フライパンの上に薄くひいた油が、熱されてじゅうと音を立てた。
光太郎は卵を指先で突いて僅かな皹を入れ、二つに割ってその中身を油の上に連ねる。黄身を中心に、半透明の白身が広がった。
最初の頃は力の入れ過ぎで粉々に砕いてしまったものだが、要は慣れだ。今では目を瞑っていてもできる。
さらに卵をもう一つとウィンナーをフライパンに乗せ、焦げてしまわないように菜箸で弄りながら見張った。
朝の清浄な空気に、香ばしい匂いが混じる。
今朝の朝食の支度は、光太郎の当番だった。
「キュクルー」
「やあフリード。おはよう」
匂いに釣られてか、寝室から腹を空かせたフリードが飛んでくる。未だ意識を半分夢の世界で遊ばせているらしく、羽ばたきはよたよたとして安定しない。
光太郎は苦笑すると、フリードを左腕に留まらせた。
「おはようついでに、お前の主人を起こしてきてくれないか? ほら、お駄賃だ」
菜箸でフライパンの上に転がしていたウィンナーを一つ摘み、フリードの口に放り込む。
あまり上品でない音を立て、小さいながらに鋭い牙がウィンナーを噛み砕いた。
ぺろりと長い舌で口の周りに付着した油を舐め取ると、フリードは寝室に向かって飛んで行った。
焼けたウィンナーと目玉焼きを皿に移し、さらに炊けた白米を盛り、待つこと三分。
「ふにゅ……コウタロウさん、おはようございます」
若草色の寝巻きに身を包んだキャロが、眠たげに目を擦りながら居間に出てきた。あちこちに向けて跳ねた髪が、一歩踏む出すたびに揺れ動く。
頭の上では、翼を畳んだフリードが大義を成したと言わんばかりに踏ん反り返っている。
ふらふらと落ち着かない足取りは、先ほどのフリードの羽ばたきにそのものだ。ペットと飼い主は、多少表現に齟齬はあるが似るものなのだと、光太郎は忍び笑った。
「先に顔を洗っておいで。ひどい寝癖だ」
「ふぁい……」
軽い足音を残して、キャロの背中が洗面所に消える。光太郎は皿を食卓に運んだ。
ぱたぱたと寝癖を直し顔を洗ったキャロが真横を行き過ぎ、寝室で白いシャツとピンクのスカートに着替えてまたぱたぱたと戻ってくる。
朝は、いつだって忙しい。
「ほらフリード、ご飯だぞ」
皿の上に盛った飯にウィンナーを三つ添えてやり、床に置く。食べ盛りのフリードの食欲は旺盛で、素早く皿の前に降り立つと頭を突き込み、がつがつと喰らい始めた。
小学生の頃、信彦と共に拾った野良犬に餌を上げた時のことを思い出す。結局、ばれて義父に叱られたが。
「もーダメでしょフリード! まだお祈りすんでないのに!」
喰い意地のはった相棒を叱りながら、キャロが食卓に着いた。
朝食を目の前にして、胸の前で両手を組む。瞼が落ち、桜色の唇が動いた。
「天に住み、地に宿るアルザスの精霊よ。お恵み、心より感謝します」
それに習い、光太郎も軽く黙祷を捧げる。
ル・ルシエ古くからの伝統、食前の祈り。家で食事を取る時、キャロは必ずこれを行った。
理不尽に部族を追われた身分ならば一番に捨てていいだろう習慣だったが、少女の生真面目さゆえか、それとも郷愁ゆえか。
いずれは、このクラナガンを、自分の下を故郷としてくれる日が来るのだろうか。
フォークを使い、ウィンナーを口に運びながら、光太郎は思った。
「そうだキャロ。今日は少し、遠出するから」
「遠出……ですか?」
目玉焼きを食べていたキャロの眼に、一抹の不安が浮かぶ。
同居するようになってからしばらく、キャロは光太郎が出かけるのをひどく嫌がった。夜一人で食糧の買出しに行こうとした時などは、足にしがみ付き、行かないでと首を振る少女を寝かしつけなければならなかった。
部族からの追放が、どれほど大きな影を彼女の心に落としたのかがよく分かる。フリードが傍にいても、埋めきれない隙間があるのだろう。
「といっても、ほんの二時間かかるくらいだよ」
「うー……本当ですか?」
「ああ。でも何かあったらすぐに……ってわけにはいかないから、火や鍵は気をつけてくれ」
それでもキャロはしばらく唸っていたが、ここで我侭を言っても仕方がないと分かったのだろう。依然瞳に不安を宿しながらも頷いた。
彼自身、彼女の傍に居てやりたいとは思う。しかしそれには先立つ物があり、得る為には働かなければならない。
キャロには、本当に苦労をかける。
「ところで、遠出ってどこにいくんですか?」
「ああ…ええと、たしか――――」
〈ホテルアグスタ・サイドブラック〉
「ふう、やっと着いたか」
無数の車両が並ぶ駐車場の隅にオートバイを止め、光太郎は昼の太陽から降る光に目を細めながら、前方の建物を見上げた。
ホテル・アグスタ。
森林の一部を切り開き、その中央に据えられた巨大な白い建造物。二階の窓を覗くと、スーツを着た男性やドレスを纏った女性の姿が窺えた。
今日この場所で開催されるのは、ロストロギアのオークションだという。
滅びた次元世界の残滓。中には次元震を引き起こすような危険極まる品もあるとか。
光太郎の感覚で言えば、古びた壺や黴臭い巻物を血相を変えて取り合う物好きの大会だ。
本来、彼には全く縁のない場所だった。
そんなところに何故やってきたのかといえば、タチバナ運輸の作業服を着ている以上、仕事以外にはありえない。
配送物は、これもまた縁のない筈の高級ワインが数種類。もともと酒を飲まず、また飲んでも意味のない光太郎には、毛ほどの興味も湧かない代物だった。
荷台から発砲スチロールの箱を下ろし、入口を見遣る。自動ドアの向こうの受付の前には、無数の男女が犇き合っていた。
無論、あそこから入る訳ではない。光太郎は箱を抱えて裏に回った。
その時、びゅうと風が吹き、木々がざわめく。
都心とは全く違う、清らかな自然の匂いが鼻腔から入って総身に回る。
ヘリコプターでも飛んでいるのか、プロペラが回る忙しい音が、風音に混じっていた。
遠方に聳える木々を茂らせて緑の山々には、白い大蛇が峰に巻き付いているかのような道路が見えた。
たまには、こういう森林地帯もいい。今度、キャロとフリードを連れてハイキングに来よう。
泊まりに、ではないところが、光太郎の経済的限界だったが。
「すみません、タチバナ運輸です」
ホテル裏の搬入口に入り、当て所のない声を放った。
広い空間に、幾重にも反響して奥へ奥へと向かう。
程なくして、紺色の礼服を纏った細見の男が一人寄ってきた。顔には、こんな忙しい時に、という苛立ちが明け透けだった。
とはいえ、光太郎でなければ感じることのできないほど微か。形として笑顔なのは、やはり積年の鍛えがあるのだろう。
「中身を確かめさせて頂きます」
男の腰元から、長方形の機械が取り出された。
探知魔法を内蔵した物で、カートリッジに封入された魔力により、魔導師でなくとも使用できる。
ミッドチルダの基盤である、魔法文明の形の一つだった。
機械の先端から一瞬、赤い光線が走り、発砲スチロールの箱を通り抜ける。それで、どうやら中身が危険物ではない証明が成されたようだった。
ロストロギアなどという貴重な物がホテルにあるのだから、これくらいの警戒は当然だ。
光太郎は奥に進もうとした。
が、礼服の男が前に立ちはだかり、彼を制止する。
まだ、何かあるのか?
