夜のレールウェイは閑散としていた。
 くすんだ電灯。締め切った窓のせいで心なしか車内の空気も淀んでいる。
 都心の交通機関に比べれば、薄汚れた印象を受ける車内だが地方の列車にはよくあることだ。
 むしろ、新機種転換の予算が無く、長い間現役でい続けた古い車両には歴史と趣きすら感じる。
 走り始めた車両の中、僕は禁煙車両を探す。整然と並べられた座席は空きが目立つが、今の僕には一筋の煙さえもお断りしたい。
 目的の場所は程なく見つかった。
 自動ドアを開き、新たな車両へ足を踏み入れると、数人の乗客が確認できる。
 人が少ないのをいいことに車の玩具で遊ぶ子供と、その母親と思われる疲れた印象の中年女性。そして、人目も憚らず過度な肉体的接触を繰り返す―――まあ、要するにいちゃつくアベック。
 夜行列車らしく、人は少なく、騒音もそれほど無い。僕は此処に決めた。
 他の乗客と隣接せず、自分のプライベートスペースを確保出来る席を探し、僕は車両をゆっくりと練り歩いた。
 不意に、背中にドンッと何かがぶつかる衝撃を受けた。
 誰かに突き飛ばされたとかいう大きな衝撃ではない。もちろん、転倒するような大げさなものでもない。
 しかし、不意の出来事に僕は片手に下げていた駅弁の袋を落としてしまった。
 あまり良い気分ではない。
 一体何事かと、眉を顰めながら振り返ると、僕は視界を下に向けることになった。
 子供だ。あの玩具で遊んでいた子供が、僕の背後でその玩具を抱え、呆けたように僕を見上げている。
 どうやら、遊びに夢中で僕にぶつかってしまったらしい。
 さすがに、こんな子供に対して不機嫌を露わにするわけにはいかない。
 僕と子供はしばし見つめ合い、やがて子供の方が母親の元へ駆け足で去っていった。
 謝罪は無く、母親も疲れたように子供に対して叱るだけで僕の方を見ようともしない。
 不快感は無い。一般の親子など、こんなものだ。
 そう思うと同時に、改めて僕は親代わりとなっている少女の純粋善良さを認識した。あの子は良い子だ。
 弁当の包みを拾い上げ、僕は程なく奥の座席へ腰を降ろした。
 全体的に分析すれば、既存の乗客の配置は車両の前に偏っている。出入り口に遠すぎず、近すぎず。連結部分から入り込む隙間風も無い。窓から見える夜景は綺麗だ。
 腰を下ろし、一息つくとようやく落ち着くことが出来た。
 これで、もう誰にも邪魔はされない。



 僕の名前はユーノ=スクライア。
 時空管理局本局<無限書庫>の司書長を勤めている。
 結構なエリートと言えばエリートなのだが、実働部隊からの依頼で資料提出など、実質やっている事は雑用に近い。ただ、それが高度な技術と知識を要するだけだ。
 普段ならば無限書庫へ缶詰になることの多い仕事だが、僕の所属はそこだけではない。
 僕自身の部族が遺跡の発掘と研究を行っている為か、ミッドチルダ考古学士会などにも広く知られ、その道のプロとして鑑定などの仕事も依頼される。
 今回は、その類の依頼による出張で地方まで出ていたのだ。
 都心こそ発達しているが、広大なミッドチルダの地方にはやはり文明遅滞の波が影響している。いろいろと不便もある仕事だ。
 しかし、僕はこういった出張の仕事が意外と好きだった。
 どんな形であれ外に出られることは嬉しい。
 本は好きだが、その名のとおり無限の規模を誇る書庫での資料探索は一週間以上に及ぶ。そんな長い時間、半ば強制的に監禁されている状態は精神的にもキツイ。
 こういった仕事は、僕にとって貴重な息抜きだった。
 そして、そんな仕事の中で僕が最も楽しみにしているのが―――食事だ。
 前記の通り、僕は忙しい。睡眠時間すら削る仕事だ。
 しかし、そんな中にあって、この移動中の食事時間こそ何者にも邪魔されない安らぎを得ることが出来る。
 無限書庫内では、他人こそいないものの、時間という邪魔者に攻め立てられ、カロリーブロックなどの固形食物で栄養分だけを補う味気のないものになってしまう。
 だから、僕はこの移動中に食べる弁当が一番の楽しみであった。





