着古したパーカーを羽織った少女が走っている。
 唐突に視界に飛び込んできたその光景にティアナは一瞬自分が夢を見ているのでは? と訝しがり、何処かで見たことのある少女の後姿と周囲の建物を見回してからようやく納得した。
 ああ、夢だ。
 フワフワと奇妙な浮遊感を感じる今のティアナの視点は、本当に浮いているかのように見下ろす位置にあった。
 眼下を走る少女の背中を追うように、何もしないのに移動していく。
 もう一度周囲を見回せば、視界を流れていく建物のどれもに見覚えがある。そしてそれらははっきりと確認出来るのに、空の天気や路地裏の奥に続く道はぼやけたように分からない。
 当たり前だ、自分はそこまで細かい部分を『覚えていない』のだから。
 ティアナはこれが『自分の過去の夢』だと理解し始めていた。
 目の前を走る少女の背中。自分の背中を見たことはあまりないが、髪の色と二つに縛った髪型はよく覚えがある。
 それは、丁度13歳ぐらいのティアナ自身の姿だった。
 その<ティアナ>は一心不乱に走っていた。ただ、焦るのではなく、呼吸を一定のリズムに保って汗を搾り出すように。
 魔導師になる為の基礎体力作りだ。朝と夜のランニングは訓練校に入る前の自分の日課だった。
 やがて、走る先に古ぼけたアパートが見えてくる。
 廃棄都市街に隣接するこの近辺は、都心からも離れて治安も悪い。
 首都と比べれば信じられないほど汚い場所だが、決して裕福ではない家族の遺産だけで少女が暮らせる程度に安い家賃は数少ない魅力だった。

 ―――本当は、寮制の魔法学校に入ることも考えていた。
 死んだ兄が管理局員ということもあり、費用も多少は管理局の方が負担してくれる。そこで魔法を学ぶのも一つの道のはずだった。
 だが、ティアナは此処を選んだ。
 あの男が事務所を構える廃棄都市区に程近い、この場所に住むことを。

「……あっ」

 走りながら、<ティアナ>が何かに気付いたように声を上げた。
 過去の自分の視線を手繰りながら、そこに佇む人影を見て、ようやく思い当たる。
 これは、きっとあの日の記憶だ―――。

「よお、精が出るな」
「―――ダンテ」

 今の自分と過去の自分の呟きが重なった。
 アパートの玄関の段差に腰掛けていたのは、ティアナの一番新しい記憶よりも幾分若いダンテだった。
 今とは違う、特注品ではない市販の赤いコートを着て、片手にはワインボトルをぶら下げて過去の自分に笑いかけている。
 その笑みを自分以外の者へ向けることに少しだけ苛立ちを覚える。これは記憶であり夢だというのに。

「ランニング始めたの、何年前からだっけ? 世間のダイエットにいそしむ奥様に見せたい姿だな。努力ってのはこうあるべきだ」
「体力つける為の運動なんだから、痩せたら逆に困るわよ」
「女版ロッキーって感じだな」
「ロッキーってなに?」

 言葉を交わすどころか気付かれもしない自分を尻目に、過去の二人は気心の知れた者同士、軽口を交し合う。
 汗だくで呼吸も乱れたままの<ティアナ>は、それでも言葉とは裏腹に嬉しそうに笑っている。
 確かに、事務所でなかなか来ない仕事待っているか、物騒な場所を好んで出歩いているダンテが自分に会いに来るのは珍しい。
 しかしはて、自分はこの時ここまで分かりやすい顔をしていたのか?
 自分で自分を見ることなど出来ないが、無意識に自覚していたということだろうか。ティアナは一人、顔を赤くした。

「何か用?」

 呼吸を整えながら、過去の自分は素っ気無く尋ねた。
 そうだ、それくらいでいい。クールな調子がベストだ。主に過去を振り返る時の為に。

「まあ、座れよ」

 愛想の無い反応に慣れきった様子で、ダンテは椅子代わりの段差をポンポンと叩いた。

「なんで? まだ外は冷えるわよ。汗もかいてるし……」
「なら、部屋に上げてくれるか? 散らかった部屋でお前がシャワーから上がるまで待っててもいいぜ」
「ち、散らかってない!」

 ダンテの言葉に色々な種類の恥ずかしさを感じながら、怒りに任せて彼の隣へ腰を降ろす。
 ああ、そうだ。今も昔も、こうやって自分は彼に敵わなかった。

「……で?」
「訓練校に入る為の試験が近いらしいな」
「世間話しに来たんなら帰って。その通り、最近いろいろ忙しくてあたしも暇じゃないから」

 軽口の度を過ぎた剣呑な返事に、ティアナは過去の自分に対して舌打ちした。
 自分自身の醜態とは、思い返すとこんなにも苛立つものなのか?
 ダンテが知らずナーバスになっている自分を気遣っているのだと、今の自分ならよく分かるというのに。
 しかし、ティアナの記憶どおり、あの日のダンテはそんな自分の焦りを全部理解しているように穏やかだった。

「やれやれ、自分が背負い込んだもののことなると焦りが前に出るのはお前の悪いクセだぜ」
「別に、焦ってなんかないわ」
「そうかい? なら、クールにな。人生には余裕が必要だ」
「余裕なんて……」
「楽しめってことさ、人生をな」

 そう言って笑う彼は、一体何度愚かな一歩を踏み込もうとした自分を押し留めてくれただろうか。
 兄の死と、その魂に受けた屈辱を胸に刻んでから幾度も焦りは襲ってきた。
 この胸に抱いた誓いを果たす為に必要なものはたくさんあるのに、凡人の自分ではどれも遠く手が届かない。
 少しずつ積み重ねてきて、だけど不安はいつも燻っていて―――それが爆発しそうになった時、新しい考え方を教えてくれたのはいつもダンテだった。
 一人で学んでいたらきっと知らなかった大切なことを、彼は自分に教えてくれていた。
 