「申し訳ありませんが、防犯のために身体検査をさせて頂きます」
事務的な感情の籠らない口調で言いながら、機械の先端をこちらに向けてくる。
当然といえば、当然だった。ただでさえガジェットという剣呑極まるガラクタが出没する時節。
碌に調べもせず迎え入れた者がテロリストだったなどという事態は、誰だって御免被る。
だが―――
「魔力数値が、表示されない?」
瞠目は、驚きによるものだったろうか。瞳が一瞬にして侮蔑の色に染まった。
ミッドチルダに住まう人々は、多かれ少なかれ魔力を持っている。空気中の魔力素を集積し、備蓄するリンカーコアを体内に有しているからだ。
それが、光太郎には無い。
かのエースオブエース、高町なのはのような例外はあるにせよ、大抵の地球人はリンカーコアを持っていない。そもそも魔法を扱う技術の無い地球ならば、それでも構わないだろう。
だが、このミッドチルダでは違う。
魔力の低さが、そのまま罪の重さに直結している。差別され、そこでまた分けられ、虐げられる。
非魔導師でありながら陸士の頂点に立ったレジアス・ゲイズという男がいるが、受けた苦難は並大抵ではない筈だ。
魔法の国は、魔導師以外が生きるのは、難しい世界だった。
「奥に進んでいいぞ。忙しいんだ、さっさと運んでくれ」
機械を腰に下げた男の言葉づかいが、一転して杜撰になる。扱いを下げたことは、誰の目にも明らかだった。
何事か言ってやりたい気を抑え、低頭して光太郎は進んだ。
強い者には腹を見せて謙り、弱い者は嵩にかかって排斥する。きっと、人間の性なのだろう。
しかし過去―――人類の為と謳い戦った光太郎は、胸に剣を刺されたような思いだった。この痛みに耐え切れなくなった時、自分はゴルゴムになるのだろう。
(……家に帰るまでには、消えてるかな)
勘付かれれば、きっと優しい少女を悲しませてしまうから。祈りながら、光太郎は荷物を奥に運んだ。
樹形図のように複雑に別れた廊下を渡り、厨房に入る。責任者のサインを受け取って、それで光太郎の仕事は終わりだった。
身を返し、厨房を出る。こんな場所とは、早くおさらばしたかった。
来た方の道を戻ろうとした光太郎だったが、ふと下半身に催すものを感じ、傍を通った従業員に声を掛けた。
「すみません、お手洗いを借りたいんですが」
「トイレなら、向こうに……」
曖昧極まる案内。取りつく島もないとはまさにこのことだろう。
光太郎が聞き返す間も与えられず、従業員は廊下の奥に消えていった。
声音に侮蔑は感じられなかったため、不快にはならなかったが、光太郎は不可思議に首を捻る。
侮蔑の代わりに在ったのは、極度の緊張だったからだ。といって、自分に向けられている訳でもないようだった。
アグスタに来て間もない新米なのかも知れない。何にしても、自分に関わりのあることではないだろう。
人に聞くのを諦め、光太郎はホテル内の地図を探すことにした。
従業員が皆あの調子だとしたら、来年の今日になっても用は足せない。
「あのー……すみませーん」
十分後、念願叶って用を足した光太郎の背に、黄色い呼び声が掛った。微かだが、記憶に覚えがある声音だ。
体ごと首を振り向けると、淡い桃色のドレスを纏った、栗色の髪の女性が歩み寄ってきた。光太郎は、思わず悲鳴を上げそうになった。
「やっぱり、あの時の人だ!」
何が嬉しいのか朗らかに笑う、高町なのは。時空管理局が誇る、若きエースオブエース。
自身後ろ暗く、時空管理局に背を向けた少女が身内にいる光太郎にとっては、最も出会いたくない人物の一人だ。
以前、機動六課とやらの隊舎に出向いた際にほんの数分接触しただけだったが、彼女にはそれで充分だったようだ。
青年の黒髪への親近感も手伝ってか、その表情には旧知の仲に向けるような気軽さがある。
(こっちの気も知らないで……)
表には出さず、光太郎は嘆息した。
しかし話し掛けられてしまった以上、相手にしなければ不自然だ。タチバナ運輸の評判を落とすわけにもいかない。
顔を無理やり笑みの形に歪め、光太郎は声を返した。
「高町さん、ですか。以前一度お会いしましたね」
その一度で十分だったのにと思う光太郎の内心を、指呼の距離にまで寄ってきたなのはは知らない。
言葉を額面どうりに受取り、笑みの可憐を一層強めた。
周りを行き交う人々の視線がうっとおしい。自分と高町なのはに向けられる感情の落差が、光太郎には手に取るようにわかるのだ。
靴底から伝わる小豆色の床の柔らかさが、何故か妙に気持ち悪かった。
「ええっと……もしかして、ミナミさんのご先祖様は地球出身ですか?」
名前は胸のネームタグを見たか、なのはが質問を放ってくる。黒髪の由来は、そこまで気になるものなのか。
「ええ、祖父からはそう聞いてます」
もちろん、嘘だ。日頃キャロに嘘はいけないと教えている手前心苦しいが、これは必要な嘘だった。
光太郎のように、管理局に無許可で時空間移動をした者は時空漂流者に認定され、保護次第強制的に元の世界に送り返される。
不慮の事故でやって来てしまった者にとっては、それは僥倖に違いない。
だが、光太郎はこのミッドチルダにこそ根を張っている。短く範囲は狭いが、強い根。
しかし管理局に光太郎の素生を知られてしまえば―――その根は容易く切られてしまうことだろう。
そうと考えるだけで、身を切られるような痛みが胸を襲う。
仮に光太郎に魔力があったのなら、管理局に所属することでミッドチルダ留まるという選択もできた。体の秘密が露見してしまう危険もあるが、キャロに関する問題も解消出来たかも知れない。
だが、現実はそう都合よくはいかない。
光太郎の体内にあるのは全ての元凶となった石ころが一つ埋め込まれているだけで、魔力を生み出すリンカーコアは備わってはいなかった。目の前にいる、高町なのはとは違って、だ。
魔力、魔力、魔力。
このミッドチルダで何かをしようとすれば、必ず壁となって立ちはだかる物。
社会に格差は、何処であろうと影の様に付きまとうもののようだった。
何処までも暗く沈む光太郎の思考を、黄色い声が引き摺り上げた。
「あの、どうかしましたか?」
我に返った光太郎が見たものは、薄い怪訝を纏った高町なのはの顔だった。光太郎の内部に蟠る暗闇を感じ取る程度には、エースオブエースの名は伊達ではないらしい。
何時の間にやら解けていた作り笑顔を戻し、光太郎は会話に戻った。適当な所で打ち切り、ホテルから出よう。
「いえ少し考え事を。高町さんは、ここへ何しに?」
「それは………」
なのはが、一瞬言葉に詰まった時だった。
彼女の肩越しに、両開きの扉が開くのが見えた。扉の向こうは、たしかオークション会場の筈だ。
出てきたのは、二人の女性だった。
一人、肩口で短く切り揃えた茶髪。一人、腰まで届く金髪。
白や黒のドレスで着飾った彼女達を、光太郎は知っていた。このミッドチルダに住んでいれば、知らない筈がなかった。
「はやてちゃん、フェイトちゃん。会場はいいの?」
「今のところ、私らやることあらへんし」
茶髪の女性が頭を掻き、金髪の女性が微笑みを混ぜて続ける。
「外はシグナム達に任せてあるし、私たちはしばらく待機だね」
何やら、穏やかな語調の向こうに剣呑を滲ませる会話。だが、光太郎が何より驚くべきは、目前で言葉を交わす三名の存在だった。
オークション会場から出てきた二人。
茶髪の方の名を、八神はやて。金髪の方の名を、フェイト・T・ハラオウン。
両名ともが、高町なのはに匹敵する実力の持ち主であることは、親父さんから耳に焼き付くほど教えられている。
それとなく周囲に目をやれば、来る人行く人全てが、雑誌でしか見たことのない人物に驚愕を隠せないようだった。ちらりと一瞥しては、そそくさと何処ぞへと消えてゆく。
腰を据えては、畏れ多くて見れないのだろうか。
先程の従業員が緊張していた理由もわかった。知らないのが恥でさえある彼女達に粗相をすれば、騒ぎたてられずとも間違いなく首が飛ぶ。
時空管理局のエースとは、自覚の有無に関わらず強大な影響力を持っているのだ。
「なのは、その人は?」
フェイトの一声で、なのはが光太郎に向き直り、新たに二色の視線が追加される。親父さんなら心臓が止まるほど嬉しい状況だろうが、光太郎にとっては厄介に過ぎない。
殺人鬼が警官と談笑しているようなものだ。
「ああ、この人はミナミさん。ご先祖さまが地球出身なんだって」
「ゲンヤさんと同じか。珍しーなぁ」
なのはが言い、はやてが好奇に瞳を輝かせる。対して、光太郎は僅かに眉を顰めた。
これでは、まるで珍獣だ。木箱に磔にされている蝶と何一つ変わりない。
不快だった。しかしそれは、扱いによるものだけではなかった。
南光太郎は、三人に嫉妬していた。烈火ではなく、胸の内を少しずつ侵していく小火。
ゴルゴムとの戦いは、決して賞賛が追随するものではなかった。無数の屍と喪失が、光太郎の心に傷を刻む日々。
自分と同じ境遇の者を殺し、それでも事態は何一つ変わらない。明けることを知らない夜に、果てしない荒野を突き進むが如き日々だった。
それに比べて……高町なのはは、あまりに煌びやかだった。
空を駆け、光を放ち、人々を守る戦乙女。誰もが尊敬と憧憬を込めて、その名を呼ぶ。
親父さんは、おとぎ話でも聞かせるかのようにそう語った。
なのはが優雅に空を舞う鷹ならば、光太郎は地を這う虫けらだ。華美なパーティードレスと無骨な作業服の対面も、宝石と石ころが並んでいるようなものだろう。
これより先、どれほど時を重ねたとして埋まることはない差。光太郎は絶望ではなく自己嫌悪を覚えた。
自と他を比べる心の貧しさ。光に当てられて浮き彫りになる醜い自分に、光太郎は耐えられなかった。
―――何か、会話から抜け出る糸口はないか?