―世にも奇妙なミッドチルダ―




 さあ、話を現実に戻そう。
 僕はまず、駅で購入した市販の弁当を袋から取り出した。
 量産が容易い紙質の素材で構成された箱。中身の詰まったそれは小柄ながらずっしりと重く、ほんのりと暖かい。
 備え付けのお茶は、控え目に飲んでも五口ほどで飲み干してしまう小さなものだが、駅弁を片付けるには適度な量だ。
 全体的にレトロなイメージを抱くのは、そういう懐古的なデザインを持ち味にしているからなのだろう。
 それは何処と無く、第97管理外世界の地方を連想させる。その世界に交流のある僕にとって感慨深いものだ。
 空いた袋は向かいの座席の角にぶら下げ、食後に出るゴミを収納する場所とした。マナーは守らなければならない。
 逸る気持ちを押さえ、続いて食事の足場を確保する。
 予約制の快速車両などならば折りたたみ式のテーブルなど常備されているものだが、一般車両、ましてや地方の旧式レールウェイにそんな設備は望むべくもない。
 しかし、問題などない。
 こういった場合の為に、僕は布の鞄ではなく平面で構成されたケースを愛用している。
 仕事道具や着替えの入ったスーツケースを膝の上に置き、即席のテーブルとした。安定性は申し分ない。
 下準備を済ませた僕は、弁当箱を手元に置き、紐を解いて、ゆっくりと蓋を持ち上げた。
 色鮮やかな中身が、僕の目の前に展開される。
 思わず笑みがこぼれた。
 食事の前にしか味わえない、ささやかな感動だ。
 では、中身を分析してみよう。
 定番の出し巻き卵と、かまぼこ。煮物はしいたけ、人参、かぼちゃ。キンピラゴボウ。ブロッコリーの天ぷら。漬物はしば漬け。そして、何とも嬉しい存在のうぐいす豆。
 ご飯には、黒ごまと梅干が乗っている。
 しかし、これらのおかずがどんなに賑やかでも、メインのおかずの盛り上げ役でしかない。
 そのメインとは―――レモン、千切りキャベツ、レタスの添えられた二つのフライである。
 それらは弁当の目玉であることを自ら主張するように、箱の中央で他のおかずに囲まれながら一際威厳を放っていた。
 ……だが、このフライの中身はなんだろう?
 フライは二つあるが、一方は形状で判別出来るほど特徴を備えていなかった。フライ物にはよくあることだ。
 考えられるのは―――カツ、または白身魚である。
 僕は迷わず<カツ>だと判断出来る。
 何故ならば<白身魚>なら、タルタルソースが付いているはずだからである。
 そしてもう一つのフライは、その形状から容易に察することが可能だ。
 円形で、同じく内側を丸くくり貫かれた特徴的な外見。輪の形をしたそれは、王冠にも似ている。そう思うのは僕だけだろうか?


 イカの、リング揚げ―――。


 僕の脳裏に、かけがえのない記憶が蘇った。
 事前に弁当の内容を知らない僕にとって、この事実は一つの奇跡との出会いだった。
 今日の食事は、素晴らしいものになりそうだ。
 そして、その為には食事の手順を僅かにも誤るわけにはいかない。







