『むかし、むかし……」
美術史家エルンスト・ゴンブリッジが書いたように、全ての物語は「むかし、むかし」で幕を開ける。
故に、今から語られる物語もまた、「むかし、むかし」で幕を開けるのさ。
むかし、むかし、次元世界の中心地、ミッドチルダは首都クラナガンで、空に穴が開いたことがあった。
前触れもなにもなく、周囲の者が気がついた時には、虚空に黒い小さな穴が開いておった。
その穴は風やら稲妻やら巻き起こして、周囲はあっという間に混乱したそうじゃ。
そんな時、風や光とともに、穴の中からミッドチルダに飛び込んできたものがあった。
小さく、素早くて、その時にはだれも気づかんかったが、ソレは確かにやってきおった。
ソレは、一匹のフクロウだったそうな。
なんでソレがミッドチルダにやってきたのか、それは誰にも分からん。
たまたま次元断層に巻き込まれた漂流者だったのか、誰かが意図的に送り込んだもんだったのかも、全く分からん。
ただ、そのフクロウは一つのルールを持っておった。
そのルールによって、ミッドチルダは恐怖のどん底に落とされたのじゃ。
どんなルールかって?
簡単じゃよ。簡単で単純で、抗いようもないルールじゃ。
そのルールというのは――
―――――即ち【見られると、死ぬ】
それが起こった時、事態を正確に理解した者はおそらく居なかったであろう。
突如として虚空に開いた穴、それを見物にきた野次馬の一人が唐突に――死んだ。
口から、耳から、鼻から、目から。
全身の穴から鮮血を噴き出して、虚空でもがく様にして、死んだ。
死者が噴き出した血を浴びる羽目になった周囲の者たちは、しかしパニックに陥ることもなかった。
次の瞬間には、周囲にいた全員が、等しく血を噴き上げて死んでいたからだ。
死んで、死んで、死んで、死んだ。
その時外を出歩いていた者は、人も動物も区別なく、ことごとく死に絶えた。
建物の中にいて第一の災禍から免れた者も、異常を察し、それを確認しようと外を覗きこんだ瞬間、死んだ。
車の、列車の、飛行機の、様々な乗り物を運転していた者も息絶え、制御を失ったそれらはあちこちに激突し、さらに多くの死をまき散らした。
何が起こっているのか、理解できるものなどいなかった。
理解できないことが、益々の恐慌を招いた。
人々は恐怖に耐えきれず、事態の説明を求めてわけも分からず外へと飛び出し、そして死んだ。
虚空に穴が開き、フクロウが飛び込んできてから3日後。
その街は、完全な廃墟と化していた。
道路には積み重なるように死体が倒れ、制御を失った車が突っ込んだ店舗では火災の名残り火がチロチロと空気を舐めている。
物音一つしない、死んだ街。
その中に二つだけ、生きたモノが立てる音があった。
一つは、その翼の構造から低く抑えられた、鳥の羽音。
もう一つは、何かに呼びかけるように響く、甲高いフクロウの鳴き声だった。
クラナガン一区画が、生存者一人残さずに壊滅。
そんなことになって、平和の管理者だと名乗っている時空管理局が黙っているはずもなかった。
何度も何度も調査隊を派遣して、ようやっと、その破滅の原因が、一匹のフクロウじゃということに気がついたんじゃ。
派遣された調査隊、その全員の死と引き換えにの。
数千、数万の人間が死に、街一つが枯れ果てた。
その原因がただ一匹の鳥だということを知った時の時空管理局の狼狽は、そりゃあ見るに堪えんもんじゃった。
上に下にの大騒ぎ。こんな時まで、下らん利権争いをする連中というのは絶えんもんでな。
ようやっと決まった方針は、前例の無い生物に対するSオーバー級ロストギア指定。
殲滅指定じゃった。
中には生かしたまま捕獲して、そのルールの仕組みを解析したい、ゆうもんもおったそうな。
解析して理解できたら、兵器か何かに転用する気だったのかもしれん。
だが結局、生かしてとらえるなんぞ考えんと、即座に始末するべきじゃという意見が通った。
