私にしか出来ない私の戦いをしろ、そう彼女は言ってくれた。
確かに、此処には既に自分の居場所などないのかもしれない。否、元より異邦人でしかなかった自分には最初から居場所など存在していなかったのだろう。
だからこそ、この大地の上においてはもはや自分は無力な存在でしかなく、何の役にすらも立つことができない。
無理に我が儘を通そうとしても、それは決して自分勝手なことでしかなく良い結果すらも生むことはあるまい。
……ああ、分かっている。それくらいのことは自分だって分かっていた。
けれど、それでも彼女―――桐生水守にはまだどうしても帰るわけにはいかない理由があった。
まだどうしても逢いたい人が居た。そして伝えねばならないことがあった。
クーガーは言ってくれた。自分はただ社会の歪みを垣間見ただけに過ぎないと。
ジグマールは示してきた。真実を知ったところで無力な自分に出来る事など何もないと。
なのはは教えてくれた。それでもまだ自分には戦える道はあると。
そのどれもが水守にしては受け入れねばならない事実であると同時に、他者から示された与えられた道でしかなかった。
その道を歩むことに抵抗感があった……納得のいかぬ思いがあったからこそ、その理由もあるだろう。
だが水守にとって大切だったのは、結局それらを示された後に気づいたたった一つのことでしかなかった。
何も出来ず、心の道筋すら見つけられなかった自分。
だがそれでも……元より此処に来た理由はそんなものではなかったはずだ。
真実を知る為に、この大地に自分は舞い戻ったのではない。
事実を知った自分がどう行動するか……それが問題だったはずだ。
それこそが桐生水守の行動原理。
かつてロストグラウンドに舞い戻って直面した現実に戸惑いや反感、納得できない思いを抱き真実を知ることに走ったように。
ならばその真実を知ってしまった自分が、次に何を選び、どんな行動に移るかだ。
己の思いと正直に向き合い、散々に迷い、けれど結局は捨て切れない思いがソレを決めた。
これは本当ならば裏切りになってしまうのだろう。危険を冒してまで、それでも自分を助けようとしてくれた、この大地で出来た新しい友達への。
心が痛む、申し訳ないという思いで一杯になる。
けれど、結局彼女はこの道を選んだ。
きっと、今この道を選ばないと自分はこれから先も正直になれない。自分自身にずっと嘘を吐き続けて、己の思いそのものから逃げ続けなければならなくなると思ったから。
だから、後悔をしたくないからこそ桐生水守は選択した。
それがきっと例えようもないほどに傍迷惑で馬鹿らしい、そんな我が儘だという事を承知の上で………
そして桐生水守は此処にいた。未だ、このロストグラウンドの大地の上に。
あれから本土行きの飛行機には結局乗らず、なのはやクーガーに気づかれないようにこっそりと空港から出た水守は、その足で市街を脱出した。
なのはたちには迷惑をかけられない、そしてホーリーのお膝元である市街は危険だ。
そんな考えから、水守は単身荒野を彷徨い続けた。
当てがあったわけではない。それでも目的と逢いたい人物がいた。
その人物に逢う……きっと未だ荒野側の何処かにいるはずだ、そんな考えで水守は彼―――劉鳳を探して歩き続けた。
だがやはり自分の行動がいかに無謀であったかは、荒野を歩き続けて直ぐに水守自身にも痛いほどに自覚できた。
何せ目的の人物である劉鳳が何処に居るかも分からない。加えて、人の足……ましてや非力な小娘でしかない自分が歩き回るにはこの大地はあまりにも広い。
結局、何処とも分からぬ廃墟街へといつの間にか迷い込んでいた水守は、歩き通しであり蓄積された疲労も相まってか、足元の出っ張りに気づかずにそれに躓き転んでしまっていた。
転んだ拍子に足に怪我を負ったのか、苦痛の表情を浮かべながら膝を抱えて蹲る水守。正直、合わさった疲労もあり体はこれ以上の立ち上がっての行軍に拒否をありありと示していた。
だがそれでも、自分は行かなければならない。使命感とは別種の強い思いを糧としながら水守は体に鞭打ち立ち上がる。
逢わなければ、劉鳳に逢わなければ………。
そんな想いを必死に心の支えとして、水守は再び歩き始めようとした……まさに、そんな瞬間だった。
直ぐ近くから聞こえてくる物音、そして下卑た笑い声。
振り向けば、そこには如何にも柄の悪そうなインナーが三人、こちらを獲物とでも見るような視線を向けてきていた。
荒野側の、それも彼らのような若いインナーがどれ程危険な存在かは、水守も知識としては知っていた。
だが実際に、それがどれだけの危険なことであるかを本能的に水守は此処で初めて察することとなる。
「そんな嫌そうな顔するなよ。何もしやしねえって」
真ん中のリーダー格の男が水守に対してそんな言葉を発してくる。当然、相手の雰囲気や態度から見ても到底信用できる言葉ではない。
