第5話「深淵の囁き」 
 

 かつて臨海第8空港と呼ばれていたこの場所に、人が出入りしなくなっておよそ四年の月
日が経過した。未曾有の空港火災によりその施設のほとんどが焼損、損害の規模が大き過
ぎた為に復旧の目処も立たず、やむなく放棄された過去を持つ。大勢の旅行客や家族連れ
で賑わっていたロビーには瓦礫が散乱し、火災によって焼け爛れた壁や崩落寸前の天井が
目立っている。内部での発電設備は勿論外部からの電力供給も途絶えている為、照明は残
らず息絶え、職員が操作していた各種モニター類、人々の目を楽しませていた電光掲示板や
テレビの類も、今は二度と訪れることの無い出番を待ち続けている。旅の思い出話やビジネ
スの会話、出会いと別れ、人の生きる姿を見守りそして空へ送り出してきたこの空港が再び
その役目を担う機会はもはや来ない。施設の至る所に散らばる残骸と同様に朽ち果て、いず
れ忘れ去られることを待つばかりだった。
 しかし、薄暗い施設内に崩壊箇所から光が差し込むように、この空港にも転機が訪れようと
していた。一部の施設には新たに手を加えられて修復され、全てを呑み込むかのような暗闇
に支配されていた通路には復旧された電力によって再び照明が灯り、闇の世界から近代的
な光景を甦らせている。散乱していた瓦礫や機械の残骸も大部分が回収され、往年の姿を
少しずつではあるが取り戻そうとしていた。
 航空機を空へと導く長大な滑走路を眺めながら、なのはは空港施設に隣接した開けた場所、
エプロンで佇んでいた。海に近い場所であるためか、時折髪や制服を柔らかく撫でていくそ
よ風が僅かながら潮の香りを運んでくる。日差しが最も強まる時間帯にあっては、少々べた
つく程度の不快感など無視できるほどに心地良い。彼女は滑走路を離陸開始位置から視線
でなぞっていき、先端まで到達すると緩やかに空へ飛び立たせた。広大な碧空にはまばらな
がら白い雲が浮かび、無限に続く碧いキャンパスを更に美しく仕上げている。空は彼女の仕
事場の一つでもあり、それは空を飛べる人間であるが故だ。仕事や法による規制が無ければ
このまま飛んで行きたいが、そうもいかない。空への気持ちはまたの機会に置いておき、彼
女は周りを見回しながら振り返る。
 ブレイズ達と初めて出逢った時のこの場所は、まさしく廃墟だった。放置された残骸や火災
で黒ずんだ外壁が心に訴えるような物悲しさを漂わせており、『忘れられた地』と呼ばれても
不思議は無かった。今では施設のいたる所で作業員や車両が忙しそうに行き交い、この空港
を『基地』へと変貌させる工事が急ピッチで行われている。もう一度顔を上げると、今度は天空
を貫かんばかりにそびえ立つ二つのタワーが目に入る。少し前までは過去に起こった事故発
生地での象徴的な建造物として陰気な雰囲気を醸し出していたが、今や頭上に広がる大空と
相まってどこか誇らしげだ。
「うん、やっぱりこうじゃないとね」 
 一人納得したように、そして幾分楽しそうになのはは言った。
 エプロンから離れ、格納庫の前まで来た彼女はこの施設の主な『利用者』を目の当たりにし
た。巨大な格納庫内に等間隔で並べられたそれは、主翼を最大の角度まで後退させることで
折り畳み、点検用のハッチの数々を開けて整備員の手が入るのを待っている。二対の垂直尾
翼は機体色と明確に区別できる黒で塗装され、その先端部は黄色く、そして中心には稲妻と
犬の横顔を象ったマークが描かれていた。F-14Bトムキャット、それがこの戦闘機に与えられ
た名称だ。
「近くで見ると、本当に大きいなぁ」
 格納庫の入り口、F-14の機首まで近づいてきたが、その大きさには何度も驚かされた。戦闘
機と言う物を実際に見たのは今回が初めてなのだが、普通の自家用機やセスナ機といった航
空機と比べると圧倒的に大きい。こんな物が亜音速、場合によっては超音速で飛行する光景
など想像できなかった。手で機首先端部に触れてみると、金属らしい冷たさが伝わってくる。一
機でも十分見応えのある大きさであるのに、それが四機も並べられている様は圧巻だ。
 ふと、なのはから見て一番右側の機体に人が居ることに気が付いた。一人はコクピット左側
面のタラップによじ登り、もう一人は下からその様子を見守っている。よく見ると、彼女はその二
人の顔を知っていた。一体何をしているのか、それを確かめるべく彼女は問題の機体へ歩み
寄って行った。

「ねぇ、どんな感じ?」
「やっぱりヘリとは違うね。似ている部分もあるみたいだけど」
 タラップへよじ登った少女、アルトが下で待つスバルに向かって戦闘機のコクピットについ
ての印象を伝える。彼女達がこうしてF-14に近づいた理由はただ一つ、好奇心だ。関係者以
外の立ち入りは難しいが、整備員でもあるアルトのおかげで怪しまれずに格納庫に接近する
ことができた。一先ず出口に一番近い機体を拝見することにしたが、タラップやキャノピーも
整備の為なのか開いたままになっていたのでコクピットまでは容易に到達し、物色するように
操縦席を覗いていた。
「前の席はブレイズさん達が乗るんだよね。あ、それなら後ろの席って何があるの?」
「後ろ?」
 スバルからの言葉に怪訝そうに聞き返すも、顔を右へ向けることで疑問は解決した。確かに
F-14の操縦席の後ろには、同じくらいのスペースで後席が確保されている。
「本当だ、後ろにも席がある。こっちにも操縦桿があるから、後ろからでも操縦できるのかな?」
「惜しいね、そいつは操縦桿じゃないから後席からの操縦はできないよ」
 突如、この場に居なかった筈の人間の声が発せられ、スバルは左隣を、アルトは背後を瞬
時に振り返ると同時に心臓が弾け飛ぶような衝撃に見舞われた。
「ブ、ブレイズさん!?」
「やぁ、スバル。そこの君はアルトだったね?覗きとは関心しないな」
 そこに現れたのはフライトジャケットを着たブレイズだった。腕組みしながら侵入者の様子を
観察しているが、二人の驚き具合が余程可笑しかったのか、無断でコクピットへよじ登ったこ
とを咎めつつも楽しそうに語りかける。慌ててタラップから離れたアルトは、すぐさまブレイズの
前まで走り寄りスバル共々必死に謝罪する。
「ご、ごめんなさい!つい出来心で…!」
「わ、私が悪いんです!私が覗いてみようなんて言ったから、その…」
 やってはいけないことだという自覚は大いにあったらしく、先程のブレイズの口調や表情など
頭に無いくらいの必死さだ。彼としては戦闘機に近づくことは危険だと注意すること、そして油断
している二人に一撃を見舞うという僅かな遊び心から音を立てずに忍び寄って声を掛けたにす
ぎない。こうして目論見通りの反応をしてくれた二人には心の中で盛大な拍手を送りたかった
が、その結果がこの状況だとは予想だにしなかった。
「あぁ違うんだ!俺もそんなつもりじゃなかったんだよ!」
 とうとうブレイズまで謝罪の連鎖に巻き込まれてしまった。三者それぞれ自らの言い分を聞い
て貰おうと弁解の応酬を繰り広げるが、相手の話を聞く余裕の無さからまるで進展がない。この
ような事態になると収束には時間がかかるものだが、未だ会話の主導権はブレイズの手にあっ
た。即座に冷静さを取り戻した彼は、額を手で覆いながら目前の少女二人にこう告げた。
「…まぁ、分かってくれればいいんだ。それより、余程興味があったらしいね。何なら見てみるか
い?」
 この提案に二人は反省により沈んだ表情から一転、歓声を上げるかのように顔を輝かせる。
頭上で人を待つコクピットに思いを馳せながら、期待を含ませた弾んだ声でスバルが確認した。
「い、良いんですか!?」
「見たところ外部電源は入ってないし、弾薬も燃料もまだ搭載されてないしね。それと…」
 彼はF-14の機首方向へと目を向ける。ちょうど機関砲の真上あたりに『016』という機体番号が
印されてあり、それはこの機体の持ち主が誰であるのかを示していた。
「こいつは俺の機体だ、ついでにチェックしておこうと思う。じゃあ、アルトは前席、スバルは後席
に座ってくれ」
 降りたばかりのアルトと、隣に立つスバルにタラップを登るように促す。機体から直に引き出す
形式の足場なので、足を乗せる度にグラグラと揺れるタラップを二人は難なく登りきり、それぞ
れ指定された席に収まった。
「わ、結構広いですね」
 後席に座ったスバルの最初の感想はその広さについてだ。成人男性が腰掛けてもまだ余裕が
あるように造られているらしく、様々な計器類やスイッチ、レバー、ボタン等に囲まれた空間であ
るにも拘わらず、両手両足を動かすには何ら不自由しない。それでいて各種機器に手を伸ばす
ことに苦労する訳でもなく、ほとんど動かなくとも触りたい物に触れそうだ。しかし、それら利便性
はこの機体に実際に搭乗し、使いこなさなければならない搭乗員にとっての利益だ。スバルや
アルトのようにただ乗るだけの者にはもっと別の、基本的で純粋な要素が満たされている必要が
ある。それは――。