アレが生きておっては、人はその地で生きてゆかれん、ということじゃな。
人間が手ぇ出すべき力じゃないと、それが分かったのかもしれんわ。
そうして、対策班が作られた。
何せ相手はフクロウだからの。
管理局がこれまで相手しとったのは、人間の犯罪者やら、大昔の遺産やらで、フクロウじゃあない。
しかも、フクロウはフクロウでも、街一つ殺し尽くすフクロウじゃ。
どうやって対処したらいいか、管理局はそりゃあ困った。
そして結局は、総力を上げて戦力を集中させて、一気に片を付ける、という方法を取ったわけだ。
兵隊を片端から集めての、装備やらなんやらも揃えての。
或いは、世界にはまだこんな脅威があるのだと、そう教えたかったのかもしれん。
なんにせよ、時空管理局の持っとる人間やら戦力やらが勢ぞろいしたわけじゃ。
そう、あのエースオブエースや金の閃光、夜天の主もそこにおった。
そして、対策会議じゃな。
まずは目標を確認しようと、遠隔視の魔法が、死に絶えた街にかけられた。
全員がモニターやテレパシーで、死んだ街を見た。
積み重なった死体を見た。
壊れた建物を見た。
そして、その空を飛ぶ、一匹のフクロウを見た。
――或いは、フクロウに見られた、というべきなのかもしれんの。
それで、終わりじゃった。
見られると死ぬ。
ようやく理解されたその単純明快で絶対のルールは、ミッドチルダ全土に一瞬にして浸透した。
管理局局員の8割、およびクラナガン住民の5割の死という対価のもとに。
そのルールに例外はなく、モニター越しでも、魔法による映像投影でも、その視線にさらされた者は、ことごとく死んだ。
もはや、ミッドチルダの住人にとって、空を見上げるということは恐怖の対象でしかなかった。
なるべく外には出ず、窓からも離れて家の中で暮らす。
外を歩く時は視線を低くし、なるべく空の覗かない場所を縫うようにして走る。
そして、フクロウの時間である日没以後は、家の中でひたすら震え、朝まで恐怖に耐え続ける。
社会は麻痺し、組織は立ち行かず、クラナガンの都市機能は、完全に停滞していた。
混乱期に乗じて街を牛耳ろうとする犯罪組織、あるいは管理局の実権を握ろうとする権力者なども少なからずいたが、精力的な動きを見せるものは、その動きの過程でどこかでフクロウの目に留まり、血を吐いて死に絶えた。
そして、フクロウはそのような地上の些事など気にも留めず、ただ空中を舞い続ける。
フクロウに悪意は無かった。
フクロウに敵意は無かった。
そのフクロウはただそういうルールともって生まれたという、それだけの存在であり、あくまでも一匹のフクロウでしかなかったのだ。
そのあり様に、ジェイル・スカリエッティという名の狂科学者は狂喜にも似た憧憬を抱き、混乱状態の管理局から抜け出すと、歓喜の表情を浮かべたまま、その身をフクロウの視線にさらした。
歓喜の表情のまま血を噴き上げ、死に絶える狂科学者。
それを、同じ視線によって殺された彼の娘たちがどう感じたかは誰にも分からない。
フクロウは宙を舞う。ただひたすらに宙を舞う。
虚空を切り裂く、甲高い鳴き声。
鳥の羽音に怯え、空から目をそらす日々に、人々の疲弊が極限に達しようかという時。
動いた者たちがいた。
それは、たった4人の人間じゃった。
たった4人で、時空管理局を壊滅させたフクロウを撃ち落とそうというのじゃ。
だが、何人おってもアレの視線の前には壁にもならんのだから、いっそ丁度良かったのかもしれんがの。
一人は、クロノ・ハラオウンというての。
若いのに、提督なんぞをやっとった奴じゃ。
フクロウがやってきた時はたまたま他の次元世界で任務中での、助かったらしいわ。
もう一人はシャリオ・フィノーニ、シャーリーとか呼ばれておっての。
こっちはまあ、メカニックだの。
対フクロウ戦用の装備やらなんやらを整備しとって、モニターを見とる余裕もなかったから助かったんだと。
ん? あと二人か?
