第4話「錯交」
今日の午前の訓練は通常とは違い、僅か一時間程度のものに終わった。その理由は隊長達が次元漂流者、
ブレイズ達への事情聴取を行っていたからだ。スバル自身、ブレイズを呼びに行く等そのことに関与していた
ので、何故なのはが遅れてきたかある程度理解できていた。大幅な遅刻に対し彼女は心底申し訳無さそうに
していたが、スバルを始めフォワードメンバーは誰もそのことについて言及しようとは思わなかった。厳しい
訓練が少しでも延期になって気楽でもあり、理由を分かっているのに謝罪されたことで心苦しささえ感じた。
「あ~…。今日は一段と激しかったわね…」
先程までの短縮された訓練に対し、そう述べるのはチームのセンターガードであるティアナだ。その足取りは
おぼつかなく、つい五分前まではまさに足腰が立たない状態だった。
「ティアも撃墜判定五回は食らっちゃったよね~」
「うっさい、大体あんたがさっさとやられるからなのはさんを止められるのがエリオだけになるんでしょうが…」
もはや精根尽き果て、怒鳴りたくても怒鳴れない状態で力無く返す。訓練と言うよりほとんど模擬戦になった
今朝の訓練は苛烈を極めた。通常時においてもなのはへの接近は難しいが、今回はその比ではなかった。まさしく
弾幕と呼ぶにふさわしい圧倒的な投射量が立ちはだかり、回避しきれなくなると一気に魔力弾が集中、たちまち
被弾してしまう。スバルと同じく前衛のエリオはなんとか打撃を与えようと、彼女が突っ込んだ方向とは逆から突撃を
試みたがあえなく失敗。後に残されたティアナと更に後方のキャロは盾を失ったことで有効な防御手段を喪失、
個別に反撃と防御を行うも徒労に終わった。このような流れが五回以上も続いたのである。
「でも、なのはさんいつもより張り切ってましたよね」
「内容の濃い物にして頂けたのは嬉しいと思います!」
これからもう一本やっても問題無さそうな張りのある声でエリオとキャロは言う。ティアナが今にも倒れそうな表情
であるのとは対照的に、二人は楽しそうに先程の訓練を振り返る。結果を自分にとって良い方向に捉える余裕さえ
ある、プラス思考とは素晴らしい。
「あんた達は……」
「ま、まぁまぁ。それよりもうお昼だよね、早く食堂行こうよ!」
無垢な子供をジト目で恨めしそうに睨むティアナを宥めつつも昼食へと誘う。そう、待ちに待った昼食の時間だ。
食堂では山のように盛り付けられたスパゲティその他ランチメニューが、スバルによって食されるその瞬間を待ちわび
ているに違いない。この為なら疲労困憊で動けなくとも、身体を引きずっていくだけの価値はある。逸る気持ちを抑え
つつも、幸福の時間への歩みを止める事は無い。その為に、ティアナには可能な限り急いで貰う必要がある。食堂での
品切れを心配しているわけではないが、今は一秒でも早く席に着きたいというのがスバルの思いだ。移動速度向上の
為に負ぶって行くという強硬手段もあるが――。
「顔に出てんのよ!馬鹿スバル!」
いつの間にか復活したティアナに頭を叩かれてしまった。
「あいた!酷いよティア~」
「うっさい!」
何故打たれたのか、理由も説明してくれないので訳が分からぬまま頭を擦りながら後に続くスバル。一部始終を
見ていたが、やはり何が起こったか分からないでいるエリオとキャロも後を追って行った。
食堂に到着した彼女達を待ち構えていた物は、いつもと違う場の雰囲気だった。この時間帯ともなれば自然と人の出入り
は多くなり、混雑してくるものだがそれには慣れた。違う点は明らかに人が多いことだ。ざっと見渡しても機動六課の構成
人数の三分の一近くはいる。
「あれ?今日は多いなぁ」
「そりゃそうでしょう。よく見なさいよ、全員次元漂流者の人達でしょ」
ティアナの言う通り、食堂の一角を占領しているのは昨日保護した次元漂流者達だった。スバル達が直接顔を合わし、
言葉を交わしたのはブレイズ達だけだが、他にも居たことはその後の経過もあって把握できていた。よく見れば、六課の
スタッフと楽しそうに談笑している等微笑ましい光景になっている。そのことに対して異論を挟む余地は無い、スバルの不安
は別の所にある。
「なんだかいつもより賑やかだね」
「うん、大勢で食べる食事はおいしいってフェイトさんも言ってたよ」
いつにも益して活気のある食堂の雰囲気を前に、年少二人組は嬉しそうだ。見知らぬ人と親睦を深めるには、会話や食事
を共にすることが有効的であるとされている。
これだけの人数、それも昨日会ったばかりの住む世界すら違う人間同士が打ち解けるには、この昼食時間は
まさに最適な一時であると言える。ただ、人数が増えるということは必然的に供される食事の量は減ることに
なる。スバルにとっての懸念事項はまさにこのことについてだ。そして数秒後、彼女は現実の過酷さを痛感する
こととなる。
「ふぅ、これじゃ座る場所を探すにも一苦労ね…」
適当に歩き回りながら、どこか四人で座れる場所が無いか探しているティアナの耳に、気の抜けるようなスバルの
声が聞こえてきた。
「そんなぁ……」
またか、脱力感に比例して増大しかけたイラつきを心の隅に追いやりながら振り返ると、ちょうど一人分程の皿を
抱えたスバルがいた。見ればスパゲティの確保には成功しているものの、その量は常識的な範囲に留まっている。