「……はぁ~」
 この思わず一息ついてしまう程の快適さだ。GRU‐7A射出座席の座り心地とF-14機内の適
度な広さが調和して、一見すると窮屈そうなコクピット内に快適な居住空間を創り出していた。
これで機内食が出るなら、いくらでも乗っていられるかもしれないとさえスバルは思い始めた。
念願のコクピットに満足感を覚えながら、彼女は前席に座るアルトのことを思い出す。前席と
後席が同じ構造になっているなら、アルトもまたこの感動を味わっているに違いない。その予
想は的中し、目前の計器盤を挟んだ向こう側から興奮した声が聞こえてきた。
「すごい!まるで…」
「自動車みたい?」
 いつの間にかタラップを登り、左側のエア・インテークに片足を乗せて前屈みの姿勢でコクピ
ットを覗き込んでいるブレイズが、アルトの感想を当てて見せた。
「はい!乗り心地は最高ですし、周りの機器のレイアウトもとても便利そうです!」
「そう、自動車も戦闘機も乗るのは人間だからね。居住性と利便性は常に追求されているんだ」
 今ある物より更に便利で、快適な物を目指すことは物の開発動機を占める割合では大きな
部類に入る。自動車等がそうであるように、戦闘機のような兵器もまたそれらを求めて日々発
展を続けている。F-14は初飛行から既に三十年以上経過した古い機体だが、その当時の最新
の技術で造られた、まさに技術の結晶だ。今なお後発の機体に対して遅れをとることは無い。
「あのブレイズさん、これ操縦桿じゃなかったら何なんですか?」
 隣で前席の様子を見ているブレイズの腕を引き、スバルが謎の物体の正体について尋ねる。
乗る前に彼が言った『それは操縦桿じゃない』というのは、おそらく目の前のスティック状の物な
のだろう。巨大な四角い画面の前に設置されたこの物体はどう見ても操縦桿なのだが、彼が言
うには違うらしい。
「そいつはレーダー手動操作用のハンド・コントローラーだ。そこのMFD(多機能表示ディスプレイ)
にはAWG‐9のレーダー情報やカメラの画像などが表示され、レーダー使用時に目標を設定す
る場合なんかはそれを使うんだ」
「おーぐないん?」
 聞き慣れない単語に対し、そのまま棒読みで聞き返す。思考が疑問で埋め尽くされたことによ
り抑揚の無い発音が漏れるが、表情も少し間の抜けたものになっていた。頭上に『?』が浮かん
でいそうなスバルを見たブレイズは、一般人には難解でしかない用語を突然用いたことを反省し
つつ、なるべく解り易いように説明を続けた。
「AWG‐9はF‐14の機首に搭載されているレーダーのことだよ。操作は主に君のいる後席から行う
ことになっているんだ。この後席には操縦機構が一切無い代わりに、レーダーや兵装、オプション
機器の操作を行う機構がある。これとかね」
 スバルの身体を横切って右手を伸ばし、右側サイド・コンソールのスイッチ類を適当に指差して
いき、最後にMFD手前のハンド・コントローラーに手を置いた。AN/AWG‐9は戦闘機程度の目標
なら、最大探知距離が二百キロを超える極めて強力なレーダーだ。最大二十四個の移動目標を
追尾し、そのうち六個の目標に対して同時に攻撃することも可能なこの火器管制レーダーは、主
翼に採用された可変後退翼と共にF-14を特徴付ける物であり、現在においても最強の戦闘機と
呼ばれる理由の一つでもある。他の追随を許さない比類無き性能を有するAWG‐9ではあるが、そ
れ故に構造が複雑であり、操縦と戦闘を行わなければならないパイロット一人での操作は困難と
なった。その為、F-14はレーダーや兵装の操作を担当するもう一人の乗員を後席に乗せて運用
する必要がある。RIO(レーダー迎撃士官)と呼ばれる後席員が操作することで、AWG‐9は捜索モ
ードや捜索範囲の変更といった各種機能を最大限活用することを可能とし、その真価を発揮する
ことができる。
 F-14という戦闘機を万全な状態で運用する為にはRIOの存在は非常に重要なのだが、スバルは
そのような技術的で難しい話よりも『空を飛ぶ』という観点に着目していた。彼女はウイングロードを
使えば地上を離れて空を駆け上がることも一応は可能だ。だが、隊長達のような空戦魔導士のよ
うに自由自在とまではいかない、所謂二次元移動の延長線でしかない。彼女の相方が空へ上がる
ことを目標の一つに掲げていることに影響されたのか、空への想いが全く無いと言えば嘘になる。四
年前にこの空港で幼い彼女を救った憧れのあの人もまた、『白い鳥』のように空を翔る人間の一人
だった。こうして心が恋焦がれるように大空を見上げていることには、それらの影響があるのかもし
れない。