あとの二人は、正にフクロウの視線が映し出されたモニターの正面におったわ。
正面にいながら、それぞれの理由で助かったんじゃ。
この4人、一人が指揮官で、一人がメカニックなら、残る二人は。
一人が狩人で、一人はまあ、そうさな、希望、といったところだな。
「……で、戦闘機の最大速度でフクロウ相手に一気に接近。
相手の軌道と直線状に重なったところで、戦闘機上から狙撃。
そのまま相手を撃ち落とす、と……」
バカだ、バカ作戦だ、と闇夜にそびえる戦闘機の機影を見上げながら、男が呟いた。
色濃いサングラスに覆われた顔は、感心と呆れのない交ぜになった表情を浮かべている。
と、そんな男に背後から近づく影があった。
「そんなにこの作戦に不安があるなら、降りてもいいんだぞ、ヴァイス陸曹」
クロノ・ハラオウンである。
若き青年提督はその身をフライトジャケットで包みながら、からかうようなな咎めるような、微妙な視線で男を見ている。
「降りる気はありませんよ、クロノ提督。
とりあえず今生き残ってる連中の中じゃ一番マシな腕を持ってるつもりですし。
それに、この役目を誰かに譲ろうって気は起きません」
「なら愚痴など漏らすな。士気が下がるだろう」
クロノの言葉に軽く返しながら、男――ヴァイス・グランセニックは肩を竦めた。
その目を隠す黒いサングラスによって視線は覗えないが、表情には苦笑の色がある。
この状況でもあくまで生真面目な自分より年下の提督の言葉が、どこかおかしかったらしい。
「はいはい、一先ずお話はそこまでにしておきましょう」
そこへ、クロノに続いて歩いてきたシャーリーが、ヴァイスに歩み寄った。
手のひら程のプレート――待機状態のストームレイダーを、ヴァイスに手渡す。
「言われた通りの改修は行いました。動作確認も入念に行ったので、誤作動の可能性は少ないはずです」
「お、サンキュー」
「……本当に、平気なんですか? 相当無茶なチューンだと思うんですけど」
手渡しながらも、シャーリーは不安そうな声を出す。
彼女がヴァイスから要請された改修は、とにかく他の機能一切をオミットしてでも、弾速を向上させる、というものだった。
結果、ストームレイダーはその弾速と貫通性ならば他の追随を許さないが、軌道操作も誘導も一切効かない、という魔法にあらざる特性を持ったデバイスと化している。
これで殺傷指定の弾を撃ち出すのだから、質量兵器のライフルとなんら変わらないだろう。
「構わねえさ。
知り合いのハンターに聞いた話じゃ、野生動物ってのはこっちの殺気に反応して、弾が来る前にその弾道から逃げちまうらしい。
こっちの狙った位置を事前に察知されるんじゃ、誘導も何も意味がないからな」
「とにかく、相手が反応する前に打ち込む、以外に処方がないわけだ」
やれやれ、とばかりにため息を吐くクロノ。
こんな無茶な作戦、本来なら彼の好むところではないのだろう。
「まあいい。
そろそろ作戦時間だ。最終ブリーフィングといこう」
「そうですね。
それじゃあ……ええと、ヴィヴィオ」
そこで、ヴァイスはクルリと振り返った。
その場に立っていた最後の一人、金髪の輝くオッドアイの少女に声をかけた。
自分に寄り添うようにして立つ少女の縋るような視線に、心が痛むのを感じながらも、口を開く。
「俺達はちょっと秘密の話があって向こう行ってるから。
シャーリーの姉ちゃんの言うこと聞いて、ちゃんと待っててくれな?」
彼女は高町ヴィヴィオ。
エースオブエース、高町なのはの娘。
モニター越しにフクロウの視線の猛威が吹き荒れた瞬間、本能的に危険を察知したなのはが身を呈して庇ったことによって生き残った、なのはの忘れ形見だった。
少女が素直にコクンと頷くのを見て、安心させるように微笑み、ヴァイスはクロノに続いて歩きだそうとする。
その背に、小さな声がかかった。
「お兄ちゃん……」
思わず、足が止まる。
お兄ちゃん。
その呼びかけは、ヴァイスにとって特別なものだった。
「ヴァイスのお兄ちゃん、帰ってくる?」
不安そうな問いかけ。
幼いながらも、自分が母を失ったことを理解しているのか。
これ以上何かを失いたくないという、それはそんな悲痛な問いかけだった。
「……大丈夫だ」
ヴァイスは答える。
例え実際の作戦の成功率がどれほどでも、ここで口ごもることは許されなかった。
「安心して、いい子にして待ってろよ」
振り返る。
そして、安心させるように、微笑んだ。
「良かったのか?」
と、そう尋ねたのは、クロノ・ハラオウンじゃったそうだ。
「何がですか?」
と、そう返したのはヴァイス・グランセニックじゃな。
男二人は、狭い戦闘機のコックピットの中におった。
その作戦では、クロノが戦闘機の操縦を、ヴァイスが狙撃を担当することになっとったからな。
「ヴィヴィオと、もっとちゃんと話しておかないで良かったのか?