普通ならばこれでも十分な量だが如何せん食べる量が桁違いに多い、足りないと言うのは明らかだろう。それに
これも嗜好の一つだと、冷えてきた思考で導き出したティアナは、呆れと少しの同情を交えて溜息を漏らす。
「しょうがないじゃない、今日は少し遅かったし。他ので我慢しときなさい、それよりも…」
困ったことにどこのテーブルも満席となっている。流石に一箇所ぐらいは空いているかと思ったティアナだが、予想に
反して賑わいを見せている。既に昼食を確保しているスバルはともかく、ティアナと年少二名は無理に席を探す必要は
無い。どこかの席が空くまで待っていればいい、エリオとキャロにもその旨を伝えようとした時だ。
「ティアナだっけか、そこで何してんだ?」
突然呼び止められ、声がした方向を見ると見覚えのある四人がいた。
「ダ、ダヴェンポート少尉!?」
「チョッパーだ。何だ、座る場所が無いのか?じゃあ俺らんとこで食うか?」
そのままチョッパーは立ち上がると、どこかへと歩き去って行った。自分達の為に席を退いたと解釈したティアナは、
彼を呼び戻すよりもまず他の三人までがそうしないように慌てて押し止めようとする。
「そ、そんな結構です!自分達は待ちますので…!」
「俺は構わないが?ナガセとグリムはどうだ?」
「まだ四人ぐらいなら座れるでしょう。構わないわ」
「もちろん良いですよ。あ、エリオとキャロ呼んできますね」
今度はグリムが席を立ち、まだ空席が無いか探しているであろう二人を呼びに行ってしまった。話の流れからして席を譲る
ことではないようだが、それでも気が引けることに変わりなかった。世界と所属が違うとは言え、全員階級も年齢もフォワード
メンバーより上だ。そんな人達に配慮されるのはかえって気を遣うものなのだが、当のブレイズ達は全く意識していないようだ。
「なに、遠慮することは無いさ。大勢で食事というのも悪くない。君が嫌だと言うなら強制はしないけどね」
こう言われてしまえば余計に断り辛くなる。半ば観念したように肩を竦めたティアナは、形式上の上官達の好意を受けることにした。
「では、お言葉に甘えて…。ほらスバル!あんたも御礼言っときなさい」
今も皿を抱えたままの相方に、好意に対して感謝するよう促すと同時に椅子の数を確認した。五つまでなら用意されているが、
後の三人分は探してこなければならないようだ。
「じゃああたし、椅子探してき――」
「おう待たせたな!三人分一丁上がりってな!」
そこへ先程どこかへ行ってしまったチョッパーが戻ってきた。両脇にはどこから持ってきたのか、三人分の椅子を抱えている。
彼が歩いてきた方向に目をやると、何人かが怪訝な顔つきでこちらを見つめていた。そしてそのテーブルには、それぞれ一箇所
ずつ不自然に開いた間隔があった。
「あの、本当にすみません。邪魔した上に椅子の用意までして頂いて」
「気にすることは無いわ、むしろあなた達が来てくれたおかげで助かっているの」
「そうですよ。少尉、この四人が来なかったら大量のパスタの始末どうするつもりだったんですか?」
エリオとキャロと共に帰ってきたグリムが二人を席に着かせながら、非難するようにチョッパーに言う。それと同時にスバルとティアナ
も席に着くが、眼前には見慣れた物が置かれていた。テーブルの中央で一際存在感を示している皿の上には、常軌を逸した量の
スパゲティが盛られている。当初の目的物が確保されていることに目を輝かせるスバルだが、こんな物を四人で食べきれるとは思え
ない。フォワードメンバーを加えてようやく適正な量だろう。用意したのはチョッパーということだが、彼はどうするつもりだったのだろうか。
「始末する当てならあったぜ?これだけあっても減らしてくれると思ったんだ、主にエリオが」
「な、なんで僕なんですか!?」
唐突に話を振られて狼狽してしまうエリオの反応を見て、占めた、掛かった、そんな感情を隠しすらしないニヤ
ついた表情でチョッパーは更に続ける。
「隠すこたぁないぜ。顔に書いてんぞ、『腹減ってます』ってな」
「ふぇ、あ、あの…」
羞恥に顔を赤く染め、本当に手で触れてみる等予想以上の反応にニヤけた顔を崩せない。今朝の『がり勉君』も
そうだが、真面目そうな人間は実にからかい甲斐がある。しかし、相手は十九歳も年下の少年だ、この辺りで終わりに
しておかないと可哀想になってくる上、先程からナガセの視線に殺傷力が伴ってきている気がしてならない。
「エリオ、チョッパーの言うことを真に受けては駄目。言い返しても良いのよ」
「で、でも…」
「あぁ悪い悪い、ほんの冗談だよ」
あまりに反撃してくれないので、流石にばつが悪くなってきた。苦笑しながらも、チョッパーは親愛の情を籠めてエリオの
背中をバンバンと叩くが、その度に彼の首が大きく揺さぶられていた。
「チョッパーが珍しく反省しているな。エリオ、今日の所は許してやってくれ」
このような人間と出会ったのは初めてなのだろうか、これ以上チョッパーと接することで真面目で純真な少年の成長に
悪影響が出ないことを願うばかりだ。一先ず空気を切り替えようと、ブレイズは何か良い話題が無いか頭の中で探し回るが、
なかなか共通性のあるものが思い浮かばない。話そうと思えばどんな話題でも盛り上がることができるかもしれないが、
