道のない道を歩く、というのはいかなシグナムにとっても初めての体験だった。
 無論、彼女とて魔法使いだ。空を飛び、虚空を踏みしめることなど児戯にも等しい。
 だが、それはあくまでも魔法に頼った上での話だ。翼のない鳥が、エンジンのない飛行機が空を飛べないよう
に、人はただそれだけでは重力からは逃げられない。
 つまり、シグナムは今空を飛んでいない。「足場のない道」を歩いているのだ。
 それも、彼女が意図しないところで。
 そこは白い闇と暗い光に覆われた一つの世界だった。人が理解できる色彩を遥かに凌駕凌駕凌駕。瞳が捕らえ
るものは何もなく、だというのに先が見通せるという矛盾。
 上もなければ下もなく。
 どこまでも昇っているようでもあり、どこまでも沈んでいるようでもある。
 恐らくは、時間の概念すらもここでは通じない。シグナムはもはや自分がいつからここにいるのか。どれだけ
この閉じられた世界にいるのか、理解できなくなっていた。
 正気、なのだろうか。
 暗がりに閉じ込められれば、人は容易く狂気に落ちる。いかなヴォルケンリッターといえど、その精神力には
限りがある。
 まして、シグナムはいつから、どうしてここにいるのかすら理解できていないのだ。
 なら、彼女がもう狂っていたとしても何の不思議もない。
 だが――
 それを全て斬り捨ててこそシグナムはシグナム足りえる。
 どのような困難であろうと、彼女は心の中に一振りの剣があれば事足りる。
 万難に全力を賭して当たってこそのベルガの騎士。
 彼女を狂わそうとするのなら、それこそ主を奪うより他あるまい。
 ならば、

「レヴァンティン」

 己が相棒が自らの声に答えることがなくとも、そしてなぜか魔法が使えなくとも、ただ刃があるだけでシグナ
ムが正気を保つには十分だった。
 そう。正気を保っているからこそ、彼女はこの闇の先に誰か/何かいることに気付いたのだった。
 あえて動かぬ相棒に声をかけたのは、己の体に染み込んだ戦闘前の儀式のようなものであり、そしてこの声が
この先の何かに届くようにと狙ったからだ。
 声に反応し襲い掛かってくるならそれでよし。襲い掛からぬならそれもまたよし。
 今シグナムが必要とするのはこの世界の情報。それこそ右も左もわからぬとあっては、受身でいられるはずも
ない。
 剣を構え、シグナムはこの世界に来て初めて足を止めた。一秒、二秒と通用しない元の世界での時間を心の中
で数える。三秒たってもまるで反応がないようならば、こちらから打って出るつもりなのだ。
 だが、結果としてその思いは無駄になった。

「……へえ、ずいぶんと変わった剣を持ってるんだな」

 その声に答えるように、闇が茫、と開く。その間を縫って出てきた相手の姿を認めると、シグナムはわずかに
眉を顰めた。
 白いシャツに黒いズボン。それはまだいい。しかし、その上に女物の赤い小袖を羽織るとは一体どういう了見
なのだろうか。ましてそれを着ているのが男などと。
 とはいえ、シグナムの注意を真にひきつけたのはその突拍子もない格好ではない。実際、男の顔はどこか中性
的な色を持つ少年のようなので、それほど忌避感はない。
 その顔に相反するのは、腰元に刀を帯びた刀である。

「貴様、何者だ。まさか、ここの主か?」

 警戒もあらわに、まだ距離はあるというのに切っ先を向けるシグナムに、男は笑って手を振った。

「いや、俺はそんな上等なもんじゃない。しかし主か。そんな言葉が出てくるってことは、アンタここは初めて
みたいだな。
 なるほど、それじゃあ確かにこんな真っ暗闇を歩いていたのにも合点がいく」

 わずかに嘲笑の色を顔に残したまま、男――やはり少年と呼ぶには難しい――は、どうしたもんか、つぶやき
左手で刀の柄頭をとんとんと叩いた。
 シグナムが見たところ殺気は、ない。純粋にただ考え事をしているだけのようだった。

「……どういう意味だ」

「そうだな、わかりやすくやってみようか」

 そういうと、男はすっと息を吸い、瞳を閉じた。
 瞬間、

「なっ!?」

 世界は一変していた。
 あわててシグナムは目の前の男への警戒も忘れて辺りを見回した。
 打ち捨てられたどこかの高層ビルなのだろうか。むき出しの鉄筋とかなりの年月に晒されたからだろう風化し
ひび割れたコンクリート。空を見上げれば、崩落した天井から満天とはいかないが夜天に星が覗き、満月の光が
うっすらと差し込めている。
 無論、時間はおろか重力もその役割を取り戻していた。間違いなく、ここは実世界と同じ法則で動いている。
たった先程まで、あれほど異邦だったというのにだ。

