただ傍に立っている。
「あの少年は強いな……そう、君よりも遥かに強い。だが幼い……そうは思わないか?」
あの少年――レッドには一人しか思いつかなかった。幼く未熟で、それ故に真っ直ぐで誰よりも強くなりたいと思っている少年だ。
多少武術を齧っただけだった自分が戦いだしたのは、まだほんの数ヶ月前なのだ。キャリアでいえば遠く劣っている。だが、アルカールの指す強さとはそうではないのだろう。
「あんた……エリオを知っているのか?」
しかしアルカールはレッドの問いに答えもせずに、遠くを見つめる。この雨の中、濡れることも厭わずに立ったまま。
「今の彼は怒り"だけ"を糧に戦っている。憎しみに支配されて己を見失っている」
まるでいつかの自分のようだ。レッドはふと自分をエリオにダブらせる。憎しみに燃え、手にした力に一時は喜びさえ感じた自分に――。

「だが我々は……人々を護る為に戦う者はそうではならない。故に私は、サントアリオの『ヒーロー委員会』は君に復讐を禁じた。家を焼かれ、家族を殺され、全てを理不尽に奪われ生き永らえた君に憎しみを禁じた」
しかしその力は復讐に使うことを許されない力だった。
「出会った時に言ったな。他者に正体を知られれば君の記憶を消し、正義の戦い以外に力を使えば存在自体を消去する、と」
痛い程に鮮明に覚えている。全てを奪われ、力を手にした日を忘れることなどできるはずがない。
「憎しみを禁じられ、仇敵と戦う。それは死よりもなお辛いことかもしれない。しかしそれに耐え得ることができずして何の為のヒーローか。人々よりも大きな苦痛と苦悩を超えずして人々を護るに足る存在になり得るのか」
冷たい雨の降り頻る公園には寄り付く者もいない。倒れたレッドも、佇むアルカールも、ただ互いの存在だけを感じていた。


「ブラッククロスの四天王、『シュウザー』に瀕死の重傷を負わされた君を助ける為、私は君をやむなくヒーローにした。そして君は図らずもヒーローとなった。しかし、ヒーローとして生きることを決めたのは君自身だ。違うか?」
「あぁ……でなきゃとっくに記憶を無くしてるか、消されるかしてるだろうさ……」
最初はそんなこと関係無いと思っていた。命を失うのが怖かったんじゃない。ただ――自分が死ねば、誰も家族を覚えている者がいなくなるのだと気付いた。そう思うと死ぬ訳にはいかないと思えてきた。
「私は君にヒーローたる資格が無いとは思わない。憎しみを仮面で隠し、怒りを拳に秘めて戦うことができたなら、君はまごう事なき戦士となれる。それが出来た時、始めてその資格を得る」
「俺には解らないよ……そんなもの……」
ヒーローの力は強大だった。大抵の敵は簡単に倒すことができた。
だからだろうか? 命を惜しんで、楽に敵を倒して――その内にこれがヒーローの戦いなのか、自分の戦いなのか解らなくなってしまった。これが誰のための戦いなのか解らなくなってしまった。
「本当は至極簡単なことなのだがな……」
アルカールはそう呟くと、大きく息を吸い込み、初めてレッドを見据えた。
「君は許すのか!? 他者の命を弄び、自らは支配し、欲望のままに栄華を極めんとする悪を! 許せるのか!? 人々の嘆きと苦痛の悲鳴が木霊し、それでも血涙を流してそれを受け入れるしか術のない世界を!」
ドクン、と心臓が跳ねるのを感じた。
熱い血がアルカールの言葉を伴って、冷え切った身体を駆け巡ってゆく。
帰る場所も迎えてくれる人もいなくなり、心の中に何も無くなる感覚も、温かい思い出に一人で泣く夜も全て思い出した。
それは本当に、本当に簡単なことだった。
「そうだな……簡単だったよ、アルカール。俺は"嫌"なんだ。誰かが俺と同じ思いをするのも、それを強いる奴が笑うことも……」
アルカールはレッドの瞳に火が灯る様に、ふっと笑った。そして、その火が炎と燃え上がるよう言葉を紡ぐ。
「英雄とは称号、ヒーローとは生き様である――サントアリオのヒーロー委員会に伝わる、我々の遥か先駆者が遺してくれた言葉だと云う。私にもこの意味が正しく理解できているのだろうか、時々解らなくなる」
「俺にも解らないよ、そんなこと……」
「それでいい。だが、問いかけることにこそ意味があるのだ、と私は思う」
もう冷たい雨も気にならない。走る痛みは身体が動く証。
ゆっくりと、故障した機械を騙し騙し動かすように手を突き、泥に塗れて身体を持ち上げる。
「手は貸さんぞ、レッド。君はもう手を差し伸べる側なのだから」
「要らないさ……!」
何度も滑りながらも強がりを吐くレッドに、満身創痍で立ち上ろうとするレッドにアルカールは最後の言葉を放つ。

 

 