 食事のスタイルには二つの形式がある。僕はそれらを<ベルカ式>と<ミッドチルダ式>と名づけた。
 <ベルカ式>とは、メインのおかずに向かって一品ずつ片付けていく形式である。
 一つ一つのおかずの味と小細工抜きに向き合える為、食事をダイレクトに楽しむことが出来る。一対一ならば、負けは無い。
 しかし、全体的に見れば食事の進行をバランスよく進めて行くには厳しい形式だ。今はもう廃れてしまっている方法だと言えるだろう。
 一方<ミッドチルダ式>は、メインのおかずを中心にして進めていきながら、間に他のおかずを挟んでいく形式である。
 全てのおかずを均等に味わえる為、好物がある場合それを単独で味わうことは出来ないが、全体的なバランスの良さは抜群だ。

 しかし、僕が実践しようとしているのはどちらのスタイルでもない。
 僕、独自のスタイルとは―――。

 出し巻き卵を一口、しば漬けを一口、かまぼこを一口、と。一見<ミッドチルダ式>に見せかけながらも、メインのフライには一切手を付けずに進めていく。
 そして、フライ以外のおかずを食べ終えたら、<ベルカ式>に移り、一対一でメインのフライをじっくりと味わうというものだ。
 <ミッドチルダ式>の汎用性と、<ベルカ式>の瞬発力を兼ね備えた、言うなれば―――<近代ベルカ式>
 まずは、カツ。
 そしてラストは、イカのリング揚げで締め括る。

 そう、ラストは―――。



『ユーノ君、はいっ』



 イカの、リング揚げ……。

 トイレに行っていたらしく、乗客の男がやって来て席に座った。その音に僕は我に返る。
 しばし、感慨にふけってしまった。
 さあ、おかずの攻め方が決まったら、次はご飯の攻め方だ。
 ポイントは、おかずの塩分と脂肪分である。所要量が多いおかずほど、ご飯をたくさん必要とする。
 それを考慮し、それぞれのおかずに対するご飯の量を割り出していく。
 そうしておけば、ご飯とおかずのバランスが崩れる心配が無いのである。
 一見、その計算は実に簡単なものに思えるかもしれないが―――そういう油断をした者が失敗を犯す。
 市販の量産された弁当の味付けには、得てして意図せぬ落とし穴が存在する。特に、保存を目的とした弁当に濃い味付けは欠かせない。
 それが駅弁の持つ特有の旨味であり、同時に度を過ぎれば劇物となる危険性も秘めている。
 それらの危険性を配慮し忘れ、自ら落とし穴に落ちた時、楽しい食事は一転して後味の悪い結末を迎えるのだ。
 しかし、僕に限ってそんなミスは在り得ない。
 何故なら、僕はプロだからだ。
 僕は脳内で弁当の進行を入念にシミュレートし終えると、僕は封入されていた紙のおしぼりで手を拭き、食事の前の清めの儀式を行った。
 そしてようやく、僕の食事が開始する。
 備え付けの割り箸を手で挟み、合掌。

「いただきます」

 あ。
 ―――瞬間、車内に緊張が走り抜けた。
 少ない乗客の視線が僕に集中するのを感じる。突然の僕の発声に訝しげな様子の注目が集まっていた。
 つい、いつもの癖が出てしまった。
 だって、ご飯を食べる時は『いただきます』じゃないか? 食事に対する感謝を忘れてはいけないのだ。
 僅かな羞恥心は視線が離れていくと同時になくなっていた。
 気にする必要はない。食事に集中しよう。
 しかし、僕は自分でも意識せぬうちに動揺していたらしい。