年齢差と出会ってからの時間の短さが選択を慎重にさせる。結果、更なる思考の泥沼にはまるという悪循環に入りかけた
ブレイズだが、思わぬところから助け舟が出された。
「そう言えば、ブレイズさん達の元の所属ってどんな所なんですか?」
何気ない口調で、スパゲティを追加しようとしていたスバルが尋ねてくる。彼女にとっては食事の合間の会話に過ぎない
だろうが、ブレイズにとってはこの状況を打開できる素晴らしき提案だ。これなら詳しく語ることができるし、フォワードメンバー
もウォードッグ隊の所属には少なからず興味がある筈だ。
「俺達の元の所属はサンド島という島にある空軍基地なんだ。徒歩二十分で一周できるくらいの小さな島でね、自然もそれなり
にあるから国立野生動物保護区にもなってるんだ」
サンド島、そこはオーシアの最西端に位置する極西の島だ。四方を海に囲まれたこの孤島にブレイズ達『オーシア国防空軍
第108戦術戦闘飛行隊サンド島分遣隊ウォードッグ』が配備されていた。文明と言う物からは遠く離れ、そして平和からも最も
遠い島と言われていた。ユークトバニアとの開戦以降は最前線基地となり、文字通り平和とは無縁の島になってしまった。
思えば、ジュネットやおやじさんはどうしてるだろうか、整備兵達や他の同僚も無事なのだろうか、そんなことが浮かんできた。
開戦初日に空襲さえ受けたあの島だ、ユークトバニアが放置しておくとは思えない。今は何も情報が入ってこない為、考えれば
考えるだけ不安が募る。
「ブレイズさん…?」
どこからか、彼を気遣うような声が聞こえ、顔を向けるとキャロと目が合った。
「何か不安なことがおありでしたら、私で良ければお力になります」
何かを含んだものではない、純粋な笑顔を向けられた。こんな少女にさえ心配されるとは、ブレイズは自らを嘲りたい衝動に
駆られた。皆と親睦を深める為に自分達の話をしたのに、勝手に険しい表情を作り、更に心配までされた。これでは立場が逆
ではないか。
「ああ、大丈夫だよキャロ。ありがとう」
感謝の言葉に、彼女はまた笑顔で返してくれた。本当に心優しい子だ、キャロもそうだがエリオもスバルも、そしてティアナも、
この少年少女達は全員がそうだ。こんな子供達が何故このような所にいて、更に戦闘訓練まで受けているのか、ブレイズ達の
常識では考えられないことだった。最初にそのことを耳にしたナガセは彼女にしては珍しく、感情を推し量れる程に顔を歪めた。
ブレイズとて同じ思いであったが、敢えてその理由を聞こうとしなかったし、彼女もまたそうした。スバル達の教官を務めている
なのはが、そして彼女達が所属する時空管理局という組織が、戦闘を強要しているようには見えなかった。今この瞬間も、フォワード
メンバーとウォードッグ隊は互いのことについて熱心に語り合っている。その表情に暗さなど無く、皆楽しそうだ。ならば、自らの意思
でここを選んだのだろうか。選択権が用意されていることが良いのか、やはり子供は子供らしくという自分達の価値観こそが正しいのか、
ブレイズには分からなかった。ただ、少なくとも今の彼女達の表情は本物の筈だ。これを見て『君達の選択は
間違っている』などと彼には言えるはずもない。そして、こんな温かい心を持った彼女達に自分達の戦争について
話せば、当然その笑顔は消え去る。現に上官のなのは達は、戦争中であることを話した途端、他人であるブレイズ
が見ても分かるくらいに悲しそうな表情になった。
いつ帰れるのか、或いはどれほどここに居る事になるのかは時空管理局次第だが、それが短くない期間であるのは
ブレイズにも予想できた。共に過ごしている以上、いつかは話さなければならなくなるだろう。自由意志でこの職業を
選んだことはブレイズ達も同じだ、自らの選択に後悔など一片たりとも無い。語らない理由に『悲しませたくないから』とは、
それが愚かな考えであることは彼にも理解できていた。本当は『思い出したくないから』と訂正されれば、頷いてしまうかも
しれない。それでも、せめてこの時間ぐらいは、戦争を忘れても誰からも責められたりしないのではないのだろうか。
「ブービーよぉ、浮かねぇ顔してないでもっと笑えよ。ほら、エリオを見習えって」
見ると、口の両端から指を突っ込まれて無理やり笑顔を作らされているエリオが居た。そんな彼を、キャロが慌てふためく
ように見つめている、実に愉快な光景だ。
「ブレイズ」
今度はナガセと目が合う。真っ直ぐに、彼の瞳を射抜くように見つめるその視線に釘付けになった。
「あなたが考えていたことは私にも分かる。でも、今はできることをやるべきだと思うの。大丈夫、あなたならやれる」
励ますように、彼女はそう伝えてきた。やれることは限られているが、できることをやるしかない。シンプルだが、それ故に重要
なことだ。そして、今の彼にできること、それは――。
「ブレイズさん!さっきチョッパーさんが言ってたみたいにもっと笑いましょうよ!あ、そうだ。あたしのことも話しますよ!」
この少女達との交流を深めることだ。
「言うと思ったよ」
ふ、と彼は一瞬笑みを浮かべた後、自らも会話に入っていくことにした。チョッパーが用意した『策』とやらは、まずまずの戦果
を収めているようだ。
会談開始時刻まで後三十分を切った。はやて自身は更に十分程前からこの場に到着しているが、その十分が一時間か、或いは