 しかし、本当にそれだけなのだろうか。訓練校時代に相方が語ってくれた夢、今の自分を形
作ってくれた人が舞う世界、それらの先にあるものとは一体何なのだろうか。そんな思いも確
かにあるが、それだけではない気がしてならなかった。どうやっても空を飛べないから惹かれ
ているのか、ただ純粋に行ってみたいのか、もっと別の何かが待っているのか、その答えが格
納庫からも見えるあの澄んだ青い空にあるように思えて仕方が無かった。そして、操縦桿とは
航空機を自在に操る為の物だ。当然ながらスバルは操縦などできないが、胸の内に抱く疑問
と期待に答えてくれる存在には成り得ていた。
「こっちからは操縦できないんですか…。ちょっと残念です」
 実際には操縦桿と思しき物体はレーダーを操作する為の物であり、それどころか後席からは
飛行に関して全く関与できないらしい。そのことに対して特に大きな衝撃を受けたわけではない
が、少しの失望感が静かに広がり始め動揺させようとする。ここで彼女は、戦闘機と空への期
待感にも似た感情を押し流してしまうことにした。自分にはウイングロードとマッハキャリバーが
ある。たとえ空を飛べずとも、駆け抜けることはできるではないか。
 残念そうな、諦めたような複雑な表情を浮かべるスバルから目を離し、ハンド・コントローラー
から手を放したブレイズはバランスを取る為にキャノピーの縁に手を掛ける。
「その気持ちも分からないでもないな。だが、後席にだって良い面はある」
「例えば何ですか?」
「そうだな、暇なときは外の景色を眺めたり…」
 後席の素晴らしい特典について語ろうとしたブレイズだが、何かに気が付いて口篭ってしまっ
た。今背後から聞こえた声は隣に居るスバルでも、前席に座っているアルトのものでもなかっ
た。先程まで操縦桿とスロットルレバーに夢中になっていたアルトもその手を止め、声の発信
源を突き止めようと操縦席から顔を出すがすぐに止る。スバルもまたアルトと同一の方向に目
を向けていた。
「あ、なのはさん」
 二人に倣って振り返ろうとしたブレイズより先に、突然現れた人物の名をスバルが口にした。
「二人とも、居ないと思ったらこんなところにいたんだ。駄目だよ?勝手に戦闘機に近づいたり
して」
「いやいや、こいつの点検を手伝ってもらっていたんですよ」
 話し方はいつも通り温厚でありながら咎めるような表情のなのはに対し、アリバイ工作は万全
とばかりにブレイズが答えた。手伝いとは程遠い戦闘機見学だったが、どうやらこの辺が潮時
らしい。
「すまないが、今日はここらで終わりにしよう。教官殿がお見えになられたからね、優しい内に
退散しないと大変だ」
 前脚付近からコクピットを見上げるなのはを尻目に、きょとんとしている見学者二名に講義の
中断を告げる。エア・インテークから足を離し器用にタラップへ両足を掛けた彼は、さも残念だと
でも言いたそうにわざとらしく肩を竦め、親指でくいくいと足元で佇む来訪者を示す。彼にしては
ユニークな一連の動作にスバルとアルトは吹き出しそうになるが、ほぼ同時に降りる用意も始
める。前席搭乗者から素早く席を立ち、登る前よりも高く見えるコクピットに別れを告げていく。
アルトに続いて後席を立とうとした時、スバルは名残惜しさに縛りつけられそうになったが、なん
とか振り切って滑るようにタラップを降りていった。
「なかなか上手い降り方だな、結構な高さだと思うんだが」
「いえ、これくらいなら楽勝ですよ!」
 地上に舞い戻った瞬間、スバルはいつもの明るい笑顔を振り向けてくる。つい数分前に後席で
垣間見た、彼女らしからぬ気難しそうな色は既に消え去っていた。
「ははっ、さすがは前線メンバーだな、頼もしいかぎりだよ。アルトも良い経験になったかい?」
 切り替えが早い性格なのか、少し気になったが本人に問題は無さそうなのでそれ以上聞こうと
はしなかった。同じ相手に聞いてばかりでは盛り上がらないので、アルトに対しても感想を求める
ように話を振る。しかし、求めた相手は視界から忽然と姿を消してしまい、何処へ行ったのかとそ
の行方を探し求めて視線を走らせた。黙って姿を消すような人間ではないのだが、気付かない間
に消えたところを見るとまだ近くに居るのだろうか。主に機体周辺を中心に見回してみると、右側
主脚付近で動く茶色い物体を発見した。それが時空管理局の制服だと認識するにはさほど時間
を要することはなく、どうやら一人で熱心に観察を続けているようだ。
「アールトー?」
「え?だぅっ!?くうぅ……」

 ゴン!となんとも痛そうな鈍い金属音が耳を突き抜け、思わず目を背けてしまう。機体底部
に思い切り頭をぶつけたらしく、頭頂部を押さえたアルトがのそのそと這い出て来た。若干涙
目になりつつある彼女は、重々しくコックピットの方へと振り返る。格納庫の天井から降り注ぐ
照明の光をキャノピーが鋭く反射させているが、その様が自分を嘲笑っているように思えてき
た。自分がこれほど痛い目に遭っても何ら変わらず鎮座している姿が更にその思いを強くさ
せる。同時に先程までは憧れの対象だったF-14が急に憎たらしく思えてきた。負けると分かっ
ていても蹴りの一つくらいは入れてやりたくなってくる。
 アルトとF-14の睨み合いをしばし眺めた後、ブレイズはスバルとなのはの二人に無言のま
ま顔を向ける。対応に困ったのか、二人揃って引きつった笑顔を返してきた。人間対戦闘機と
いう奇妙な構図ではあるが、地上で燃料、弾薬を搭載していない戦闘機など単なるオブジェ
だ。このまま放っておくと愛機が更なる虐待に晒されてしまいかねない。
「やれやれ、そんなにサービスしてくれても残っているのは格納庫巡りぐらいだぞ?」
「わざとなんかじゃないですよぅ…」
 うー、と小さな唸り声を残してアルトが頭を擦りながらブレイズの側を通り過ぎる。擦れ違う
瞬間、彼女は再度頭部の鈍痛を作り出した原因へと睨むような目で振り返った。デバイスと
違い人工知能の類を持たないF-14は自ら動くことはできない。誰かが操縦するか、牽引車に
引かれる以外には移動する手段が無いからだ。そんなことはアルトもよく分かっているが、微
動だにしない様子を見るとやはり悔しい。キャノピーを開放しているその姿がまるで『お大事
に』とでも言っているかのようだ。
 可愛くない機体(ヤツ)、覚えてろよ、口には出していないがそんな言葉が聞こえてきそうだ。
一方ブレイズは未だ衝撃の余韻に悩まされるアルトの後姿を見送る傍ら、主たる自分に火の
粉が降りかからなかったことに胸を撫で下ろした。
「戦闘機に当たってもしょうがないと思うよ。…ものすごく痛そうだったけど」
「それはそうなんだけどさ…」
「そう機嫌悪くしないでくれ。ここは一つ、気分転換に管制塔を見に行こうか。ここのは高層ビ
ル並に高いから展望台としても最高だよ」
 ようやく痛みが引いてきたのか、落ち着いた様子を見せるアルトとフォローしてくれたスバル
の二人にブレイズは新たな提案を持ち出す。思わぬところで邪魔が入ったが、代替案として
管制塔見学なら申し分ないだろう。さすがに実際に空を飛んだ際の情景にはかなわないが、
それでも空を飛ばずに見ることができる景色としてはなかなかのものだ。
 そうと決まればさっそく移動を始めなければならない。彼は二人を先導するために歩き始め
ようとしたが、突然右肩を掴まれてしまった。肩から伝わる感触からして女性らしい手であるこ
とは間違いないが、振りほどける気がまるでしないのは何故なのだろうか。手の先を辿るよう
に恐る恐る振り返ってみると、清清しいまでの微笑みで彼を迎える女性が立っていた。
「な、なんでしょうか高町一尉?」
「遊んでいる暇はありませんよブレイズさん、お仕事です」
 ブレイズの肩を片手で掴んだまま、空いた方のなのはの手が軽やかに宙を舞う。直後に空
間ディスプレイが出現し、記録されている情報を流れるように表示していく。まるで魔法のよう
だ、と片手ブラインドタッチといった具合に操作する彼女の器用さと光だけで構成された表示
媒体を見て、彼の関心は明後日の方向へ向いていた。そのような彼の心中を置き去りにして、
激流を思わせる速度で流れ続けていた文章がぴたりと停止する。
「このフライトプランと使用兵器に関する報告書の提出期限は今日ですよ?早く仕上げて八
神部隊長に提出して下さい」
「それなら後でハラオウン執務官に書き方を教わろうかと思っています。どうにも慣れなくて困
っているんですよ」
「やだなぁ、それなら私がお教えしますよ」
「ぐっ…」
 逃げられない、本能的にこの状況を理解した彼は友である二人の少女に助けを求めた。
「えっと、あたしティアと新しいフォーメーションの打ち合わせがあるんだった」
「あ、私もここのヘリポートの設備を見に行かないと」