「あ」

 ボキッと鈍い音がして、僕の手の中で割り箸が中途半端な割れ方をしていた。
 普段ならば、このような凡ミスは在り得ない。割り箸から意識を割くなど、実に初歩的な失敗だ。
 まさか、出鼻を挫かれるとは……。
 しかし、動揺する必要などない。何故なら、完璧なプランを立ててあるからである。
 不恰好になってしまった割り箸を持ち、まず第一手として出し巻き卵に箸を伸ばす。
 出し巻き卵のセオリーはほんのりと甘味を持った薄味だ。ここに奇抜さは在り得ない。
 一口サイズのそれを半分だけ齧り、静かに租借すれば口の中に程よい甘味と風味が広がった。予想通り、無難な味だ。
 半分になった卵を元に位置に戻し、次は漬物を選択する。
 これもまた多少の塩分過多はあっても、全ての弁当に共通して味は変わらない。特に、市販の弁当に用いられる漬物はやはり同じ市販品だ。
 僅かな緊張感を持ち、口の中へ運ぶ。
 ポリポリと心地良い歯応えと、塩味が口内を刺激する。出し巻きの甘味に相殺され、塩分は程よく舌に溶ける。
 これもまた無難。最初は無難な所から攻めるに限る。それは、食事も発掘も同じことだ。
 それでも口に残る後味を飲み流す為に、初めてご飯に手を付けた。
 事前に計算したサイズにご飯を切り分け、口腔に放り込めば、冷えたご飯粒が持つ特有のみずみずしさによって僕の喉は僅かに潤った。
 噛み締めれば適度な弾力が感じられる。うん、なかなか柔らかい。ご飯が乾燥しているような不運には見舞われなかった。
 冷や飯には熱々のご飯にはない魅力がある。
 蒸発した水分が蓋に付き、再びご飯へと返っていいようにふやけた冷や飯は粘着性を持ち、新しい食感を与えてくれるのだ。
 ごまの量も多すぎず少なすぎず、丁度いい。
 ご飯は弁当を食べ進めていく上で必要不可欠な素材である。これで僕は安定した足がかりを得たことを確信した。
 次のかまぼこも問題はなかった。見た目の柔らかさに比べて、意外と弾力がある歯応えは良い意味での誤算だ。
 これでおかずを三つ。それぞれ半分だけ口にした。

 ―――そろそろ、ちょっと冒険してみるとしようか。

 僕は煮物へ伸ばそうとした箸の進路を変更し、ブロッコリーの天ぷらを摘み上げた。
 この種類のおかずは初めて見る。
 無限書庫の司書長に就き、次元世界最大の知識の宝庫にいながら、自らの無知を自覚する瞬間だ。この世界は、まだまだ新鮮さに満ちている。
 全く予想のつかない代物を、僕は見た目で十分に吟味した後、一思いに丸ごと頬張った。
 うん、ほんのり塩味が効いている。
 衣に包まれたブロッコリーは珍しい食感を味わわせてくれた。僕としては、もう少し濃い味付けでもいいのだが。
 とりあえず、食事の進行予定を根底から覆す奇抜な味ではなかった。
 僕は食事を続け、無造作にキンピラゴボウを口にした。
 その時。



 なん……だと……!?



 完全に意表を突かれた僕は、思わず驚愕に目を見開いていた。
 しょっぱい。しょっぱすぎるッ。
 冒険を終えた僕の心には知らず隙が出来ていた。そこを突かれ、僕は自らが落とし穴に片足を突っ込んでしまったことを自覚した。
 予想外だ。このキンピラだけは手作りなのか? 味付けが濃すぎる。
 僕は慌ててご飯に手を伸ばした。一口食べて、その色と同じ無垢なご飯の味が口に染み付いた塩分を取り去ってくれる。
 しかし、それでもまだ足りない。予想以上のしょっぱさだ。
 ここはご飯一口の予定だが、もう一口食べたい。
 砂漠で水を求める遭難者のように、僕は無意識に箸を再びご飯へ伸ばしていた。
 しかし待て!
 そうすると、ご飯の攻め方を大幅に変えなくてはならなくなる。練り上げたプランは根底から瓦解するだろう。
 落ち着くのだ。僕が今、砂漠で口にしようとしている水はオアシスの水じゃない。水筒に残った有限の水なのだ。
 やはり、ご飯を食べるわけにはいかない。我慢するしかないのか……?