「ティア、お前今日が自分の誕生日だって覚えてるか?」
「え……あっ!?」
「やっぱり忘れてたな。それが余裕が無いって言うんだよ」

 ダンテが呆れたように肩を竦める。
 あの時は驚いた。確かに自分の誕生日さえ忘れるほど日々に余裕の無い自分に代わって、そういうのには無頓着そうな彼が言い出したのだ。
 過去の自分が困惑する様が、その心情も交えてよく理解出来る。

「で、でも……ダンテにあたしの誕生日なんて教えてないし……」
「戸籍関係の書類を管理してるレナードが偶然話振らなかったら、俺も今日の今日まで知らなかったぜ。お前な、スリーサイズじゃないんだからそれくらい教えろよ」
「でも、教えたところで誕生日パーティー開いてくれるようなガラじゃないでしょ?」
「確かに、ガラじゃないな。だが、無視するほど他人でもないだろ? 俺とお前は」
「あ……ぅ。ごめん……」

 ダンテはストレートな好意の表現を嫌っていた。自分と同じで、恥ずかしいのだ。
 だがそれでも、親しい人間への配慮を怠るようなことはしなかった。
 彼も、子供の頃に家族を亡くしている。
 だから気持ちはなんとなく分かる。
 だから、彼が自分に親愛を向けてくれる時はいつも恥ずかしさと胸に迫る熱い感情で苦しくなるのだ。今の目の前の自分のように。

「まったく、本当にギリギリ今日知ったばかりだからな、プレゼントの一つも用意してないぜ?」
「……いいわよ、リボンつけた箱片手に来られた方がビックリするわ」
「確かに、そいつも俺のガラじゃないな」

 そう言って笑い合う二人に、今度こそわだかまりはない。
 試験を前にした焦りも消えていた。

「ねえ、ところでさっきから気になってたんだけど、その瓶は何?」
「これか? さすがに手ぶらで来るのもなんだったからな、レナードからくすねて来た。それなりの高級品らしぜ」

 笑いながらダンテはワインのコルクを抉じ開けた。
 それから、コートの裏から魔法のようにコップを取り出し、そこへ中身を注ぐ。

「飲むか、ティア。ケーキじゃないが、お前特別甘い物が好きってわけでもなかったろ?」
「未成年者……って言っても、聞かないわよね?」
「背伸びしたがるお嬢さんに大人の味を、さ。体も少しは暖まる」

 差し出された安物だが頑丈で無骨なコップを、宝物のようにそっと受け取った。
 琥珀のように美しい中身とそれが放つ芳醇な香り―――だが、それよりもずっと素晴らしくて暖かいものが手の中に在るような気がした。

「乾杯は、何にするの?」
「ティアナ=ランスターの誕生に」
「むず痒いからやめて」
「なら、試験の合格に……栄えある執務官への第一歩に」
「それならいいわ」

 瓶とコップが小さくぶつかる音が聞こえる。
 これは夢だ。でも、そんな小さな音まで鮮明に覚えている。
 あの時二人で飲んだ、ほろ苦い味と喉を通っていった冷たい熱の感触も―――。

 

 そして数ヵ月後、独学というハンデを乗り越え、自分は訓練校の試験に問題なく合格した。

 

 


 背負ったものは今も変わっていない。その重みも。
 だけど進んできた道、刻んできた時間の中、今の自分となるまでの間で手にしたものは幾つもあって―――。
 自分は確かに、成長している。
 その実感もある。
 だが―――。


 あの時、自分を鍛えることに苦痛などなかった。
 あの時、誓いを果たすことに焦りなどなかった。

 ―――今は、どうなのだろうか?

 

 

 

魔法少女リリカルなのはStylish
 第十一話『Omen』

 

 

 

「おはようございます、ボス。頼まれたもの買って来ま……うわ」

 我らが機動六課の偉大なる部隊長のオフィスへと足を踏み入れたグリフィスは目の前の光景に驚愕した。
 むしろ呆気に取られたといった方が正しいかもしれない。一言で表すならまさに『うわ』であった。

「ん~、おはよーさん。ちょぉ、見苦しいけど堪忍してなー」

 死人が出せる声があるとしたらきっとそれだろう覇気の無いはやての返事が返ってくる。
 はやてはリクライニングチェアーに深々と背を預け、白タイツに包まれた美脚をデスクに乗せて惜しげもなく晒していた。
 スーツは上着を脱ぎ捨て、シャツの胸元を僅かに開いている。
 半分瞼の下りた眼でグリフィスを流し見る仕草も相まって、それは饒舌し難い色気のある姿―――。
 ただ一つ、その眼が完全に死んでいるということを除いて。

「ひょっとして、寝てないんですか?」
「あー、分かる?」
「すごい隈です。っていうか、むしろ濁ってます」

 その原因がただの寝不足だけなく、眼を酷使したせいであるとグリフィスは察することが出来た。
 デスクに幾つも表示されたディスプレイと、そこに羅列される文字の山がその証拠だ。

「ちょっと調べ物しててなぁ」

 手元の情報記録用ボードをデスクに投げ出し、デカイ欠伸をしながら足をボリボリと掻く。
 世界の美術品をタワシで磨くかの如き蛮行。色気など欠片も存在しない。
 今のはやては女としても死んでいた。

「……お願いしますから、他の職員の前でそういうことするのやめてくださいね」

 グリフィスは割と切実にお願いした。
 出来れば自分の前でもやめてもらいたい。幻滅とかイメージ崩壊とか以前に、何か本気で泣きたくなるから。
 彼があまりに悲壮な表情をしていたからか、はやては眼を擦りながら足を下ろして苦笑した。

「いやー、ごめんごめん。グリフィス君にはちょぉ刺激的な格好やったね」
「別の意味で、ですね。
 部隊長が過労で倒れたら洒落になりませんよ。無理しないで下さい。資料が必要なら、言ってくだされば整理して提出します」
「うん、でもこればかりは具体的に命令できんことやからな」