 なんということだ、援護を期待していた彼に向けられた言葉は無慈悲にも見捨てるに等しい
ものだった。上官である以上に、今ブレイズが最も会いたくない人物は他ならぬなのはだ。も
ちろんサボる気など微塵も無い、ただ作業を延期して気分転換に格納庫に訪れていただけだ。
そして彼の重大な危機に際して友人達は助けてくれる、そう信じていた。
 だが、現実とはかくも残酷なのか。ブレイズが友と築き上げた信頼関係は階級という壁を跳
び越せるまでには至っていなかったようだ。スバルは罪悪感を覆い隠すように困り果てた表情
を見せながらも少しずつ後退りし、アルトに至っては小さく手を振っているではないか。
「…了解しました」
 もはや抗う術は無く、ブレイズにはおとなしく従う以外の道は用意されていなかった。


 復旧作業が順調に進みつつある空港施設内の通路。不規則に明滅する照明に時折注意を
逸らしたり、思ったより頻繁に出会う作業員に軽い挨拶を交えて擦れ違っていく。格納庫から出
て数分、何番目かの修理中の警報装置を目にした時、ブレイズは気にかかっていたことをなの
はに尋ねた。
「ところで一尉、あなたはいつ格納庫へ?」
「ブレイズさんがスバルの真横に忍び寄った時ですよ。意外とお茶目なんだなぁ、なんて思って
ました」
 くすくすと微笑ましそうに話すなのはの顔を見ずに、彼は不満げな表情で前を見据えながら歩
き続ける。奇襲を仕掛けたのは自分だけではなかったということなのか。戦闘機という珍しい物
体に目を奪われている少女にそろそろと忍び寄る大の大人の姿はさぞ滑稽に映ったことだろう。
「ということは機体に見学者を乗せたことも含めてお見通しだったと。まったく一尉も人が悪い、
居るなら居ると仰って下されば良かったのに」
「あはは。でもそれ、きっとあの二人もそう思ってそうですね。あとそれから、階級は気にしなくて
もいいですよ。『もっとオープンに』、ね?」
「…参ったな」
 最後の部分を強調し、顔を覗き込むような仕草で話しかけてくるなのはにブレイズはため息交
じりに小さく呟く。ここでどこかのお喋り小僧の言葉を返されるとは思っても見なかった。
「機体と言えば、確かF-14は海軍機ですよね。どうして空軍のウォードッグ隊が?」
「そのことか。話せば長くなるが、簡単に言うと海軍からの借り物なんだ」
 サンド島基地で主に運用されていた機体はF-5EタイガーⅡと呼ばれる軽戦闘機で、ブレイズ達
もその機体で訓練、そして実戦に当たっていた。軽戦闘機としての運動性も悪くなく、比較的扱い
易い機体ではあった。ただ、開戦前からの戦闘を始め度重なる出撃で酷使していた上、イーグリ
ン海峡まで飛行し防空任務に就くには些か心許ないとされた。本来ならば中央へ要請してF-16の
ような代替機を寄越してもらうのが筋であるのだが、最も近い空軍基地から回そうにも時間が無く、
またどの基地も本土の防空や太平洋側の哨戒任務の為の機体を確保しなければならなかったの
で、余分な機体を直ぐに配備することは困難だった。
 そこで目を付けられたのが海軍航空隊の機体だ。サンド島からは遠く南西に位置するセント・ヒュ
ーレットに海軍航空隊の陸上基地があり、ここにはケストレルに所属する第7空母航空団(CVW7)
が駐屯していた。この基地も軍港と同時に空襲を受けたが、ユークトバニアが艦船への攻撃を最
優先目標としていたことにより、被害は比較的軽微で済んだ。地上で破壊された機体も存在した
中、奇跡的に難を逃れた予備機のF-14B四機を補充機として回して貰えたのは、使用可能な機体
は全て使ってでも空母を守りたいという海軍側の意図と一致したからなのだろう。
「いきなりの機種転換で大変だったよ。何せ空襲翌日にその報せが来て、講習会を開いて朝から
晩まで猛勉強。その次の日には実機が届いて今度は猛訓練だ。間に合ったから良いものの、正直
勘弁してもらいたいよ」
「そうだったんですか。じゃあ本来二人乗りの機体を一人で操縦しているのもそのせいなんですか?」
「その通り。機体は回してくれたが搭乗員までは貸してくれなかったんだ。まぁ海軍の方も手酷くや
られたらしいからね。できればRIOも付けて貰いたかったが、あまり贅沢は言えないよ」