 ―――いや、手はある。



 僕の計算は完璧だ。不測の事態にも備えはしっかりと用意している。
 ほくそ笑み、僕は視線を弁当の隅で輝きを放つおかずへ向けた。箸を伸ばし、起死回生の一手となるソレを掴み取った。
 <うぐいす豆>だ。
 この程よい甘さがしょっぱさを消し、ご飯をもう一口食べたいという欲望を抑えてくれる。
 最初に感じたとおり、この豆は僕にとって救いの女神となったのだ。
 しかし、運命の悪戯は悪いタイミングでやってくるものらしい。不運(ハードラック)と踊(ダンス)ってしまうのだ。



 しっかりと固定していたはずの箸から、貴重なうぐいす豆が零れ落ちた―――!



 状況がスローモーションに感じる。遅くなった時間の流れの中で、僕の眼前を豆が落下していった。
 常人ならば成す術もない事態。この不測の事態に対応するには、フェイトのような桁外れの反射神経が必要となるだろう。
 あいにくと僕にそんな戦闘スキルは存在しない。
 この悲劇を、僕はただ眺めることしか出来ないのか?
 答えは、否である。

「おっと」

 落下先へ素早く割り込ませた弁当の上に、うぐいす豆は無事着地に成功した。
 確かに、僕の反射神経では為し得ない。だが、僕にはその才気を上回る武器がある。
 それは<洞察力>だ。
 おかずを口元に運ぶ際、どんな時にでも発生する危険性―――『おかずの落下』に備え、僕は常に空いた手を弁当の箱に添えている。
 その用心深さが、今回僕の命を救ったのだ。
 僕は再びうぐいす豆を箸に掴み、今度こそ慎重に眼前まで持ち上げた。
 しかし、解せない。まさかうぐいす豆が箸から落ちるとは……。
 これが<黒豆>なら分かる。
 豆の硬さ、表面の滑り具合、形状効果も手伝って実に箸から落ちやすい。
 しかし、これは<うぐいす豆>だ。こんなミスをするなんて―――やはり、割り箸は慎重に割るべきだった。
 歪な形となってしまった割り箸が、僕のおかずを摘む絶妙な力の調節に誤差を生じさせたのだ。
 同じ過ちを繰り返さないよう、今度は手を添えて、細心の注意を払い口へ運ぶ。
 小さなうぐいす豆を噛み締めると、じんわりと甘味が広がり、根強く残るキンピラの塩味を打ち消した。
 思わず笑みが浮かぶ。
 こうなれば、キンピラのしょっぱさは僕にとって何の脅威にも成り得ない。むしろ、味の一つとして許容できる。
 予想外の難関はクリアした。では、次は想定の範囲内にある問題をクリアしよう。
 苦手なしいたけとかぼちゃをここで片付ける。
 食材の味を消してくれる濃い味付けが好ましいが、そうもいかない。すぐさま梅干を口にして、唾液の分泌を促し、後味の悪さを解消する。
 ご飯、おかず、ご飯、おかず―――。
 出だしの悪さが嘘のように、僕の食事は順調に進行していった。
 あらかたのおかずは片付け、残されたものは漬物だけになる。
 ご飯としば漬けの相性は申し分ない。
 しば漬けとお茶の相性も申し分ない。

 ―――そう、ここで初めてお茶に手をつける。
 だって、ここから本番なのだから。

 温存していたお茶を、惜しまずに三口飲み干す。
 冷めた緑茶の持つ特有の渋みが、口の中の後味を洗い流し、これから始まる本番へ向けて僕のコンディションをリセットしてくれた。
 食事の最後を締めくくる分のお茶を残し、僕は静かに息を吐いて、意識を再び弁当へ向ける。
 残されたおかずはフライ二個とそれを補佐する緑黄色野菜。
 いよいよ、メインを攻める時がやって来た―――。






 まずは、重要な下準備からだ。この段階でメインの味は決定すると言っても過言ではない。
 備え付けの調味料は<ソース>と<マヨネーズ>
 僕は躊躇うことなく、マヨネーズをキャベツの千切りに振り掛ける。多少マヨネーズの量が多い気がしたが、それはこちらで微調整すれば問題ない。
 続いて、ソースだ。もちろん、カツに掛ける。
 しかし、運命はまたしても僕に悪戯を仕掛けた。
 ソースの入った小さなプラスチック容器のキャップを捻り、中身をカツフライへ搾り出した時、僕は異変に気付いて反射的に手を止めた。

 これは、<ソース>じゃない。<醤油>だ……っ!