それ以上に感じられた。もし一人で居たなら、しきりに時間を確認したり、予定よりも早く人が来ないかドアに目をやる等して落ち
着きがなかったかもしれない。今日ここへ来た人物ははやて一人ではない。いつもは空でAWACSの管制官を務めるグリフィスよりも
堅物なイメージを持つ彼、サンダーヘッドも同席している。
まだ出会ってからそれほど時間は経っていないが、彼の資質については何ら問題無いとはやては思っていた。打ち合わせの際も、
飲み込みが早くて助かった。ただ、決定的に不足しているものがある。それはジョークを言ったり、若しくはそれを解するユーモアの
センスだ。彼自身はこの場の雰囲気など気にも留めていないようだが、はやてとしては堪らない状況だ。ここに来るまでも何度か話し
かけ、彼女なりに気の利いた冗談等を披露してみたが、ことごとく理解されないか、真面目に対応されるかで反応に困った。そっと、横目で
同席者に目をやると、相変わらず無言でその時を待ち続けている。彼に対して念話は使えないので、話せる内容が無いと分かっていても
より孤独感が増してくる。
だが、どれほど堅物であってもサンダーヘッドははやてにとって味方だ。この静寂のみが支配する居心地の悪い部屋でもそれは変わら
ない。彼女を入室時から神経質にさせている要因はこの部屋の主であり、今回の会談の主催者でもある男だ。彼ははやてやサンダーヘッド
のように会談用に設けられたソファーには座らず、自らの執務机で開始時刻を待っている。彼の背後にはこの部屋に光をもたらす巨大な窓
があり、照明が必要無いほどに陽光が部屋の隅々まで照らし出している。薄暗い部屋を照明無しで明るくしてくれる陽光だが、はやてが
様子を窺いたい男の内心までは明らかにしてくれない。入室からそろそろ二十分ほど経過しているが、話しかけてくる様な素振りが一切無い。
時折テレビの演説等で目にする彼は、今とは真逆の姿勢であり、かなり攻撃的な人物だ。
「一体何を考えてるんや…?」
この予想外の状況に対し、心の内でそう呟いた。男がいつも通りの反応を見せたなら、まだ対応の仕方も楽で
あっただろう。しかし、彼女の思いとは裏腹に彼は終始無言であり、まるではやてとサンダーヘッドは存在しない
ものとしているかのようだ。また時間が経過した気がするが、もはや確認することすら馬鹿らしくなってきた。ただ
座っているだけであるのに、それがそろそろ苦痛に変わり始めている。依然として無言を貫く男が、威圧感を漂わせ
ているようにも思えてくる。
「古代遺物管理部機動六課」
唐突に口を開いた男に、はやては心臓が飛び出るような思いになる。
「隊長陣は貴官を含め全員オーバーSランク。副隊長もまたそれに準じた実力の持ち主。構成人員は出向扱いの者
が多く、解体を速やかに実行できる使い捨て可能な部隊。…この地上でよくもこれほど舐めた真似をしてくれたものだな」
重く、金属のような冷たさを含む声色に圧倒されかけるが、必死に堪えた。先程までは空間ディスプレイに集中していた
男の視線がはやてへと向けられ、双眸が鈍い光を放っているように見えた。
「機動六課の活動に本局は関係ありません。我々はあくまで独立部隊です、レジアス中将」
端的に、述べておきたいことを先に伝える。それを聞いたレジアスは、失笑するかのように僅かに笑みを浮かべたが、
直ぐに無表情へと戻る。
「下手にとぼけるのはやめて貰おうか、八神二佐。これほど本局からの出向者が多く、後ろ盾にも本局の実力者がおり、
聖王教会まで絡んでいる。これで何も無いなら尚更理解に苦しむ」
彼の的確な指摘に対し、次の言葉が一瞬浮かんで来なくなった。いくらはやてが口頭で説明しても、報告書に目を通した
後のレジアスには詭弁のように聞こえただろう。
「ご指摘の通り、我々の部隊には本局からの出向者が多数在籍し、後見人にも本局の方々が居られます。しかし、報告書にも
記載した通り機動六課はロストロギア『レリック』を専門に扱う部隊です。他の地上部隊に干渉したり、又は本局がそのような
意思を持って設立した部隊ではありません」
「あくまでもその主張を通すか…。まぁいい、今すぐ明らかにせずとも時間はある。加えて忌々しいことに、貴官の部隊は既に
実績を上げている」
たとえ実績があろうとも、粗探しすれば難癖を付けることができる点はあるだろう。それでもって本局共々攻撃することも
できるが、成果を上げた直後でもあり、何より本局にとっては使い捨て可能という便利な道具だ。何かあれば部隊の解体で責任を
果たしたこととし、後は白を切る腹積もりなのだとレジアスは解した。それをやることは果たして得策なのか、実行しても利益が
なければやる必要は無い。
「今日貴官らに参加する許可を出したのは他でもない、昨日現れた艦隊と同じくして出現した次元漂流者の処遇等について
協議する為だ」
レジアスははやてとの協議内容を簡潔に述べ、それを受けて彼女は僅かに身構えた。彼女の目的はただ一つ、ブレイズ達を引き
続き機動六課で保護すること。次元世界においては禁忌の一つでもある質量兵器を装備した、それも正規軍が相手だ。このような
厄介事に首を突っ込む物好きは通常いない。だが、レジアス・ゲイズという人物はこのミッドチルダの地上の治安を守ってきたという