これが最後になる可能性だって……」
「さっき自分で『士気が下がるようなことは言うな』とか言っておいて、いきなりテンション下がること言わんで下さいよ」
無駄話、というわけではなかった。
ようするに、無理やりにでも神経を緩めとったわけだな。
二人とも、必要以上の緊張が害にしかならんゆうことを知っとったからの。
「俺がなんか言わなきゃいけない、てことはないでしょうよ。
俺に父親役なんてできませんし、ましてや高町隊長の代わりなんてのは務まりません」
「そうとも思わないがな」
クロノは、戦闘機の計器を確認しとっての。
ヴァイスは展開したストームレイダーを抱えるように持っておっての。
互いに、緊張の糸を張りつめさせとった。
「それより、すみませんね、クロノ提督。
管理局始まって以来の若き天才提督に運転手やらせるなんざ、本来は言語道断なんでしょうけど……」
「それこそ下らないことを言うな。
管理局自体が、もはやガタガタな状態なんだ。今さら階級も何もないだろう。
それに、先刻君が言った言葉、あれは僕にも当てはまる」
「は? 何のことで?」
「この役目を誰かに譲ろうという気はない、ということだ」
その言葉に、どれほどの情念が篭っとったのか、想像もできんがの。
「妻を、母を、妹を、友人を。無数の部下や同僚を。
ことごとく奪った相手との、直接決着だ。
外から見ているだけなど、だれがそれで耐えられるか」
つまりは、そういうことなのさ。
「……報いをくれてやる」
「クロノ提督、ヴァイスさん、頑張って……」
飛び立った戦闘機の機影を見つめながら、シャーリーは祈りの言葉を呟いた。
同時に、自分の無力が嫌になる。
デバイスを改修し、戦闘機を使用可能なまでに整備し――しかし、自分が関われるのはそこまでだ。
何の力もない自分では、前線に立つことが出来ない。
こうして行うべきことを終えてしまったら、まだ戦いは終わっていないというのに、既に祈ることくらいしか許されない。
こんな時なのは達なら、自分から前線に飛び出し、もっと色々なことが出来るのに。
いっそ、彼女らの代わりに自分が死んでいたら――
「……ってダメダメっ!」
自分の思考が止め処なくネガティブな方向に沈んでいくのを自覚し、シャーリーは首を振ってそれを払った。
これでは、作戦が失敗したようではないか。縁起でもない。
クロノもヴァイスも、作戦を成功させて、無事に帰ってくる。
ならば、それを盛大に迎えてあげるのが、自分の仕事だ。
そもそも、今に限ったって、自分の仕事はこれで終わりではない。
二人から頼まれた、大事な仕事が残っている。
「さーて、ヴィヴィオちゃん。
それじゃ、お姉ちゃんと一緒に隊舎の中に……」
そうして、シャーリーが最後の仕事――ヴィヴィオを安全な建物の中に移動させようと、周囲を見回した時。
彼女はようやく、自分の周囲に、誰もいないことに気がついた。
あの綺麗なブロンドが、どこを見回しても、見当たらない。
「え? ヴィヴィオちゃん……?」
思わずポカンとして、二度三度と辺りを見回す。
闇に包まれた無人の飛行場に、シャーリー一人が取り残されていた。
飛び立った戦闘機の機内で、クロノはGに負けないよう怒鳴るように告げた。
「そろそろ上昇を始めるぞ!
相当なGが来る! 気絶するなよ!!」
「現役A級ヘリパイロットに向って何言ってんですか!!」
ヴァイスの返答を聞くと同時にハンドルを引き、機首を上げる。
急上昇。下方向へのGが、体をシートに押し付ける。
「ハッハァ! お月さんに向かって飛べぇってな!!」
後部座席で、ヴァイスが興奮したように叫んだ。
全方位へ広大な視野を誇るフクロウ、その飛行中の唯一の死角が、上である。
フクロウの頭上を獲った上で一気に急降下し、なるべく至近距離からその身を撃ち抜く。
それが、今回の作戦の全容だった。
ヴァイスの言葉通り中天に達した月めがけて一直線に飛び、十分な高度を取ったところで水平軌道に戻る。
急造されたレーダー――シャーリー謹製の、フクロウの羽音の周波数のみを拾い上げるパッシブ・ソナーによって、宙を舞うフクロウの、更に直上へ達したことを確認する。
「さて……それじゃあ、準備はいいか?」
「よっしゃ、行けるか、相棒?」
「OK.No Problem,Master」
起動状態に戻したストームレイダー――自分の唯一無二の相棒に声をかければ、力強い返事が返ってくる。
シャーリーの整備は、やはり適切かつ綿密だったらしい。
自分の体の延長のように馴染む銃身を抱えながら、ヴァイスは声を上げた。
「うっし、いつでもいいぜ! クロノ提督!」
「ならば、行くぞ!!」
クロノが、ハンドルを倒した。
機首が一気に下を向き、戦闘機が一直線に降下する。
自由落下より更に速い加速によりマイナス方向のGがかかり、体の内側が持ち上げられるような違和感がわき上がった。
「か、はっ! そろそろだな、キャノビー開けろ! ツラ見られんなよ!!」
「分かってる! そっちこそ、しくじるなよ!!」
急激に迫る地面。この数日で一気に明かりの数が減った夜景。
それを見つめながら、クロノはコックピットの一角に備え付けられたボタンを押しこんだ。
シャーリーによって設置された炸薬が点火され、破裂。
コックピットを覆うキャノビーが吹き飛び、クロノとヴァイスは夜の空気に直に曝された。
「グ……ガァ……!!」
一気に吹き荒れる風圧、叩きつけられる大気の壁に、クロノが思わず呻きを漏らす。
――こんな風圧の中で……狙撃なんて出来るのか!?