 滑らかに流れる液状のそれは、カツに最も適した粘度の高いとんかつソースでは決して在り得ない。
 何故ソースじゃないんだ!?
 ひょっとしたら、僕はとんでもない考え違いをしていたのかもしれない……。
 戦慄しながらも、弁当箱の隅まで観察し、やがて僕は信じられない事実を見つけた。
 箸でレタスを恐る恐る除けてみる。
 果たして其処に、ソースの容器は隠れていた―――!
 ソースが、こんな所に……。 
 これはとんだ誤算だ。
 でも待て。冷静になれ。だったら、醤油は一体何の為に入っていたというのか?



『―――僕としては、もう少し濃い味付けでもいいのだが』



 脳裏に蘇る、あの時の感想。
 そうか。あの、ブロッコリーだったのか……。
 確かに、醤油はブロッコリーの隣にあった。
 でも、これじゃあ間違えるに決まって―――ハッ!

 僕の頭の中で全てのピースが当て嵌まるのを感じた。ただし、それが描く未来は全て後の祭りとなったものだが。
 最初、この席に座る前。子供がぶつかって弁当の箱を落としてしまったことがある。
 あの時だ。
 あの衝撃で、フライの横にあったソースがレタスの後ろに移動してしまったんだ。
 思わぬ誤算だ。

 ……誤算?

 その時、再び脳裏に閃いた可能性は僕にとって救いだったのか、それとも更なる絶望だったのか。
 まさか、マヨネーズがタルタルソースの代用品なんてことは―――?
 確かにキャベルに掛けるにしては量が多すぎる。
 こうなると、最初に否定したフライの中身の選択肢も再び二つに戻ることになる。
 つまり、マヨネーズは白身魚用で、ソースはキャベツ用というパターンも在り得るわけだ。
 一体、どっちなんだ?
 <カツ>ならソースを掛け、<白身魚>ならマヨネーズを掛けなくてはならないというのに。
 この選択次第で、僕の食事の成否は決定する。
 適当に混ぜればいいなどという愚劣な意見は却下したい。
 箸でフライを割り、衣を醜く破り散らかして中身を確認するなどという無粋極まりない意見を述べる人間とは口も利きたくない。
 どっちなんだ?
 <カツ>か、<白身魚>か。
 白か黒か。
 プラスかマイナスか。
 光か影か。
 一体、どっちなんだ―――?




『うるさいんだよ、さっきから!』
『うぇぇ~ん!』
『ちょっと! 子供相手何すんのよ!?』
『母親だろ、子供の管理くらいしっかりしろよ!』
『お客様、どうかなさいましたか?』


 前の席では喧騒が起こっている。大人の怒鳴り声に子供の泣き声。
 やめてくれ、思考の邪魔だ。
 そんな僕の切実な願いを嘲笑うかのごとく、喧騒はますます激しさを増していく。
 男と女は怒鳴り合い、止めに入った車掌と揉み合い、子供は泣き喚いてアベックはいちゃつく……。

 ―――ノイズよ、消えろ!

「封時結界、展開」

 意識を集中し、呪文を口にした瞬間、僕の周囲から音が消え去った。
 通常空間から特定の空間を切り取り、時間信号をズラす。
 これで、僕の思考を妨げるものは無くなった。邪念は排除するのだ。
 無我の境地へと至った僕は、かつてない集中力を発揮して目の前の問題に対する答えを弾き出そうと感覚を研ぎ澄ました。
 考えるな。疑えば疑うほど真実から遠ざかっていく。考えれば二分の一の確立もゼロになってしまうのだ。
 己の勘に働きかけろ。
 未踏の遺跡の発掘においては、第六感もまた重要となる。その鍛え上げた感性から答えを導き出すんだ!

