ミッドチルダ首都周辺。廃棄区画。舗装されたアスファルトはひび割れ、放置されたビルは風雨にさらされ、
崩落への歩みを一度として止めることはない。整備されることはない。だからこそ廃棄の名を冠している。
 ライフラインもなく、ただ朽ちていくだけの存在。だが、果たして本当にそれだけか。
 違う。少なくとも、そこで暮らす住民にとっては。
 廃棄区画――だが、彼らはこう呼ぶ。廃棄都市、と。

 こつり、と黒いブーツの底が乾いたアスファルトを蹴り上げた。細かな破片が踏み砕かれ、砂塵となって風に
溶けていく。
 廃棄されたビルの合間を流れる風は強く早い。コートの裾を靡かせながら――ミッド最新型の全天候対応型だ
――、男はじっとその廃墟を見つめていた。その双眸は細く険しい。刀剣の類に近かろう。
 事実、男の手には凶刃が握られていた。見る者が見れば、それは鋏刀、あるいは単剣刀と呼ばれる南派の器械
と知れただろう。ありふれた柳葉刀とは異なる、刺突、斬撃ともにこなす優れた刀剣だ。玄人向きとも呼べる。
 廃棄都市にあって、早々お目にかかれるものではない。
 いや、それに言及するのであれば、そも、男のなり自体が廃棄都市に似つかわしくない。ここに住む者はみな
おしなべて貧しい。物資の流通もなければ、産業もまるでない。それでどうして豊かに暮らせると言うのか。
 答えは簡単だった。その残りわずかな産業に、男は身をやつしていた。
 廃棄都市。ミッドの弱さの象徴。正しく発展したのであれば、区画整備は十年も二十年も前に終わっていた。
捨て置かれた理由は、怠慢ではなく、力不足に他ならない。
 だからこそ、廃棄区画に住む人々を排せない。
 そして、人が集まれば社会はできる。ルールもできる。その集団を相手に取引を持ちかける無法者も現れる。
自然金が生まれ、物資のやり取りも生まれ、そこでようやく廃棄区画は独自の社会を作り上げた。
 法によらぬ社会。その一手を担うのが、幇と呼ばれる裏世界の結社たちだった。法が幇を上回るとは、音が
同じであることは何かの皮肉だろうか。
 笑えない冗談に、男は苦笑を浮かべることもなく眉を顰めた。少なくとも、男自身は幇をそれほど悪いもの
だとは思っていない。
 クラナガンですらも失われようとしている侠。それがここでは、とりわけ青雲幇、そして李寨主の元では未だ
その輝きを残している。でなければどうして凶手などという汚れ仕事に手を染められよう。
 男の名は孔濤羅。青雲幇が誇る最強の鬼札が一であった。