「ならば起て! 小此木烈人!! ヒーローたれ! 『アルカイザー』!!」
感情を超えるものは誇り。復讐を抑えるものは使命。憎しみに打ち克つものは信念。
彼はきっと、自分はそんな大層なものではないと答えるだろう。しかし彼はそれを確かに体現している。
ゆらりと静かにレッドは立ち上がる。腕はおそらくヒビが入っている。肋骨は何本か折れているだろうか。
気を失う寸前、自分はただがむしゃらに子供を助けようとしていた。子供の泣き声が今も耳に残っている。だから――行かねばならない。

《変身》
※お好きな変身ポーズを思い浮かべてください

「うぉぉおおおおおおおおおお!! 変ッッ身! アルッ!カイッ!ザァァァァァ!!」

金色の光が消えると、そこにはもう傷ついた青年の姿は無い。ただ、戦いに臨むヒーローの姿だけがあった。アルカールはいつの間にか姿を消している。
「ありがとう……」
アルカイザーは去り際に呟く。答える者はなく、言葉は雨に溶けた。


街を駆け抜け、応援に走る局員を追い越し、アルカイザーは走った。直感が告げるのだ。敵はあそこだ、と。
無機質な廊下のその奥、暗黒の結界の力を目指し、地下への階段を飛び降りる。辿り着いた最深部らしき部屋は黒い壁に覆われている。
「トワイライトゾーン……」
ブラッククロスの連中が使う結界――半端な力では斬ることも貫くことも叶わないそれは、ブラッククロスの怪人達の力を3倍に引き出す効果を持っている。
《レイブレード》
光線剣レイブレードでさえ、容易く弾かれてしまう。そこでアルカイザーは、はっと思い出した。
自分が戦闘機人に敗北した理由――それは肉体の鍛錬が足りないことよりも、技の修練が足りないことよりも、ヒーローの力に溺れていたことにあったのではないか。
「ハァァアアアアア……!」
足を肩幅に開き、深く息を吸い、呼気と共に拳を繰り出す。
「ハァッ!!」
《ブライトナックル》
気勢を伴い放たれた正拳が闇の壁にぶつかると、甲高い音と同時に閃光が弾けた。すると傷一つ付けられなかった結界に僅かに亀裂が生じる。
今、アルカイザーは確かな手応えを感じていた。基本に立ち返ってみて始めて気付くこと。それはヒーローの絶対的な力、人々を護る力――しかし一歩間違えばそれは奪う側に回りかねない破壊の力。
(俺が一番鍛えなきゃいけなかったのは、身体でも技でもなく、ヒーローに頼らない心だったのかもしれない……)
あの女は戦技においても自分を凌駕していた。自分自身が強くならなければ勝ち抜いていけないことは、今日の戦いで身に沁みて解った。
改めてそれを胸に刻み、再度アルカイザーは脚を開く。深く膝を沈ませ、力を集中させながらも、その目は亀裂の中心を見据える。
《シャイニングキック》
「トォオ!」
渾身の力を込めた飛び蹴りに、亀裂は音を立てて崩れた。そこには、一人がやっと通れる穴が開いている。その先に待つものはおそらくは強敵、確実なのは危機に陥っている人々。
すぐさま修復を始める結界を前にアルカイザーは迷うことなく、ぽっかりと口を開けたどす黒い魔の空間に身体を滑り込ませた。

 

 