思わず脳裏に走る疑問。
その答えを確かめようとした瞬間、後部座席から、長大なデバイスの銃身がクロノの頭上に被さった。
一瞬だけ視線を後ろに走らせれば、そこには悠然とストームレイダーを構えるヴァイスの姿。
向かい来る風も地面も一切関係ない、とばかりに不動を貫くその姿勢は、最初からこの戦闘機に備え付けられていたかのようだった。
どうやらこの陸曹は、自分が想像していたよりも遥かに優秀なスナイパーであったらしい。
その事実に心強さを感じつつ、視線を前へ。
本来の自分の仕事である操縦に専念しようと、レーダーに目を向けたその時。
「……! まずい! 気付かれたぞ、ヴァイス!!」
そのレーダーの光点に、動きがあった。
それまで周回していた軌道から大きく外れ、そのまま真上へと昇り始めている。
「こちらへ向かっている! このままじゃ……!!」
「問題ねえよ! それより、ツラ見られねえように頭下げとけ!!」
クロノの焦燥の混じった言葉を、ヴァイスの叫びが遮った。
既にクロノの言葉を聞くまでもなく、ヴァイスはこちらに向かって一気に突き進むフクロウの存在を察知している。
まだ耐えろ。
まだ撃つな――……。
「……来たっ!!」
クロノの叫びが響いた。
戦闘機の真下、既に肉眼でも確認できるほどの距離に、一羽のフクロウが現れる。
クロノは咄嗟に頭を下げ、ヴァイスは逆に悠然と体を起こした。
フクロウの視線から放たれる呪が、まるで風のようにヴァイスに向かって迸り――
「――無駄だぁっ!!」
瞬間、ヴァイスの両目を覆っていた黒いサングラス、それが呪を受け止めたかのように砕け散った。
濃い黒ガラスの奥から見えたのは、眼球ではなく、その眼球二つを抉り抜いた、生々しい傷痕。
あの瞬間。
管理局内のモニターにフクロウの視線が映り、局員の大半が死に絶えたあの時。
ヴァイスは咄嗟の本能に従い、自分の目を抉り抜いていた。
そうすることで、他の局員たちがことごとく死に絶えた中、彼は生き残ったのだ。
咄嗟に、目を抉る、という選択肢が脳裏に浮かんだ理由。
それが彼の過去、自分の妹の左目を誤射した、あの記憶に根ざしていることは間違いなかった。
自分の腕で、妹の左目から永遠に光を奪ったという事実。
幾度も、自分の目もまた抉ってやろうかと考え続けた日々。
それにより、『目を潰す』という行為が、ヴァイスの中に色濃く残っていたのだ。
それは間違いなくヴァイスのトラウマであったが、そのトラウマ故に、ヴァイスは命を救われていた。
妹に、ラグナに救われたのだと、彼はそう思っている。
――そのラグナも、もういない。
あの日。
管理局内にてモニターにフクロウの視線が映し出された、あの日。
同じ映像をライブ中継していたテレビによって、クラナガン全土で、死者が溢れた。
その中には、兄の仕事を心配して病院のテレビを見つめていた、一人の少女も含まれていたのだ。
「――――お、嗚呼ああぁぁぁぁっ!!」
赤熱する脳内。
それを隠すことなく、ヴァイスは吼えた。
フクロウの呪いは、視線とともに放たれて、相手の目から潜り込む。
その目が隙間なく潰されていたことにより、呪いは一瞬だけ弾け、ヴァイスの前から退いた。
無論、一瞬である。
その身がフクロウの視線の下にある限り、例えその目が潰れていようと、今度は呪いは耳から入りこむ。
盲目程度で防げるほど、そのフクロウの持つルールは甘くない。
稼げたのは、ほんの一瞬の時間に過ぎないのだ。
――そして、ヴァイスにはその一瞬で、十分すぎるほど事足りた。
彼が行うのは呪文詠唱でも魔法発動でもない。
ただ、その引き金を引き絞るだけなのだから。
この距離ならば、如何にフクロウの回避能力を持ってしても回避など不可能だ。
シャーリーによってチューンされたストームレイダーの放つ弾速は、質量兵器のライフルのそれを凌駕する。
故に、今ここでこのフクロウは墜とされる。
ヴァイス・グランセニックの命と引き換えに。
「―――駄目ええええぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
瞬間、夜空に声が響き渡った。
「な!?」
「んなぁっ!?」
クロノとヴァイスの驚愕の声が重なった。
二人が声の方向に視線を向ければ、狭いコックピットのどこに隠れていたのか、そこには金髪にオッドアイの少女の姿がある。
「ヴィヴィオ!? 君は、なにを……!」
「ダメ! ダメなの! ヴァイスのお兄ちゃんは死んじゃだめ! クロノのお兄ちゃんも死んじゃだめ!