揺ぎ無き自負心の持ち主であり、他の地上部隊も少なからずその思想の影響を受けている。引渡しを求めてくる可能性がある限り、
交渉によって打ち消す必要がある。
「中将の配慮に心から感謝いたします」
「誤解しないで貰いたい、私が許可した理由は協議の為以外には無いのだ」
尚も感情の篭らない声で突き放すように返答するレジアスだが、ここで初めて僅かながら嫌悪感を滲ませた。その理由をはやては
よく理解できていたので、自分に向けられる非難や罵倒、嘲笑、どれも全て黙って耐える覚悟はできていた。だが、彼女の強固な
意志は彼が放った爆弾のような言葉で脆くも崩れ去りそうになる。
「しかし、これほど曰く付きの人間で構成された部隊も珍しい。確か貴官自身もそうであったな?即座に解体可能であるのは、
責任回避の他にも厄介払いが含まれているのだろうな」
強烈な皮肉と悪意を織り交ぜたこの発言に、はやては怒りとも悲しみともつかぬ激情に駆られ、力任せに立ち上がりそうになるのを
平常心で抑え込もうとした。当然抗議の声を上げることは忘れないが、その言葉には抑えきれなかった感情が染み込み、発言者に
対する敵意を感じさせるものだ。
「それはどういう意味ですか!?確かに私や部下にはそういう者も居りますが、何故そのような…!」
「ほぅ、私の発言に何か間違いがあったのか?ならば素直に謝罪しよう。間違っていれば、だが」
さらに挑発するような口調でレジアスは続けたが、それに対してはやては何も言えなくなった。彼女の大事な
家族や親友に、所謂前科持ちが存在していることは事実だ。それでも、誰一人として罪の意識を忘れたことは
無かったし、社会に貢献しようと努力してきた。その積み重ねを否定するような発言は、自身に向けられたものは
ともかく、親しい者に向けたものなら看過できなかった。しかし、ここで無闇に反論すれば更に踏み込まれ、いずれ
追い詰められることは明らかだった。この状況において、彼女には押し黙る以外の選択肢は無い。故に、溢れ出る負の
感情を無理やり押し込め、平静を装いながら耐えるしかなかった。
「ゲイズ中将、発言する許可を頂けますか?」
「何か?」
これまで、レジアスと同じく無言を貫いていたはやての同伴者が口を開く。感情がほとんど無い声である点はレジアスと
変わらないが、サンダーヘッドの場合は機械的なものであることだった。
「八神二佐や機動六課の人員に、過去何らかの不祥事があったと解釈しても宜しいですか?」
「構わんよ」
それが何であるかは部外者であるサンダーヘッドには語らない、ただそれだけだ。
しかし、『何か不祥事があった』と伝えればそれだけで十分だ。初対面から一日と経っていない相手が、過去に不祥事を
起こしていたことを仄めかす。それの程度については敢えて語らないが、想像を駆り立てるように促すことはできる。はやてに
対するサンダーヘッドの心証が悪いほど、想像は負の方向へ傾き、拡張され、固定されていく。
もし、サンダーヘッドが疑り深い性格の持ち主で、疑心暗鬼に陥り易ければレジアスの思惑通りとなり、はやては孤立無援の
まま会談に臨むこととなっただろう。しかし、彼にとっての誤算はサンダーヘッドという人間が良くも悪くも『堅物の石頭』であった
ということだ。
「では中将、あなたは過去の出来事を根拠に八神二佐へ先程の発言を為さったのですね?」
「…何が言いたい?」
予想していなかった返答に煩わしさを覚えつつも、威嚇するような低い発音で続きを促す。一方のサンダーヘッドは全く動じて
おらず、はやての言葉を代弁するように言葉を紡ぐ。
「私を始め、オーシア国防空軍関係者は彼女の指揮する部隊によって手厚く保護されています。更に彼女は我々に配慮して
事情聴取への猶予時間を与え、待遇も自らの部隊と変わらない措置としているようです。このように真摯な対応で臨む彼女を、
過去の過ちで非難することは私には理解しかねます」
レジアスに対してまさに石のように目線を逸らさず、彼は機動六課と八神はやてに関する所見を述べた。誇張も美化もせず、
ありのままに感じたこと、見たままの彼女達を、執務机から睨むような視線を絶やさない男に伝える。
「それは貴官が過去を知らないからにすぎない。八神二佐や、その他人員の中に前科を持つ者がいる事実に変わりはない」
『前科』と、不祥事よりも強い表現と強調した語調で、再度サンダーヘッドへと言葉を投げかける。これで少しは揺らぐか、レジアスは
そのように考え、次の一手を模索したがまたしても当てが外れた。
「前科と仰る以上尚更過去の出来事なのでしょう?変えようの無い事象を持ち出して判断材料とすることは、些か公平性を欠いて
いると思われます」
これには流石に苛立ちを隠せなくなってきたが、執務机とソファーの間にはそれなりに距離があることが幸いし、相手に悟られる
ことはなかった。業を煮やしたレジアスは更に語調を強め、抵抗を続ける障害に叩きつけるように自らの理屈を並べ立てていく。
「いかなる理由があろうと、犯した罪が消えることは無い。再犯の恐れが無いという確証が存在しようと、それを聞いて少しでも警戒する
ことは当然であると思うが?」
「ゲイズ中将、あなたは八神二佐やその他の人物の犯罪歴についてよくご存知のようですが…」