 かつて武林は二つの流派に分かれていた。
 一方は膂力、体躯、瞬発力などに重きを置き、純粋な破壊力を求める外家拳法。かたや呼吸や血流を精作する
ことで内功を鍛え上げる内家拳法。
 どちらが優れていたか、結局は使い手の技量次第になるのだが、頂点を占めていたのは、いつであろうと内家
拳法だった。当然だ。人の筋骨をどれだけ鍛えようと、動物には勝てはしない。岩を砕き、鉄を捻じ曲げること
など不可能だ。
 だが、内家拳法は違う。その域に達するのは尋常ならぬ修練を必要とするが、極めれば羽毛より軽く跳躍し、
鉄より重い一撃を振るわせる。深遠無辺なれど、だからこその境地では、人の常識では括れない。
 だが、その栄華をたやすく奪ったのが、魔法技術だった。
 手の届かぬはるかな間合いから岩をたやすく打ち砕き、鳥よりも早く空を飛ぶ。防護服を身に纏えば、生半な
衝撃はおろか、器械の一撃ですら通用しない。
 こうして、武術はたやすく存亡の危機に晒された。魔法技術を前提とした格闘線へと組み込まれるのはいつも
修練を必要としない外家拳法。それすらも、正しい形では受け継がれない。
 ――それでも、外家拳法はまだよかった。当時その技術の片鱗を見せていたサイバネティクス技術。人の体を
捨てることで、遥かな領域にまで手をかける。
 安全であったはずがない。人工臓器、人口骨格、人口義肢。そのどれもが欠損を補うためであって、人以上の
性能を約束するものではない。
 それでも、彼らは捨てられなかったのだ。身につけた武を。魔法によらぬ力を。無論違法だ。それでも、人は
力を求めずにはいられない。とりわけ、厳しい環境におかれた者においては。
 今では、この廃棄都市においてサイバネティクス技術は産業の一角を占めていた。その恩恵を受けたサイバネ
外家拳法家の力を知らぬ者もいない。
 そうして、滅びの道は内家拳法にだけ与えられた。今では、その技術の一端が精神修行として細々と受け継が
れているだけである。
 だが、やはり内家の果てにはそれこそ限界はなかった。限界が見えたそのとき、新たな鬼子が内家拳法に生ま
れたのだ。その名を戴天流。人の身にて魔導師、サイバネ拳法家を滅ぼさんとする殺戮の絶技。
 濤羅が修めた流派である。つまり彼は、魔導師でもサイバネティクス外家拳法家でもない、どこまでも純粋な
唯人だった。
 人の身を捨てたサイバネ外家拳法家を、化生、畜生の所業だと蔑視する李の元、濤羅はこの上なく重宝される
理由がそれだった。尤も、濤羅自身の好漢極まりない性格もたぶんに影響はしていたのだが。
 ともあれ、濤羅が刀を持ってこの場にいる理由は唯一つしかない。幇の敵を斬るためだ。
 廃棄区画に住む人は、当然戸籍がない。あったものもいるが、ほとんどがそれを捨てている。だから、彼らを
殺したとしても、ミッドの法に問われることは基本的にはありえない。それを誅するのが幇の役目。
 合成素材でできた鞘を、濤羅の手が硬く握り締める。
 濤羅は本来人斬りが好きではない。剣は好んだが、地にぬれることを何より厭うた。それでも侠を没義にせぬ
ためにと、心を鬼にして役目を全うしてきたのだ。
 そんな彼でも怒りを覚えずにはいられないほど、此度の標的は人の道に外れていた。ただ殺すのではなく、誘
拐し、実験し、人の命を弄んでは打ち捨てる。まさに左道の名にふさわしい。
 下手人が誰か。それはわかっていない。だが、実行犯のアジトは突き止めた。それぐらいしなければ、聞けば
泣いて怯える青雲幇の名が腐る。
 廃棄されたビル郡の一角。その下に隠されるように作られた地下施設に、濤羅は足を一歩踏み入れた。


 鼻を突く異臭は、すでに浄化されることのなくなった廃棄水の臭いだろう。毒こそもってはいないだろうが、
それでもやはり注意を払うに越したことはない。
 腐った空気をフィルタにかけるように、濤羅は浅く特殊な呼吸を繰り返した。肺腑に届くまでには、清らか
とまではいかないが、内功を駆使するには十分なほどになっている。もとよりこの場はすでに戦地。息を整え、
五体に気を巡らすのは当然の備えだ。
 わずかに残された電気がもたらすか細い光は暗い地下道を照らすには程遠い。闇の中、濤羅の硬い靴底の音が
幾重にも木霊――はしない。足音一つ立てず、闇の中に溶け込みながら濤羅は一人暗い道を歩く。常人であれば
歩くことすら間々ならぬような暗闇ではあるが、音、臭い、流れる風、そんなものから、濤羅は周囲を理解して
のける。その精度は、魔法のエリアサーチにすら決して劣らない。
 その敏感なセンサーに、反応があった。おそよ50mほど先に、人の気配。それが二つ。
 当然だ。陣地に踏み込まれて気づかぬ阿呆がどこにいる。魔力反応やエネルギー反応こそ濤羅は持ち合わせて
いないが、それで十全のセンサーを抜けきれるはずもない。
 いわば濤羅は身を囮にして、敵が来るのを待っていたのだった。
 止まる、あるいは待つという選択肢は存在しなかった。先手を譲れば、刀一つの濤羅に勝機はない。サイバネ
外家であろうと、魔導師であろうと、こと大規模破壊においては内家の遥か上を行く。
 であれば、濤羅がとる手段はただ一つ。電光石火の奇襲に他ならない。
 くん、と腰を落とし、腿力を込めて地面を蹴りつける。一歩、二歩、三歩。その疾走はまさに目にも止まらぬ。
魔法で目視しているのかと見間違わんばかりだ。果たして、これが人のなせる技なのか。音一つ立てずに駆ける
その様は、まるで黒い死神が走っているかのようだった。
 人間としてありえない速度に、敵が闇の先ですらわかるほど狼狽の気配を漏らす。この距離で濤羅に気づいた
以上、存外鈍くはないようだった。
 つまりは、戦闘技能保有者。濤羅の心の中にわずかな安堵が浮かぶ。武器も持たず、戦う牙のない者を斬って
捨てるには、いささか濤羅は優しさが過ぎる。怒りに燃えていようと、それは変わらない。
 残り15メートルほどになっただろうか。鷹のように目を凝らせば、そのおぼろげな輪郭が見とれる。わずかに
丸みを帯びている。人影は二つとも女性のものだった。それも一つは子供ともとれる小柄なものだ。
 一瞬、濤羅の足取りが弱まる。その内心を読んだわけでもなかろうが、絶好のタイミングで、その子供らしき
人影が手に持つ何かを投擲した。
 わずかな風切音。四つ、いや五つ。形状はおそらくヒョウに近い。しかしそれが濤羅を射抜くことはなかった。
 少女――と思しき相手――が投擲する直前、濤羅はその意を敏感に察知し、軽功を纏って左前方にある壁へと
跳躍していたのだ。ヒョウが射抜いたのは濤羅が数瞬前にいた虚空だけ。