「どうよ、綺麗だろ?」

 その笑みを含んだ声に、シグナムはようやく正気を取り戻した。と同時に男から距離を取るために大きく一歩
飛びずさる。

「……やはり貴様が主か」

 幻術か、結界か、あるいは本当に世界を一つ作ったのか。
 そのどれでもよかった。ただ目の前の相手が敵であると言う確証さえ持てるなら。

「残念。違うって言ったろ。人の話はきちんと聞きましょうって教わらなかったのかよ。
 ただまあ、完全に間違いって訳じゃあない」

「なら――」

 どうして私をここに呼んだ――そういおうとしたシグナムの機先を、突き出した男の手のひらがさえぎった。

「完全に間違いじゃないって言うのはだアンタもここの主だっていう意味だ。いや、俺やアンタだけじゃない。
 ここにいるやつらは全員、この世界にいないやつも全員この世界の主なんだよ。だからまあ、思えば大抵のこ
とは何とかなる」

 飄々と男は続ける。

「なんだっけ。あんたは聞いたことないか? 世界中の人間は根っこのところで全員意識がつながってるって話。
 俺も死ぬ前はそんなこと信じてなかったんだけどさ、どうやらここがそうらしい」

 シグナムを煙に巻くように話しているのだろうか。要領を得ない――あるいは要領を得すぎているからこそ単
純な言い方に、シグナムの理解が追いつかない。

「どういう、ことだ?
 ……それに、私は死んだのか?」

「いや、俺も詳しくは知らねえし、わかることもねえよ。たまたまここで斬り合ったヤツがそういうのに詳しか
ったから教えてもらっただけだ。
 で、まあ俺なりに簡単に言うと、だ。ここは斬り合いの聖地みたいなものだ。世界中の生きてるやつ、死んで
るやつ。その中でも斬ったはったばかりやって多様なやつがここに来るらしい。あんたが死んだ記憶がないんな
ら、闇討ちでもされてない限り生きてるんじゃないか?
 まあ、俺は本当に死んでるんだが」

 全く、迷惑な話だ――と、男は唾を吐き捨てた。

「俺は伊烏だけで十分だってのによ」

 ぎり、と歯軋りの音が放れたシグナムのところまで響く。
 これが演技だとしたらたいしたものだが、おそらくはこの怒りは本物なのだろう。これまで見せてきた感情が
全て偽物と思えるほど、それはどこまでも純粋だった。
 だからこそ、わからないことがある。

「望んでここにいるのではないのか?」

 そう。斬り合いをした、とまでいうのなら、それこそ男はこの世界を受け入れているように見える。
 そしてそれは真実なのだろう。この廃墟を生み出す手際は随分手馴れていた。

「おいおい、よく考えてしゃべれよ。あんたはここに望んできたのか?」

 なるほど。確かにとシグナムはうなずいた。
 彼女がここにいるのは彼女のあずかり知らぬところでの出来事である。自分がそうなのだから他人もそうであ
ると考えるのは早計だが、自分だけが特別だと考えるのも同じことだ。

「そうか。失礼をした。しかし望んでいないものまでどうして――」

「言ったろ。世界中の人間の意識が繋がってるって。本人が望まなくてもどっかの誰かが、あー、こいつこうい
うところにいないかな、って考えればそれで十分なんだよ。
 それこそ、そいつが生きているか死んでいるか、過去も未来も関係なく無理矢理な」

「なるほど。確かに迷惑な話だ」

 男の言の通りだ。望まぬものまで無理やり引き込むとなれば、そこはもはや聖地でなく、地獄にも等しい。
 人々の想念が作り出した世界。つまり、この場にいる全員が意識だけのデッドコピー。
 肉も心も持たず、ただ虚ろに斬り合いの果てに消えていくだけ。
 ここでは本物も偽者の区別もない。百の想念が千の妄想が至る先では、一人の意識などまるで意味を成さない。