彼はここで一旦言葉を区切り、この場の誰にも悟られないようにはやてを一瞥した。先程までは不安に押し潰されそうな、痛々しいほど
に顔色が悪かったが、今は落ち着いてきているようだ。最初は口を出すつもりなど欠片も無かったが、直ぐ隣で悩み苦しむ者が居て
黙って見捨てるほど、彼は冷酷な人間ではなかった。そして、はやてが押されているということは、同伴者たる彼もまたその立場にある
ということだ。ならば、手を貸す以外に選択の余地は無い。改めてレジアスへと視線を固定し、毅然とした態度を崩さず
に発言を続ける。
「私が、いやオーシア国防空軍関係者が知り得る事は過去ではなく、現在の彼女達です。我々にとっての
判断材料はそれが全てであり、それ以外に価値を見出せません」
この男は、サンダーヘッドはどこまでも愚直だった。任務に対しても、規律に対しても、自らが遵守すべきと定め
たものを頑なに守り、忠実に実行してきた。その姿勢は時として他者との間に軋轢を生み、煙たがられる要因と
なったが、それでも彼は自らの信条を曲げることは無かった。はやてと、彼女を取り巻く人間に関する彼の印象も
例外ではない。『絶対に譲る気は無い』、その意志を表情等の目に見える形で表現することはしないが、内に抱く
感情の何割かを言葉に乗せ、ぶつけられた相手の理屈と共に突き返した。
「現在の評価…。ふむ、確かに貴官の主張にも一理ある。だが、その現在の評価も、そして過去の行いも包括して
判断することが重要なのだ。そして――」
意志を曲げないという面であるならば、彼が遅れをとる理由などどこにも無い。
「私は地上における全責任を負う者、レジアス・ゲイズだ。市民を守る義務を果たす為ならば、手段は問わん」
互いに睨み合うような、牽制し合うが如く不穏な空気が漂い始めた室内に、突如として空間ディスプレイが表示された。
「なんだ?」
「オーシア艦隊の代表者が到着されました。これよりそちらへご案内致します」
「あぁ、通せ」
ちょうどいいところで区切りがついた。本番前の前哨戦はもう十分だろう、レジアスにとっては次の相手こそが挑むべき
対象だ。はやてとサンダーヘッドは、彼にとって付属品でしかなかった。
報告から十分と経たないうちに、この部屋と外界とを隔てる自動ドアが駆動音と共に開かれ、そこから一礼しつつ一人の
男性が入ってきた。男というよりもむしろ老人と表現した方が適切であろう。ちょうど還暦を迎えた頃の白髪の人物が、革靴が
床を踏む乾いた音を響かせながら三人の元へと近づいてくる。濃紺色のコートに身を包み、その間からは時折カーキ色の
軍服を覗かせているが、軍人然とした見事な着こなしだ。制帽を小脇に抱え、顔を確認できる距離まで歩いてきた彼を見て、
はやては次元航行部隊において『提督』と呼ばれる人々を思い出した。海軍独特の風格を漂わせているその姿からは気品
すら感じられ、管理局に所属していれば提督という地位にあっても何ら違和感は無い。
「ゲイズ中将、お会い出来て光栄です」
はやてとサンダーヘッドが腰掛けているソファーの前で立ち止まると、彼は簡単な挨拶と自己紹介の言葉を口にした。
「私はオーシア国防海軍第三艦隊所属、空母ケストレル艦長、ニコラス・A・アンダーセンです」
アンダーセンと名乗ったその男はレジアスに対して再度一礼し、レジアスもまた執務机から離れ、客人をもてなすような
友好的な態度で返礼する。
「ようこそ、アンダーセン艦長。私が時空管理局地上本部代表のレジアス・ゲイズです。このような場所まで足を運んで頂く
形となり、真に申し訳ない」
そう言うと、レジアスはアンダーセンに対して丁寧に着席を求め、自らもソファーに座る。アンダーセンはそれに従ってゆっくり
腰を下ろしたが、顔を上げた瞬間この会談に存在しない筈の人間と対面する。一人はオーシア空軍の制服を着ているが、
もう一人の女性については記憶に無かった。オーシア軍と異界の女性という奇妙な組み合わせだが、彼は眼前の二人が誰で
あるのか尋ねた。
「失礼ですが、あなた方は?」
「始めまして、でしょうか。私はオーシア国防空軍所属AWACS、サンダーヘッドの管制官を務めている者です」
「その声…。もしや、あの時のAWACSの?」
脳裏に蘇る場面はセントヒューレット軍港からの脱出戦、その時一瞬ではあったが無線を通してこの声を聞いたことがある。
融通の利かない指揮を執ったことで、ケストレルの飛行隊のとある分隊長と揉めていたと記憶している。そんな空軍所属の人間と、
隣の女性とを交互に見たアンダーセンは、何かを悟ったように表情を緩め、穏やかな口調で語りかけた。
「なるほど、ではあなたがオーシア空軍の関係者を保護して下さったのですな?」
「は、はい。申し遅れました、私は時空管理局古代遺物管理部機動六課部隊長、八神はやて二等陸佐です。昨日、AWACS乗員
及び戦闘機パイロット四名を私の部隊で保護させて頂きました」
AWACS以外にもオーシア空軍機が存在していることに、不思議さは感じたもののそれ以上聞こうとはしな
かった。静かに頷いた後はやてから視線をずらし、表情を引き締めて交渉相手と向き合った彼は、用意して
きた回答を淡々と伝え始めた。
「ゲイズ中将、昨日提示された条件についてですが、その大部分を受け入れることで纏まりました。それに基づき、