 椅子から立ち、グッと背伸びをしてポキポキ骨を鳴らしながらはやてが言った。
 グリフィスはデスクの方へ回り込み、表示されているディスプレイの文章に視線を落とす。

「……これは、例の襲撃事件のファイルですか?」

 複数の画面に表示されていたものは、数年前から発生し始め、奇妙な関連性から<謎の襲撃事件>として一纏めにされている事件の報告書や情報だった。
 管理局内でも不穏な噂となり、そして機動六課にとってはもはや他人事ではない。
 先日のリニアレールの暴走事故で遭遇したアンノウンとその戦闘―――これらも謎の襲撃事件と関連付けられたのだった。

「やはり、襲撃者に共通点が?」
「車両を乗っ取った蟲の方は初めて確認されたタイプみたいやけどね、上空に出現した<死神>の方は複数の目撃例があるみたいや」
「目撃例って……ひょっとして、これまでの事件のファイル全部に眼を通そうとしてたんですか!?」
「流し読みやけどなー。約7年分やけど、遡るほど事件の頻度は下がっとるし……」
「だから! 無意味な無理はやめて下さい、そんなこと個人でやるものじゃないですよ! 命令してくれれば……!」
「それが、そうもいかんのよ」

 はやては言葉を交わしながらオフィス備え付けの洗面所に向かい、蛇口を捻った。
 冷水を叩きつけるようにして顔を洗えば、朦朧としていた意識も多少戻ってくる。

「……私らも体験した襲撃事件。感想はどうや?」
「感想、とは?」
「現実感が無い―――そうは思わんか?」

 タオルで顔を拭いた後、再び交えたはやての視線は鋭く、そこには時折グリフィスを緊張させる上司としての迫力が混じっていた。

「六課の全員が襲撃の状況をリアルタイムで把握しとるし、細部は無理でもシャマルの観測魔法が捉えた記録は残っとる。交戦したフォワードの報告もある」
「……はい」
「記録も記憶もある―――なのに物的な形跡だけが何も残っていない。それがこの事件全体を虚ろにしてる原因やと、私は思う」

 グリフィスは、内心の懸念を指摘されたような気分だった。
 事件の現場となった車両内に残っていたのは破壊の跡のみ。
 敵の痕跡は肉片や血痕一つ無く、あの時シャマルによって直接モニターされていなければ、司令室の人間は全員が疑っていただろう。
 ―――本当に敵は存在し、襲って来たのか?
 はっきりとその姿を確認した後でも確信を保っていられない。
 怪物。悪魔。そんな比喩しか当て嵌まらないような常識を超えた存在との遭遇はあまりに非現実的だった。
 あの時感じた恐怖は確かに覚えているのに、それが夜中に背後で感じた気配や誰もいない暗闇の中に潜む者を幻視した時のように、錯覚だと自分を納得させてしまいそうになる。
 得体の知れない恐怖を、『在り得ないものなのだ』と自分に思い込ませる。

「陳腐な話やと思わんか? まるで心霊事件や。
 今回の事件を含む全ての襲撃事件を調べてて感じた共通点やが、どれもこれも未解決で、中では被害者も出てるのにその事件性すら疑っとるものもある。
 『何も分からない』という共通点―――いや、誰も分かろうとせん。状況報告や映像記録だけで、読んでる私にも具体的なイメージや現実感が全く感じられへんのや」
「具体的な命令が出来ないというのは、そういうことでしたか」
「怪しいと言えば、どの事件も怪しい内容ばっかりなんやけどなぁ……。
 霞を掴むみたいに、どれもこれも要領を得ん。直接目を通せば現場の直感で何か閃くと思うたけど、駄目、さっぱり。答えどころか問題さえハッキリせんクイズや」

 事務処理だけの局員には無い、実戦や事件を体験した者だけが持つ勘の働きを期待したはやてだったが、夜通しの努力も無駄に終わったらしかった。
 再び椅子に腰を下ろし、もう一度大あくびをするはやてを労うように、グリフィスは手に持っていた栄養ドリンクを差し出した。
 はやてに頼まれた物で、彼女の地元世界ならば『ユン○ル』とか『リポ○タン』に相当する市販のドリンクだ。

「レリックとは別に、今回の襲撃事件の報告は全て上に回しているはずですが。痕跡が無いとはいえ、数年も続いている事件ですし」
「ん……んぐっ。一応、担当してる執務官がいるみたいやけどな、成果は見ての通り上がっとらん。
 今回の事件も、記録を見る限り一番大規模なものみたいやけど得られた情報はやっぱりどれも不十分や。進展は期待できそうにないなぁ……げふ」
「事態は思った以上に深刻なのかもしれませんね。ゲップしないでください」
「このドリンク、ウマー」

 栄養ドリンクを美味そうに飲み干すはやてに、もはや彼女の女としての醜態に慣れたグリフィスが冷静に突っ込んだ。

「まあ、何にせよ私らの手が伸ばせる範囲はここまでや。<悪魔>の正体を探るのは機動六課のお仕事やあらへん」
「そうですね。とりあえず、今回は無事に乗り切れた事です」
「次があった場合、無事に乗り切れる確信はないけどな」

 そう言って笑うはやての表情は、自分自身を戒めるような厳しさを含んでいた。
 思わず、グリフィスは口を噤む。

「何も改善出来とらん。結局、次があっても現場の人間が対処するしかないわけや。……上の無能やな」

 それが、顔も知らない事件担当の執務官に対するものではなく、部隊長である自分自身に向けている嘲りであることは明白だった。

「<ここ>が今の私の戦場やというのに、何の戦果も上げられんわけや」
「……実戦のように、結果がすぐに出る戦いではありませんよ」
「それまでは、この焦りと無力感とも戦わなあかん。上司いうんは、キツイもんやな……」

 実戦で、無力の代償は分かりやすく現れる。敗北や痛み。だが、上司の無力は何の罪も無い部下達に降りかかる。
 八神はやてにとって自分を犠牲にすることは単なる苦しみでしかないが、他人の犠牲を背負うことは耐え難い罪悪感を伴うものだった。
 はやてには、すでに背負った罪がある。
 この仕事を選んだ理由に、それを償うことが含まれているのは否定出来ない。
 自ら戦火に飛び込み、戦えばどれだけ楽だろう。
 痛みは罪悪感を紛らせてくれる。傷は償いを証明してくれる。
 人の上に立ち、誰かに命ずる度に後ろめたさが、その結果に犠牲が出れば耐え難い後悔が襲ってくるのだ。