「なるほど、つまりわざわざこうして説明してくれたのも、その誰かの望みであり――」

 シグナムが腰を落とす。峰を下に刃を上に。弓を引き絞るように体を捻り、半身になって男に対峙する。

「話が早くて助かる。嫌なことはさっさと済ませちわないとな」

 言いながら、男の左手が鞘に伸び、唾鳴りも立てずに静かに鯉口を切った。
 シグナムの剣とは違う、白々と月光を映す刀日本が夜の中に輝く。

「騎士の礼儀だ。名乗ろう。ヴォルケンリッターがシグナム、参る」

「名乗り、ね。そんなものには意味はないが……。武田赤音だ。せいぜい地獄に行ったら忘れてくれ」

 そうして、二人の剣士の戦いが始まった。

 低く重心を落としながら、すり足で徐々に間合いをつめる。
 剣道場での経験が役立った。
 シグナムが納めた剣術は、やはり主に魔法を前提としたものである。無論魔法がなくとも他の追随を容易く許
すようなものではないが、それでもやはり、根底には魔法やバリアジャケットの存在が大きく根ざしている。
 翻って今はどうか。魔法は使えず、デバイスも動かないためバリアジャケットとしての機能は望むべくもない。
 純粋に剣の技量だけがこの勝負を決めるのだ。わずかな経験でも命がかかっているともなればありがたい。
 つ、と緊張で額に汗が流れた。
 真剣勝負ともなれば、その重圧は精神を削り、容易く体力を奪う。まして今ここは敵が作り出したシグナムの
見知らぬ場である。
 無論、斬り合いを望まれているこの場にて罠があろうはずもないが、わずかではあるが、知っているか知らな
いかという違いは、命をはかりにかけていることを考えればとてつもなく大きい。
 その差は、体力という面において長くなれば長くなるほど重くのしかかってくるだろう。
 それゆえ、シグナムは短期決戦を望んだ。
 幸い、獲物の間合いはシグナムが持つレヴァンティンの方が赤音が持つ刀よりも幾分長い。体格も160センチ
に届くか届かないかといった赤音では、シグナムとさほど差はない。
 体重もそれほど極端な差はないようで、それは純粋な筋力においても同様と言えた。
 つまり、単純な斬撃の威力ならば、獲物のさも考えればシグナムのほうが優れていると言っていい。先手を狙
うには十分すぎるほどの理由だ。
 腕を捻ったようにレヴァンティンを突き出すこの構え。初動にわずかなラグを生むが、表裏を問わず、袈裟懸
けで打ちかかる際にはこれが大きな威力に繋がる。
 ましてそれがシグナムのレヴァンティンの一撃ともなれば、細身の日本刀では受けることすら困難を極めよう。
 シグナムが先手を取る限り、彼女の勝利は揺るがない。だからこそ機を見極めるために慎重に間合いを詰めて
いるのだ。
 一方の赤音といえば、抜いた刀を右肩の上、柄頭を持つ左手を顔の高さまであげた八双にも似た構えを取って
いた。その攻撃的な構えが意味するところは、彼もまた同じく先手を狙っているということ。
 恐らくはわかっているのだろう。受身に回れば自身が不利になることを。
 とはいえ――
 シグナムは苦笑した。確実に先手を狙っているともなれば、それこそ相手に不利を教えているようなものでは
ないか。
 わかっていても避けられないようなものというのは確かに存在する。
 たとえば高町なのはのディバインバスター。広範囲をあまねく破壊するあの砲撃を前にすれば回避はほぼ不可
能に近い。もっとも、防ぐことは不可能ではないし、発動前に効果範囲から抜け出すこともできなくはない。
 だが、剣ともなれば話は別だ。刃が届くのはその切っ先が触れるまで。魔法でも使えば話は別だが、この場に
おいてそれを考える必要はない。
 剣とは畢竟騙しあいに尽きる。どれだけ剣速を磨こうと、その狙いを看破されては駄剣に落ちる。
 後の先をもらう――あっさりとシグナムは当初の狙いを変えた。お互いが似たような獲物ともなれば、多少の
間合いの差こそあれ、相果ててしまっても不思議はない。ならば、
より安全に勝てる方があると言うのならそちらを選ぶべきだろう。
 大きくひざを曲げたまま、シグナムは一刀一足の間合いにすっと足を運んだ。