むしろ、水守やなのはのような人種には到底理解しがたいことだが、信じるなどという行為は馬鹿を見るという結果しか生まないという風潮が、この荒野側の若いインナー間の間にはある。
「ただ……ちょっと経済的援助って奴をお願いできないかなと思ってねえ」
要するに、身包み含めた金目のものを全て置いて行け……そうこのインナーたちは言ってきているのだ。
無論、水守にとってそんな要求など呑める筈が無い。身の危険を感じ取ったという理由も合わさって、痛む足を無理矢理に動かしながら追剥たちから逃げようと走り出す。
だが直ぐに捕まり、瓦礫を背にした逃げ場の無い壁際まで追い詰められる。
元より非力な娘でしかない水守では、悪漢たちを相手に逃げられるはずも無い。
「こんなところでこんな拾い物をするとは思わなかったな」
「しかもかなりの上玉だよ」
売り飛ばせば高く売れる、そんな品定めをするかのような追剥たちから下卑た視線を受け水守の背筋には悪寒が走っていた。
劉鳳に逢わなければならないというにの、こんなところでこんな連中に捕まるわけにはいかない。
そんな思いを最後の抵抗とするように隙を見て、相手の横合いをすり抜けようと駆け出す。
……が、それもやはり失敗。あっさりと捕まり体を拘束される。
悲鳴を上げながら激しい抵抗を示す水守だが、下卑た視線と笑いを示してくる追剥たちからは逃げられるはずもない。
「嫌ぁ! 離して! 離してッ!」
それでも必死になって抵抗をし続ける水守だったが―――唐突に、その自分の言葉通りいきなり離されその勢いで地面へと膝をついていた。
自分自身で必死に抵抗し、叫び上げていたとはいえまさか連中がそれを聞き入れるなどとは思っていなかったため、暫し呆然としながら水守はインナーたちを見上げた。
その水守の目に映ったのは直立した視線を維持したまま虚ろな表情を浮かべているインナーたちの姿。
奇異なその姿にそれ以上に驚いた理由が彼女にはあった。それは―――
「女性一人でこんな場所をうろつくなんて……」
そんな声が突如この場へと響いてくる。
その間にインナーたちはしっかりとした足取りでこの場を去っていく。……その額に緑色の光玉を張り付かせながら。
インナーたちが去っていくのとほぼ同時、瓦礫の影から現れ姿を見せる人物が一人。
水守を呆れたような、それ以上に無謀な行動に対して非難を示すような視線をハッキリと見せながらその人物は口を開く。
「……貴方は………」
呆然と彼を見上げ返す水守に応えるように。
「いったい何を考えているんですか、貴女は?」
橘あすかは説教でもするような厳しい態度でそう言ってきた。
……クソッ、奴ら疲れってものを知らねえのか?
そんな苛立たしげな舌打ちを突きながら、逃げるこちらに併走してくるダースたちをカズマは睨みつける。
相手の驚異的なそのしつこさもそうだが、戦い続けていてそれ以上に腑に落ちない奇妙なことがカズマにはあった。
(こんなに何度も技を使ってりゃあ、普通能力が落ちるはずだってのにッ!)
アルター能力とて何も無限の力というわけでは無い。
人間が扱う能力であるからこそ、やはり体力や精神力の消費というのは避けられない。人間走り続ければ誰だって疲れる、それと同じようにアルター能力とて酷使を続ければ絶対に無視できない疲労が溜まるものだ。
強力な能力であればある程、それは比例するかのように明らか。経験者ゆえに誰よりもカズマがそれをよく知っている。
だというのに、こいつ等は何だ? 物理攻撃を無効化するように体の構成そのものを霧状に変える……カズマにとっては最も相性が悪いと言っても良い能力だ。
だが何度も使っていれば、普通この手の強力な能力は使用に限界が来るなり、霧状になるその速度だって極端に落ちるはずなのだ。
だというのに、併走してこちらを追い詰めてくるその体力とも合わさって、霧状になる速度が落ちるどころか、能力そのものの疲労を垣間見せもしない。
本当にこいつら人間か、そんな薄気味悪さをしつこく追い続けてくる苛立ちと相まってカズマが抱いたとしても無理は無かった。
走り続けていた先が急斜面になっていることに気づき、カズマは飛び降りるかのように宙へと身を舞い上げる。
だが其処を突く様に、空中で蹴り飛ばされ、何とか上手く着地するのと同時に追撃で再び蹴り飛ばされる。
徹底した連撃のコンビネーション、地味に効いてきているその攻撃もまたカズマにとっては実に不満であり厄介だった。
NP3228を着実に追い詰めていく黒ダース部隊。
“絶対知覚”を用いて彼らを指揮する管制役となりながら、イーリィヤンは確実に包囲網を完成させていっていることに満足気に頷く。
「そろそろ、かな……」
全ては順調、計画通りにカズマは追い詰められ始めていた。
拘束された君島達は車を没収され、ホールドの装甲車へと乗せられ、牧場の人々が集められた場所にまで連行させられた。
いかつい装甲車の中から銃を突きつけられて出てきた君島達は住民たちの視線を一身に浴びる存在ともなっていた。