我が艦隊の保有兵器と人員の総数を開示しました。艦内調査についても重要区画への立ち入りを除いて、全面的
に協力します。ただ、大量破壊兵器等を保有していないことは予めお伝えさせて頂きます」
思っていたよりも協力的な姿勢にレジアスは拍子抜けしそうになるが、気を緩めるつもりは無い。これだけ譲歩して
きたなら、求める見返りも多い筈だ。それにどれだけ対応できるか、彼の手腕が問われることとなる。
アンダーセンの言葉にあった、開示された艦隊のデータを空間ディスプレイに呼び出したレジアスは、その兵力に
戦慄を覚えた。五隻の艦隊の内訳は、イージス巡洋艦エクスキャリバー、駆逐艦フィンチ、同コーモラント、戦艦スクルド、
そして空母ケストレルとあり、総兵力はなんと五千名を越えている。この全てが戦闘要員でないことは分かるが、その分を
差し引いても凄まじい人数だ。
「確認しました。あなた方の誠実な対応に感謝します。では、そちらの要望をお聞きしましょう」
「先ず、艦艇を含めオーシア海軍全将兵の安全を確約して下さい。そして一刻も早く元の世界へ帰還させていただきたい。
その間、水や食料といった物資の補給を受けられると大いに助かります」
その後も、ほとんど二人のみで会談は進み続け、残された二人は緩やかに加速し始めた時の流れに身を任せていた。
紆余曲折を経て、オーシア艦隊側と時空管理局側との間で諸々の協定が結ばれ、会談も終盤に差し掛かろうとした時、
何かを思い出したようにレジアスはアンダーセンに問いかけた。
「ところで、そちらの空軍関係者の身柄についてですが、我が地上本部で預かりましょうか?」
答えを求める先はアンダーセンだが、視線だけを動かしてこの件に関する本来の交渉相手を見つめた。はやてが何か
言いたそうにしているが、レジアスの『口出しさせない』という無言の圧力と、思案中のアンダーセンを見てもどかしそうに
しながらも、事の推移を見守ることにしたようだ。時間にして僅か十秒とかからないうちに、迷いの無い声色で回答が出された。
「いえ、引き続き彼女に任せようと思います」
彼が出した結論は、はやてが求める機動六課での保護を継続、というものだ。レジアスは訝しげに眉間に皺を寄らせるも、
確認の意を込めてもう一度尋ねた。
「よろしいのですか?必要とあらば、あなた方の近くに移すよう手配できますが?」
「最初に接触したのが彼女の部隊なら、空軍将兵にとっても無理に動かすより現状維持の方が無難でしょう」
アンダーセンは明確にそう告げた。対するレジアスもそれ以上踏み込もうとはせず、残った協議内容を処理すべく、
積極的に交渉を加速させていった。
地上本部のビルから外に出たとき、既に空は茜色に染まりかけ、人の往来も若干慌しげだ。舗装された歩道を賑やかにする
いくつもの足音に、そこかしこから聞こえてくる会話、モーターモービルの行き交い、全てが懐かしく思える。まるで地獄のような
戦場から無事生還を果たしたように、はやては数回深呼吸を行った直後、感嘆の言葉を漏らした。
「あ~…、緊張したぁ。今日ので確実に五年は寿命縮んだ…」
「ほぅ、それが普段のあなたなのですな」
あまりに開放感が心地よかったのか、素に戻っているはやてを見て、隣に立つアンダーセンが微笑ましそうに話しかけてくる。
気が抜けすぎていたことに気付いた彼女は、即座に取り繕うとするが、それをアンダーセンは制した。
「ようやく自由が得られたのですから、今更自分を偽る必要もありますまい」
その言葉に、照れくさそうに乱れた服装を整えながら苦笑するも、背後から向けられた刺すような声により表情を硬くした。
「しかし、八神二佐。君にはある程度の自制心が必要だ。あの場面で易々と挑発に乗れば、交渉が不利になることも考えられたが?」
サンダーヘッドが指摘する『あの場面』。レジアスが機動六課の人員、特にはやてにとって大切な人を遠まわしに、しかし悪意を
持って貶した時、彼女は言い返そうとしたばかりに追い込まれかけてしまった。今回はサンダーヘッドが居たことで事なきを得た
ものの、そうでなければどうなっていたことか。
「ほんまやね…。抑えなあかんのは自分でも分かってたんやけど、どうしても黙ってられへんかった。…やっぱり、
今日は私の負けなんやろうなぁ」
この指摘に対してはやてには反論する術はなく、自嘲するように笑顔を作る。望む結果が得られたにも拘らず、
自分の弱さを直視したことで、靄がかかるようにわだかまりが残った。そのせいか、前へ進む為の足取りも鎖で
繋がれたように重々しい。意気消沈する彼女の隣で虚空を見上げたアンダーセンは、その視線の先にある晴れ
渡った空にも似た、淀み無い声で言葉を連ねる。
「人の心というものは、さながら大海原をうねる波のようなものでしてな。静かな時もあれば、その時のあなたのように
大きく荒れる時もある。波も人も、その動きの予測はできてもあくまで予測です。実際にどうなるか、確実な答えを導く
ことは難しい」
暗く、深い海底へ沈もうとしている船から救うように、彼ははやてに対して諭すように語る。尚も納得できない、自分が
不甲斐無いから、はやては瞳にそれらの感情を写し出して顔を上げた。その先にあるものはアンダーセンなのか、
それとも彼が見上げた広大な空だったのか、それは定かではない。
