別に……別に、目の前の相手を恨んでいるわけじゃない。
 違う出会い方をしていれば、進むべき道が違っていたならばこうはならなかったのかもしれない。
 けれど、現実に私と彼はこうして出会い、こうして違う道を歩んできた。
 この道は交わらないのかもしれない。同じゴールを目指せないのかもしれない。
 差し出した手は取ってもらえず、かける言葉も届いてはくれない。
 ……けれど、それでも―――

 知ってしまった。彼の本当の思いを、悲しみを。
 聞いてしまった。少女の儚い願いを、奇跡を願うその祈りを。

 ……だから、私は諦めない。絶対に諦めきれない。
 十年前に手に入れた魔法の力は、今歩むと決めたこの道はこんな時の為にあるのだから。

 だからカズマ君、私は君を絶対に――――助けてみせる。
 いつだって全力で、一秒でも早く不幸な悲しみを終わらせるその為に………


 魔法少女リリカルなのはs.CRY.ed―――始まります。

 

 魔法少女リリカルなのはs.CRY.ed 
 第8話 なまえをよんで

 

 遠雷が鳴り響く音が耳へと木霊してくる。
 天は厚い雲に覆われ、日の光は隠れ、この大地を闇へと染めていた。
 高町なのはは荒れ果て、様相を更なる過酷な形状へと変貌を遂げた眼下の大地を見下ろしながら痛ましげな表情を隠しきれてはいなかった。

「……とりあえず、揺れも収まったみたいだし下に降りようか」

 自分が抱きかかえている教え子たるスバル・ナカジマへとそう告げながら、けれど言葉とは裏腹に警戒を崩さぬようにしながらなのははゆっくりと下降していく。

「……何か、四年前を思い出しちゃうよね」

 重苦しい沈黙を嫌ったのか、下降していく最中、なのはは己が腕で抱きとめているスバルへと苦笑を向けながらそう告げる。
 思い出すのは四年前、ミッドチルダ臨海第8空港で起こった火災事件。
 あの時に二人は出会い、こうして気づけば同じ道を歩んでいるのだ。
 思い返してみても数奇な縁だとなのはは思う。昔を懐かしむなどと言う年寄り染みた感慨を抱くにはまだまだ早すぎる年齢だと自分自身でも自負しているはずなのに、あの時の事をどうして懐かしく鮮明に思い返してしまったのだろうか。
 その理由は、恐らく……

「……スバルは本当に大きくなったね。それに……見違えるほどに強くなった」

 炎の中で一人取り残され、泣いているだけだった無力な少女。
 民間人の一人として救助しただけだったというのに、気づいてみれば彼女は自分などに物好きにも憧れ、目標として目指してくれていた。
 嬉しかった。素直に、そう思うことがなのはには出来た。
 戦う以外に能の無い、時よりその事に虚しさに似たものを感じることもあったなのはにとって、それでも自分などに憧れ、価値を見出し付いて来てくれたという事は自分のやってきたことにも少なからずの意味は有ったのだと実感することが出来嬉しかった。
 だからこそ、教導官としての仕事にも誇りを持ててこれたし、彼女たちを鍛え上げることにも全力を注げてこれた。
 ……私は、間違ってはいなかった。
 恐らく、その実感と安心が自分は欲しかったのだろうなとなのはは思った。

 だがそれもなのは側の思いであり、考えに過ぎない。
 今のスバルにとって、なのはの言葉は他の何よりも重く、相応しくなど無かった。
 それがスバル自身にも痛いほどに分かっていた。
 だからこそ―――

「……違い……ます……ッ……あたしは、強くなんて―――」

 ―――強くなんて、なれてない!

 そう涙と共に激しく頭を振るスバルの様相になのはは驚いた。
 あまりにもいつものスバルらしくない様子に、これまでの連絡の途絶していた経緯もある。
 ……何かがあった。彼女を……あの天真爛漫で力強かったスバルを変えてしまうような何かがあったのだ。
 愛弟子の変化を確認すると共に、それを即座になのはは悟った。
 彼女はてっきりエマージー・マクスフェルの件を引き摺っているのだとばかり思っていたのだが、それだけではどうやらないようだ。

「……スバル、何かあったの?」

 まるで四年前のあの時に立ち戻ってしまったような少女を前に、一瞬戸惑いを見せかけたなのはだったが、即座にそれを押さえ込み、意を決してそう尋ねていた。
 救わなければならない、そう思ったから。
 今、スバル・ナカジマは高町なのはの助けを必要としている。
 本当に自分でいいのか、自分で助けられるのかは分からない。
 だがスバルは現実として今自分に助けを求めていて、そして目の前には自分しかいない。
 この愛弟子もまた、なのはにとっては大切な存在の一人でもある。見捨てるわけになどいかない。
 師として、先達として、そして一人の人間としてそう思ったからこそなのははスバルから今思っていることを聞き出し始めた。
 微力だろうとも、彼女の迷いを、立ちはだかった目の前の壁を乗り越えられる一助となる為に………