「―――でも、これも自分で選んだ戦い方か。ごめんな、グリフィス君。愚痴ってしもうて」
「いえ。貴女の負担を軽くすることが、自分の任務です」
「あ、それカッコええ台詞やな。女やったらコロッといってしまうで」
「本心ですよ?」
「わかっとるよ。だから、グリフィス君はいい男や」

 控え目に笑い合うはやてとグリフィスと間には、先ほどとは違い穏やかな空気が漂っている。
 男女を越えた奇妙な信頼関係が二人にはあった。

「さあて、ひとっ風呂浴びてスッキリしてこうかな!」

 胸に燻っていたネガティブな思考と、頭に残る懸念を振り払うようにはやては立ち上がる。

「今日は外回りがありますからね。陸上警備隊のナカジマ三佐との会合の予定です」
「ああ、あの人気前いいからなぁ。上手くすれば、お昼ゴチになれるな!」
「六課設立でもいろいろお世話になってるんですから、くれぐれも浅ましい真似はしないでくださいね」
「何言うとんねん。いい女は男に貢がせるもんやで?」
「分かりましたから、せめてちゃんとした格好していってくださいよ」
「訂正。グリフィス君は『いいお母さん』やね」

 全く悪びれずに、未だ開いたままだったシャツの胸元を閉める。
 指摘したグリフィスの方が頬を赤らめていた。どれだけズボラでもはやては若い女性、しかも美しい。
 気まずげに視線を彷徨わせていたグリフィスは、デスクに表示されていたままだったモニターをもう一度見る。
 改めて事件のファイルを眺め、グリフィスは一つのことに気付いた。

「この事件、首謀者が……」
「ん? ―――ああ、それな。決定的な共通点でもないけど、目に付いたからな」

 謎の襲撃事件―――それらは大半、管理局の部隊が何らかの事件の捜査や戦闘中に遭遇するケースものだった。
 そしてモニターに表示されていた事件は、いずれも容疑者や確定した首謀者が共通するものだった。
 もちろん、それらは全ての襲撃事件の中の一部分に過ぎず、襲撃事件との関連性は全く証明できない。
 しかし、共通点であることに間違いはなく、何よりもそれらの条件を抜きにしても目に付く大物の犯罪者だった。


「<ジェイル=スカリエッティ>―――ロストロギア関連を含む数多くの事件で広域指名手配されている次元犯罪者や」


 後日、機動六課の初任務となった事件にもその人物が関わっていることを、はやてはフェイトから知らされる。
 その時彼女は、確証も無く、ただ運命的な予感を感じずにはいられなかった。
 数年の歳月をかけて時空管理局を静かに蝕んでいた謎の襲撃事件―――。
 その渦中に機動六課が巻き込まれていくことを、この時は誰もが予想すらしていなかったのだった。

 

 


「はーい! じゃあ、夜の訓練オシマイ!」

 教導官の言葉と共に、半日以上続いた訓練はようやく終了した。
 すでに日は完全に落ちている。
 なのはの終了宣言で許しを得たスバル達はへたり込む。訓練漬けの日々が続いているが、その日の終わりには皆例外なく体力を使い果たしていた。
 ティアナも自分がリーダー役でなければ腰を降ろしたい気分だった。
 しかし、堪える。人を動かす立場にある者が下の者に弱みを見せるべきではない。そう信じていた。

「疲れてるだろうが風呂には絶対入れ。しっかり疲れを取って、明日に備えろ。熟睡するのも訓練だと思えよ」

 個別教導に入ってから訓練に合流するようになったヴィータの言葉に全員が若干覇気の抜けた返事をする。
 口調こそ厳しいが、ヴィータの忠告には新人達を案じる気持ちが多分に含まれていた。

「それじゃあ、今日は解散。―――あ、ティアナはちょっと残ってね」
「え……?」
「ティア?」
「ティアナさん?」

 いつも通り自室へ帰ろうとしたスバル達三人は、その言葉に思わず緊張を走らせた。
 なのはの声は怒気など含んでいない気軽なものだったが、訓練の後に一人居残らせることに根拠の無い不安を感じる。
 個別教導に移って以来、訓練の最中で他の仲間の様子が分からなくなることはどうしてもある。
 知らない所で、ティアナが何か失敗をしてしまったのだろうか?
 全員がそんな嫌な予感を漠然と感じていた。特に、相棒のスバルの心配は殊更強い。

「―――分かりました。皆、先行ってて」

 しかし、当人だけは普段通り、憎らしいくらい冷静に頷くだけだった。
 最初の出撃以来、ティアナの様子が少しおかしいという懸念を頭の片隅に残しているスバルが、縋るように手を掴む。

「ティア、大丈夫?」
「何が?」
「だってさ……」
「いや、なんでそんなに不安そうなのよ? あたしが怒られるのは決定なわけ?」

 心底不思議で、むしろスバルの勝手な思い込みに不機嫌な表情を浮かべるティアナの言葉に、なのはの方が苦笑を浮かべた。

「そんなに深刻は話じゃないよ。ティアナにちょっと意見を聞きたかっただけだから」
「だそうよ。っていうか、エリオもキャロも釣られて不安そうな顔するんじゃない」
「ご、ごめんなさい!」
「すみません……」

 恐縮するキャロとエリオの背を押し、まだ不安そうな顔をするスバルを連れて行くように促すと、ようやくティアナはなのはに向かい合うことが出来た。
 三人の姿が遠のき、傍らのヴィータが黙っていることを確認して、なのはが口を開く。

「―――ティアナは、今回残された理由が分かってるかな?」
「はい」

 責める口調ではない。ただ純粋に尋ねるなのはに対して、ティアナは淀みなく答えた。

「今回の訓練の主旨に背いていたからです」
「今回、メインに行った訓練の主旨は?」
「足を止めての精密射撃による迎撃と制圧です。敵の攻撃に対して回避を控え、予測と先攻によって無駄の無い反撃を行うことです」
「うん、正解。完璧だね」