「ッシッ」

 短く呼気の漏れる音が耳に届く。しかし音よりも早く、シグナムは曲げた膝を後ろへと伸ばし、体を大きく後
ろへと引いていた。
 これで仕舞いだ。間合いを狂わされては、いかな剛剣と言えど意味はない。先手を奪うことばかりに気をとら
れ、焦って飛び込んできた相手の剣は空を斬り、その後の一瞬の隙をシグナムは見逃さない。
 随分とあっさりとした決着だが、実際のところ真剣勝負とはそのようなものだ。張り詰めた緊張が続いた後、
あっさりと一合で決まることなど珍しくない。
 武田、赤音か――夢のように忘れると言われたことを思い出し、せめてわずかなひと時だけでも相手の名と顔
を覚えてやろうと、意識をわずかにそちらへ向けた。

 その瞬間、シグナムの背筋に戦慄が走った。
 その顔に、嘲笑が浮かんでいるのだ。読みきったのは俺だ。負けるのはお前だ、と。
 事実、シグナムの目測よりも――わずかに、赤音の輪郭が大きい。なぜ、と思う必要はなかった。
 剣術が騙しあいというならば、その要ともなる間合いを奪う技などいくらでもあるのは当然だ。
 大事なのは、シグナムは今まさに斬られんとしている。その一点だけである。

「く、そっ!!」

 つぶやいた悲鳴は言葉にもならず。後の先の狙いも捨ててシグナムは無理矢理更に体を後ろに伸ばした。体勢
が乱れ、相手の続く二撃目に対処できないような避け方であり、悪手と言ってもいい。
 だが、しなければ死ぬと言うのであれば他に手はない。
 剣先が外れるように、とシグナムは祈った。いや、外れぬまでもない。せめて致命的な一撃さえ避けれれば。
 襲い来る痛みに備え歯を食いしばり、銀閃が過ぎるのを待つ。
 それは刹那にも満たない時間ではあったが、死を前にした集中が何倍にも引き伸ばした。
 だが、一秒を七十五度数えられるほど時が過ぎても、襲い掛かる痛みはやってこない。
 賭けに勝ったのだ。読み負けた上で傷一つ負わなかったのだ。
 あの嘲笑。それが赤音から勝利を奪ったのだ。あれさえなければ、シグナムとてこうも見事にかわしきれはし
なかっただろうに。
 そして、今度こそ――本当に終わりだ。
 一合ではなく、二合ではあったが、それでも生半な十合の打ち合い以上内容の濃い戦いだった。
 いや、しかし。やはり、一合で決着がついたと言うべきなのかもしれない。
 なぜなら、赤音の振るった剣は、一撃にして二撃。彼だけに許された必殺の魔剣/システム・オブ・アーツだ
ったのだから。


「ふう、これで終わりか」

 切り上げた己が刀についた血を振るって赤音は息を吐いた。
 薄氷の上を歩くような勝利だった。相打ち覚悟で相手も先手を狙えば勝てたとは限らなかったし、そもそも初
撃は赤音の主観では完全に捉えたはずの一撃だったのだ。
 そうでなければ嘲笑など浮かべはしない。鍔目返しに切り替えられたのは、超反応を持つ赤音をしてもぎりぎ
りのタイミングだった。もしできなければ、それこそ無様に斬り捨てられていたに違いない。

「全く、本当に俺は伊烏だけで腹いっぱいだってのに、これ以上食わせて胃もたれしたらどうするんだ。食べす
ぎで太ってこの美貌が失われたら世界の損失だぞ、こら」

 言って、彼は懐から包帯を出した。
 血に濡れた刀の中ほどを、器用にくるくると巻いていく。
 ――この先の結末を語る必要はない。
 彼はいつものように腹に収めたものを吐き出すだけだ。


暗転/


 そうしてシグナムは目を覚ました。目覚ましもなく、鳥の声も聞こえない。
 時計を見るまでもなく、部屋の中の薄暗さから未だ夜明け前だと見当をつけた。ここまで早い時間に目覚めた
ことは、シグナムの記憶に久しくない。
 鼓動はわずかに激しく、そっと服の上から押し当てただけでも乱れていることが感じ取れた。
 何か悪い夢でも見たのだろうか、と胸に手を当てながら思う。だが、その内容はもはや指の間をすり抜ける水
のように失われていた。
 それを証明するかのように、胸の鼓動も、聞き入っているうちにすぐに収まった。
 だが、手の平から水が零れても、濡れたことには変わらない。
 どくどく、と自分は生きていると証明するかのように力強く脈打っていた心臓の鼓動が手に乗り移ったかのよ
うに汗ばむ手をぐっと握ると、シグナムはふと呟いた。

「柄ではないとは思っていたが……戦いがどういうものかぐらい教えるのもいいかもしれんな」

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最終更新:2009年06月29日 19:02