 

「……そう、そんなことが」
 大地の上へと降りてきてスバルから聞き出したこれまでの経緯と事情、吐いてしまったという嘘と犯してしまったという罪、そして後悔と無力の念。
 決して軽々しくなのはも扱うことの出来ない辛いスバルの経験には思うところが色々とあった。

 ―――君島邦彦。

 またしても狂騒の渦中の原因ともなった一人の男の死。
 それに直接的にスバルまで関わっていたというのは正直に驚きでもある。
 自分を無力な罪人、許されざる嘘つきだと責め続けているスバルの姿はなのはにとっても痛々しすぎる。
 彼女は背負ってしまったのだ。一人の人間の人生、その末路に選んだ選択の結果を。
 今まで自分が教え込んできた価値観とも相反するからこそ、否定することも無碍にすることも出来ず、彼女は苦しんでいる。
 スバル・ナカジマを苦しみに縛り付けている原因の一端となっているのは、間違いなく己なのだろうとなのはは自覚した。
 自分が教えた価値観や自論が全て過ちだったとは思わない。だが現実として教え、信じ込ませたものによって教え子が苦しんでいる。
 ならば彼女を助けるのは、やはり自分の役目であり責任なのだろう。そう改めてなのはは思い直す。
 自分はシャマルのように傷を癒してやることも出来なければ、フェイトのように際限も無く惜しみない愛や優しさを与え続けてやることも出来ない。
 だから飾った言葉で筋道を通した弁論で彼女を納得させてやれる自信だってない。
 出来るのは、心から思った、魂で感じた、裏打ちの無い建前を排した本音だけだ。
 ……そんな言葉で、この少女を救うことは出来るのだろうか?
 自信が無い……そう正直に思った考えをなのはは慌てて打ち払い否定する。
 自信が無いでは済まされない。言い訳で逃げることは許されない。
 それはスバルを侮辱し、蔑ろにすることも同じだと思ったからこそ、真っ直ぐに彼女と向き合うことをなのはは決めた。

「……それでも、それでもスバルは無力じゃないよ」

 そう出来るだけ優しく告げながら、なのははスバルへと手を伸ばしその頭を優しく撫でる。

「……確かに、君島くんは亡くなって、スバルはその命を救えなかった……そう思っているのかもしれない。けどね、それでもスバルが救い、護ったものはちゃんとあるんだよ」

 なのはの告げるその言葉に、スバルは目を見開いて驚きながらその言葉の意味を問いかけてくる。

「……あたしが、護れたもの………?」
「うん。スバルはね―――君島くんが生きた証、貫き通した人生を嘘にはさせなかった。彼がこの大地で生き抜いた意味、カズマ君の相棒としてやり遂げた誇りをちゃんと護ったんだよ」

 確かに、命に勝るものは無い。
 どんな時でも、最後まで諦めず、生き抜く覚悟を持ち続けることこそが、無茶をせずに無事に乗り切ることが大事だと言うのは変わらない。

「……それでも、無茶を通さなきゃならない場面って言うのは確かにある。君島くんにとって、スバルに望みを託したその時がきっとそうだったんだと思う」

 酷い矛盾だ、それを承知の上でなのは自身も今までの言葉とは裏腹にやってきた無茶の数々を思い返して改めてそう思う。
 けれど、そんな矛盾もまたあることを、受け入れるべき時があることも必要だとは思っていた。
 普通であるならばそれは必要ない。けれどどうしようもない異常を前にした時は、そんな無茶を通す覚悟も必要になる。
 ……出来れば、スバルたちにはそんな時が無い事を祈りながら、だからこそそうならないことを前提とした覚悟を持った強さを持って欲しかった。
 死ぬ事を覚悟することより、生き抜くことを覚悟する方がずっと難しい。
 けれど難しくとも、教え子たちにはその覚悟を抱き続けて欲しかったのだ。

「……スバルはね、それを聞き届けた。君島くんの願いを、誇りを嘘にしないために護った……ううん、今だって護り続けてるんだよね」

 スバル・ナカジマは君島邦彦という男の人生を背負った。
 だからこそ、それが途轍もなく重く感じ、苦しんでいるのだろう。
 けれど―――

「……でもね、スバル以外にはもう君島くんの貫いた誇りを、人生の意味を背負うことは出来ない。誰かが支えてくれることは出来る……けど、誰かが代わりに背負うことは出来ないの」