一刻も早く三人から離れたい。機嫌を損ねないよう、出来る限り自然に。
針のように鋭く集中した意志に、強化された感覚が伴う。不可視の神経が、通路を抜けホテルを飛び出し、遥か遠方にまで伸びていく。
聴覚が、ホテル外に広がる森の辺りから異音を拾い上げた。
それが、どういった類のものであるかも考えず、光太郎は口を開いた。
「何か、外が騒がしいですね。花火でもしてるのかな、はは……」
瞬転。三人の顔から笑みが掻き消えた。
氷像が如く硬直した表情に、光太郎は自分の愚かさを呪った。
どんなに耳が良いからといって、このざわめきと厚い壁に遮られた中、魔法を使わず外の音が聞こえる筈がない。人ではないと、自ら告白したようなものだ。
そして、光太郎が聞き付けた花火のような音―――思い返せば、あれは爆音ではなかったか。大気の振動、爆炎の響きを伴う爆音。
深く考えず言葉にしてしまったが、ホテルの外は、どうやらただならない状況のようだった。
(まずい、な)
表面上の笑みだけは崩さず、光太郎は歯噛みした。なのは達の間で素早く交わされる視線の応酬は、間違いなく光太郎への不審を孕んでいる。
さすがに身体の秘密にまで辿り着けるとは思えないが、少し身元を調べられるだけで、今の生活は即座に崩壊する。
光太郎は地球――どちらのかはわからないが――に帰され、キャロとはおそらく永久に会えなくなる。
考えるだけで、背筋が凍った。
「……ミナミさん。ちびっと、お話があるんやけど」
ホテル・アグスタより、遠方。樹間に闇蟠る中に、一組の男女の姿があった。
男の方は、背の高い中年男性。暗灰色の頭髪は、風に揺らめく炎にも似ていた。
擦り切れた外套の上からでも肉体に鍛えがあるとわかり、両手足は無骨な装甲に覆われている。
女の方――否、年端もいかぬ少女は、闇の中でさえ妖しげに光る紫の髪をしていた。漆黒の装束に幼い肉体を包んだ姿は、まるで闇の神に身を捧げる巫女。
並び立つには、あまりにも不釣り合いな二人だった。
「お前の探し物は、ここにはないのか?」
男、ゼスト・グランガイツが口を開く。声が向かう先の少女は、ただ黙したまま前方に視線を遣っていた。
草木以外に何もない空間に、別の何かを透かし見ているのか。今度は少女に顔を向けて、ゼストは再び訪ねた。
「何か、気になるのか?」
「………うん」
今度は声を受け取り、少女、ルーテシア・アルビーノは顎を引いた。虚空に指を突き出すと、その先に小さな生物が留まる。
画鋲のような体に、羽と節足を生やした奇妙な形状。名をインゼクトという。
きしきしと音を立て、主に何事かを伝えた。
「ドクターのおもちゃが来てるって」
ガジェットと呼ばれる、空を飛ぶ鉄の塊ども。とは、この場所に何か求める物があるのだろう。
遠方から、爆音が聞こえた。既に戦いが始まっているのだろう。
とはいえ、ルーテシアの興味を引く事柄ではない。彼女の目的は、ただ一つに絞られているのだから。
「……それと、何か、怖いものがいるって」
「怖いもの?」
ゼストが聞き返してきたが、ルーテシアは答えられなかった。インゼクトが告げたのは、ただそれだけだったのだ。
インゼクトには、知性と呼べるものはほとんど存在しない。ただ機械的に――それこそガジェットのように――ルーテシアの命令に従う。
それが「怖い」とは、本能の警鐘に他ならない。
だが、やはりルーテシアにはどうでもよかった。自分の目的の前に立ちはだからなければ、何事も捨て置きにするのみなのだ。
と、ゼストとルーテシアの前に、青紫の髪をした白衣の男の顔が浮かび上がる。
先にルーテシアがドクターと呼んだ人物。名を、ジェイル・スカリエッティ。
無論実体ではなく、遥か彼方から投影されている幻影だ。
「ご機嫌よう。騎士ゼスト、ルーテシア」
スカリエッティが、口を三日月の形に歪める。ルーテシアは僅かに眉を顰めた。
心の奥底まで探ろうとするような金色の眼、常に釣り上がって動かない口角。笑みの仮面の向こうに何が隠されているのか。
ルーテシアは時々、不快に思う。
だが、自分が本懐を遂げるためには、どうしてもスカリエッティの助力が必要なのだ。
「……ごきげんよう」
「何の用だ」
ルーテシアが短く唇を動かし、ゼストが不躾に言い放つ。
スカリエッティがおどけるように肩をすくめた。
「冷たいねぇ。近くで状況を見ているんだろう?」
スカリエッティの顔が消える。代わりに、白い建物の傍に停まった一台のトラックが浮かび上がる。
「あのホテルにはレリックはなさそうだが……実験材料として、興味深い骨董があるんだ」
トラックが消え、再びスカリエッティの顔が現れた。表情は、先ほどから全く変化していない。
喋る銅像を相手にしているかのような不気味さがあった。
「少し、協力してはくれないかね? 君たちなら、実に造作もないことの筈なんだが……」
「断る。レリックが絡まぬ限り、互いに不可侵を守ると決めた筈だ」
ゼストの鉄の声。しかし諦める気はないらしく、スカリエッティの金色の瞳がルーテシアに向けられた。
「ルーテシアはどうだい? 頼まれてくれないかな?」
卑怯だ、とルーテシアは思った。彼は、自分が断れないことを知っている。
自分が目的を果たすためには、スカリエッティの機嫌を損ねるのはまずい。間を置かず、ルーテシアは頷いた。
「優しいなぁ。ありがとう、今度ぜひ、お茶とお菓子を奢らせてくれ」
スカリエッティが、新たな笑みの仮面を被る。
猫撫で声に、本心は含まれていないだろう。しかしお茶とお菓子が魅力的に感じる程度には、ルーテシアは子供だった。
少しだけ、心が浮き立つのを感じた。
「君のデバイス、アスクレピオス。私が欲しい物のデータを送ったよ」
「うん」
木漏れ日を受け、ルーテシアのグローブに付けられた宝玉が紫色に輝く。これこそがアスクレピオス。データを受け取ったことを確認し、ルーテシアは別れの言葉を贈った。
「じゃあ、ごきげんようドクター」
「ああ、ごきげんよう。吉報を待っているよ」
それを最後に、スカリエッティの顔は消えた。
ルーテシアは数歩前に進み、空間を広く取る。デバイスに魔力を注ぐと、宝玉から五指に紫のラインが走った。
足元に、紫光を帯びた魔法陣が展開される。
「我は、乞う。小さきもの、羽ばたくもの。言の葉に応え、我が命を果たせ」
魔法陣より、無数のインゼクトが沸き立った。小さな羽音を立てながら、虫達が空へ解き放たれてゆく。
ある一群は、戦うために。ある一群は、探すために。
続いて、ルーテシアは、アスクレピオスに語りかけた。正確にはデバイスを通して、最愛の友に向かって、だ。
「……ガリュー。ちょっと、お願いしてもいい?」
アスクレピオスが輝く。
漆黒の光が、流星となって空を駆けた。
八神はやての話を聞き終わり、光太郎は一人、オークション会場前の壁に背を預けていた。