 答えは―――。

 決断すると同時にカッと目を見開き、僕は躊躇する事無く行動した。
 レモンを絞り、続いて<ソース>を振り掛ける。
 この決断に間違いは無い。疑うな。答えは口の中にある。
 僕は、フライを口にした。

「…………ふっ」

 零れたのは、勝利の笑みだった。
 この白身には在り得ない弾力感のある歯応え。滲み出る肉汁。ソースのマッチした濃厚な味が僕の口に広がっていく。
 カツだ。

 そう、僕は勝ったのだ。

 メインのカツフライをキャベツの千切りと共に平らげ、僕は既に奇妙な満足感に支配されていた。
 残されたおかずは一つだけ。
 最後は、<イカのリング揚げ>だ―――。







『腹減ったなー』
『食堂行こうぜ! メシメシっと!』

 局員の人達が和気藹々と食堂へ向かうのを尻目に、僕は一人疲れ果てた足取りで本局施設にある庭へ向かっていた。
 今の時間帯、食堂の混み様は尋常ではないし、そんな場所へ一人で行っても疲れるだけだ。
 まだ無限書庫の司書へ就任したばかりの僕は、積み重なる仕事と職場の人間関係に疲れ果てていた。
 未開の無限書庫は整理だけでも気の遠くなるような作業を必要とするし、どれだけ優秀でも当時子供だった僕がいきなり上司に納まれるほど管理局は単純な組織じゃない。
 部族の元を離れ、一人孤独に働いていた僕にも、知らずストレスは溜まっていたのだろう。
 せめて、食事の時くらいは他人と離れて静かに食べたい。
 そんな思いを抱えて、僕は人気の少ない庭へと向かっていた。
 建物の中の賑わいに比べて、酷く静かな庭に着くと、ベンチに腰を降ろして持参した弁当箱を開く。
 中身は何とも侘しい白米に塩を振ったおにぎりが二個だけ。
 親はいなくとも、部族単位で活動していた僕は家事を他人に任せっきりで、料理などもほとんどしたことがなかった。
 子供の僕にはこれが限界だった。少なくとも、その日は市販の食料を買う余裕もなかったのだ。
 眺めていると余計に感じる虚しさと情けなさを消す為に、僕はさっさとそのおにぎりに齧り付いた。
 塩味だ。だからって、美味しくもなんともない。
 そんな時だった―――。

『ユーノ君』

 顔を上げた僕に、彼女は微笑みかけてくれていた。
 まだ正式な管理局員となる前の彼女は、時折元の世界から出張するような形で本局へ出向いていた。あの日もそうだったのだ。

『はいっ』

 彼女は侘しい食事をする僕に何も聞かずに、ただにっこり笑って自分のお弁当からおかずを分けてくれた。
 それが、<イカのリング揚げ>
 彼女にとっては何気ない、数あるおかずの一個にすぎなかったのかもしれない。
 しかしその時、差し出されたイカのリング揚げは僕にとって太陽が描く日輪のように輝いて見えたのだ。
 躊躇いがちに受け取り、それを噛み締めた時、僕の口を満たしたのは―――薄い味付けと、彼女の優しさだった。
 その日、僕は久しぶりに心から笑った。




 箸で摘み上げたイカリングを眺めていると、あの日の思い出が鮮明に蘇ってくる。
 かけがえのない僕の思い出だ。
 知らず、込み上げていた熱いものが眼から溢れ出していた。
 回想にふけって涙を流すなんておかしなことかもしれない。だけど、今の僕は確かに満たされている。
 僕は大切な宝物を扱うように、そのイカリングをゆっくりと眺めた。
 ついに、僕の食事が終わる。

 もう……ゴールしてもいいよね……?