 自分自身でも酷い事を言っているとは思う。教え子に十字架を背負わせている事とこれは何ら変わらない事なのだろう。
 これでは根本的な救いにはならないのかもしれない。だがそれでも……

「それはスバル自身の背負ったものだから……苦しくても、重たくても、背負うならスバルが背負い続けなきゃならない」

 ……私が代わりに背負ってあげることも出来ない。
 直前まで出かけたその言葉をなのはは無理矢理飲み込んだ。
 恨まれるのを覚悟で、失望されるのも承知の上で。
 それでも、その言葉を言ってしまえばそれは当人たちへの侮辱になると思ったから。
 心を刃で殺し、そうして出来るだけ自然に表面上は平静を保ちながらスバルへと告げる。

「……でもね、スバル。背負い続けることはスバルにしか出来ないけど、無理して背負い続ける事だってないのも確かだよ」

 君島邦彦は最後まで生き抜いた。
 それをスバルは見届け、証明した。本来ならば、それだけでいい。
 その時点だけで、恐らく君島だって満足しているはずだ。
 だからこそ、それ以上に続ける必要だって無い。
 背負い続けるのが辛いなら、憶えていることが辛いなら。

「忘れてしまう事だって逃げじゃない。許されることだと私は思うよ」

 或いは、それを本当は君島だって望んでいたのかもしれない。
 ここでスバルが背負ってきたものを降ろしてしまっても、誰も彼女を責めはしない。
 ……いいや、責める者がいたとしても自分がスバルを護る。
 不器用にも、こんな形でしか救いを提示してやれないなのはにとってそれが最低限の責任であるとも思っていた。
 だから、辛いなら忘れてしまってもいい。簡単なことでは無いし、後味の悪く思うことになってしまっても、いずれは時間の経過がそれすらも救ってくれる。
 だからこそ、選ぶのは自由だ。

「どの選択を選んでも、誰もスバルを責めないし、私だって受け入れる。だから選ぶのはスバルの自由だよ」

 背負ったものを背負い続けて、信念を通して苦しみもまた背負うか。
 背負ったものを降ろし、忘れてしまい安息を得るか。

 その選択を残酷かもしれないが、なのははスバルへと提示する。
 それが己に救いを求めてきた者へと正面から向き合う最低限の礼儀として。

 

 背負い続けるのか、それとも降ろしてしまうのか。
 どちらを選んでもいいとなのはは言った。
 どちらを選ぼうとも自分を責める者はいないと彼女は言った。
 でもだからこそスバルはその選択に迷う。

 ……重い、苦しい、そして何よりも辛くて悲しい。
 心に思う正直な本音を前にするならば、救いを求めてしまいたいとすら思う。
 けれど、そう思う一方で―――

『……それじゃあ、スバルちゃん。本当にありがとう。それから――――ごめんな』

 脳裏に過ぎるのは最後の君島の言葉と彼が浮かべていたその笑み。
 思い出すたびに胸の内すら切なくなる彼の最後の姿。

 なのはは言った。
 自分は護ったのだと、護り続けているのだと。
 君島邦彦という男が『生きた証』と人生を貫き通したその誇り。
 他の誰でもなく、最後にスバルが願いを聞き入れ、そして受け取ったその意味。

 ………それを、捨てる?

 ………嫌だ。
 そう、スバルは正直に心の底から思う。
 『出来ない』ではない『嫌』なのだ。
 心の奥底にあるスバルの中で人間としての最も純粋な部分が、彼を恩人と慕っていたその想いが、それを否定させる。
 彼の最後の思いを、その姿を忘れてしまうなど、嘘で誤魔化す以上に我慢ならない。
 だってそうだろう。そうしてしまえば、あの時流した涙の意味はどうなる?
 最後まで己と共にカズマの前で騙し続けた彼の最後の思いは、意地はどうなる?
 捨ててしまえば、忘れてしまえば、それこそそれらを嘘にしてしまうことと何が違うというのだ。
 だからこそ……嫌だとスバルは思ったのだ。

 確かに心の内は重くて苦しく、そして辛くて悲しいままだ。
 救われるなら救われたいとやはり思う。
 けれど、この嫌だという思いを否定してまで救われようとは……思えない。
 どんなに考えても、後悔し続けるのではないかと考え続けても、思えなかった。
 ……ああ、そういうことなんだとスバル・ナカジマはふと思った。