目の前を通り過ぎていく客達の誰一人として、このホテル付近で戦闘が起きていることなど知る由もない。はやてが語ったのは、要するにそういう事だった。
例のガジェットが、群れをなしてこのホテルを襲撃している。狙いは、このオークションで取り扱われている物品。
つまりはロストロギアである。
当然、客に知らせれば大混乱は免れない。それを防ぐため、八神はやて率いる機動六課――隊長はどういう訳かホテル内にいるのだが――とホテル側が協力し、外で起きている騒ぎを隠蔽していた。
大胆、無謀、どちらとも言える。余程、外で戦っている部下に信頼を置いているのだろう。
光太郎が感覚を尖らせると、鳴り止まぬ爆音に額に皺を寄せることになった。
戦場は、そう遠くではない。一キロメートル程だろうか、一方向から来るガジェットを、外に布陣した六課の戦力全員で阻んでいるようだった。
一方向、というのが、やけに頭の中で引っかかる。
数を揃えられるのなら、包囲攻撃を仕掛けるが戦いの常だが……陽動、ということも考えられた。
しかしそうであったとしても、光太郎が気を揉む必要はどこにもない。今の彼は人類の守護者でも何でもなく、ただの一市民なのだから。
姿勢を低くし、下を向いて、ただ嵐が過ぎゆくを待てばいいのだ。
「……だから、ミナミさんには悪いけど、もう少しここにいてもらいます」
そう高町なのはに楔を打たれていなければ、すぐにでもホテルから出て、今頃バイクに跨っていただろう。
こんな居心地の悪い場所に留まるくらいなら、戦火を潜り抜けてでも営業所に戻りたい。改造されたこの身ならば容易いこと、と思えたが、これ以上疑いの種をばら撒きたくはなかった。
「はい、なんか事故があったみたいで……大丈夫です。また連絡しますから。はい」
携帯通信機を操作し、親父さんに連絡する。距離の関係から、アグスタを最後にしておいたのが幸いだった。
帰りが遅れる旨を伝え、通信機を切る。それをポケットに押し込み、光太郎が溜息をついた途端だった。
ごく小さな、砂粒のように小さなだが、針の様に鋭い気配が、彼の超感覚に突き刺さった。
「!?」
壁に預けていた背を浮かし、光太郎は虚空を睨んだ。通行者が訝しげな視線を向けてくるが、気にもならなかった。
方向は、戦域の間逆。速度と軌道は、まるで砲弾のように揺るぎのない一直線である。
間に森が繁ることを考えれば、新たなる襲撃者は、どうやら空を飛び来るようだった。
やはり、ガジェット達は陽動だったのか。
(まずいな。この速さだと、十分もしない内にここにやってくる……)
光太郎は、苦悩した。
敵の接近を八神はやてに伝えようにも、「何故気づいたのか?」と返されるのは確実だ。まさか改造人間だから、とは言えない。
ならば自分が、とも思ったが、下手を打って変身を誰かに見られたくはなかった。以前暴走したフリードと戦った時にしろ、何故人目のある場所が戦場となるのか。
魔王に、神は微笑まないらしい。
(外に出て、ここに着く前に迎え撃つ。それがいい)
そこで、光太郎は我に帰った。
(………俺が戦う必要が、どこにある?)
(………俺が戦う必要が、どこにある?)
戦うための思考が、一瞬にして白紙となる。我知らず、駆け出そうとしていた足が止まった。
そうだ。南光太郎に、戦う義務も義理もない。
もう、仮面ライダーではない。人類の守護者などではないのだから。
浮いていた背が、再び壁と密着する。仮に戦いに赴いたとして、勝てる保証はどこにもない。
今自分が死ねば、アパートで待っているキャロはミッドチルダという名の大海に一人と一匹で放り出されることになる。
光太郎の命は、彼一人の物ではないのだ。
目の前を通り過ぎ、談笑している人々。彼等はきっと、ここで死ぬかもしれないとは思いもしないのだろう。
接近している何かがホテルを襲ったとしても、光太郎一人ならば、混乱に乗じて逃げられる。高町なのは達も控えているから、被害もそうは広がらない筈だ。
無論、零れ落ちる幾人かもいるだろうが―――光太郎が望むのは、ただ穏やかな日々だった。見て見ぬふりをすれば、果て無く続くはずの日々だった。
名も知らない余人の命では、決してない。
「あ、ミナミさん。ここにいたんですか」
もはや聞き慣れた声に首をねじ向けると、高町なのはが歩み寄ってきた。
声には慣れても、光太郎にとって出来る限り会いたくない人物であることに変わりはなかった。
身分が知られれば、元の世界に送り返されるからというのもある。
しかし改めて対面し言葉を交わしてから、光太郎は、胸の中で渦巻く嫉妬を自覚していた。
無論それに関して、なのはに咎は全くない。そうと分かっていても、この黒い感情は止め処なかった。
堤防を越えて、表に出ないよう堪えるのが精一杯だった。
「すみません、お仕事の途中なのに……」
「いえ、会社の方には事故があったと言ってありますから」
本当に申し訳なさそうに、なのはが頭を下げる。とても、強大な戦闘能力を持った魔導師には見えない。
そう、エースオブエースと呼ばれている人物とは、とても………
「………高町さん」
「はい?」
返されて、光太郎は我が身を疑った。何故口が勝手に動いたのか。
内心で戸惑う主を放って、口唇が再び言葉を紡ぐ。
「高町さんは、何故戦う仕事を選んだんですか?」
やめろ、と光太郎の心が叫んだ。余計な真似をするな、と。
しかし、体はあくまで反抗し続けるつもりのようだった。
「あなたならもっと別の、安全な仕事も選べたのでは?」
なのはは目を丸くしていた。まさか、こんな宅配業の男にそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
光太郎自身もまた、こんなことを言うつもりなどなかった。しかし、実際に言葉として発してしまっている。
自分の思惑を越えて動く体に、光太郎は戸惑った。
しかし、そうした疑問を以前から抱えていたのはたしかだった。
暮らしていれば、否といっても見えてくる闇がある。この世界が、無垢で綺麗なものではないと知ってしまう。
戦う力があるとはいえ、まだうら若き少女が命をかけて守る価値がどこにあるのか。
慮外に対し沈黙していたなのはが、桜色の口唇で問いの答えを紡ぐ。
「私は、みんなを守るために戦いたいから」
なのはの声は、まるで鋭い短刀だった。耳を介さず、光太郎の胸にするりと突き立つ。
みんなを守る。どこかで聞いたような言葉だった。
義父の夜語りで聞いたのかも知れない。信彦との会話の中に出てきたのかも知れない。
どれも、違うようだった。
声に照れを滲ませて、なのはが語りを続けた。
「今まで痛いことも嫌なこともたくさんあったけど、みんなが痛い方が、私は嫌だから。守るための力があるなら、私は戦う」