 なのはは生徒の解答を褒めるように満面の笑みで頷き、その朗らかな雰囲気を保ったまま尋ねた。

「それじゃあ、そこまで理解しながら訓練の主旨を実行しなかった理由は?」
「意味が無いからです」
「おいっ!」

 簡潔なティアナの返答に、なのはよりもヴィータの方が怒りを露わにした。
 表情にこそ表れていないが、ティアナの上官に対する応答は不遜そのものだ。オブラートに包まない率直なティアナの言動が完全にマイナスに出ていた。
 しかし、身を乗り出すヴィータを優しげな表情のままのなのはが制する。

「その結論に至った理由、聞かせてもらえる?」

 普段通りの敬意を失っていないティアナの真剣な眼差しと、苛立ちや怒りなど欠片も見えないなのはの穏やかな視線。
 傍で見ているヴィータには、二人の心境がいずれも全く分からなかった。

「高町教導官の想定する訓練の主旨と、自分の戦闘スタイルが異なっていたからです。
 自分は射撃型の魔導師ですが、立ち位置を固めての精密射撃型ではありません。移動、回避を行いながら射撃を行うスキルを持った変則的な機動射撃型です」

 客観的に自身の能力を解析したティアナの言葉は普段以上に公私の壁を感じさせる。
 もちろん、管理局員として必要な分別ではあるが、なのははそこに拒絶にも近い強さを感じずにはいられなかった。

「静止状態での射撃能力の向上は理解できますが、この場合運動性を殺すデメリットの方が大きいと判断しました。
 自分は、動いて撃つタイプです。それが長所であると理解しています。よって、今回の訓練には意味を感じられません」
「……うん、なるほど。いいね、自分の戦い方を正確に把握してる。凄いことだよ」

 はっきりと断言するティアナの強硬な姿勢に、しかしなのはは反発することもなくあっさりと受け入れた。

「でも、どんな訓練にだって意味はあるんだから、今度からはしっかり従ってね。試しにやってみて損は無いと思うよ?」
「……」
「それじゃあ、わたしからの話はここまで。もう行って良いよ。ゆっくり休んで、明日も頑張ろうね」
「…………高町教導官」

 初めて、ティアナの声に感情が滲み出た。
 それは苛立ちだった。
 自分の態度に叱りもせず、ニコニコと笑顔のまま話を終わらせようとするなのはに、ティアナはその時初めて苛立ちと不満を感じていた。

「それだけ、ですか?」

 なのはの考えがティアナには理解できなかった。
 傍らでこちらを睨んでいるヴィータの方が、よほど分かりやすい。
 教導に逆らっているのだから、叱られても仕方ないと思っていた。
 自分の戦闘スタイルを正確に理解して、それでもなおこの訓練を行うのなら、その理由を教えて欲しかった。
 新人の身で生意気にも意見する自分に怒りを感じ、訓練で叩いて欲しかった。
 しかし、なのはの返した反応はあまりにも緩い。

「あたしの戦い方を理解しているなら、訓練を改善してください」
「うん、長所は伸ばしていこうと思ってるよ。でも、とりあえず今は回り道してみよう?」
「意味が、分かりません……っ」
「説明すれば頭では理解できるかもしれないけど、心はなかなか変えられないからね。今は黙って従ってみて」
「理由を説明してください!」

 暖簾に腕押しななのはの態度に、ティアナはとうとう声を荒げていた。
 苛立ちは募っているが、頭は回っている。自分は冷静だ。
 なのに、自分の理屈に理屈で答えてくれない。こんなの無駄だ。無駄は嫌いだ。嫌いだ。

「―――ティアナ、焦ってるから」

 冷水を頭からかぶせるような言葉を、なのはは告げていた。

「……何、を」
「ティアナは今、焦ってる。何故かは分からないけど、強くなることに急いでる」
「……先日の出撃で痛感したからです。いつ実戦に参加するか分かりません。強くなることを急ぐのはいけないことですか?」
「ううん、貪欲になることはいいことだよ。でも、強くなることは自分を追い詰めることじゃないと思うから」
「分かりません」

 ティアナにはなのはの言っていることが本当に理解出来なかった。
 彼女の言っていることに矛盾さえ感じていた。
 力を求めること。強くなること。複雑なことなどない、シンプルな欲求だ。
 そこに疑問を挟む余地など無いはずだった。
 故に、ティアナにはなのはの言葉の意味が理解出来ない。

「分かり、ません……」

 いつの間にか苛立ちは消え、奇妙な虚しさが胸を支配していた。
 なのはに対するわずかな失望感もそれに含まれている。

「うん、だから結果でティアナに教えてあげる。今は、わたしを信じて」
「……はい」

 その返答が、納得や理解などではなく、諦めによるものだと半ば理解していたが、なのはがそれ以上言及することはなかった。
 言葉だけで全てを伝えることは難しい。
 また余計な懸念をティアナが感じないよう、表情にこそ出さなかったが、なのはの心は歯痒さで満ちていた。

「それじゃあ、また明日。訓練で」
「はい」
「ティアナ。信じてね、わたしを」
「……はい」

 心なし、肩を落としたティアナの背を見送りながら、なのはは自分の拳を知らず握り締めていた。
 彼女が自分を信じているかどうか―――そんなこと、これまでの付き合いで分かっていることなのに。
 どうすれば分かってもらえるのか。どうすれば心を通わせることが出来るのか。いや、そもそも自分はいつからこうして考えながら人と付き合うようになったのか。
 子供の頃、他人を向き合う時はいつも心でぶつかっていた。
 アリサやフェイト、それにヴィータ。最初は壁のあった人達と、いつだってぶつかり合うことで分かり合ってきた。
 そこに迷いなど無く、恐れなど無く―――ただ信じていた。
 なのに今は、ティアナに対して正しいとか間違ってるとか、自分の判断を選んで迷っている。
 それが大人になった証で、短絡的だった自分の成長で、そして失くしてしまった子供の頃の力だった。 
 人は変わらずにはいられない。根本はそのままでも、それらを囲う世界や心は変化していく。
 あの激動の子供時代から10年、なのはは自分の重ねた歳月を噛み締めていた。