 人材不足、と単純に判断することはできないが、物足りなさそうに話すブレイズの会話内容
になのはは耳が痛いと内心で苦笑する。F-14は本来二人で運用することが前提の機体だが、
後席のRIOが居ないことで全く戦闘ができないわけではない。前席からでも兵装選択とレーダ
ーの操作は可能であり、これらは操縦桿とスロットルレバーから手を離すことなく行うことがで
きる。このHOTASという概念の導入により、飛行や戦闘に必要な操作を一人でも問題無くこな
せるようになっている。
 しかし、この運用方法では二人乗りの機体としてのメリットは活かせない上に運用上の制約
も生じることとなってしまう。最も影響が出る部分は言うまでも無くレーダーだ。RIOが存在しな
い以上レーダーを操作して敵機の位置を掴むことはできないに加え、超長距離でのミサイルの
管制を行うというF-14の強みを潰してしまっている。また、前席にはレーダー情報を表示するデ
ィスプレイが無いので、前席でパイロットが手動操作して索敵を行うことも不可能だ。つまり、現
在のウォードッグ隊は完全に盲目の状態で戦闘を強いられているに等しい。イーグリン海峡戦
の時もこの状態であったが、あの時は周囲に多数の味方機が居たことと任務終了時には空軍
の単座機に戻す予定になっていたのでそれほど深刻に考えていなかった。今となっては機体
の変更も搭乗員の補充を行うこともできないので、サンダーヘッドから逐一もたらされる情報を
除けば昔ながらの目視に頼るしかない。
 「電子機器に関してはシャーリーとグリムが何とか解決策を出してくれるとは思うが、根本的な
解決は難しいだろう。さすがに一人での運用なんて想定されてないからね」
 無いものねだりをしても始まらないが、先のことを考えると暗鬱な気分になる。火器管制装置と
してのAWG-9は依然として健在だが、長大なアドバンテージを持つレーダーとしてのAWG-9は事
実上使用不能だ。戦闘機を相手にする空中戦はミッドチルダでは起こりえないが、やはり不安は
尽きない。
 悩んでいるという程でもないが、浅く思考に沈みかけているブレイズにつられてなのはも少し考
え込む。戦闘機や現代兵器のことはあまり分からないが、同じく空を飛ぶ者として何かアドバイス
はできないだろうか。自分の今までの経験とブレイズの置かれている現状を照らし合わせ、最適
な言葉を拾い集めてみる。考えること数秒、彼よりも早く思考の深みから抜け出したが、掬い上
げた言葉が彼にふさわしいものなのかと僅かにためらう。無意味であると分かりつつも相手の了
解を得たいとばかりに顔を向けるが、今のブレイズは些細な変化では気付かないようだ。
「飛ぶって言うのは本来は一人で行うことなんです。どこへ飛ぶのか、どこに敵が居るのか、それ
を瞬時に判断するのは誰でもなく自分です。自分の身を守れるのは自分だけですから」 
 足音だけで会話しているような状況を破り、なのはの澄んだ声が通路内に浸透する。周囲の変
化に鈍感になっていたブレイズも流石に気付き、足に任せきりだった歩行の主導権を取り戻して
少し歩幅を縮める。不意に現実に引き戻されたことでその要因に視線を吸い寄せられたが、なの
はには彼の意識が全て自分に集中し、早く続きを言えとせかされているように思えた。空白の時
間は積み重なり、しかし僅か数秒、数歩分、間を置いて彼女はしっかりとした口調で続けた。
「でも、頼れる仲間がいればお互い助け合うこともできます。ブレイズさんには空で心強い仲間が
いますよね。それに、スバル達フォワードの皆や六課の皆、そして私も。だから――」
 ――心配しないで。穏やかに語る彼女に知らぬうちに見とれていたが、聴き終わる頃から頬が
緩んでいく。今までの訓練や数少ない実戦からも得ていた当たり前の事なのに、高町なのはとい
う人物から改めて聞かされるとそれが全く違うものに受け取れた。レーダーが使えないことは確か
に不利だ。しかし、たとえ使えたとしてもBVR(視認距離外)戦を除けば結局は自分の目で探さなけ
ればならない。空での戦いの本質はいつの時代、どこの世界でも変わりは無い。以前から心得て
いたことを再確認しただけ、それが彼にここまで思考を広げさせるほどに彼女の言葉は安心感で
満ちていた。これが経験に裏打ちされた、確信とも言うべき信念に由来するのだと理解することは
そう難しくはなかった。止りかけた歩みを再び早め、最良の言葉を選んで彼女へと返す。
「ありがとう、覚えておくよ。おっと、ここだったか」

 長話をしているうちに目的の部屋に辿り着いたようだ。自動ドアを通り抜けると部屋の中央
で淡い光を放つ円状の模様のようなものが目に入る。転送ポートというらしいが、最初の頃
こそ未知の体験としてその存在を意識していたものだが、今ではエレベーター感覚になって
いた。
 転送ポートの中心に立つと、五秒としないうちに目の前の部屋の景色が消し飛び、気が付
くと小奇麗に整理された機動六課隊舎の一室に変わっていた。
「毎回思うんだが、これはファンタジーなのかSFなのかどっちに分類すればいいんだろう?」
「少なくとも現実ですから、ノンフィクションってところですね」
 なのはからの思わぬ返し方に自然と笑みが零れ、次にはお互いに笑い合っていた。なるほ
ど、流石にエース・オブ・エースと呼ばれるだけはある。その実力と実績はユーモアを忘れな
い余裕からも支えられているのだろう。
 報告書作成に使えそうな場所を探す最中、二人は食堂の前を通りかかる。どれくらいの人
が居るのかと見回してみたが、手前のテーブルから奥の方まで見ても数えるほどしか居な
い。使うなら今が絶好の機会だろう。
「あ、今ならちょうど良さそうですね。ちょっと長くなりそうですし、ついでに何か飲み物持ってき
ますね」
「ああ、頼むよ」
 食堂の奥へと消えていくなのはを見送り、手近なテーブルに近寄り椅子を引っ張り出す。腰
掛けたところで動作に必要な感覚から解放され、視覚や聴覚に意識を振り分ける余裕が生ま
れる。洒落た喫茶店を思わせる食堂内では、チョッパーがはやてに直談判して実現したロック
の放送が行われている。最初は場違いだと難色を示す者も居たが、重厚で、心をそのリズム
と同じ領域にまで高めてくれるロックは思いのほか好評だった。発案者の選曲センスもあって
か今では文句は聞こえてこない。
 曲が新しいものに変わる瞬間、この食堂の特徴でもあるガラス張りの壁に目を移す。思えば、
最近は色々と変化が目まぐるしく、今後のことについても一応方針が決まった。近いうちにまた
飛ぶことになる空を見つめながら、ブレイズは数日前のブリーフィングでの出来事を記憶の淵
から手繰り寄せた。