その空間は、まるでなのはと光太郎のみが存在しているかのようだった。彼女の声は凛として、外界の雑音など寄せ付けない。
光太郎の視線に気づいたなのはが、ぺろりと舌を出す。
「すっすみません! 何だか一人で熱くなっちゃって」
「……いえ。こちらこそ、変なことを聞いてすみませんでした」
光太郎は笑って返した。
今度は、作り笑顔ではない。心からの笑みだった。
光太郎は思い出していた。この身に宿る力を使い、親友を奪い返し、闇に潜む悪意を薙ぎ払う決意をした日のことを。
何故戦うと決めたのか。
平和な日常を破壊された復讐心も、たしかにあっただろう。しかし同時に、理不尽に抵抗すらできず飲み込まれる人々を救いたかった。
………たとえ、守った人々から賞賛が得られないとしても。
悪魔の所業、義父の裏切り。
世界は、美しいばかりではないことも知っていた。その清も濁も飲み込んで、守ることを誓ったのだ。
だから、テレビの中の英雄を名乗った。正義の旗を掲げた。
胸のどこかにしまい込んでいた記憶が、想いを伴って溢れ出す。
鍵を開けたのは、高町なのはだった。
(考えてみれば、これは俺やキャロの問題でもあるんだな)
少しばかり、想像力を働かせてみる。襲撃者達の狙いは、このホテルにあるロストロギアだという。
奪ってどうするつもりなのか。金が必要ならば、他に襲うべき場所は幾つもある。
換金以外の何かに利用するつもりならば、テロリストのすることだ。光太郎達に利のあることではないだろう。
襲撃者にロストロギアを奪われる。そして悪用される。
矛先は、大抵がクラナガン。そしてクラナガンには―――キャロがいる。
冷静になって考えてみれば、呆れるほど簡単な話だった。目の前になのはがいなければ、光太郎は自分の頭を殴りつけていただろう。
戦うための力がある。戦う理由は今できた。
動かない理由など、もうない。
「……じゃあ、高町さん。お仕事、がんばってください」
「え? あの、どこに行かれるんですか?」
「俺も一つ、やり残した仕事があるんです。ご心配なく」
この状況で、我ながら無茶なことを言う。一人忍び笑い、光太郎はなのはに背を向けた。
彼女には、少しばかり借りが出来てしまった。いつかまた品を届ける日が来たなら、その時は花の一輪でも贈ることにしよう。
光太郎は少し、足を速めた。
ホテルアグスタの警備員を務めるトニーは、大きく欠伸をした。音は僅かなものだったが、彼以外に人もなく、密閉された地下駐車場の中では拡大されて聞こえる。
上ではオークションをしている筈だったが、優秀な防音設備のため歓声が広間を超えてここまで届くことはない。つまり、トニーが悲鳴を上げたとしても、誰も駆けつけては来ないのだ。
(ま、悲鳴を上げるようなことなんてないけどな)
トニーは楽観的な男だった。実際、これまで命の危機に瀕する様な出来事とは無縁に生きてきた。
近頃はガジェットとかいう兵器が現れるらしいが、自分とは無縁であると思っていた。
懐中電灯の光を周囲に振り向ける。白光が薄闇を押しのけ、隙間なく並ぶ車や等間隔に立つ柱の陰影を一層濃くした。
異常はない。変わらない日常の風景だった。
今まで物陰から強盗が飛び出してくることはなかったし、きっとこれからもそうだろう。近々、人生の墓場に足を突っ込む予定のトニーは、そう願うばかりだった。
「……ン」
トニーは立ち止った。
薄暗くてよく見えないが、停めてあるトラックの傍に、何か黒い塊が蹲っていた。もぞりと、微かに動く気配がある。
何だろうか。背に氷柱を差し込まれたような寒気に耐えながら、トニーは懐中電灯を向けた。
「誰かいるのか?」
返事はない。そして、誰もいない。
光に丸く切り取られた中に、灰色の床と、トラックのコンテナが覗いているだけだ。
トニーの奥底にある、僅かな恐怖心の悪戯だったのだろうか。嘆息し、彼は身を翻した。
そして、黒い壁とぶつかった。
「てっ」
鼻をぶつけて、トニーはよろめきつつ下がった。ドジをした、と思った直後、恐ろしいことに気づく。
五秒前まで、真後ろに壁なんてなかった、ということに。トニーの背筋を、氷の剣が貫いた。
懐中電灯を前に向け、黒い壁を光で照らす。範囲はそう広くないが、それで充分だった。
そこにあったのは、壁などではない。そんな、無害なものではない。
最初、トニーはそれを漆黒の鎧だと思っていた。艶やかな表面に、光沢が走る。
そして、それを纏っているのは当然人だろうと思っていた。ほんの少し、視線を上げる前までは。
何かを求めるように揺れる触覚があった。
赤く光る複眼があった。
鋸のような歯があった。
それは、飛蝗の顔をしていた。
「………ッ!」
トニーは、生涯悲鳴を上げることはなかった。未知の怪物を目の前にして、悲鳴を上げる余裕がどこにあるだろうか。
地下駐車場は、どこまでも静かだった。
気絶した警備員を隅に運ぶと、光太郎は改めて辺りを見渡した。
光太郎と対面する直前、警備員は何者かの気配に気付いていたようだ。
無論、それは人間の知覚であれば漠然としたものだったろう。
「隠れたって無駄だ。出て来い」
前に鉤爪の生えた指を突き付け、鋭く声を投げる。
無表情なコンクリートの柱や、ホテルの客の車以外には何もない、薄闇蟠る空間。蝿が動く気配さえありはしなかった。
だが―――光太郎を騙すことはできない。
複眼が教える。鼓膜が教える。触覚が教える。そこに確かに立つ、何者かの存在を。
「………出て来い」
再び声を放る。ぐにゃりと、目の前の暗闇が波立つように歪み、人型の輪郭線をとった。
観念したか、抵抗を選んだか。後者であることは、次の瞬間放たれた闇色の光弾がその証しだった。
数は四つ。軌道は一直線。
光太郎は右肘を背に回し、五指を広げた。
指というには、鋭過ぎる五本である。それを光弾に向けて放つ。
薄暗い駐車場に、烈風が流れた。一度に引き裂かれた光弾が、散り散りとなって辺り一面に小さな穴を穿つ。
光太郎はすぐさま右腕を引き、入れ替わりに握り固めた左拳を突き出した。響く轟音。
吹き止まぬ烈風を、波状に広がった剛風が飲み込んだ。
「何度も言わせるな。それは、無駄だ」
断じる言葉の向かう所は、伸び切った左腕の先だった。再び闇が歪み、光太郎と拳を打ち合わせた人型が現れ、後退する。
当初は朧だった姿が、泥が落ちるように明確になってゆく。無数の改造人間との戦いを経てきた光太郎には、懐かしささえ感じる光景だった。
「それが……お前の姿か」
形としては、人に近い。変身した光太郎のような漆黒の甲殻を纏った人間。
しかし、首の上に載っている頭部は、蜥蜴……もしくは牙を生やした甲虫に似た形状をしていた。加えて臀部からは太い大蛇のような尾が伸び、敵が人類ではないことを示している。
亜人型の魔法生物なのだろう。首に巻かれたスカーフは知能の証拠か。