「何で……? 何で攻撃が通用しないの?」
部屋全体が結界に覆われ、照明の全てが落ち闇に包まれた空間で、フェイトは戸惑っていた。結界が発動した途端に、地竜の皮膚は硬度を増した。
攻撃が弾かれるようになり、ナシーラの爪でさえBJを切り裂く力を持ち出したのだ。
「考えるまでもない、結界だろう……。テスタロッサ、この結界……斬れるか?」
シグナムもフェイト同様に騎士甲冑をボロボロにしながら、憎々しげに結界を斬りつけるも、結界は空しくレヴィンティンを弾き返した。
「この結界……すごく頑丈。私達二人でやっても、ほんの一秒か二秒で……とても全員は……」
力を吸い取られている気さえする4人とは真逆で、ナシーラと地竜はその力を活性化させて結界内で暴れまわる。最早隠れるのも、逃げ回るのも限界に近い。
「だったら……キャロが行けばいい」
「エリオ君……?」
エリオがキャロの肩をフェイトへと押し出す。頭が冷えてきたのか、エリオの顔を見ると考え無しで言っているようには見えなかった。
「僕が撹乱して、あいつらを引きつけます。シグナム副隊長とフェイトさんは結界に集中してください」
「そんな……駄目だよ! 危険だよ、エリオ君!」
キャロの制止にエリオは静かに首を振った。
「僕がやらせてほしいんだ。皆に色々迷惑掛けちゃったから……。お願いします、フェイトさん」
確かにフェイトは結界に全意識を集中しなければならない。その間、背後の不安は残るが――。
「それは許可できない。危険過ぎるよ」
「今のお前に陽動するだけの動きが可能とは思えない」
しかしフェイトとシグナムはそれを許さなかった。エリオがキャロにしたのと同じように、エリオに首を振った。
「これは全員が生き残る為の作戦だよ。誰かが外に出て状況を正確に伝えれば、なのは達も相応の装備で駆けつけてくるはずだから……」
地竜の咆哮が近づいてくる。もう、議論している時間は無い。
「エリオも一緒にキャロと外へ出て――」
「どうして子供は弱いなんて言うんだろう……。いつだって大人になろうとしてる、子供の血の方が熱いのに……!」
エリオはフェイトの言葉を遮って、地竜へ駆け出す。
「エリオ!」
この状況下で、たった二人でなのは達が来るまで持ち堪えられるとは思えない。子供も騙せない下手で、それでいて優しい嘘だとすぐに解った。
「うぉおおおおお!」
悔しかった。子供達を助けられないこと、怒りに任せて暴走してしまったこと、倒さなければならないモンスターと犯罪者に敵わないこと、フェイトに信頼されず役を任せてもらえないこと。
――無力な自分が悔しくて堪らない。
でも、ここでキャロを逃がすことができれば、せめて一人は守ることが出来るから。
地竜はその巨体故に懐に入られると弱い。一度目のように急接近して駆け上がれば、後はナシーラの相手だけで主導権は握れると踏んだ。
《スピーアアングリフ》
シグナムの言うように、今の自分にあまり機敏な動きができる自信はない。踏み潰されれば全てが終わりだ。
焦ったエリオは素早くナシーラに近づこうと、中距離からブーストして飛び上がる。視界の殆どは暗闇、その中にナシーラの姿が浮かび上がる。
《マヒ凝視》
《鉄球》
【マヒ鉄球】
闇の中でその目だけが妖しく爛々と光る。否応にもエリオの視線はその光に吸い寄せられいった。
「しまった……!」
言い終えるのを待たずして、エリオの身体は動かなくなった。大砲が自分に向けられ、巨大な鉄球が発射される光景を、ただ見ていることしかできなかった。
不思議と恐怖は感じない。あらゆる神経は研ぎ澄まされ、後ろからは3人の叫び声とフェイトが風を切って飛ぶ音が聞こえてくる。それらの全てが別世界のもののように感じられた。
フリードのブラストレイ、シグナムのシュツルムファルケン、フェイトのファランクスシフト、地竜の身体に無数の弾が降り注ぐが、まったく堪える様子を見せない。
そして発射される鉄球。その弾速すらも緩慢で、エリオは自分の身体を粉砕する鉄球の軌道をぼんやりと眺めている。
(僕は……結局無力な子供だったのかな……)
それだけが悔やまれて仕方ない。
全ての音が止み、エリオはそっと目を閉じた。

 

《シャイニングキック》

轟音にエリオの目が開かれた。彼の目に飛び込んできたのは、目前にまで迫っていた鉄球が粉々に砕ける光景。その中心には人影、いや、ここは暗闇の結界である。影なら見えるはずがない。
それは言うなれば光、人を象った光によるものだった。
光は凄まじい速さでエリオを抱きかかえた。第二射を避け高所の足場に跳ぶ。三階まで一足で、"飛行"でなく"跳躍"した。
エリオは温かくて逞しい腕に抱かれている。その顔を上目遣いで窺い、エリオは目を見張った。朱のボディスーツ、黄金のヘルメット、その派手な格好はどこかで見たことがある。
それは一言で例えるならば――ヒーロー。


エリオを足場に降ろした乱入者は、高みから地竜を、ナシーラを見下ろす。両腕を組み、誇らしく立っている。
その男にナシーラは初めて動揺を露にした。トワイライトゾーン――ブラッククロスの力を借りて空間を覆い尽くす絶対の結界。それが今、破られたのだ。
「馬鹿な!? トワイライトゾーンを突き破ってこれるものなどいるはずが――」
たとえトワイライトゾーンが破れたとしても、ここは研究所の地下である。こんなところに日光が届くはずがない。ならば何故――何故、あの男の背後には後光が差しているのか。

「聴け! たとえ貴様らがどれほど強大であろうと、この世を闇が覆おうと! 人々の胸に自由と平和を望む心が宿る限り、俺の拳に不滅の闘志が滾る限り! 決して世界は貴様らに栄光を与えはしない!!」

違う。太陽ではなく、この光はあの男自身が発しているものだ。太陽の如き金色の光が男の全身から煌々と発散されている。

「この名を忘れるな! 俺はブラッククロスの野望を打ち砕く剣! 遍く人々を守護する盾!」

右手でナシーラを指差す。人差し指の先端から、纏った光の残滓が零れて、闇を仄かに照らす。
「貴様、何者だ!?」
その質問を待っていたかのように、男は突き出した指を拳へと握り、ナシーラに名乗りを上げる。

「闇を貫き光よりの使者、アルカイザー見参!!」
と。


後編予告

血潮の様に紅く、命の様に熱く、男の魂より生まれ飛び立ち、拳を鎧う。
灼熱の炎の中にも沈むことなく高らかに嘶き、激しい羽ばたきは火の粉を散らす。
それは怒りを炎へと変え、悲しみを焼き尽くす力。
ならばアルカイザーよ。今こそ――
【翔べ 不死鳥の如く】 

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最終更新:2008年08月12日 11:27