「ユークが侵攻を止めた!?」
 ブリーフィング用に用意された決して広いとは言えない室内に、驚愕の念が色濃く滲んだグ
リムの声が強く響き渡る。本来なら既に階級を越えて呼び合える仲にあったが、私語は勿論
大音声での発言など厳禁だ。だが、誰もそれを咎めようとはせず、むしろ次に何を言われるか
に皆神経を尖らせていた。チョッパーもいつもの気さくなノリはなりをひそめ、ナガセですら発
言者の唇の動きを見逃すまいと一切視線を動かそうとしない。
 はやてがブレイズ達を呼び集めた理由は複数あるが、その内の一つは非常に喜ばしいこと
だった。それは元の世界の特定に成功したことである。次元漂流者が個人であることや小規
模な異変程度であるなら通常通りの調査を行われていたが、今回は戦闘機四機とAWACS、
海上には五隻の軍艦による艦隊という特殊なケースだ。事態を重く見た管理局は即座に当該
世界の捜索を決定、優先的に人材を振り分け早期の解決を目指して行動を開始した。組織の
構造と体質的な問題から実行に移すまでの時間的誤差が生じ易いとされる管理局がここまで
素早い対応を行えたのは、やはり中心世界であるミッドチルダに質量兵器で武装した大部隊が
現れたという事実があまりにも衝撃的であったのだろう。その結果捜索自体はスムーズに進み、
発生から僅か五日以内に問題の管理外世界を見つけ出すという快挙を成し遂げた。
 しかし、問題はここからだった。この事件が当該世界での何らかの次元災害の発生が原因
であるなら、その影響で世界全体へ被害が及んでいないかを調査する必要がある。発見後程
無くして調査団を編成し次元航行艦一隻が派遣された。調査にあたって留意すべきことは当該
世界においてオーシア連邦とユークトバニア連邦共和国という二つの超大国が交戦状態にあ
ることだ。世界に影響を及ぼすほどの国家が戦争中であることは由々しき事態だが、管理外世
界に対しては不可侵を貫かなければならない。派遣された局員が想像した世界の状況とは、ま
さに質量兵器たる砲弾やミサイルが飛び交い、泥沼の地上戦が展開されているといったものだ
った。

 そう、オーシア軍関係者への事情聴取から得た情報によればそれは正しい予想だった。し
かし、その確かな筈の現実が調査団の前に現れることはなく、嵐が過ぎ去った後のように世
界は静まり返っていた。存在を悟られないように大気圏外からの観測を試みたところ、確かに
オーシアとユークトバニアの存在は確認できた。だが、両国のどちらかで戦火が上がってい
る気配は無く、相手国に対して上陸作戦を敢行するための艦隊や航空機の移動の形跡も見
られなかった。この場合はユークトバニアがそれに当たるが、オーシアに対する侵攻どころか
完全に自国に引き篭もってしまっているようだ。
「詳細については未だ調査を継続中ですが、現時点において確実なことはあらゆる軍事行動
が中断されている、ということです」
「こちらは空母三隻と護衛の航空機部隊を失い、戦力で上回るユークが更に有利な状況にな
ったはず。なのに何故…?」
 大画面ディスプレイに映し出された世界の状況を順を追って説明するフェイトの声に隠れ、
ナガセはユークトバニアの不可解な行動を少しでも理解しようと思考を巡らせる。しかし、いく
ら考えても出てくる答えは疑問ばかりだ。説明を一通り終えたフェイト本人も、当事者達ほど
ではないにせよこの妙な現象を不気味にすら思う。戦争が中断していること自体は何より喜ば
しいが、その原因が理解できないでいた。時期を見るに例の転移事件が発端であることは間
違いないが、それなら本来はオーシアに影響が出る筈だ。弱体化したオーシア軍を前に、何故
ユークトバニアは襲いかかろうとしないのか。
 このまま冷戦時代のような睨み合いに落ち着いてくれれば良いが、いくら時間を重ねても和
平交渉が成立しなければ戦争は終わらない。幸いユークトバニアが更なる侵攻を行わないな
ら、今のオーシアに逆襲するだけの余力は無いのでしばらくはこのままだろう。あとは政治家が
なんとかしてくれる。
「それで?俺達を呼んだのはこれだけじゃないんだろう?早いとこ教えてくれよ」
「それなんやけどね…」
 チョッパーの催促にはやてが重い口を開きかけるが、一瞬閉口する。
「元の世界に帰還できるようになるまで時間がかかるから、その間ミッドでの治安維持に協力せ
えへんか?って本局が言うてきてるんよ」
「協力って、僕ら魔法なんて使えませんよ」   
「わかってる、そやから戦闘機を使ってもええって意味なんや」
 質量兵器は禁止ではなかったのか、この場に居る管理外世界から来た人間は全員がそのよう
な疑念を抱く。管理世界においては質量兵器は原則禁止であり、時空管理局はその取締りも任
務の一つになっている。ただし、これはあくまで管理世界での話であり、管理外世界については
適応外となっている。そして、オーシア空軍及び海軍は管理外世界の国家に帰属する軍隊だ。無
視して管理下に置くべきだとする声も上がったが、そんな前例を作るわけにはいかないという主
張も見られ、扱いに関しては本局内でも意見が割れてしまっていた。今の管理局にできることは、
せいぜいオーシア軍側に兵器の使用を自粛するように協力を要請する程度のものだ。
 ならば視点を変えて味方に付けてみてはどうか、という新たな意見が浮上してきたことにはそ
うした経緯と管理局を悩ませるある事情とが合わさったことによる。質量兵器を使用するオーシア
軍は管理局が求めてやまないAMFに影響されない戦力そのものだ。当然ながらこの主張には規
制派から猛反発を受け、慎重派も苦言を呈した。しかし、では今の戦力でどうやってAMFを搭載し
たガジェットに立ち向かうのか、対AMF装備、戦術が普及するまで犠牲が増えるばかりではない
か、こう述べられると有効な対案を用意しての反論ができなくなってしまった。魔導士を増やして
数で対応しようにも直ぐにはできない、かといってAMF戦に対応可能な人材を確保しようとしても
時間がかかり、やはり難しい。数年単位で計画を立て、未然に犯罪を抑止するためなら急ぎはし
ないが、今は目前の脅威に現有戦力で対処しなければならない。量の確保も質の向上も望めな
い現状では、あらゆる手を尽くして打開策を模索することは急務だった。
 