頭部に埋め込まれた四つの赤眼が欄欄と輝き、光太郎を貫く。感じて久しい、殺意の眼光。
――――望むところだ。
光太郎の中の獣が引き摺り出される。獰猛な唸りさえ聞こえるようだった。
本能に突き動かされるままの戦い。その甘美を、光太郎は知っている。
暴走したフリードとは違い、手加減する必要もないのだ。ホテルの内部である以上、多少の自粛は求められるとしても。
光太郎と亜人、対峙して一分。視線が矢の様に行き交う睨み合い。
これも一つの戦いである。全感覚機能を総動員し、敵の隙を探る戦い。
だが、下地となる情報が足りない。
光太郎が戦ってきたゴルゴムのサイボーグ達は、皆動植物の能力を拡大・強化した超能力、時にそれに加えて科学兵器を内蔵していた。
しかしそれらも慣れてくれば、どの部分に武器を仕込んでいるのか、どんな方法で攻めてくるのかが、ある程度は予想できる。
だが、魔法生物になると話が違う。
どこから何が飛び出してくるか、まるで見当もつかなかった。敵の黒い装甲に覆われた腕が、一瞬で戦艦の主砲になったとしても不思議ではない。
体表に視線を走らせる。
五体に備わる力はおそらく互角。
装甲には隙間があり、守られていない部分もある。鉤爪を突き立てれば引き裂けるだろう。
超破壊エネルギーは……使えない。閃光はどうしたところで人の眼を引く。
少しばかりの制限があったところで、光太郎の闘志に揺るぎはない。本来彼が得意とするのは、手足を用いた格闘戦なのだ。
探り合いに先に痺れを切らしたのは、亜人だった。地を這うように低く駆け、漆黒の右腕を振り上げてくる。
速いが、避けることも防ぐことも出来る。
光太郎は防御を選んだ。突き出された腕を取り、コンクリートに叩きつけるつもりだった。
亜人の拳が光太郎に触れなんとする瞬間、腕に刃が生える前までは。
「!!」
光太郎を救ったのは、刹那の見切りだった。
半身に開いた体の前を、刃が行き過ぎる。装甲を突き破る威力のものかは分からないが、身をもって確かめる気はない。
一撃をかわされ、振り向こうとした亜人の腹に、光太郎は爪先を打ち込んだ。よろめきに苦痛を滲ませて、亜人が数歩後退する。
言葉こそ発さないものの、痛覚はあるようだった。今度は光太郎から間を詰め、昆虫めいた頭部に向けて手刀を繰り出す。
が、亜人はすぐに両の足で地面を踏んだ。手刀に脳天を砕かれる寸前に、なんという速度か光太郎の懐に潜り込む。
突き出された小掌が胸に突き刺さった。
「ぐっ」
内臓を揺さぶるような衝撃。後方に跳び、距離を置く。
久々の格闘戦に、長らく技を振るっていない光太郎の身体が、まだ追い付いていないようだった。全身に泥土が粘り付くような感がある。
楽な戦いは、望めそうになかった。
(いや、楽な戦いなんて、一度もなかった)
光太郎は拳を握り直した。
サイボーグと言っても、基本的な構造は既存の生物と大差ない。脳を、心臓を潰されれば死に至る。
変身は、鎧兜を身に纏うだけのこと。故に、命をかけた戦いに楽などない。
その覚悟が、改めて光太郎の総身に廻った。
一気呵成と、亜人が拳を振り上げた。光太郎は、ふわりと宙に舞った。
拳打が、飛蝗人間の装甲を穿つことはなかった。亜人に、無音の驚愕が走る。
光太郎は、右足一本で突き出された拳の上に立っていた。雪山の枯れた木の枝に乗ることに比べれば、これは鉄橋の上に立つのと同じく簡単だった。
(感謝します、許仙)
師であり敵でもあった老人を思い返しながら、光太郎は左足を振り抜いた。下に弧を描いた爪先が、亜人の顔面を打ち抜く。
首から頭が飛ばなかったのは奇跡に近い。罅割れた装甲から赤い体液を撒き散らし、亜人が薄闇を裂いて飛んでいく。
着地した光太郎は、迷わずそれを追いかけた。ただでさえ得体の知れない相手、再び攻勢に回して妙なことをされたくはない。
亜人が空中で静止する。スカーフを翻し体勢を整え、迫る光太郎を右腕に宿る刃の刺突をもって迎えた。
金属同士が打ち合わさる音が辺りを回った。亜人の突き出した右腕が止まる。
刃は、光太郎を貫いてはいなかった。
口に並ぶ獰猛な歯が刃の切っ先に噛みついて、それ以上の侵攻を抑えていた。
押されようと引かれようと、光太郎は離さない。伸び切った右腕を跨ぎ、鋭利な棘が無数に生えた左腕を、スカーフ越しに亜人の首根に添える。
かつて、ニューヨークにあったゴルゴムの地下研究所で鰐男の腹を引き裂いた時のように、光太郎は鋸のように左腕を引いた。
薄闇に、赤い華が咲く。
光太郎の黒が、真紅で上塗りされた。
人外であるとはいえ、首を引き裂かれて痛痒を感じない生物はいない。
亜人は自ら右腕の刃を切り離すと、体液を撒き散らしながら後退した。千切れたスカーフがはらりと床に落ちる。
光太郎は影の如く追従した。最前まで感じていた違和感は、もうない。
光太郎の足が、地から離れた。両脚を折りたたみ、力を溜める。
空手家として研鑽を重ねてきた技術。飛蝗を拡大強化した脚力。それらが一体となり、飛び蹴りとして亜人の胸板を打ち砕いた。
粉々になった装甲の欠片が、吹き上げる体液に混じって飛散する。亜人の体が床を赤く汚しながら転がり、壁際に激突した。
ゴルゴムのサイボーグならば、確実に仕留めている一撃だ。しかし亜人は震える両腕に力を込め、立ち上がろうとした。
人外であるにしても驚異的な体力。が、首を断ち切るか心臓を貫いてしまえば済む話だ。
指先で鉤爪をかちゃりと鳴らし、光太郎は止めを刺そうとした。
その時だった。
――――一体何の音だ!?
――――地下駐車場からです!
迫り来る人の気配、声、そして足音。
装甲と装甲がぶつかる音が、いらない客を招いてしまったようだ。一瞬、光太郎の意識がそちらに向いた。
亜人が動く。掌を天井に向けると、先刻光太郎に向けて放った黒い光弾を撃ち込んだ。
轟音と共にコンクリートの破片が降り注ぐ。舞い上がる粉塵の向こうに、光太郎は薄闇を貫く光の柱を見た。人工的な光ではなく、暖かい太陽の光輝。
粉塵が内側から破裂する。亜人が舞い上がり、外の世界へと飛び出して行ったのだ。
ここまで来て、逃がすつもりはない。後顧の憂いは、断っておくに限る。
「待てっ!」
光太郎は跳躍した。後に残されたのは、血と塵埃に塗れた、戦いの傷痕のみだった。
(そう、それでいい)
ルーテシアは瞼を開いた。
召喚者と召喚対象は、霊的な繋がりで結ばれている。
ルーテシアとガリューも例外ではない。苦戦を感じ取ったルーテシアは、ガリューに後退を命じた。
悲願を叶えるためにはスカリエッティの機嫌を取る必要があるが、何に使うかも知れないレリックと無二の友を天秤に乗せれば、どちらに傾くかなど考えるまでもない。
ガリューに無理を強いてまで、無関係な品を手に入れてやるほどの義理はなかった。
(あのガリューが……何者?)