牧場においての人気者、大人たちの好意を向けられる象徴であったかなみが傍らに居たのだからそれも尚更だった。
「あら、かなみちゃん」
「……何だ、あのチンピラも一緒か」
基本的に君島はカズマとつるんでいることと相まってか、牧場の人間たちからの受けはカズマと同様にあまり宜しくない。君島自身とて彼らとは余り交流を持っていないのだからそれも当然ではあるが。
「NP3228の共犯者を連行しました。……はい、主犯はまだホーリー部隊と戦闘中のようで」
無線機に向かって報告を告げているホールド隊員のその言葉に、住民たちはざわめき出す。
共犯者……明らかに聞くには宜しくない不穏な単語に住民たちの君島へと向ける視線は不審と非難が籠もったものへとなっていく。
「……結局こうなっちまうのか、俺たち」
悔しげに呟く君島の胸中は無力感と後悔に満たされたものとなっていた。
相棒との約束も守れず、かなみまでホールドに捕らわれてしまったのだ。それも尚更と言うものだろう。
だがかなみが不安気な視線でこちらを見上げている事に君島は気づいた。
……この子を心配させるわけにはいかねえだろ。いくら役立たずのヘタレとはいえ、小さな女の子一人の不安も払拭できずに何が男か。
男の子としての意地と矜持、それを必死に支えとしながら、
「心配すんなって」
俺が付いてるから、そうかなみを安心させるように微笑みながら優しく告げる。
そう、せめて自分がどうなろうともこの少女だけは護る。絶対に、だ。
だから、カズマ……お前だけでも―――
(―――せめて、お前だけでも逃げ延びてくれ)
それが君島が現状で唯一抱ける希望であり、願いであった。
「……本当は合法的とは言えないんですが、僕は訳あって市街と荒野を繋ぐブローカーの手伝いをしているんです。ホーリー隊員でないアルター使いにはこんな仕事しかありませんからね」
「……そう、ですか」
まだ駆け出しですけどね、そんな苦笑を浮かべながら紙コップに入れてくれた水をこちらへと差し出してくれる橘あすかに水守は恐縮しながらもそれを受け取る。
あの場で橘に助けられた後、水守は彼に連れられ彼の事務所へとやって来ていた。
ホーリーを脱退したとは聞いていたし、顔見知りであり任務も同行したこともあるが水守は橘とはそれ程親しくもなければ、彼の事をよく知っているわけでもない。
それでも何処か以前と比べても雰囲気が変わった今の彼は、多少の戸惑いを覚えるのと同時にどこか安心できる存在でもあるかのようだった。
言い方は悪いかもしれないが、水守の目から見ても以前の橘は典型的なホーリー隊員でもあり、あまり好感を持てる相手でも無かった。
自身のアルター能力を誇り、ある種の傲慢さをもってインナーを野蛮と見下す……そんな節が態度のそこかしこにあったはずの彼だが今はそうでは無い。
物腰の穏やかさは相変わらずであり、若気による血気盛んさもクールさで隠しているようだが同様だろう。
しかし精神的に何がしかの変化を経たのか、まるで今までの憑き物が落ちたと言わんばかりの清々しさのようなものを彼は発していた。
或いは彼も得たのかもしれない。ホーリーを辞めることによって、自身の中での確固とした答というものを……。
「それより桐生さんは何故一人であんなところに?」
「……それは………」
橘の当然とも言えるその疑問に水守は返答に言葉を詰まらせる。
本土の令嬢が、あんな治安の悪い場所でたった一人で行動する。未だ自分をホーリーに所属していると思っているのだろう橘の眼から見れば、それこそ正気の沙汰とも思えなかったのだろう。
だからこそ、水守もまた戸惑っていた。はたして彼に詳しい説明をしてもいいのかどうかを。
下手をしたら、それこそホーリーから解放された彼を再び巻き込むことになるかもしれない。そんな不安と後ろめたさが水守に言葉を告げる事を躊躇わさせていた。
橘もまた水守のその様子から何がしかの事情を察したのだろう、無理に追求してこようとはせずただ黙ってこちらが次に言葉を口にするのを待ってくれていた。
あまり好ましくない類の沈黙が橘の事務所内を満たしていた……そんな時だった。
『―――番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします』
点けたままBGM代わりとなっていたあまり映りの宜しくないテレビからそんな言葉が流れてきたのは。
水守と橘、そのどちらもの視線がテレビに向かって集中する。
テレビの映像は映されていたキャスターから、煙が立ち込めている丘の光景へと移り変わっていた。
『当テレビ局のスタッフが、ネイティブアルターと特殊任務用警察部隊『HOLY』との戦闘映像を入手しました』
いったいどういうことだと目を見張る二人とは対照的にキャスターは興奮した様子で説明を続けている。
『ご覧下さい、この映像を。これは信じられないことに一人のネイティブアルターによって引き起こされた事態なのです』
切り替わる映像、燃え上がる牧場、破壊されつくした悲惨な光景の数々。