「……のは。おい、なのは!」
「え!? な……何、ヴィータちゃん?」

 思考に没頭していたなのはは、ヴィータの怒鳴り声にようやく我に返った。
 すでにティアナの姿が見えなくなった方向へ彷徨わせていた視線を、傍らの彼女へ移す。

「ボーっとしてんじゃねーよ。気にしてんのか? ティアナの言ったこと」
「ああ、うん。もっと上手く説明してあげればよかったかな、って」
「何言ってんだ、あんなクソ生意気な口利かれたんだから一発かましてやれよ。っつか、もっと厳しくいってもいいと思うぞ」

 感情的なヴィータの物言いに、なのはは苦笑した。
 ティアナの言い分が正しいことはヴィータも理解している。ただ、それを抜きにして態度に純粋な怒りを感じていた。
 ヴィータの考え方はいつだってシンプルだ。
 思慮が浅いわけではなく、ただ自分の感じたことを隠そうとしない。
 その率直さが欠点であり、同時に余りあるくらいの美点であることをなのは知っている。

「……ヴィータちゃんがティアナを教えた方がいいのかも」
「おいおい、オメー何弱気になってんだ? しっかりしろよ」

 冗談とも取れないなのはの発言に、ヴィータが本気で顔を顰める。

「らしくねーぞ。まさか、本当にティアナのこと持て余してんのか?」
「ううん、ティアナのことはよく分かってるよ。
 ティアナは確かに戦闘力は高いけど、自分でも言ってる通り『動く戦い方』だからね、どうしても周りへの視野が狭くなってるんだ。
 あの娘は自分で戦って勝つことを第一に考えてる。フォワードとしては間違った考えじゃないんだけど、指示を出す現場リーダーとしては、一歩下がった視点も持って欲しい」
「だったら、今言った内容そのまま話してやれよ。アイツ、頭いいから理解できると思うぜ?」

 ヴィータは断言する。ティアナへの苛立ちを露わにしながらも、彼女を認めていることは確かだった。
 しかし、なのはは首を振った。

「さっきも言った通り、ティアナは自分で戦うやり方に納得してる。それが今の強さに繋がってるんだ。
 説明をしても理解するのは頭だけ、あくまで『わたしが頼んだやり方』として受け入れるだけだよ。きっと、戦う上での優先順位は下のままだ」

 今回の訓練データを整理する片手間で、独白するようになのはは自分の考えを吐露した。

「今のままじゃ、ティアナは自分から突っ込んでいく戦い方をやめられない」
「昔のなのはみてぇに、か……」
「わたしと違う点は、ティアナはその無茶がもたらす結果を分かってるってことかな。それを納得した上で、やめない」
「性質わりーな。頭の良さが裏目に出てやがる」
「ティアナが命を賭けることを、その覚悟を、止める方法は思いつかない……。ただ、気付くのを待つしかないよ」

 ―――生きることは、一人で始まり、一人で終わるものではないということを。
 自分の命を蔑ろにすることが、どれほど親しい者達に悲しみを与えるのかを。
 理解して欲しい。強制は出来ないが、強く願う。
 ティアナを想う人間の一人として、自分も含めて。

「……正直、迷ってもいるんだ。
 ティアナは強くなりたい。究極的に、あの娘が求めるものはそれだけなんだから、別におかしなことじゃないかなって」
「鍛えるだけが、教導官じゃねえだろ。正しく導いてやるのが仕事だ」
「でも、ティアナはわたしが思うよりずっと冷静だし、頭が良いよ。間違ってるのは、わたしなのかも」
「……」
「ティアナに会って、自分の未熟さを改めて実感したよ。わたしは、自分に好意を持たれた関係に、慣れすぎてたんだね」
「なのは……」
「難しい、ね」

 悲しげに笑うなのはの顔を、ヴィータは久しぶりに見た。
 エース・オブ・エースと讃えられ、エリートと持ち上げられる少女が、強者の仮面を外して自分に見せることを許した弱みがこれだ。
 それを僅かに嬉しく思い、気の利いた言葉も掛けてやれない情けなさを強く思う。

(スバル、エリオ、キャロ……それにティアナ。お前ら、自分がどれだけ幸せか、早く分かれよ)

 夜空の下、ヴィータは切に願った。

(自分達が好き勝手に戦っている時にも、なのはに守られてるっていう幸せを―――)

 それぞれに戦う理由があると思う。たった一つの命、賭ける時はそれぞれの自由だ。
 その上で、行く末を案じることは押し着せがましいのかもしれない。
 でも、理解して欲しい。
 家族でも友人でもなく、赤の他人として出会い、部下として扱う者を相手に、心底親身になろうとするこのお人好しの想いを。
 ただそれだけは、汚れない本気の想いを―――。

(迷わず進めよ、なのは。お前のことは、あたしが守ってやる)

 いつの間にか見上げるようになった、それでも芯はきっと変わっていない背中を見つめ、鉄槌の騎士は自らの尊い誓いをたった一人の少女へ捧げた。

 

 


 その日の夜、ティアナは寝付くことが出来なかった。
 なのはの言葉が、いつまでも頭に残って離れない。
 かつて、強くなることに苦痛は無く、焦りは無く―――でも今は?