 ……あたしは、君島さんを救いたかったんだ。

 改めて思うべきことでもないことを、けれど改めて違う意味で思い返す。
 なのはは言ってくれた。自分は無力じゃないと。
 護り続けているのだと、確かに救ったものがあるのだと。
 そして君島にだって言われた言葉を思い出す。

『……そっか。魔法使いか……やっぱ凄いな、スバルちゃんは』

 全然凄くなんてないのに、本当に凄い人からそう言われた。
 スバル・ナカジマは高町なのはのようになりたかった。
 強く、優しく、どんな状況でも、必ず助けてくれる不屈の魔法使いに。
 四年前から抱き続け、今まで目指し続けてきたその憧れ。
 けれど君島邦彦を死なせてしまったその時に、もう彼女のようにはなれないのだと、そんな資格は失ったのだと無力感と共に絶望した。
 だからこそ、信じてきた道を見失い、迷い、原点へと戻りたかった。
 そうして、救いという名のやり直しを望み、憧れの原点へと立ち戻り、その憧れの対象を前に気づかされた。
 ………だからこそ、もう一度、もう一度だけ憧れの彼女へと訊きたかった。

「……なのはさん」
「うん? なにスバル?」

 首を傾げそうこちらを促がしてくる憧れの人へとスバルは勇気を胸にその言葉を、願いを問う。

「あたしは……まだ……まだ、なのはさんみたいに―――――なれますか?」

 もう一度、あなたを目指しても良いんでしょうかとスバルはなのはへと尋ねる。
 スバルのその問いが思ってもみなかったものだったのか、なのはは驚いたように目を見開きながら、やがて納得と共に一度だけ目を閉じ、そして小さく頷いた。
 そしてスバルの胸の前に握った拳を向けながら、当然のような表情を浮かべてはっきりと言ってくれた。

「勿論―――なれるよ。……ううん、それどころかスバルに……スバルたちの胸に不屈の想いがあり続ける限り、いくらだって強くなれるよ。私を……私たちを並び超えていくことがいつかきっと出来る」

 それをずっと信じて、待っているのだとなのはは言ってくれた。

 その言葉が聞けただけで、もう充分だった。
 その言葉だけでも支えになる、彼の最後を背負い続けていけるその支えに。
 だから、スバルは決めた。

「なのはさん……あたし、背負い続けます」

 ハッキリと彼女を真っ直ぐに見ながら迷うことなくスバルは告げた。
 背負うと、背負い続けると。
 重くとも、苦しくとも、辛くとも、悲しくとも。
 それでも背負い続ける。絶対に投げ出したりしない。
 高町なのはに憧れ、彼女を目指し続けるものとして。
 君島邦彦が言ってくれた賞賛に応えられるだけの、背負うのに相応しい強さを得るために。
 もう二度と、嘘に負けないために、逃げない為に。

 スバル・ナカジマはその選択を覚悟を持って選び取った。

 

 ハッキリとした強い決意を込めた瞳と言葉で、スバルはなのはにその選択の答を示して見せた。
 なのははそれを誇りを持って受け入れた。
 改めて思う……やはりこの娘は本当に強くなった、と。
 真っ直ぐに、曲がらずに、力強く……そして何よりも優しく。
 ……本当に、本当にそれを嬉しく思う。

 こんな弟子を持つことが出来たこと。こんな弟子から憧れを抱かれ目標として目指し続けられているということ。
 責任を持ってそれを重く受け止めながら―――故にこそ、逃げられないしその期待を裏切るような真似はしたくない。
 彼女の師に相応しい……憧れを抱かれたに足る不屈のエースとして、自分はまた行動しなければならない。
 だからこそ、再び彼と―――

「ラディカルグッドスピードッ! 脚部限定ッ!」

 いきなり甲高いそんな叫びが響いてきたのと直後、岩盤を削るような音を上げながらこの場へと近付いてくる震動。
 何事かとハッとなってなのはとスバルがその声が聞こえてきた方向へと振り向いた瞬間だった。
 地が爆ぜ、旋風が巻き起こる。視認すらも困難極まる速度で瞬間的に発生したその現象の中から飛び出してきたのは一つの影。

「ふぅ~、何とか地面がマトモな場所まで到着……っと、あれ? なのかさん、それにヒバルも一緒ですか?」
「……クーガーさん?」

 驚いたように目を見開きながら、何とかその突如現れた乱入者―――ストレイト・クーガーの名を呼ぶなのは。
 最前の乱闘騒ぎ、その終盤に愛車を駆使して駆けつけた彼の存在は気づいていたが、先の大規模な再隆起現象のゴタゴタに流されてどうなってしまったか分からず、その安否を心配していたところだったのだが……