『犯人は彼です! この少年です!』
キャスターの捲し立てる言葉と同時に、映像は次に一人の男の姿を映し出していた。
水守にしても橘にしても、その驚きは並大抵のものではなかった。
それも当然か、彼らにとってその男はよく知っている人物だったのだから。
NP3228……カズマという名の男の顔がテレビの向こうではでかでかと映し出されていた。
「―――カズくん!?」
かなみがその名を叫びながら駆け出すようにカズマが映し出されたモニターへと近付いていく。
己の大切な同居人がいきなり牧場を破壊した犯人扱いで登場したのだ。彼を心の底から慕っている幼い少女にしてみればその衝撃は計り知れない。
それは彼女とは違う意味においても他の連中も同様だった。
「これ、アイツ!?」
「下働きの奴でしょ!?」
「……アルター使いだったのかよッ!?」
激しい動揺や怒り、嫌悪感も顕にしたようにかなみや君島の前であることにも関わらず捲し立てていく大人たち。
誰も彼もが自分たちが築き上げてきたものを台無しにした張本人として、カズマのことを認識し始めていた。
そんなざわめきの中、ただ君島だけが呆然とそのままの場所で立ち尽くしたまま映るモニターを見続けていた。
その報道されているあまりにもな内容に歯噛みしながら……
「……犯人、だと………?」
ここまで最低最悪のジョークを君島邦彦はかつて一度だって聞いた事は無かった。
「大変だ! 07地区の情報が流れてるぞ!」
「何だって!?」
慌ただしく叫びあいながら駆け回っているホールド隊員の様子を見て、スバルは何事かが起こっている事を確信した。
先程、本隊からの命令を受け単独で帰還していくヴィータを見送っての直後のことである。
エマージーとの一件が部隊内で明るみとなってしまい、たった一人であることとも相まってか何処か肩身の狭い居心地で邪魔にならないところにいようと思っていたスバルだったが只事ではない状況を察し、トレーラーへと即座に向かう。
「どういうことよ!?」
「本土側がビビらないようにアルター使いの情報は流さない規則じゃ無かったのか!?」
トレーラーの中ではまるで口論するように声を荒げ苛立っているシェリスに瓜核、そして明らかに不機嫌な沈黙を保っている劉鳳がいた。
状況が状況なだけに、目の前の信じられないイレギュラーに戸惑っているのかコッソリと覗き込んでいるスバルには気づいていないようだった。
入り口付近から覗き込むように、気づかれないようにしながらスバルは映し出されている映像と情報を即座に確認し、驚愕した。
報道されているニュース番組、そこに映っていたのはあのカズマであった。
それもなんと大規模破壊を行い、ホーリー部隊と交戦しながら未だ逃走中といった内容である。
ホーリーの施設を襲って彼らと戦っている……そうだとするなら、それは今更ながらスバルとしても別に驚くほどのことでもない。
だが彼女が信じられなかったのはカズマが破壊したというその対象だ。
インナーたちが暮らし、働いている農場……そこに惨劇を作り出したのが彼だというのだ。
(……そんな……カズマさんが……そんな事を……?)
到底、スバルには信じられることではなかった。
以前にエマージーの非道にあれ程の怒りを示し、インナーたちを護ろうとしていた彼がインナーを攻撃?……ありえるはずがない。
それに彼には相棒の君島邦彦がいるではないか。インナーを助ける為に必死になって自分と協力してくれた彼が、そんなカズマを止めない筈もない。
これは意図的に改竄された報道……そう自然とスバルが行き着いたとしてもそれはおかしくなかった。
(……違う。あの人は……あの人たちは、インナーを護る為に戦ってるんだ)
それだけは絶対に間違ってはいないはず。そしてその為に今ホーリーと彼らが戦っているというのなら……報道された構図はまったくの逆ということになるのではないのか。
そう思い至ったスバルの中に生まれた感情が何であったか正確には彼女自身にも理解できない。
だがそれでも画面の向こうで今尚も苦戦を強いられているカズマの姿を見て、放っておけないという強い欲求が生まれていたのも事実である。
助けたい、彼らを……そうスバルが正直に思ったのは間違いの無いことだった。
けれど、そう思う一方でやはり即座にその行動には移れない楔が彼女に突き立てられていたのも事実だ。
時空管理局機動六課前線部隊スターズ03……スバル・ナカジマ。
己の立場を改めてスバルは見つめ直した。
己に与えられた任務、管理局の一員として背負っているものとその立場。
誰に味方をして、誰を護り、誰を救わねばならないのか……
痛いほどに理解できているスバルには、どうしてもそれを擲ってしまうかもしれない恐れが一歩を踏み出させようとはしない。
父の顔が姉の顔が、なのはをはじめとした上司たちの顔が、ティアナをはじめとした同僚たちの顔が脳裏に過ぎる。
……其処に、正義はあるのか?