もう、もう誰も死んじゃだめなの!!」
クロノの声にも答えず、ヴィヴィオは叫ぶ。
瞳に涙を浮かべ、拒絶するように頭を振りながら、それでも、強く、強く。
「もう誰も死なせないって、私が皆を守るって……
なのはママと約束したんだからあああぁぁぁぁぁっ!!!」
瞬間、戦闘機が光に包まれた。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。虹色の極彩色の光が周囲を包み、フクロウと戦闘機との間を遮る。
「……聖王の、鎧」
クロノが、呆然と呟いた。
ベルカに古来より伝わる、聖王を守る絶対の盾、聖王の鎧。
まさか、これが……
「……っ! そうだ、ヴァイス、奴は!」
「問題ねえ」
焦りを帯びたクロノの言葉に、ヴァイスは落ち着いた声で答えた。
ヴィヴィオの登場には驚愕した。聖王の鎧にも仰天した。
しかし、このストームレイダーを構えている時の彼はスナイパーであり、全ての感情はその事実の下に統制される。
全ての驚愕から瞬き一つの時間もかけずに復帰し、ヴァイスはそのスコープの向こうにフクロウの姿を捉えていた。
絶対の盾である聖王の鎧をもってすら、このフクロウの呪いは完全には防げない。
虹色の光の隙間から、その呪は染み出すようにしてにじり寄っている。
しかしその速度は遅く、ヴァイスの命を奪うには、あと数秒の時間が必要だったろう。
それは、今度こそ、十分過ぎる時間だった。
「これで、終わりだ」
引き絞られる、引き金。
その銃口から、超高密度に凝縮された魔力弾が音も無く放たれ、大気を、虹色の輝きを割いて直進する。
そして。
ボン、という呆気ない音とともに、フクロウの額に穴が開いた。
「終わった、か」
低空で水平飛行に移った戦闘機、その後部座席で、ヴァイスは呟いた。
その腰には、しがみつくようにして寄り添うヴィヴィオの姿がある。
さて、これは怒るべき場面なのか、とヴァイスは苦笑した。
自分の言いつけを聞かず、勝手に戦場まで紛れ込んだのは、間違いなく問題だ。
しかし、結果としてそれに助けられてしまったわけで、どうにも怒りづらい。
どうしていいか分からず、誤魔化すように、ヴァイスはヴィヴィオの髪を撫でた。
「……ちょっと待て、これは、奴が落ちてこないぞ? それどころか、今も羽ばたいて……
まさか、まだ生きているのか!?」
レーダーを覗いていたクロノが、唐突に叫んだ。
焦った動きで、キャノビーが吹き飛んだコックピットから頭上を見上げる。
「……問題ねえよ」
なんだか、この夜の間に何度も口にしている気がする台詞を吐きながら、ヴァイスもまた、上を見上げた。
潰れた目に、視界は無い。
しかし、それでもヴァイスは見えた気がした。
呆れるほどの星空と、大きな月。そして、そこを羽ばたく黒い影。
「今思い出したんだが、昔、狙撃仲間のハンターに聞いたことがあった。
野生の鳥の中には、致命傷を負ってもなお羽ばたくことを止めずに、そのまま飛び続ける奴がいるんだそうだ」
「……それじゃあ、奴は死んでいるのか?」
「ああ、間違いねえ。確実に、頭を撃ち抜いた」
そうして、後部座席から立ち上がると、そのまま後ろに体を反らす。
「何がしたかったのか知らねえが、こんだけ殺しまくったんだ。
いい加減、満足しただろうよ」
「違うよ」
ぼそりと宙に投げた言葉には、しかし否定の返事が返ってきた。
怪訝に思って視線を下せば、こちらの腰にしがみついたヴィヴィオが、その目でこちらの顔と、月を泳ぐフクロウの影を追っている。
「違うよ、ヴァイスお兄ちゃん。
あの子は、誰かを殺したかったんじゃない」
ふるふると、悲しげにその顔が振られた。
「あの子はただ、飛んでいたかっただけ。
飛んで飛んで、どこまでも飛んで。いつか、自分と一緒に飛んでくれる人を見つけたかっただけだよ」
一人ぼっちは、悲しいから。
そう呟いたヴィヴィオの脳裏には、どんな思いが渦巻いているのか。
それを想像しようとして、すぐに止めて、ヴァイスは改めて上を見上げた。
見えない目に、浮かぶ光景。
目も眩むような金の月光の中を、どこまでも泳いでいく、フクロウの影。
「……一人ぼっちは寂しい、か」
ぼそりと呟いた言葉にどんな思いが篭っていたのか、自分でも分からない。
「いいさ、飛んでいけ。
悪いが、俺達はお前とは一緒に飛べない。
だから、どこまでも、どこまでも飛んでいけ」
