―そのアルカナは示した―


<00: The changing world>


「お目覚めですかな?」
聞き覚えのある声が、彼をまどろみから引き起こした。
俯いていた顔を上げると、彼は椅子に腰かけていた。
目の前には、一度見たら忘れられないであろう燕尾服を着た老人と、見たことのない女性が鎮座していた。
老人は口元に常人ならば頬が引き攣るほどの笑みを浮かべ、女性はただ静かに眼を閉じている。
非現実的な空間は藍色一色に染め上げられ、部屋にしては狭いそこはリムジンの車内だった。
横手のワインセラーから漏れる灯りが、仄かに彼の自然に組まれた足元を照らしている。
…ベルベットルーム。夢ではなく、かといって現実でもない空間。
物質と精神。意識と無意識。夢と現実の狭間にある場所。そして、彼にとっては馴染み深い場所でもある。
しかし、そのベルベットルームの様相は彼が知る場所とは大きくかけ離れていた。
「…イゴールさん」
いかにも、と老人は頷いた。ゆで卵のようにつるりとした頭がゆれる。
それだけならば何の変哲もないただの小柄な老人ではあるが、その異様さは何と言ってもその長い鼻とギョロリと剥かれた目であろう。
一度見たら忘れられそうもない老人…、ベルベットルーム主たる、イゴールだ。
彼はそんな老人の容姿にも慣れたもので、簡潔に尋ねた。
「…僕は、どうしてここに?」
僕は。…僕は、死んだ筈だ。平和の日差しを全身に感じながら瞼を閉じたあの瞬間、僕は確かに死を感じた。死を…そう、あのよく知っていた感覚を。

『さあ―』
 脳裏をよぎる声は、されど届かずに。

「結論から申し上げますれば、貴方は確かに元いた世界においては死した身。
しかし、貴方の魂は死の間際、無意識にユニバースの力を発動されたのです。
ユニバースの力によって貴方の魂は、今、別の世界において、体を取り戻すまでに回復なされた。」
「…別の世界…?」
「左様。あなたが目覚めた時、その世界は既に貴方の知る世界ではない。
ユニバースの力が導いた、別の次元世界です。」
「……。」
 色々と不可思議な現象を体験してきた彼をしても、理解が今一つ及びつかない。とにかく分からない事が多すぎる。
「フフ、理解できずとも無理はございませんな。契約者の鍵は、まだお持ちですかな?」
「………」
 契約者の鍵。淡い燐光を放つ藍い鍵が、彼の目の前に現れた。
それを見て、イゴールは満足げに頷く。
「さて、積る話は御座いますが、時は待ってはくれませぬ。
貴方をここにお引き留めしておくのも、些か難しくなってきました。しばしの別れと、あいなりますな。
では、またお目にかかる時まで、ごきげんよう…。」
老人と女性の姿が虚ろになっていく。
その声も朧げに霞み、意識が覚醒してゆくにも関わらず混濁してゆくという矛盾した感覚を感じながら、彼は声を聞いた。
それは今際のあのとき脳裏に響いたあの声だったのか。
それとも―…。

そのアルカナは示した。
旅路は未だ絶えず、愚者は往く。それは意義ある旅路か、ただの放浪か。

『―始まるよ。』

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最終更新:2008年09月24日 19:35