ずっと抱き続けてきた疑問、もう答も思いも出ているのに、あそこに残している者達への想いがスバルを押し留めている。
皆に迷惑はかけられない、かけるわけにはいかない。
正義と仲間への想いを天秤に掛け、まったくの五分であったからこそ揺れ動き迷い、罪悪感が自身の身の内へと突き立っていく。
(……私は、卑怯で弱虫だ)
情けない、そう自分自身でも素直に思う。正直になれず言い訳を探して、嘘で塗り固めた納得の理由で自分自身に言いきかせようとしている。
失うかもしれないことが怖い、大切な人たちに迷惑をかけてしまうかもしれことが恐ろしい。
だから己の信念に、正義にちゃんと向き合えない。
こんなに情けなくて惨めな自分に護れるものなど何も―――
『―――行きましょう、相棒』
唐突に聞こえてきたその声にそれこそ呆然としながら、スバルは己が首から提げていた待機状態のデバイスを見下ろす。
「……マッハ、キャリバー………?」
相棒が告げてきた唐突なその信じられない言葉に、スバルはただ応えるわけでもなく意味を図りかねたようにただただ戸惑う。
だがマッハキャリバーもまたそんなスバルのことを理解しているのだろう、そんな戸惑う彼女を責めるわけでもなくもう一度その言葉を告げる。
『行きましょう、相棒。……あなたは、行きたいのでしょう?』
「で、でも………」
相棒の促がす言葉に即座に乗れるはずもないスバルがそうして躊躇うのは至極当然。そうでなければ単純な相棒がここまで繊細に悩みなどしないだろう。
彼女が皆の事をどれだけ大切に思い、そして護ろうとしているのかはマッハキャリバーにだって良く分かっている。
当然だ、ずっと共にそれを護るために戦い続けてきた文字通りの相棒なのだから。
だがだからこそ、そんなスバルの想いが分かるからこそマッハキャリバーはあえて彼女へとこう告げているのだ。
『以前にも言ったはずですよ? あなたが教えてくれた、わたしが生まれた理由。あなたが憧れる強さ………それを、嘘にしないでください』
嘘は嫌いだったんでしょう? そうマッハキャリバーが告げてくる。
その言葉を聞き、スバルがハッとなったのは言うまでもない。
……そう、己にとっての原点。かつて憧れ、それを目指したその理由。
―――スバルは、どうして強くなりたいの?
なのはに問われたその言葉に、自分は彼女に、仲間達に、そしてマッハキャリバーにも告げたじゃないか。
災害とか争い事とかそんなどうしようもない状況が起きた時、苦しくて悲しくて助けてって泣いてる人を助ける人になりたいです。自分の力で―――安全な場所まで、一直線に!
それがスバル・ナカジマの原点にして願い……否、誓いだ。
四年前、ただ泣く事しかできなかった弱い自分をそれでも助けてくれた……あの強くて優しい白い魔法使いのように。
自分もまた、そんな誰かを助けられる人になりたい。
それがスバル・ナカジマの中で絶対に曲げられない信念―――正義だ。
これだけは……これだけには絶対、嘘を吐けない。
そう誓った、だから―――
「……ありがとう、マッハキャリバー」
『……いえ、わたしの方こそ無茶を言ってしまいました』
マッハキャリバーが言ってくるその言葉に、そうだねと苦笑を浮かべながらもそれでも間違ってはいないと思っている。
無茶はいけない……高町なのはのその教え、本当に大事で遵守する必要のある約束。
ごめんなさい、そう胸中でなのはへと謝りながら自分が禁を犯そうとしていることをスバルはハッキリと自覚し、そして受け止めた。
怒ったなのはは怖い。それはもう本当に、まさに悪魔も泣きだすと言わんばかりの悪魔的な怖さだ。
それが後で自分に向かって容赦なく来るであろう事を覚悟し、その時は逃げずに受け入れようと覚悟を決めた。
不器用な自分ではそうやって一々に間違えて、怒られて、立ち止まって、また歩き出す。
そんなことしか出来ない。だがそれでも良いと思う。むしろその方が自分らしくて好きだ。
少なくとも、嘘を吐かずに、騙さずに、後悔せずにすむ。
ならばその方がずっと良い。
だから―――
「―――行こうか、相棒」
『All light Bady.』
トレーラーより気づかれぬようにこっそりと離れ、マッハキャリバーを起動する。
お馴染みのバリアジャケットを身に纏い、そしてリボルバーナックルをしっかりと握りこみ、ローラーブーツの相棒の調子を確かめながら、彼女は真っ直ぐに前を見る。
今は前を……ただ前だけを見て、後ろは振り向かずに駆け抜けよう。
「行くよ、マッハキャリバー!」
最後に相棒の名を決意の形として叫びながら、スバル・ナカジマは駆け出した。
己の信念を一直線に、全力全開に、そして最速で貫く為に―――
「……どういうことだ、イーリィヤン!? これでは本土が介入してくる!」
ドンッと苛立たしげに机に拳を叩き下ろしながら、ジグマールは現在進行形で報道されている映像と、その現状についてモニターの向こうの腹心へと問い直す。
「……分かんない、誰かが勝手に」
画面の向こうでジグマールから恫喝に近い勢いの声音で迫られ、流石のイーリィヤンも現状の不可解さと合わせて戸惑いも顕にしていた。
明らかにホーリーの管轄化であるはずのホーリーアイを仲介しての映像の流出……このようなことイーリィヤンがいる限りは絶対にありえない。
だが絶対にありえないはずのことが現実に起きている。それもジグマールにとっても予期しない非常に不都合な状況で、だ。
チラリと映されている報道映像を先程から食い入るように見つめている高町なのはへと視線を向ける。
そもそも彼女との……否、彼女の魔法の杖とやらと腹の探り合いをし牽制し合っていた最中にこの事態だ。さしもの急展開に今は責任の所存すら問い合わせる暇すらも無い。
何故なら問題の報道……こんなことをされては本土側の介入というジグマールが望まぬ横槍を受ける可能性が非常に高いからだ。
高町なのはが本土側であるのもそうだが、ロストグラウンド内でのホーリーの優位性を覆すような事態に陥ることだけは絶対に避けねばならない。
……これは彼女の、否、彼女の背後に居る者たちの仕業か?