その言葉が宙に消えるのと同時に、空高く昇ったフクロウの影が、月の光の中に融けて消えた。
「本当に行くのか? 僕としては、出来れば残ってほしいんだがな」
「ま、仕方ないでしょう。クロノ提督には、本当迷惑かけるとは思ってますけど」
数日後、クラナガン。
時空管理局の正門前で、4人の人影が向かい合っていた。
クロノ・ハラオウン。シャリオ・フィノーニ。ヴァイス・グランセニック。高町ヴィヴィオ。
あの夜、フクロウと戦った4人である。
その後、ヴァイスが時空管理局を辞職し、ヴィヴィオを連れて何処か旅に出る、というので、その見送りに出ているのだ。
「まあ、確かにこれ以上残っていると、流石に抜け出すこともできなくなるわよねぇ」
シャーリーが、溜め息交じりに呟く。
現在、クラガナンが急激な復興ムードが漂っている。
クロノにより、脅威の原因であったフクロウの撃退宣言が為されてから数日。
はじめの内は、半信半疑で外を窺っていた人々だが、何日たっても特徴的な甲高い鳴き声が聞こえないことで、ようやく脅威が去ったことを受け入れたらしかった。
とはいえ、それで完全に事態が元通り、とはいかない。
なにせ、秩序の中枢であった時空管理局は、未だに機能停止状態なのだ。
これ幸いとばかりに火事場泥棒に手を出す犯罪組織。
時空管理局になり変って次元世界の支配権を握ろうと動き出した各組織。
ある種の抑止力となっていたフクロウが消えたことで、これらのきな臭い動きが、僅か数日のうちにあちこちで漂っていた。
ある意味でフクロウとの戦いより遥かに厄介な、誰が悪で誰が敵なのかも判然としない、ドロドロとした戦いの気配が色濃く成りだしている。
そんな中で、この二人は間違いなくキーとなり得るだろう、とクロノは冷静に思う。
片や、各地のベルカの民が待ち望む、現代に蘇った『聖王』
片や、時空管理局を壊滅させた怪物をその手で撃ち落とした『英雄』である。
彼らを象徴としてプロパガンダを行えば、民衆の心を掴むのは遥かに容易になるだろう。
しかし、だからこそ――
「まあ、これ以上ここにいると、ヴィヴィオに見なくていいもん見せちまいそうだからな。
ヴィヴィオも、まあいつかはそういうのを知って、背負って行かなくちゃいけないんだろうが、流石に今はまだ早い。
俺も、政治の道具にされんのは嫌だしな」
――その通りだろう、とクロノはヴァイスの言葉に頷いた。
確かに、ヴィヴィオは政争の切り札となり得る。
しかしそれは、この10にも満たない少女の肩に凄まじい重荷を背負わせることなのだ。
人造兵器として生まれ、ようやく母を得て、しかし今回、その母を失って。
これ以上、この少女に何を背負わせ、何を奪うというのか。
それならば、『聖王』も『英雄』も、最初からまとめていなかったことにした方がよほど良い。
彼らの分も、自分が血を吐き、泥を被ればいい話なのだ。
――若くして提督などという地位について、それなりに私情と仕事を切り離して考えられるようになったつもりだったけど。
なんだかんだで、仕事よりヴィヴィオという少女を優先している自分に、苦笑が漏れる。
だが、それが悪いとは思わない。
彼女は、自分の幼い頃から友人や義妹の忘れ形見なのだ。
そんな彼女すらも仕事の道具として見るようになっては、人としての破綻だろう。
人の導き手になるのであれば、その者もまた、確かに人であらねばならないはずだ。
「まあ、その通りだな。これから先のことは、ヴィヴィオには明らかに悪影響だ。
フクロウの相手は君に任せたんだ。人間の相手は、僕に任せろ」
「……本当に、すみませんね、提督。
情けないけど、よろしく頼みます」
「しおらしいことだな。
あの夜みたいに、ため口でも構わないんだぞ?」
「勘弁してください……」
フクロウと戦った、あの夜。
途中から精神が昂りすぎたのか、ヴァイスの口調は明らかに乱暴なものになっていた。
クロノとしては大して気にも留めていないのだが、ヴァイスにとってはばつが悪いらしい。
表情をしかめて顔を逸らすヴァイスに、クロノは他意のない笑みを浮かべる。
「……それじゃ、そろそろ行きます。
あとはよろしく頼みます、クロノ提督。シャーリーも」
「クロノお兄ちゃん、シャーリーお姉ちゃん、ありがとうございました」
「ああ、任せろ」
「ヴァイスさんもヴィヴィオちゃんも、体に気をつけてね」