単純な破壊力であれば、奥の手たるハクテンオーに分がある。しかし速度や技能で、ガリューを上回る召喚虫はいない。
全幅の信頼を以て、ガリューを一体だけでレリックの奪取に向かわせたのだ。それが、ルーテシアが今まで聞いたことのない苦鳴を伝えてきた。
かつての恐怖が、再び胸に湧き上がる。
親しい者が、動かなくなって、何も言わなくなる。路傍に転がる石ころと変わらない、ただの物体と化す恐怖。
………居ても立ってもいられなかった。
「ルーテシア!?」
止めるゼストの手を振り切って、ルーテシアは駆け出した。
「……何よ、これ」
ティアナ・ランスターは動けなかった。
愛銃クロスミラージュを握った手が、だらりと力なく垂れる。
スバルもエリオも、そしておそらくシグナムやヴィータも、動くことができなかった。唖然とし、空を見つめている。
一体のガジェットが、黒煙の尾を引いて地に落ちた。楕円形のボディに、外傷は見当たらない。
装甲の僅かな隙間から、這い出てくる影がある。緑色の、小さな、後ろ足の発達した虫。
「なんで、バッタが」
ティアナは震える唇を動かした。
爆音は、何時の間にやら止んでいた。代わりに、無数の羽音が鼓膜を叩く。
ホテルアグスタを襲撃せんとしていたガジェット達は、夥しい数の飛蝗に襲われていた。
何の前触れもなく森中から湧き出してきて、青い筈の空は、まるで暗雲に包まれているかのようだった。
虫は、小さいが決して脆弱な生物ではない。その生命力は強壮極まりなく、人類よりも遥かに多くこの星に生息している。
それが、一つの目的の元に力を束ねれば―――
また一機、ガジェットが落ちてくる。いくらレーザーを放ちミサイルを撃とうと、十を退ける間に百が襲い、百を倒している内に千が喰らい付く。
後から後から限り無く湧いてくる、正しく数の暴力である。そして僅かな間隙に潜り込んでは、内部の機械を破壊するのだ。
だから、ティアナは動けなかった。万が一、荒れ狂う飛蝗達の暴力の矛先がこちらに向いたなら、確実に助からない。
バリアジャケットを身に纏っているとはいえ、耳や鼻、口から体内に侵入されれば終わりだ。
そこらに落ちているガジェット達と同じ運命を辿ることになるだろう。副隊長達でさえ、抗しえるとは思えなかった。
…………世界の終りは、蝗の群れと共にやってくる。
昔、どこかで誰かから聞いた話を、ティアナは思い出していた。
戦場は、森の中の円状に開かれた土地に移っていた。自然の成り行きか人の手か、どちらによるものかは判然としない。
光太郎は鉤爪を打ち振るった。それを擦り抜けて、漆黒の風が宙を駆ける。
一瞬間をおいて、光太郎の胸に横一文字の赤線が刻まれた。千切れた雑草が舞飛び、煽られた木々が忙しく揺れる。
地下駐車場を脱した途端、亜人は戦法を変えた。地に足は着けず常に飛行し、切っては離れ、切っては離れを繰り返すようになった。
敵ながら、適格な判断だ。
光太郎は空を飛ぶことはできない。拳も、腕が届く距離にしか炸裂しない。
右肩が大きく裂ける。漆黒の装甲がだらしなく口を開き、赤い涎を垂れ流した。
些細な傷ではあるが、重ねられれば、いつかは倒れる時が来るだろう。
ギイッ、と光太郎は咆えた。
テレパシーにより飛蝗を操り、外の連中や覆うとしてきた警備員達の気を引いているとはいえ、超破壊エネルギーの閃光は目立つだろう。
ならば、それ以外の方法で撃ち落とせばいい。
光太郎は視界を切り替えた。
草むらや木々の緑に、ぽつりぽつりと小さな光が赤を添える。虫や鳥などのオーラだ。
一際大きい光が、流星のように目の前を横切る。光の尾が、亜人の飛ぶ軌道を明確にする。
敵手の挙動が、光太郎には丸わかりとなった。
腕を翳し、掌を銃口のように亜人に向ける。挙動に気付いてか、亜人の飛ぶ速度が僅かに落ちたが、もう遅い。
光太郎は、自らのオーラを奔流として放った。光の大蛇が、真っ直ぐに亜人に喰らいつく。
生体オーラを見切る能力を持たない者にとっては、まさに青天の霹靂。これを防御した敵は、これまで一人としていなかった。
そして、稲妻に打たれたかのように仰け反った亜人もまた、例証の一つに加えられた。全身から蒸気を吹き上げながらも死に至らない生命力は、買おうと思えば買える。
空中で動きを止めた亜人に、光太郎は飛び付いた。
真正面から両腕を掴む。鉤爪が装甲に食い込んだ。
さらに脇腹に生えた二対の節足が動き出し、亜人の背に回って拘束する。最後に両足同士を絡めて、完全に動きを封じた。
亜人が苦しげにもがいたが、逃げられるものではない。全力ならいざ知らず、傷ついた身では不可能だ。
光太郎は背中に重心を傾け反転し、落下。亜人の頭を、強く地面に叩きつけた。
受け身による緩和を受けない衝撃が、如何なく亜人の全身を駆け回る。既に負っていた傷口から激しく体液を噴き出し、一瞬にして赤い池ができあがる。
拘束を解き、光太郎は飛び退いた。亜人は動かなかった。
石のように硬直したまま、ゆっくりと仰向けに倒れる。辺りの草木を飛散した体液が汚した。
力無く横たわるその姿に、反撃の余裕は見当たらない。放っておけば、このまま消えてゆく命の様に思えた。
が、死を見届けずに去り、後でそれを悔いることになるのは御免だ。この場で、完全に命を絶つのが良い。
「………悪く思うな」
光太郎は拳を握り締めた。頭を叩き潰すか心臓を抉り抜くか、あるいはその両方をすれば、生物である以上は死ぬだろう。
時間稼ぎの飛蝗も、何時までもつか分からない。光太郎は拳を振り上げた。
………そして体を右に傾け、背後から飛来した光弾を避けた。
「!?」
倒れた亜人を跨ぐように跳び、距離を取ってから振り返る。あの鉄屑どもの他に、仲間がいたのか?
しかし視線の向う先に立っていたそれは、光太郎の予想とはまったく別の存在だった。
少女である。樹間より降る陽光を艶やかな紫の長髪で跳ね返し、黒いドレスを思わせる装束を纏った少女が、そこに立っていた。
年齢は、キャロと同じくらいだろうか。
魔法は、資質と装備さえあれば年齢を問わず使うことができる。光弾の射手が彼女であることに疑問はないが、一連の事件の首謀者である可能性は低いだろう。
外見と実年齢の一致が前提ではあるが、いくらなんでも幼すぎる。その瞳は赫怒を孕み、しばし光太郎を睨んでいたが、すぐ下降し、倒れた亜人に向けられた。
「ガリュー!」
駆け寄った少女の白い手が、赤い体液で汚れる。すると、明らかに死にかけであった亜人――察するに名はガリュー――が、弱弱しくも上半身を起こした。四つの眼光が、全身の傷など無いかのような強さで光太郎を射抜いた。
ルーテシアは混乱していた。
今まで見たことのない負傷をしているガリュー。彼を傷つけただろう、黒い人型の虫。
どちらに驚けばいいのか、いやそもそも驚いている暇などない。体液で汚れるのも構わずガリューを抱き締め、再び目前の虫に目を向ける。
頭部は飛蝗に似ていた。真紅の複眼、風に揺れる触覚、牙の生えた口。
黒い甲冑を身に纏っているのはガリューと同じだが、こちらの方がはるかに洗練されているように思えた。
内心で、ルーテシアは勝ち誇る。しかし次の瞬間、そんなちっぽけな勝利は吹き飛んでしまった。
「………君は何者だ?」
喋った。目の前の虫が、確かに人の声で喋った。
ルーテシアの肌が粟立つ。あまりにも、おぞましかった。
ただ人であるなら、無関心でもいられた。ただ虫であるならば、愛することさえ出来たかも知れない。
しかし、目の前の存在は、そのどちらでもない。人であり、また虫である歪さに、ルーテシアは吐き気さえ覚えた。
そんな時、ガリューが動いた。
傷は見るからに深く、ただ生きて呼吸をしているだけでも困難のように思える。しかしガリューはルーテシアの腕を除け、体を起し、そして立ち上がった。
赤い体液が体表を滑り、地面に滴り落ちる。大きな拳は、固く握り締められていた。
まだ、戦うつもりのようだった。おそらく、ルーテシアのために。
少女の願いを叶える為に、それを阻む障壁を崩さんがために握った拳なのだろう。
「ガリュー」
ルーテシアは頷いた。本当なら、傷ついた友をこれ以上苦しめたくはなかった。
しかしそれは彼の望むところではない。命じる言葉は、ただ一つ。
「………殺して」
光太郎の視界を、漆黒の閃光が満たした。
力無く垂れていたガリューの右腕が、動いたと感じた瞬間である。
凄まじい衝撃を受け、光太郎は宙を舞った。どうやら、例の光弾の直撃を受けたようだ。
一瞬、視界が暗転する。
しかし他の感覚機能は生きており、ガリューの接近に対し、触覚が敏感に反応してくれた。体を僅かに反らす。