「……スバル、起きてる?」
「うん、何?」

 囁くような小声だったが、二段ベッドの上からはすぐに返事が返ってきた。
 暗くなった部屋の闇にも目が慣れ始めるくらいの時間は経っていた。
 普段のスバルならとっくに爆睡している時間だ。寝惚けた声でもない。
 ティアナは少しだけ驚いていた。

「あのさ、あたし……変かな?」

 普段なら、きっとこんな弱みは見せない。こんな縋るような声は出さない。
 だから、やはり今の自分は変なのだと、ティアナは奇妙な実感をしていた。

「あたし、焦ってるかな……?」

 ティアナの漠然とした問いに、スバルはしばらく沈黙を保っていた。
 その沈黙の間に、途端に後悔と恥ずかしさが込み上げてくる。普段あれだけ偉そうなことを言っている自分が、一体何を弱気になってるんだ?
 少なくとも、このヘッポコな相棒に見せるべき弱さではなかった。
 ティアナはスバルが何かを答える前に慌てて前言撤回しようと口を開き―――。

「うん、最近のティアはちょっと変かな」

 はっきりと告げられたスバルの言葉に、思わず口を噤んだ。

「ティアが<悪魔>って呼んでた敵。アイツらと戦ってる時から、何かおかしいって感じてたよ。
 焦ってる、とかは気付かなかったけど、様子がおかしいのは思ってた。何に焦ってるのかは分からないけど、でも……アイツらが原因なんだよね?」
「……まあね」
「聞かないよ。なんか、教えてくれないと思うし」
「…………そうね」

 ティアナがそう答えてから、少しだけ間が空いた。
 予想していたとはいえ、ティアナの返答に少しだけショックを受けたのか。それとも。
 スバルが何を考えているかは分からない。

「……わたしよりずっと頭が良いティアの悩みなんて、きっとわたしには解決できない」

 普段と比べて驚くほど感情の抜けた、静かな声だった。

「だから、待ってる」

 何を?
 尋ねる代わりに、ティアナは視線だけを上に向けた。

「ティアが心配してること。それが上手くいっても、失敗しても、全部終わるまで、わたしは待ってるから」
「……スバル」
「何か間違って、失敗しても、いいじゃん。全部終わったらさ、あとはもう一回始めるだけなんだから。やり直せるよ、幾らでも」

 ティアナは疑問に思わずにはいられなかった。
 いつもあれだけガキっぽい奴なのに、なんでこんなに泣きそうなくらい穏やかで優しい声を出すんだろう?

「わたしがいっぱい失敗した時、いつもティアが助けてくれたからさ。だから、一度くらいわたしの方が助ける」
「……」
「ティアは、迷わず進めばいいよ。わたしが支える。二人でなら、大丈夫」
「……うん、ありがとう」
「いえいえ」

 ティアナはかろうじて声を絞り出すことが出来た。
 スバルの気遣いに、胸から込み上げてくる熱い感情が頭まで昇って溢れそうだった。
 それが眼から涙になって流れそうになるのを必死に堪える。代わりに、口元に浮かぶ笑みは消せない。
 スバルには見えないのにそれが恥ずかしくて、枕に顔を埋めた。


 かつて、強くなることに苦痛は無く、焦りは無く―――今は?
 大丈夫。
 二人なら、きっと大丈夫。

 

 


 その夜。
 街灯と走り抜ける車のヘッドライトが照らす街の暗闇を、歩く影が二つ。
 ―――いや、三つ。
 いずれもフードの付いた外套を深く被り、この夜の闇の中へ更に紛れて人目を避けるよう密やかに歩く。
 人のあまり出歩かない深夜。道路を駆け抜けてく車のドライバー達も、三つの影とすれ違い、そして誰も気付かない。
 気付いた傍から、頭に留めず、忘れていく。
 在り得ないはずのものを、錯覚だと思い込むことが普通であるように。

 死人が歩くことなど在り得ない。
 親を失った子供など忘れてしまう。
 そして、<悪魔>の存在など信じない。

 大柄な<男>一人。
 幼い<少女>一人。
 美しい<女>一人。
 影が三つ、夜の街を彷徨うように歩き、消える。

 三人の歩みが、一つの事態の前兆であることは確かだった。

 

 

 



 クラシックな屋敷の片隅に置くだけで結構なアンティークになる骨董品のジュークボックスからは、現役を主張するようにメランコリックな歌声が流れていた。
 それはこの<Devil May Cry>―――悪魔も泣き出す男ダンテの事務所に相応しくない静かな歌だった。

「女々しい歌だぜ……」

 お気に入りのデスクが崩壊してしまったので、中古品に買い換えたソファーで寝転がっているダンテもぼやかずにはいられない。
 <ドクター>の襲撃を受けて半壊した事務所の中で、奇跡的に息を吹き返したジュークボックスは、しかしアレ以降何故か静かで物悲しげな曲しか流れなくなったのだ。
 中のディスクを交換する機構がイカレたのか、どれだけいじっても似たような曲しか流れない。
 かくして、ロックをこよなく愛する悪魔狩人の住処は中高年が足げなく通うジャズバーのような穏やかさへと変貌してしまったのだった。

「クソッ、いい加減自殺しちまいそうな歌声だ。何言ってるかも分からねえ」
「死んだ恋人を惜しむ悲しい女の歌さ。知らねぇのか? 古いが、レア物の歌だぜ」

 唐突に返ってきた答えに、ダンテは顔にかぶせていた雑誌を除けた。
 玄関には見慣れたビア樽腹が立っている。

「あいにく<こっちの世界>の流行には疎くてね。ノックしろよ、レナード」
「ドアがあればな」

 ダァム、と悪態を吐くと、ダンテはもう一度雑誌を顔に被せて不貞寝を決め込もうと躍起になった。
 ここ一週間程、この店はいつになくオープンだ。そのままの意味で。
 爆風で吹き飛んだ全ての窓は、応急処置として透明なビニールで塞いであるが、両開きのドアがあった玄関だけは手のつけようがなかった。
 おまけに、ほとんど全滅した家具と板切れで塞いだ床の穴のせいで、さながら廃屋のような様相と化している。
 ジュークボックスとソファー、それに床に転がした電話だけが生活臭を放っていた。

「いつまでこのボロ屋に住むつもりだ?」
「オイ、俺の店をボロ屋扱いするんじゃねえ」
「『元』だな。あるいは『店の跡』だ。直す目処は立っちゃいないんだろ?」
「寝室とシャワーと電話を直したら金が底を着いたんだよ」
「その後で骨董品の修理代とコートのスペア買ってちゃあな、自業自得だ」
「うるせえ」