クルリと背を向けて、ヴァイスとヴィヴィオが歩き出す。
二人の手が自然と重なり、更にヴィヴィオが、目の見えないヴァイスを先導するように数歩前に出た。
重なるように歩きだす二人を、クロノは目を細めて見る。
「……一人ぼっちは寂しいから、か」
或いは、それは代償行為なのかもしれない。
自分を守ってくれる、母親を失った少女と。
自分が守るべき、妹を失った青年と。
互いの抱えていた欠損が似通っていたから、それをお互いの存在で埋めているだけなのかもしれない。
――だが、それの何が悪い。
クロノはそう思う。
彼らは生きているのだ。そして、これからも生きていくのだ。
そのために互いの存在が必要ならば、寄り添うことを躊躇う理由などあるはずがない。
寄り添えるなら、やはり人は誰かと寄り添って生きていくべきなのだ。
誰だって、一人ぼっちは寂しいのだから。
「行っちゃいましたね」
角を折れて見えなくなった二人の方向を見つめたまま、シャーリーは呟いた。
「ああ、そうだな」
「また、会えますよね」
「いつかは会えるだろうさ。別に今生の別れというわけでもない」
そういって、クロノは大きく背伸びをした。
背骨が、ポキポキと音を立てる。
「さて、いい加減戻ろう。
仕事はまだまだ山積みなんだ」
「そうですね、私たちは、私たちのやるべきことをやらなきゃ」
そう言って、クロノとシャーリーが踵を返した時。
ビーッ ビーッ ビーッ ビーッ
唐突に、クロノの通信素子が甲高い音をたてた。
エマージェンシー。緊急通知だ。
「……なんだ?」
クロノが、疑問符を浮かべながら通信に出る。
「ああ、僕だ……なに? 何を言って……まさか………間違いないのか?」
その応答を横から聞いていたシャーリーは、話が進むごとにクロノの表情がどんどん引き攣っていくのが分かった。
やがて通信が切られると、引き攣りすぎてなんだか半笑いになった表情で、クロノがこちらを見つめてきた。
「……あのー、クロノ提督? 一体なんの通信で……」
「……フクロウに続いて、今度は狐だそうだ」
「は?」
訳が分からず間の抜けた声を出すシャーリーに、クロノは引き攣った半笑いのまま説明する。
「ミッドチルダ郊外で、九本の尻尾を持つ巨大な白い狐が暴れていて、周囲一帯が破壊し尽くされているらしい」
「……えーと、それで」
「僕らに、応援に駆け付けろ、だそうだ」
チーン。
クロノとシャーリー、二人の間に沈黙が横たわり、乾いた風が駆け抜ける。
「…………あの二人を呼び戻せっ! 僕は装備の用意をしてくるっ!!」
「は、はいぃ!!」
バタバタと、クロノとシャーリーは駆けだしたのだった。
『むかし、むかし……」
美術史家エルンスト・ゴンブリッジが書いたように、全ての物語は「むかし、むかし」で幕を開ける。
故にこの物語もまた、「むかし、むかし」のお話なのさ。
むかし、むかし、次元世界の中心地、ミッドチルダが大混乱になったことがあっての。
何の因果か知らんが、立て続けにとんでもなく厄介なことが起きていたのさ。
見られただけで人が死ぬフクロウが現れたり、九本の尻尾が化け物に変化する巨大な狐が出たりの。
謎の病気をまき散らす人形のサーカス団が出現したり、火を吹くバネ足の怪人が町を騒がせたりの。
おとぎ話の中の登場人物が、現実で暴れだした、なんてこともあったわな。
いちばん最初の事件、いま語った、視線で人を殺す『邪眼のフクロウ』の事件で、時空管理局はもうガタガタじゃったから、そりゃあ大変なことになった。
しかしの、そんな中で、事件の中におって、事件を解決しようとドタバタしとった連中がおったんじゃ。
一人は、黒い髪の、生意気な青年将校。
一人は、眼鏡をかけた、穏やかなメカニック。
そんでもう二人が。
そうじゃな、盲目の狩人と、幼い金髪の聖王じゃ。
そう、『四英雄』なんぞと呼ばれとる、そんな連中じゃよ。
今のお話は、その4人が、初めて4人でぶつかった事件。
『四英雄』の初めての事件なのさ。
4人の、始まりの物語だよ。
さ、これで、お話はお終いだ。
……ん? なんだ?
まだ、お話を聞きたい。
……ふふ、しかたないの。
なら『邪眼のフクロウ』の次の事件、『九尾の白面』のお話でもしてやるかの。
よく聞きなさい。
むかし、むかし…………
時空管理局 元帥
クロノ・F・ハラオウンの昔語りより
最終更新:2009年01月15日 19:15