邪推や疑心暗鬼としてではなく、この地へ直接的介入を招ける口実作りのために本土側がこのような蛮行を行ったとしかジグマールには思えなかった。
ふざけるな、そんな苛立ちを歯噛みとして出したいのを必死に抑える。ただでさえこちらの思惑を揺るがすあちらの尖兵たる小娘どもだけでも手を焼いているというのにこれ以上のイレギュラーを招きこんでたまるか。
何としても映像の流出と放送を阻止するようにイーリィヤンに命じる。ここが自分たちにとっての正念場となりかけていることをジグマールは悟っていた。
だが負けない……絶対に負けるわけになどいかない。この高町なのはにも、本土にも、このロストグラウンドを好きになどさせない。
この大地の守護者としての自負がマーティン・ジグマールに確固として存在し続ける限りは。
「……いったいこれはどういうことなんですか?」
報道映像に映し出されダース部隊を相手に孤軍奮闘を続ける男……カズマを確認し、なのはは愕然としながらジグマールへと説明を求める。
「……私に問われても困る。これは私の与り知らぬところで起こっている事態だ」
『ですがそれはこの報道のみでしょう。このダース部隊が何故彼と戦っているかは貴方とて知っているはずですが』
すかさず問い質してくるレイジングハート。それもそうだろう、報道自体はジグマールにとっても予期せぬイレギュラーであれ、彼が統括している部隊員たちの方は彼の命令で動いているはずなのだから。
故に言い逃れはさせないとレイジングハートは言外にて迫る。
ジグマールとてそれは理解しているのだろう。道具風情の小賢しい喰いつきにやはり隠してはいるものの相当な苛立ちを押さえ込んでいるのは明らかだった。
「……確かに、彼らは現在私が下した任務を遂行している最中だ」
「……それがカズ……いえ、NP3228と交戦することだと?」
ジグマールが告げてきた言葉になのははそう問い直す。
彼女の問いにジグマールはそうだと頷いた。
「何故ですか? 確かに彼は色々と問題があり敵対的行動をこれまでにも何度か取ってきました。けれど、それはこちら側にも非があったのも確かで―――」
「君は、余程甘い世界で生きてきたらしいな」
なのはの口上を遮るようにジグマールはいきなりにそんなことを言ってくる。その言われた言葉の意味を訝しむような表情を見せるなのはに対しても、向けてくるジグマールの視線は厳しいものだった。
「やはり君は……いや、桐生水守を含めて君たちは何も分かってなどいない」
ジグマールが静かな怒りを込めながら言ってくるその言葉、そして彼の放つ雰囲気に彼女は戸惑う。
今までのジグマールとは明らかに異なる何かが、今の彼にはあった。
「やはり君たちは所詮余所者。高らかに綺麗事を謳うのは立派だが正直何も分かっていない。青臭い理想論と手前勝手な価値観で物事の全体を見ようともしていない」
そんな君たちに“こちら側”などという言葉は正直使って欲しくは無い、そう明らかな苛立ちを示しながらジグマールはなのはを不愉快気に睨みつける。
己がジグマールの逆鱗に触れてしまったことに気づいたなのはだが、さりとて言われたい放題のままで終わるわけにもいかない。
「……私の発言が失言だったというのなら謝罪はします。ですが、私自身も間違っているとは思ってはいません。明らかに今のホーリーや本土のやり方が、このロストグラウンドに住む人々のためになるやり方だとは認められません」
そう、認められるはずが無い。無法の大地だからとはいえ、暴力を持って相手を平伏させ、明らかな貧富の差も顕な格差を生み出し、挙句の果てには人間を実験動物のように扱うようなこと、高町なのはは絶対に認めない。
「君も本土側の人間だろうに。だというのに、己が所属する組織を非難するのかね?」
「私は本土側の人間ではありません。時空管理局の魔導師です。これはジグマール隊長もご存知のはずでしょう」
「……そうだったな。だがどちらにしろ同じことだ。その時空管理局が本土と同じ側に立っている限り、君もまた組織人の一人としてそこに組み込まれている……違うかね?」
……違う、とは流石に言えない。管理局と本土が協定を結んでいる限りはどのような言い方をしようが機動六課自体もまた本土の尖兵。歴然とした事実の形として今があるのは否定できない。
故にこそ、確かに自分もまたその人道に反している側に所属する人間なのだろう。
だがそれならば―――
「―――だったら、私が変えます」
はっきりとジグマールは見据えながら高町なのははそう告げる。
相手からすれば意外な言葉だったのだろう、ジグマールもまたなのはが何を言いだすのかと目を丸めて驚いていた。
だがそれに気にした様子も無く、なのはは毅然とした態度のままに続ける。
「私は真実を知りました。……そしてその真実を許せないとも思いました。だから、真実を知った者の責務として、そこに所属している者の責任として、私はその真実の中の不正を正す」