「でも、これでも一応指揮官なんです。一番しっかりせんとあかんのに…」
「確かに、責任を負う者として交渉の場に立つのなら、及第点とは言えませんな。しかし…」
はやてへと顔を向け、優しげに微笑んでみせた彼は、言葉の続きを彼女に送る。
「今回あなたは、自分の欠点と向き合うことができた。そして、仲間を思う気持ちは十分合格点です。今日の出来事を教訓に、
更に努力を重ねていく。…それでいいのではありませんか?」
過去を悔いるよりも、その先を見ろ。道を示してくれたアンダーセンから、はやては短いながらも答えを掴み取れた気がした。
かつて、彼女の師匠とも言うべき人物が同じように導いてくれたことがあったが、それ以来だろうか。この修正された『航路』を
二度と見失わないように、意志という名のコンパスに磨きをかけなければならない。何故なら自分は未熟だから。その為に修練を
重ねてきたし、これからもそうするだろう。与えられたヒントを心に溶け込ませ、彼女は力強く頷いた。
「さて、私はそろそろケストレルに戻らなくては。あまり長く艦を空けられませんのでな。あなたもまだ私に話しがあるのでしょう?」
本当に、この人は何でもお見通しだ。魔法を使えない筈の人なのに、魔法を使われているような不思議な気持ちを抱いたのは
これで何回目になるのだろうか。
「では、ケストレルまでお送りします。今ヘリを呼びますんで」
「いや、それには及びません」
ヘリを呼ぼうとしたはやてを制した彼は、その手でビル群を抜けた先にある開けた土地を指向した。耳を澄ませると、その方向
から爆音のような音が聞こえてくる。
「直ぐそこのヘリポートで、ケストレル所属のヘリ部隊が待機しております。少々荒くれ者が多いですが、よろしければ我々の
ヘリで参りましょう」
自前のヘリ部隊があるとは、流石は航空母艦と言ったところだろうか。アンダーセンははやてとサンダーヘッドを伴い、護衛部隊が
待つヘリポートへと歩を進めた行った。
全てが終わり、静まり返った室内でレジアスは今日の会談を反芻していた。結果は上々、オーシア艦隊側が予想以上に協力的で
あったこともあり、滞りなく会談は進み、様々な合意や協定を得ることができた。
「よろしかったのですか?今回の件に本局が絡む余地を残すこととなりましたが」
彼の執務机の横で、会談内容について纏めていた女性が意外さを含んだ口調で尋ねてくる。その間も、てきぱきと作業をこなす手を
止めずにいられるあたりが、彼女の優秀さを物語っている。
「たとえ介入できたとしても、せいぜいあの小娘のところの空軍に関することか、質量兵器に関することぐらいだ。地上本部の管理化に
無い以上、空軍に関してはワシの知るところではない」
本局の影響下にある部隊に委ねる結果となったことは確かに癪に障るが、私情で方針を決めるつもりは無い。
あの機動六課に関しても、潰す方針で本局との問題にしても構わないが、その時になって部隊を解体、責任を有耶無耶にして逃げる
ことなど編成から察するに明らかだ。ならば今しばらく泳がせておいて、言い逃れできない不祥事を起こしてから追及しても悪くない。
若しくは、それを根拠に本局との取引材料にすることもできる。
「それにだ、オーリス。確かにワシは本局は気に入らんし、今後とも余計な介入をしてくるようなら容赦無く攻撃する。
だが、常にそれをやり続けることが得策ではない。地上部隊の中には、ワシと同じく本局を毛嫌いする者も居るが、
それについても同じだ。徒に敵愾心を煽る事が、上に立つ者のすべきことではない」
真剣な眼差しをオーリスに向け、自分にも言い聞かせるように自らの考えを打ち明けた。本局からの地上への
介入は認めない、その鉄の如き不文律はこれからも生き続けていくだろう。しかし、対立だけで事が済むほど世界
は単純にはできていない。故に人は話し合い、妥協し合い、調整することによって求める利益を相手から引き出す。
闘争など、その為の一手段でしかない。闘争自体を目的に据えるほど、レジアスは計画を練ることができない愚か者
でも無能でもない。
そんな彼でも、一時の感情に流されて判断を誤ったことが何度かあった。『あの男』と通じていたことはその最たる例だ。
その誤った判断が彼にもたらした物とは、一体何であったのか。何も無い、得た物など何も無かった。敢えて『得た物』と
するなら、彼から掛け替えの無いものを失わせた結果ぐらいだ。その内のいくつかは何とか取り戻すことができたかも
しれないが、真に失いたくなかったものは二度と戻ってこなかった。
いつになく真剣な顔つきをするレジアスに対し、オーリスは作業の手を止め心配そうに彼を見つめるも、彼は今日
始めて微笑を作った。
「心配するな、オーリス」
だが、その無理やり作られた微笑は彼の奥深くにあるものを隠すような、哀愁を漂わせるものだった。
「意志ある者に勝機あり、だ」
これまでに失ったものはあまりに多い。それでも、前へ進み続けて道を切り開いていくしかない。実現させる為なら、
可能な限り手段は選ばない。それが、レジアス・ゲイズという男の信念であり、信条だった。
首都クラナガンを燃えるような色に染め上げる夕日が沈み、今日もミッドチルダは変わらぬ平和な一日を終えようとしていた。
最終更新:2009年08月21日 20:29