 バカにした笑みを隠そうともしないレナードの顔を、不愉快そうに本で遮り、ダンテは唸った。
 結局直らなかった上に、予想以上の料金が掛かったジュークボックスの音楽が憐れむように流れる。
 なんとも惨めな事態に陥ってしまったが、先立つものが無くてはどうしようもない。
 この状況を作り出した犯人に対する怒りを沸々と沸き立たせながら、同時に何とも虚しい気持ちになって、ダンテはここ数日電話が鳴るのをただ待つ時間を過ごしていた。

「そんな憐れな貧乏人に、このレナード様が金になる仕事を持って来てやったぜ。ケツにキスしな!」

 高揚を隠さず、嬉々として告げるレナードの言葉に、普段なら無視しているはずのダンテは渋々体を起こした。
 自他共に認める小悪党であるこの男が持ってくる仕事は、どれもこれも胡散臭いものばかりだ。
 大金をチラつかせて、割に合わないリスクを背負わせる。
 それがレナード自身の姦計であったり、本当に不運なトラブルであったりする点がどうにも救えない。早い話が金を持ってくる疫病神だ。
 しかし悲しいかな、今のダンテにとって必要なのはその金であり、真の危機はこの店が本格的に潰れることだった。

「……どんな依頼だ?」

 ダンテは不本意を分かりやすい形にした表情で尋ねた。
 いつになく素直なビジネスパートナーの態度に、いたく上機嫌でレナードは饒舌に答える。

「数日後にクラナガンのホテルで行われるオークションの警護さ」
「オイ、即日じゃないのかよ?」
「そこまで贅沢言うんじゃねえ。
 だがな、金持ちが集まって無駄金叩き合うオークションだ。払いもいいぜ、前金でも結構な額が貰える」
「もう貰ってるんだろ? 俺の取り分で玄関のドア、直しといてくれ」
「へへ、受けるんだな?」
「……詳しい内容を話せよ」
「そうこなくっちゃな!」

 ダンテの好みではない退屈そうな依頼だったが、背に腹は代えられない。
 差し出された依頼内容のコピーを、渋々受け取る。

「依頼主は―――<ウロボロス社>?」

 そこに書かれた見慣れない名前に、ダンテは僅かに眉を顰めた。
 会社ぐるみでの依頼とは、なんとも大げさな話になってきたものだ。

「オイオイ、その会社を知らねぇのか? ミッドチルダでも有数の企業だぜ」

 レナードは無教養な人間を嘆くように肩を竦めた。

「島一つ分の街を丸ごと支配しちまうような大企業だ。今回のオークション参加者でも一番の大物だな」
「料金を奮発してくれるのは嬉しいが、それ以外は興味ないぜ。それで、俺はその参加者のケツを守れば良いのか?」
「さすがにそいつは専属のボディガードがやるよ。お前さんは、少し離れた所で襲撃に備える」
「用心深いことだな」

 言いながらも、ダンテはシークレットサービスの真似事をやらずに済んでホッとしていた。
 金持ちの護衛など、一番苦手な仕事だ。
 もちろん、それが見た目麗しい令嬢の相手なら喜んでするのだが、あいにくと護衛対象の写真は男だった。

「最近、謎の襲撃事件も頻発して物騒だからな。
 オークションには時空管理局も護衛に来るらしいが、私的にガードを雇う金持ちも多いのさ」
「時空管理局だって?」

 一瞬、ダンテの脳裏に久しく連絡を取っていない妹分の顔が思い浮かんだ。
 しかし、すぐにその懸念を打ち消す。二人の仕事が重なる可能性などほとんど無い。
 ダンテはこの時、自らが持つ因縁の強さをまだ知りもしないのだった。

「仮にもお偉いさんの集まる場所へ行くんだ、そんな派手な格好してくんじゃねえぞ?
 特別に仕事着を用意してやるから、いつもの店へ来な。この部屋は仕事の話をするには向かねえ、俺の高級な鼻が腐っちまうわ」

もうすでに仕事を達成したかのような浮かれ具合で、レナードは笑いながら事務所を出て行った。
 過ぎ去った後にも快晴など無い嫌な嵐が過ぎると、ダンテは遠ざかっていく笑い声を見送ってため息を吐いた。
 まったく、世知辛い世の中だ。

「泣けるぜ」

 どんなに情けなくても、クールさだけは失くさない声で呟き、ダンテはもう一度依頼のメモに目を落とした。
 オークションに参加する護衛対象の情報が載っている。
 といっても、それは詳細な個人情報などではなく、新聞の切り抜きを付けた大雑把な物だったが。
 しかし、廃棄都市街の何でも屋程度には情報を気安く渡せない程に、その人物は会社でも高位の人間だった。
 大企業ウロボロス社のCEO(最高経営責任者)―――。

「名前は<アリウス>か……」

 死人のような顔色と野獣のような瞳を同居させた、異様な男だった。

 

 


to be continued…>

 

 


<ダンテの悪魔解説コーナー>

シン・サイズ(DMC1に登場)

 <罪>の名を持つこの悪魔は、やはり物質の媒介なしにはこの世に具現化できない低級な奴らだが、その半実体化した希薄さのせいで体への攻撃は擦り抜けちまう。
 それだけじゃなく、壁や床まで透過できるってのはちょいと厄介な特性だぜ。
 唯一実体化している大鎌は、魔力を集中することで攻防一体の強力な武器だ。
 動き自体は決して速い方じゃないが、近接攻撃に対する反応速度は相当なもので、対剣士の戦法を熟知した古強者ってワケだ。
 <死神>と称される見た目も相まって、歴史を感じさせるオーソドックスな悪魔の代表だな。
 しかし、古い物は良いなんて懐古主義じゃあ現代では生き残れないぜ。
 コイツらの媒介が<仮面>である以上、弱点なんて言うまでもないよな?
 時代遅れの<死神>には近代兵器で『時代の新しさ』ってヤツを味わってもらうとしようぜ。

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最終更新:2008年06月17日 21:04