それが高町なのはが決めた戦い。
本土の側に非があり、それが許されないものだというのなら、それ自体を正す。組織人として組織をあるべき正しさに自分の手で戻す。
それが真実を知った者として、そしてその組織の一員でありながら許せないと思ってしまった自分がやらねばならないことだ。
誰の為でもない、命じられた任務ですらない。
高町なのはが自分で決め、自分で選んだ戦いだ。
「……陳腐で青臭い、実現性すらも乏しい夢物語だな。君が個人としては破格の強さを有していることは認めよう。……だが、強大な組織という壁を敵に回し、本当にそれを乗り越えることが可能だとでも?」
あまりにもナンセンスであり、度し難いまでの独り善がり。そして現実の前に敗北することは明らかな愚者の極みたる選択だ。
今日日、狂人でもない限り自ら進んでこんな修羅道を歩もうなどとも思うまい。
明らかに目障りでうざったい、そんな小娘の我が儘だ。
そう酷評するジグマールにすら、彼女はただ静かに笑った。
とても穏やかで、そしてそうでありながらふてぶてしいまでに不敵な。
それは―――反逆の笑みだった。
「出来る出来ないが問題じゃないんです。ただ私はこうと決めた、だからやる……ただ、それだけのことです。そしてやるからには―――壁を乗り越える、それだけです」
はっきりとそれは宣戦布告として突きつけられた言葉だった。
実に強固で曲がらない、そして強靭なまでに真っ直ぐな愚直な決意にして正義感。
天使のような笑みを浮かべるかとも思えば、その本質は対極……まさに悪魔とでも言ったところだろうか。
だがそれに一瞬でも気圧された。歴戦の老獪たる己が、だ。
決して青臭い正義感に感化されたわけでもないというのに、無様な姿を曝してしまったようだ。
ならば……些かに悔しいが認めよう。
たった一度の、小娘を相手にした無様な己の敗北を。
「……よかろう、今回は君の勝ちだ。ビギナーズラックの手向け代わりに君の勝利を認めよう」
今回の一件流石に不問にまでは出来ない……が、手心を加え処罰を緩めることも視野に考えているジグマールがいた。
そうは言っても今更管理局に抗議を示したところで、この完全に開き直った彼女を相手には意味も無いことか、そう思い直し苦笑が浮かんでくる。
「お礼は言いませんよ」
「要らんよ、そんなもの端から期待してなどいない」
それにジグマールにも彼なりの思惑があったのも確かだ。
確かに自分とホーリーという組織は事実上の本土の犬……これは否定の出来ない事実。
がマーティン・ジグマールは決して本土側に心まで捧げた忠犬ではない。彼の最終的思惑は必ずしも本土側とは重ならない。
本土への叛意とほぼ考えて良い態度を示している高町なのは。彼女は状況次第ではまだ利用できる価値が残っていた。
ジグマールとてロストグラウンドとそこに住む人々を護りたい……これだけは絶対に変えられぬ最終目的である。
ただ彼女の夢想には付き合えないだけ……だが彼女が場を乱すように踊ってくれれば存外に漁夫の利を得られる可能性とて低くは無い。
それに彼女ならばもしかしたら……いや、そこまでの期待を抱くのは高望みだ。
せいぜい彼女には上手く踊ってもらおう、こちらの目的を確実に達成する為に。
そう、これは慈悲や情けなどというものではない。あくまでも先を見越し精々己が有利になる舞台を作るためのいわば布石だ。
……そう己へとジグマールは今回の一件に対して結論付けることとした。
だからもう下がってくれて結構だ、そうジグマール的には彼女を追い払い山積みの問題事へとそろそろ移りたかった。
だが退室を促がしているにも関わらず、なのはは一向に退室する気配を見せない。
「……まだ何か?」
こちらとしては話し合うことは全て話し尽くしその結果も見えた。これから具体的にどうなっていくかは未だ不鮮明ではあるが、兎に角、もはや彼女と手を取り合うこともあるまい。
護ろうとするもの、護りたいもの、その対象や目的が同じであったとしても、その達成の為に歩む道が致命的なまでに食い違う以上は道は決して交わらない。
少なくとも、ジグマールは既にそのように判断していた。
しかし―――
「……ジグマール隊長も私も、護りたいものは同じだと思っています」
「だから協力しろとでも?……高町君、あまり私を失望させないでもらいたいのだが」
「無理、ですか?」
「当然だ。私は私が確実と信じるやり方でこの大地を護る。君の理想論には付き合っていられない」
尚も今更こちらに手を差し伸べて協力を求めようなどと、愚かしいにも程があるとにべも無く彼女の誘いを切り捨てる。
なのははそれに残念そうな表情を浮かべている。だがジグマールには知ったことではない。
「もう良いかね? ならばいい加減、下がって―――」
「それでお子さんに顔向けが出来ますか?」