「なっ!!」

 あるいは必殺の一撃だったのか。驚愕の声を上げる相手に、濤羅は心中で憫笑した。たかが投擲。何を恐れる
ことがある。音速にすら迫らんとするサイバネ拳法家の連撃すらも刀一本で捌き切る濤羅にとっては、目の前の
一撃など比喩ではなく、目を瞑っていようと避けられよう。
 意に先んじて投げられれば難しかろうが、そうでもなければ、戴天流を前には児戯にも等しい。
 壁をもう一度蹴り付け、次は天井へ。さかしまになった視界の中、5mの距離になってようやく人影に確かな
輪郭が与えられた。どちらもやはり女性。一人は大柄な女性。魔法か、あるいはそれに類するものか。両腕に紫
に光る刃を生やしている。残るもう一人は、やはり少女だった。銀髪に隠れ、右目を覆う眼帯が目に付く。
 戦闘経験はそれなりにあるようだった。下手に密集せず、さりとて互いに援護できるだけの距離は保っている。
 女性相手。それに一瞬でけりをつけられないことを胸中で罵ると、濤羅はコートの裾を巻き上げながら、大柄
な女性へ一等一速の間合いから一歩はなれたところを目指して舞い降りた。

「貴様っ!!」

 斬りかかろうとしたのか、あるいは、腕の刃を打ち出そうとしたのか。どちらにせよ、変わりはない。驚愕で
一瞬身を固めていては、とっさに行動できるはずもない。当たらぬのであれば、何であろうと意味がない。
 動こうとした機先を制し、濤羅は膝で殺しきれなかった衝撃そのままに一歩前へ踏み出すと、そっとその
腕先に撫でるように手を添えた。
 ただそれだけ。たったそれだけで、濤羅はその女性の刃圏全てを無効にした。残る片手を振るおうにも、己が
腕が邪魔をしてそれもできない。それには必ず一歩の距離が必要だ。
 それがどれほど絶望的な動作か。この技量を前にしては、理解せざるを得ない。だが、それまでだ。
 攻撃は止められた。距離は奪われた。だが、永遠ではない。一撃に耐えれば、いや、防護服があれば、耐える
ことすら必要ない。そして彼女らは二人だ。
 男一人。何の障害になるのか。
 狼狽にわずかに引きつったものの、余裕にあふれた笑みが二人の顔に浮かぶ。少女はどこからともなく新たな
飛刀を取り出し、濤羅が隙を見せる瞬間を今か今かと待ち構えている。
 それを、油断と誹るのは無理があろう。彼女らは、状況こそ揃えばSランクオーバーの魔導師ですら殺しきる。
事実過去において、一対一で少女のほうはそれを成し遂げた。
 その彼女らを生身の人減が相対しようとすることこそが無謀なのだ。獅子はウサギを狩るにも全力を賭すが、
狩られることを警戒などしない。