 僕は栄光の輪をそっと口に含み、そして味わうようにゆっくりと噛み締め―――。



 プジュル。



 在り得るはずの無い濡れた音と感触が、僕の口の中で響いた。








「…………玉ねぎ」

 イカリングには在り得ない甘味と水気を口に含んだまま、僕は呆けたように呟いた。
 いつの間にか、前の座席で起こっていた喧騒は収まっている。
 何が起こったんだろう?
 喧嘩していた男と女は抱き合い、子供は微笑んで、アベックは喧嘩別れしていた。
 いや、別に心底どうでもいいんだけれど。

 魂が抜けたように放心した僕の膝元で、中身の露わになった<オニオンリング>が虚しく転がっていた―――。











 オニオンリングは全部食べた。
 どんな結末であれ、食事を残してはならない。それは最低限のマナーだ。
 それでも脱力感と倦怠感を隠せず、僕は意気消沈した足取りで家路を歩いていた。
 自分でも何故こんなに落ち込んでいるのかは分からない。
 っていうか、弁当一つにここまでのめり込む僕自身が悪いのかもしれない。
 そうやって冷静に考え直すと、これまで自分を支えてきた全てが崩壊しそうなのでなるべく考えないようにしているが。
 仕事と孤独でいろいろと無意識に参っていたのだろうか?
 とにかく、もう何も考えたくない気分だった。
 一人暮らしのマンションへ帰り、シャワーを浴びて少しでも寝ておきたい。
 誰も待っていない部屋で、する事といったらそれくらいしかないのだから。 
 通い慣れた道を辿り、さすが司書長だけある優良待遇の高級マンションへ着くと、目的の階まで昇って自分の部屋のドアを開いた。

「おかえり、ユーノ君!」
「おかえり~、ユーノパパ!」

 在り得ない筈の、僕を迎える声が聞こえた。

「え……なのは、ヴィヴィオ?」

 僕の部屋には、思い出の女性と親代わりとなっている女の子がいた。
 混乱した僕は、彼女達に促されるまま部屋へと上がる。
 帰宅すれば当然のように誰もいないはずの暗い部屋は、しかしすでに灯った電灯の光と何か美味しい匂いに満ちていた。これはフライ物の匂いだろうか?

「なのは、一体どうして?」
「ユーノ君、今日は出張から返ってくるって聞いたから。あ、大分前に貰った合い鍵使わせてもらったよ」
「ああ、そうだったんだ……でもヴィヴィオまで? もう夜も遅いのに」
「うん、ヴィヴィオってばユーノ君にすっかり懐いてるから。お出迎えするんだって聞かなくて」
「パパ、まだ『ただいま』って言ってないよ!」

 二人の笑顔が、さっきまで空っぽだった僕の心を満たしていく。

「……ただいま」
「「おかえりなさい!」」

 二人の笑顔につられるように、僕自身も笑みを隠すことが出来なかった。
 いつも、帰れば待ち受ける寒々とした部屋が、今はもうこんなにも暖かい。
 幸せを噛み締めながらリビングへ向かうと、そこには僕を更に驚かせる光景が広がっていた。

「もう大分遅いけど、ご飯用意しておいたんだ」
「……」
「ユーノ君? もう、ご飯食べちゃったかな?」
「……いや、まだ食べてないよ」

 そうだ、僕はまだ食べていない。
 列車の中で僕の食べ損ねた<イカのリング揚げ>―――それが今、食卓に並んでいるのだった。
 ああ、なのは。
 やっぱり君は、僕にとっての……。




「ユ、ユーノ君!? どうしたの? 何か嫌なことでもあったの?」
「パパ、泣いてる! どこかイタイイタイしたの?」

 ああ、二人が心配している。早くこの涙を止めなきゃ。
 でも、そう簡単に止めることなんで出来やしない。
 苦しみや痛みなら耐えられる。だけど、喜びの涙を耐えることは、とても難しいことなのだから。
 僕はせめて涙を拭い、精一杯の微笑みを浮かべて首を振ることしか出来なかった。


 さあ、まずは食事にしよう。
 この最愛の二人と一緒に暖かい食卓を囲み、あの日と同じイカのリング揚げを食べるのだ。
 そして、食べ終えたら言うんだ。



 なのはに、『結婚しよう』って―――。






―END―

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最終更新:2008年04月16日 20:28