同時に視界が回復し、光太郎は一閃された黒刃の軌跡を見た。胸の装甲が横一文字に裂け、鮮血が吹き出した。
無抵抗のままなら、真っ二つにされていたかもしれない。
激痛はあるが、ともかく光太郎は生きている。空中で身を転じ、地に着し、迫るガリューに手刀を放つ。
槍の様に束ねられた鉤爪が肩口を掠った。ただそれだけだった。
一撃を掻い潜ったガリューの刃が、光太郎の腹に埋まる。
「ウウッ」
切っ先が背骨にまで達すれば、サイボーグでも危険だ。ガリューの胸を蹴り、跳んで間合いを取る。
が、着地地点は見切られていた。足の裏が雑草を踏まんとしたその直前、再び漆黒の光弾が放たれ、地面が爆裂した。
草と土くれの混合物が舞い飛び、ガリューが光太郎の視界から消える。こちらから見えないということは、向こうからも見えないということだ。
今度こそ地に降り立った光太郎は、そのまま樹間に飛び込んだ。それを追った光弾が木々に喰らい付き、粉砕してゆく。
光太郎は地を走る稲妻のように移動したが、ガリュー自身が追ってくる様子はなかった。
(格闘戦は懲りたようだな)
それとも、あの少女から離れたくないのか。
痺れるような痛みに、光太郎は胸に手をやった。斬られた傷は深いが、心臓には達していない。
地下駐車場での動きとは、まるで速度が違った。単純に屋外の方が得意、というだけの話ではない。
動きが変わったのは、紫の髪の少女が現れてからだ。
戦闘能力を強化する魔法をかけられた、という訳ではない。そんな素振りは無かった。
となれば、それは精神的なものなのだろう。
(……つまり、俺にとってのキャロなんだろうな)
守るべきもの、という意味だ。
死にかけの身に、力が入るのも道理である。込められた思いの分、痛いのも当たり前。
愛の力で魔王を打倒する、陳腐な物語の構図のように思えた。
しかし、このまま聖なる剣で退治されてやるつもりはない。二度と帰らない自分を、キャロがずっと待ち続けることになる。
魔王にも、守るべきものがあるのだ。
しかし迂闊に出ては、光弾の雨霰に砕かれる。超破壊エネルギーが使えない以上、光太郎の武器である手足が届く距離まで近づかなければならない。
何かで気を逸らすか。しかし、木を投げ付けた程度ではどうにもならない。
「……あれを試してみるか」
一方で、歪な円の中心に立つガリューは苛立っていた。
樹間に隠れた光太郎と、それを何時までも仕留められない自分自身に。
自分が不甲斐無さがルーテシアを不安にさせ、危険極まりない戦場に連れて来てしまった。敬愛する主人が傍にいるおかげで、重傷でありながらこうして動いていられるが、誤魔化しは誤魔化しだった。
自身放つ閃光の反動にさえ耐え切れず、傷口からは体液が零れ、今にも倒れてしまいそうだ。
後一撃。
後一撃喰らってしまえば、二度と立つことが出来なくなるかも知れない。
そうなれば、主にまで死の手が伸びることは明白である。それだけはあってはならないことだった。
だから分の悪い格闘戦はやめ、卑怯とも言える弾幕を張っている。しかし餌食となるのは木や草くらいで、あの黒い男は影も見せなかった。
全身に受けたダメージのせいで、樹間を埋める暗闇を見通すことができない。まるで魔女の住処のように不気味だった。
もしも自分ではなくルーテシアが狙われたら、その時は守り通すことができるのだろうか。
不安がっている場合ではないと思考を打ち切り、さらにさらに閃光を連ねる。出てくるのならば、出て来い。
はたして、黒い鎧を身に纏った男が飛び出してきた。真正面から、鉤爪を振り被りつつ向かってくる。
やけになったか、何か策があるのか。いずれにせよ、やることは一つだった。
体を運ぶ両足に閃光を撃ち込む。折れるどころか跡形もなく微塵になった。
次に両腕を吹き飛ばす。万が一があってはならない。
胴体と頭はほぼ同時だった。ほぼ同時に砕けて消えた。
…………呆気ない。散々苦しめられた相手だったが、蓋を開いてみればこんなものだったのか?
ともかくも、戦いは終わった。後は余力でレリックを奪えばいい。
しばらくは、休養が必要だろう。ガリューは腕を下ろした。
そして、背中の装甲が砕けた。弓の様にしなったガリューは、放たれた矢の如き速度で正面の森に突っ込み、今度は自分の体で木々を薙ぎ倒した。
「ガリュー!」
ルーテシアの悲痛な叫びが辺りを廻る。
ガリューが立っていた位置には、光太郎がいた。ガリューの背に、必殺の飛び蹴りを叩き込んだ光太郎が。
(なんとかうまくいった、か)
光太郎は、ガリューの光弾によって砕かれた自分の躯を見下ろした。原型は留めていなかったが、血や肉片、骨の欠片は何処にも見当たらない。
当然だった。ガリューが仕留めたのは、光太郎の投げた丸太なのだから。
ゴルゴムの「魔王」の持つ能力に、幻術がある。石ころなどを怪物に見せたり、在りもしないまやかしの火炎などを生む力だ。
オーストラリアで相対した「魔王」は実に様々な幻影を操ったが、光太郎にそこまでの力はない。
自分の姿、しかも一体のみが精々だ。今回は、それで十分だったようだが。
光太郎はガリューの後を追った。へし折れた木を辿ると、それはすぐに見つかった。
ガリューは、赤い歪なベッドの上に両手を投げ出して寝そべっているように見えた。血染めの丸太の連なりを、ベッドと呼んでいいのなら。
かろうじて、糸くず一つ動かせそうにないほどか細くだが、息をしている。重ね重ね、驚くべき生命力だ。
しかし、それもすぐに終わる。光太郎はガリューの傍に寄った。
背中の装甲は完全に砕け、赤黒い組織が覗いている。力を入れずとも、鉤爪は沈むだろう。
心臓を抉り出すべく、光太郎は手刀を構え、逆落としに――――
「やめて!」
声に引かれたように、光太郎は首をねじ向けた。
予想に違わず、紫の髪の少女が立っていた。人形のように美しい造形の顔には必死さを湛え、見開かれた瞳には黒い飛蝗の頭部を映している。
左右には何時召喚されたものか、少女の身長ほどもある有角の甲虫が二体、付き従っていた。
「ガリューから……離れて」
甲虫が、数歩前に進み出る。しかし、その言葉には何の強制力もなかった。
いくら光太郎が手負いとはいえ、ガリューに止めを刺し、そのついでに甲虫二体と少女一人を始末するのは簡単だった。
今後のことを思えば、そうした方がいいに違いない。
…………しかし。
「なら―――立ち去れ」
光太郎は手刀を引いた。言われたとおりガリューから離れ、少女の脇を通り、ホテルの方へ向う。
何故だか、少女からガリューを奪うことができなかった。キャロと、歳が近いからか。
少女の視線が絡みつくのを感じたが、構わずに足を進める。既に、胸の傷は塞がりつつあった。
突如、風が吹く。
乾いた血の粉末が攫われ、青空に混じり消えていった。
「……その女の子は、なんでそんなことを」
テーブルを挟んで向かい合ったキャロが、悲しげに目を細める。
手のマグカップに入ったココアは、話の間に冷めてしまっていた。
ホテルアグスタを襲っていたガジェットが退散した後、光太郎は営業所で幾つかの事務仕事を消化し、一直線に彼女とフリードの待つアパートに帰った。
聞けば、光太郎がホテルにいる間、キャロはずっと胸騒ぎを感じていたらしい。扉を開いた瞬間飛び付かれ、疲労もあってそのまま押し倒されてしまった。
「わからない。何か弱みを握られているのか、他に目的があるのか」
カップに残っていたコーヒーを飲みほす。生温い液体が胃の腑に落ちる。
思えば、酷い話だ。
まだ親の庇護の下にあるべき子供が、一人は一族に追い出され孤独を味わい、一人は犯罪に加担している。世の無情を感じずにはいられなかった。
それでも、キャロは恵まれた方なのかも知れない。路地裏で出会っていなければ、光太郎はガリューの代わりにフリードと相対していたかも知れないのだ。
それだけに、あの紫の髪の少女が他人だとは思えなかった。もしもまた出会うことがあれば、今度は戦うのではなく話し合いたい。
自分に、何が出来るかはわからないが。
「………」
ふと正面に目を遣ると、キャロがじろりとこちらを睨んでいた。何か気に障ったのだろうか。
「どうしたキャロ?」
「………その子と私、どっちがかわいいですか?」
思いもよらない問いである。光太郎は目を丸くした。
しかしすぐにその真意を読み取り、逆に聞き返す。
「もしかして、やきもちを焼いてるのか?」
キャロの柔らかそうな頬が、直火で炙られたかのように赤くなった。光太郎も赤くなった。
主人のピンチを察したフリードが、彼の頭に齧り付いたのだ。
「いたたたっ、やめろフリード!」
「キュクルー!」
「もう、コウタロウさんのバカー!」
南光太郎は、日常に帰ってきた。