「……軽愚」

 それでも、濤羅が厳かに呟いた。無駄な一呼吸ではあったが、あるいは憐憫だったのかもしれない。
 心の速度は、魔法でも神経の電子化でも鍛えられない。それを為しえるのは内家の功夫だけである。先ほどの
驚愕の一瞬こそが、その証明だ。人剣一致に至れば、理解の前に行動が追いつく。
 つまりこれからの一挙手一動作は、濤羅が全てにおいて先じる。もうその差は取り戻せない。彼女らは一度と
して戦いの主導権を取り戻せないだろう。
 す、と添えていた腕を撫で上げる。筋に添うように、意に添うように。まるで糸に括られた、あるいは螺旋を
巻かれた人形のように、女の腕が持ち上がる。刺して力を込めた気配もない、事実込められてない濤羅の掌に操
られ、人体急所の一つ、脇の下を致命的に晒し上げていた、
 一歩、濤羅が踏み込む。肩口から、背中を見せるように。音もなく黒い影が急所へと忍び寄る。
「っがっ!!」

 それは果たして声だったろうか、悲鳴だったろうか。どちらも違う。勁の込められた靠の衝撃が、肺腑に込め
られた空気と言う空気を全て搾り出した音だった。それだけに飽き足らない。勢いそのまま、その直線状にいた
少女をも巻き込む形で女性の体を吹き飛ばす。
 まさか味方がいきなり自分に向かって飛んでくるとは露とも思っていなかったに違いない。攻撃に備えていた
ことも災いした。心を鍛えていなければ、とっさの行動はできない。
 その両手に飛刀を持っていなければ、受け止めることはできなくとも、防御の姿勢だけは取れたかもしれない。
あるいは、傷付けること覚悟で両手を前に突き出せば、最悪の事態は避けられただろう。
 だが、そのどちらも少女は選べなかった。逆に両手を広げ――しかし抱きとめることはできず、小さな体その
ものをクッション代わりにして、吹き飛んできた女性を受け止め、そして一緒に吹き飛んだ。
 硬いコンクリートの壁に、二人が叩きつけられた。体の内側を直接揺さぶられた女性は当然、二人分の体重を
一身に受けた少女もまた、呻き声を上げながら立ち上がる様子はない。
 だが、まだ意識はある。脅威は未だ去っていない。ほんの一言分の呼吸、ほんのわずかな時間、それだけで、
魔導師は十分以上の戦力となる。最後まで、彼女らの逆転の目は消えないのだ。
 その最後とは――

「疾っ!」

 鈴のような鞘鳴りを立てて、濤羅が鋏刀を抜いた。わずかな光すらも存分に吸い込み、まるで刀身は濡れてい
るかのようだった。
 こう、という濤羅の低い呼吸の音が響く。今度こそ、足音確かに二人へと駆け寄り

「發っ!!」

 剣閃一閃。白刃の煌きだけが、息吹に遅れて闇の中に残された。
 もはや……二人に意識はない。刀を振るって仕損じるほど、濤羅の腕は甘くない。その、心ほどは。

「ふ、う」

 額に手をやって、濤羅は思わず呻いた。
          ・ ・ ・ ・
 果たして、この気絶した女性二人を一体どうやって持ち帰ったものか。

「まったく、つくづく甘い」

 自嘲が洩れるのもむべなるかな。
 本来は、一刀の元斬り伏せるつもりだった。例え機械の体であろうと――ほんの一瞬の接触で濤羅はそこまで
見抜いていた――支障はない。戴天流剣法は戦車の前面装甲すら断つ。あるいは、刀術が通用せずとも浸透勁は
通用したし、最悪、紫電掌の一撃で事足りる。
 だが、最後のあの瞬間。
 小柄な少女が自分の身も省みず仲間を助ける光景を目にした瞬間、自然と刃を返し、棟で首を打っていたのだ。
 無茶な扱いに、気を込められていたにも関わらず鋏刀の腰は伸びてしまっている。どうにも鞘に納まりそうに
ない。結構な業物だったのだから、わずかに顔も翳る。
 まして、相手は殺さなかったからといって助かるような相手でもない。この場で死んだほうがましだったとも
思えるような仕打ちを受けるかもしれないのだ。
 濤羅の立場は幇において磐石ではない。暗い殺し屋風情、だまし討ちをする内家拳法と罵る一派すら存在する。
 だからこそ、この少女たちは殺すべきなのだ。最低でも助けようなどと思ってはいけない。
 しかし――

「李寨主……それに豪軍にでも頼み込むか」

 いまさら、見捨てられようはずもない。
 義を見てそれを無碍にできるようであれば、それこそ侠の名など捨ててしまえばいい。
 ある種の爽快感――捨て鉢と言ってもいい――を胸に、この調査が終われば、濤羅は少女らを生きて連れ戻る
ことを決意していた。

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最終更新:2008年07月07日 13:20