 ただ、協力要請派も管理局員が質量兵器を使用、または次元世界での解禁を意図してい
るわけではない。これまで通り規制の方針は崩さないが、管理外世界からの次元漂流者の
協力ならば問題視する必要は無いという主張だ。いずれ元の世界に送り返さなければならな
い存在なので、恒久的に質量兵器に頼ることはどのみちできない。更に、彼らの主張を後押
しする事実として地上本部が既にその方針を決定し、オーシア艦隊側からの承諾も得ていた
ことがあった。後追いの形になるが、共通した案件を持つことで地上との関係改善のきっかけ
になるのでは、との期待も寄せられていた。質量兵器の使用に慎重な姿勢を維持する慎重
派もこの地上との協力関係構築の可能性には目を引かれ、最終的な本局の意思は異論を
内包したまま協力を要請することに統一された。
「要するに、この俺様に番犬やれってことか。働かざる者食うべからずなんて言うがなぁ」
「そこはほんまに、何て言ったらええか…。こういうことになれへんように交渉に行ったんやけ
どね」
「おいおいおいおい、何でお前さんが謝るんだい。うちの石頭とあのおっかねぇおっさんのとこ
行って俺達のこと守ろうとしてくれたんだろ?ちゃんと聞いてるんだぜ、なぁ」
 暗くなりかけたはやての表情を掻き消そうと、チョッパーは後ろにもたれ掛かり『石頭』に話し
かける。この件について驚いたことは、はやてが自分達のために屈辱に耐えてまで交渉の席
に立ってくれたこと、そしてこのことを伝えてきた人物にそんな気の利いたことを行う配慮が存
在したことだ。
「会議中だダヴェンポート少尉、私語は慎め」
 一方のサンダーヘッドは相変わらずの無表情、無感情ぶりを崩さずにチョッパーをたしなめ
る。機上の無線でのやりとりとは異なるが、チョッパーもその扱いには慣れてきたものだ。「へ
いへい」と手をひらひら振って元の姿勢に座り直す。
「でも、運用の方はどうするんですか?部品の調達もそうだし燃料や整備方法だって。弾薬な
んて補給そのものが無理でしょうし」
 明らかに問題が多すぎる、とグリムが航空機の運用に必要な要素を指摘する。整備員もヘ
リコプターの整備なら経験豊富な者も居るだろうが、戦闘機など見たことも無いだろう。たとえ
整備員がその優秀さで克服できたとしても、燃料と弾薬はどうなるのか。オーシア軍では数年
前から戦闘機用燃料の規格統一が進み、現在はケロシン系ジェット燃料JP‐8を使用している。
違う規格のものでも入手ができればまだ良かったが、エネルギー関連をほとんど魔力と水を
使用した特殊な燃料から賄う管理世界では化石燃料の精製は行われていなかった。主要な
エネルギー資源として石油がその立場に無いため、そこから精製、派生する各種燃料の規格
も存在しない。JP-8そのものを入手できたとして、経験者が居ない中で取り扱うことは非常に
危険だ。
「燃料に関してはなんとか解決できると思います。管理世界において広く使用されている燃料
をJP‐8に近い性質に調整すれば、代替燃料として使用できるはずです。機体側に改修を加え
ることはできないみたいですから、これしかないでしょう」
 フェイトから説明を引き継いだシャーリーが燃料の比較図を表示し、機体を始め各種装備品
への管理局の方針についても解説していく。その表情はやや険しく、設けられた条件がどれほ
ど困難なのかを物語っていた。燃料の調整などと錬金術じみたことを行わなければならない背
景には、質量兵器運用に当たって管理局が定めた基本方針があった。まず第一に、機体や艦
船への大規模な改修は行わないことだ。兵器の改良はもちろん管理世界の技術が使用される
ようなことは許されない。しかし、これについては取り外しが可能な程度であるなら許容範囲内
とされた。
 ただし弾薬については完全に別だ。いかに使用を認めるとはいえ質量兵器そのものを時空管
理局が製造または調達し、供給するなどありえないことだ。これは弾薬の補給が絶望的である
ことを意味する。
「そうそう、弾薬の方も当てがあるんやった」 
 にもかかわらず、はやては弾薬の補給も問題無いと言う。寝耳に水な話にシャーリーは戸惑
いながらもディスプレイ上を駆け回る指の速度を速め、弾薬関係のデータを検索してみるが用
意されたファイルにはどこにもそんな記述は無い。他の者も顔を見合わせたり、訝しそうな視線
を部隊長に注ぐが当の本人は自信ありげだ。
「ケストレルから融通してもらうのね」

 逸早くはやての思惑に気付いたのはナガセだった。正解、と顔に書いたような笑みを見せ
たはやては、その場で空間ディスプレイを展開し、皆が注目する大画面ディスプレイにデー
タを転送する。新たに割り込む形で表示されたデータには、AIM-7スパローやAIM-9サイド
ワインダーなどの空対空ミサイル、M61A1の二十ミリ機関砲弾といった航空機用弾薬が画
像付きで、更にそれらを寄越してくれるオーシア艦隊各艦の詳細な情報が含まれていた。
 はやては以前ケストレルに乗艦した際、各艦の現状とこれまで辿った経緯について訊くこ
とができた。そして後に調べたところ、全艦が第97管理外世界に現存する艦船と酷似してい
ることに気が付いた。艦隊の防空を担当するエクスキャリバーはアメリカ海軍のタイコンデ
ロガ級ミサイル巡洋艦、フィンチとコーモラントはフランス海軍のカサール級駆逐艦、スクル
ドは近代化改修後のアイオワ級戦艦、ケストレルはニミッツ級原子力空母とそれぞれ共通
点を見出せた。これらの艦船を自分の世界の艦船の情報と比較した時、彼女はオーシア艦
隊が切り抜けてきた過酷な状況と現状での余裕の無さを痛感した。
 平和な時代を突如として破壊したユークトバニアの宣戦同時攻撃は、艦船に乗艦している
人員にも多大な影響を及ばした。物資を満載し、あと数日で出港を迎えようとしていた第三艦
隊の艦船はほとんどが両舷上陸中であり、生き残った艦もまた半舷上陸によって乗員を欠
いていた。反撃もできず、さながら訓練標的のように次々と僚艦が沈められていく地獄を思わ
せる港を脱出できたケストレル以下の艦船も例外ではなかった。
 ケストレルは乗員が二千百六十名、航空団要員が千百九十名と激減し、エクスキャリバー
は二百五十三名、フィンチは百三十一名でコーモラントは百二十五名となっていた。唯一定
員に達しているのはセレス海へ練習航海に出ていたことで空襲を免れたスクルドで、千五百
七十名が乗艦していた。この乗員の不足については近年導入を開始した自動化システム『ス
マートシップ』によってある程度は補えるが、ケストレルは更に重大な問題を抱えていた。
 それは、第7空母航空団との合流を果たせなかったことだ。セント・ヒューレット脱出後に合
流できた部隊もあるがほとんど戦闘機で構成され、電子戦機や早期警戒機(AEW)といった大
部分の飛行隊とは安全のために内海で合流する手筈になっていた。その予定もミッドチルダ
への転移によって潰え、残った戦闘機もイーグリン海峡での弾道ミサイル攻撃でほぼ全滅し
てしまった。これにより現在のケストレルが保有する戦力は第206戦術戦闘飛行隊の分隊長
のF-14Aが一機、第204戦術戦闘飛行隊所属のF-14D四機、第135電子戦飛行隊のEA-6B
一機、そして海兵隊のヘリ部隊にHH-9B三機とCH-47二機のみだ。この他に港で直接搭載
したF-14D五機があるが、搭乗員が居ないために戦力としては使用できない。
 このようにケストレルの空母航空団が事実上壊滅状態にあるため、オーシア艦隊は大幅な
戦力低下を引き起こしてしまっていた。幸か不幸か、この事態は艦載機用の弾薬や補修部
品に余裕を持たせることにもなっている。ケストレルから直接提供される弾薬ならオーシア連
邦の所有物であるため、敵対行動をとらない限り管理局が規制をかける必要も法的根拠も無
い。本局の協力要請派もこの抜け道を意識しているのだろう。 
「弾薬もやけど、補修部品とかマニュアルのコピーとかも譲ってもらえるみたいなんや。定期
的に整備クルーも送ってくれるらしいし、サンダーヘッドのE-767もこれである程度なんとかな
ると思うんよ」
「すげぇな、大盤振る舞いじゃねぇか。にしてもやるなぁ、はやて。一体どんな交渉やったらそ
んなに援助してもらえるんだ?さてはあれか、色気でも使ったか?」
「どうやろなぁ。アンダーセン艦長はかなり紳士な人やし、私やったら戦艦でも回してくれそう
や」
 チョッパーのジョークもさらりと流し、弾薬と艦船の画像を残して他の情報を閉じていく。体験
談を話すのも良かったがこれ以上時間を割くことはできないので、艦隊の紹介はここで終える
ことにした。スクルドに関しては『最強のコック』がいるんじゃないか、と思ったが誰も分かってく
れなさそうなので黙っておく。
「とにかく、整備も補給も目処が立った。あとは今後の任務だけど何か予定はあるの?」