ジグマールの言葉を遮るように言ってきたなのはの言葉は、さしもの彼にも無視できぬものだった。
消し去りかけていた彼女への怒りが再燃してくる。息子と自分の何も知らぬ小娘などにその話題には触れて欲しくなかった。
我が子を愛しているからこその道であり、戦いだというのに、何も知らない小娘風情が―――
「以前、貴方から教えられて私も色々と考えました。娘……ヴィヴィオに相応しい母親っていうのはいったいどうしたらなれるのかって」
だが高町なのははジグマールが殺気すら込めかねない怒気を無視したまま語り始める。
己の事、そして娘の事、彼女たちが親子となったその経緯を………
……似ている、話を聞いて確かにそれはジグマールもまた認めたことだ。
自分たち親子と同様に、高町親子もまた非常に境遇の似た背景が存在していた。
共感を覚えなかったか……そう問われて否定をすれば恐らくは嘘だ。
確かに、彼女の語るその話に僅かばかりとは言えども確かに自分たち親子に重ねた光景を見たのは事実だ。
「あの子は兵器として生み出された、本当の親さえも存在しないそんな子供だったのは事実です。でも私はそんな事は関係ないと、我が子として愛する事を決めました」
家族ごっこ、そう揶揄されても仕方の無いくらいそれは滑稽な箱庭なのかもしれない。
自分も娘も、お互いに足りなかったものを依存し合うように求めあったと言われても完全には否定できない。
それでも以前にジグマールが言ってくれたように、なのはにとってヴィヴィオは掛け替えのない愛しい娘であり、彼女の方もまた自分をそう見てくれている。
だからこそ、ごっこ遊びと笑われようとも、血の繋がらぬ本当の家族ではなかろうとも。
そんなものとは関係なく、何よりも深く結び合った絆と共に二人で生きていこうと誓った。
正直に、真っ直ぐに、互いの心に素直になって。
ヴィヴィオの母親として、高町なのはは生きようとそう決めた。
「……ここで真実の奥に隠されたその不正を見逃せば、私はきっともう二度と、あの子とは正直に向き合えない……そう思ったんです」
我が子に嘘を吐き、騙し、信じている姿を裏切ってしまえば……もう自分はヴィヴィオの母親でいてやれる資格だって失うだろう。
何よりも、娘に心から笑いかけられるような母親になれなくなることだけは絶対に嫌だった。
どんな時でも、娘の前だけでは彼女が信じる、誇りに思う母親でいたい。
それが……高町なのはの嘘の吐けない本当の娘に対しての気持ちだった。
「貴方はどうなんですか? 息子さんが今の貴方を見て本当に……笑ってくれるんですか?」
なのはのその言葉は、確かにジグマールにとっては万の罵倒や非難を受けるよりもキツイものだった。
心の奥底に殺して仕舞い込んだ良心すら、目覚めかねないその言葉。
……或いは、認めてしまえばそれは己にとって救済になるのでは?
―――否、断じて否!
「……君の価値観を私たち親子に押し付けるのはやめてもらいたい」
重く、搾り出すような声でそうとだけ反論する。
救い、今更己がそんなもの求めて良い立場ですらない。そんな甘い幻想に逃げることは許されない。
何よりも愛する我が子を免罪符の如く使うなど……断じて、あっていいはずがない。
故に、なのはの言葉は聞き入れられない。彼女が不器用であれども高潔な親子であろうというのなら、それも良いだろう。そこまで口を挟む心算も無い。
だがこちらとて、屍山血河を作り上げ、死後に地獄の最下層に叩き落されようとも、護りたい者がある。その為に戦っている。
そして自分は、その為に自分自身でこの道を選んで歩んでいるのだ。
彼女が示す不確定な理想論に、罪悪感から逃れたいが為の救済を目的で加担することなど絶対に出来ない。
そうでなければ、今まで犠牲にしてきた者たちすらも裏切ることになってしまう。
だからマーティン・ジグマールは決して揺らがない。揺らいではならない。
己の不始末もその末路も、既に覚悟はしているのだから。
そして、それは高町なのはにも理解できたのだろう。
伸ばした手は掴んではもらえない。告げた言葉は届かない。
諦めるとは別のベクトルで、自分たちと同じようにこの男もまた絶対に揺るがないであろうことは理解できた。
だからこそ、せめて最後に告げる言葉があるとするならば―――
「……後悔、しませんか?」
「そうしない為にこそ、今の私があるのだ」
「……分かりました。それでは……ありがとうございました、マーティン・ジグマール隊長」
最後に一度、寂しげな笑みを零しながらなのはは深々と彼へと礼を告げ頭を下げた。
これが訣別の証であろうとも、それでも自分に大切なことをこの大地で気づかせてくれた恩人の一人として。
心からの感謝と敬意を込めて、なのははジグマールと己の道が二度とは交わらぬことを覚悟した。
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