「まず最初の実戦はホテル・アグスタ付近での哨戒任務や。ホテルのオークションに出品され
るロストロギアに反応してガジェットが現れるかもしれんから、ウォードッグ隊にはそれの迎撃
をお願いしたいんや。…っていうのはあくまでもやる場合や、ちゃんと拒否権はあるから無理せ
んでもええんよ」
 どことなく消極的な態度で、はやてはこの件についての拒否権の存在を話す。本来ならば次
元漂流者として保護に留めておく筈が、上で話が進んでしまったことで報告を上げずに済ませ
ることは難しくなった。放っておけば近いうちに直に判断を迫りにやってくるだろう。直接上からと
なれば、彼女の裁量から外れてしまうことになる可能性が高い。そうなる前に、協力するのか、
或いは断るのか、その意思を聞いておきたかった。どちらかを選べと強制することなどできない
ので、当事者達の意思を尊重しなければならない。
 個人的には、どうか断って欲しい。しかし、協力すると申し出てくれたら全面的にバックアップ
できるように態勢を整える。弾薬関係の援助を早めに取り付けたのもそのためだ。どんなに険
しい道になろうと諦観だけは絶対にしたくない。
 突然選択を迫られたことで困惑しているのだろう、返ってきた答えはざわめき一つ無い沈黙だ
った。またしても無音の世界に戻った室内で、はやてはブレイズに目を向けた。それまで一貫し
て沈黙を守っていた隊長なら、代表として何か言ってくれるかもしれない。そのような思いを訴え
かけてくる彼女に応えてか、彼は静かに口を開いた。
「俺達がやるかどうか、だな。皆、どうするんだ?嫌なら断っても良いらしいぞ」
 一人一人の意思を窺うように全員の顔を見回していく。ここはオーシアではない、命を懸けて戦
う意味も無ければ義務も無い。はやてと機動六課の立場の問題があるので全く無いとは言えな
いが、敢えて言うならそれくらいだ。答えを纏めるのにもう五分は時間がかかるものかと思ってい
たが、その時は意外に早く訪れた。
「あなたの意思が私達全員の意思よ。隊長が決めたことには従うわ。そうでしょう?」
 決して安易に選べる選択ではないが、それでもナガセはいつもと変わらず落ち着き払った様子
で答えを寄越した。他の二人も困難な状況に直面したことによる不安や焦りに流されず、その後
に続くように冷静な視線をブレイズに送る。この雰囲気からするに、全員考えていることは同じら
しい。纏め役が出てくるのを待っていたようだ。チョッパーに至っては「さっさと終わりにしようぜ」と
言いたそうに目配せまでしてくる。その後ろに居るサンダーヘッドだけは渋い顔をしているが、反対
意見を口にする様子はなかった。皆の意思と自分の意思に違いが無いと確信を持ったブレイズは
一つ笑みを浮かべて返事をし、答えを待つはやてと向き合う。
「言うと思ったよ。だそうだ、はやて。空軍として協力させてもらうよ、よろしく頼む」


 あれから数日が経ち、空港の基地への改修工事、整備員の研修、部品と弾薬の確保、全て予定
通りに進んでいる。何故ユークトバニアが侵攻を止めたのかは今でも気になるが、気にしても仕方
ないことだ。何にせよ戦争が中断していることはありがたい。この状況が崩れないうちに帰還したい
が、水上艦を転移させるのに次元航行艦で曳航するわけにもいかなかった。大規模な転移を行う為
の用意が整うまでの間は管理局に協力し、少しでも負担軽減となることで作業を急いでもらいたい
ものだ。
 ガラス越しに雲の流れを眺めていると、トレーを持ったなのはが帰ってきた。
「これしか無かったんですけど、良いですか?」
「グリーンティか、ありがとう」
 どういうわけか抹茶しか見つからなかったので、仕方なく湯飲みに注いで持ってきた。麦茶なら
ともかく抹茶のような少々上級者向きのお茶が彼の口に合うのだろうか。もう少し頑張ってジュー
スでも探し出せば良かったか、そう思いながらも差し出した湯飲みをブレイズは嫌な顔をすること
なく受け取る。彼の性格からしてストレートに嫌とは言わない、少しでも顔を顰めたら代わりの何か
を探しに行こう。
 次はどこを探してみようか、あそこは見たし、あっちも無かったし、湯気が立ち上る湯飲みを放置
して頭の中で尚も探索を続行する。ふと、彼女の視界にブレイズの手が入り込む。手を付けていな
いということはやはり飲めないのだろうか、そんな彼女の思考を真っ二つに分断する戦慄の行動を
目撃した。

「あの…、何をしているんですか…?」
「見ての通り、砂糖とミルクを投入さ。無くても飲めなくはないが、これが無いとグリーンティと
は呼べないからね。うちの基地じゃ、と言うよりオーシアではだいたいこの飲み方なんだが、
ナガセだけは変わり者でね。何故か頑なに入れようとしないんだ」
 隊の中での抹茶の取り扱い事情を語りながら、投下したミルクと砂糖を混ぜるべく紅茶よろ
しくスプーンで湯飲みに渦を作り出す。程よく溶け込んだと見ると手を止め、湯飲みを持ち上
げ一口啜る。
「…ふぅ。やはり、いいな。落ち着くよ。しかし、ヴァイスに聞いた話だとミッドチルダでもこれが
標準らしいじゃないか。こんな些細なことでも共通点を見つけられるなんて、親近感を感じる
な」
 湯飲みをグラスのように持ち、空気中に消えていく湯気を見つめて話す彼に更なる打撃を
浴びせられた。愛飲する知人やそのような飲み方が存在することは知っているが、ミッドチル
ダで標準だなどと聞いたことが無い。まず間違いなくヴァイスの嘘だろう。その情報は誤りだ
と訂正したくなるが、故郷との共通点発見の感動に浸っている彼を前に、とても言い出せなか
った。デマを吹き込んだ不届き者への制裁は当然のこと、ミッドチルダについての正しい知識
を身につけてもらえるように、これから頑張っていかなければならない。そう決意を新たに、
なのはは自分の抹茶を口に流し込んだ。


 世界に訪れた束の間の平穏、それは果たして神の慈悲によるものなのか。或いは悪魔が消
え去ったことによる必然なのか。何れにせよある一方では誰もが欲した平和への可能性がもた
らされ、もう一方は変革への可能性がもたらされることとなる。その代価として要求される物と
は何であるのか、本来あるべき姿から歪められた道を誘導される人に知る由も無い。
 深海の如く光すら届かない奈落の深淵にて、悪魔は静かに息を潜め、覚醒の時を待ち続け
ていた。







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最終更新:2010年09月30日 19:09