「無事だったんですね……って、水守さんも!?」
「安心してください。気を失ってるだけですよ。いや~、それにしても流石にこんな荒地を人二人も背負って最速で駆け抜けるのは、さしもの俺でもきつかった」

 そう言って疲れたように息を吐きながら、クーガーはその背負い担いでいた二人の人物……気を失っている桐生水守と橘あすかを地面へと丁寧に降ろした。
 彼の状況と言動から察するに、先の非常事態の際、彼が二人を救助してくれたと言う事なのだろう。
 空を飛べたなのはなら兎も角、あれだけ激しく揺れ動き、震動も凄まじく危険としか言い様のない状況の中で、咄嗟によく人間二人も救助できたものだと驚愕を抱くと共に、素直に感謝してもいた。

「……ありがとうございます。クーガーさん」
「いえ、みのりさんにしてもコイツにしても死なすわけにもいかないですからね。ホーリーとして当然の事をしただけですよ……ただ」

 そう一度区切りながら無念そうな表情で口篭るクーガーの姿を見て、なのははどうしたのだろうと思いながらも、直ぐに違和感に気づいた。
 クーガーが助けたのは桐生水守と橘あすかの二人。……だが思い返してみれば、あの場にはもう一人、そうなのはも良く知っている人物が居たはずなのだ。

「―――かなみちゃん!?」

 何故直ぐに思い出せなかったのか、その信じられないような己の迂闊さに彼女が居ないという事実と共に顔を青褪めさせながら、なのははあの少女の名を叫んでいた。

「……ええ、あの少女のことでしょう? どうにもカズヤの奴の所に駆け寄ろうとあの瞬間に飛び出していったみたいで、二人を助けるのに精一杯で止める事が出来ませんでした」

 俺としたことが速さが足りなかった!
 そう悔しげに唸るクーガー。その姿は少女を止められなかったことへの事実に対して己の無力さに苛立ちを抱いているかのようでもあった。
 しかしクーガーを責めることは出来ないだろう。むしろ彼はあれだけの事態の中でこれだけの事を良くやってくれたと逆に評価されても然るべき。
 一時的な感情に流され、事態を悪化させる引鉄の要因ともなってしまった己とは違うとなのはは思っていた。

「……とりあえず、もうちょっとだけ休んで体力を取り戻したら付近を探して―――」

 ―――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!

 そう続きを言おうとしていたクーガーであったが、直後に響いたその獣の咆哮のような叫び声に掻き消される。

「―――!? この声は………!?」
「―――カズヤ、でしょうね」

 なのはが戦慄と共に呟く答を引き継ぐようにクーガーがその名前(間違っているが)を提示する。
 今の叫び声……間違いない、どう考えてもあの咆哮を上げているのは彼だ。
 “シェルブリット”のカズマ……この事態を引き起こした張本人の片割れ。
 あの光の中へと消えていったと思ったのだが、無事だったのだろうか。
 驚きと同時にしかし何処かホッとした安堵も抱きながら、けれどそれでもなのはの胸中を埋め尽くすのは不安であり恐怖だ。

 先の叫び……自分や劉鳳と戦っていた時と変わらない、否、あれすらも凌駕するような叫び声。
 それに恐らくは此処からかなり離れているはずなのに、それでも肌が粟立つように感じずにはいられない凄まじいプレッシャー。
 行き場の無い憤怒、際限のない憎悪……そして、餓えた闘争本能。
 間違いなく、未だ健在にカズマはそれを発し続けている。
 恐らく、頭を冷やすどころか益々前以上に燃え上がり猛り狂っているのだろう。

「……カズマ君」
「……やれやれ、あの馬鹿も世話を焼かしやがって」

 おちおち休んでる暇もありはしない、そんな愚痴を零しながらクーガーは座っていた岩から立ち上がる。
 そして真っ直ぐ、先の咆哮が聞こえてきた方角を見据えながら呟く。

「……傷を負った獣は自身の痛みしか見えない――まさに今のアイツを表した言葉だな」

 本当に世話を焼かしやがる、溜め息と共に呟かれた言葉はしかし同時にある種の覚悟をも同時に抱いていたことは向けられた視線からなのはもまた感じ取っていた。

「すいません、なのかさん。……どうやら、あの馬鹿をほったらかしにしとくことは出来そうにないんで、ちょっくら行って来ます」

 かつて僅かな時間とはいえ共に時を過ごし、この大地での生き方と戦う術を教えた者としての責任が、兄貴分としての弟分を放っておけないその意志をクーガーは止められそうになかった。
 だからこそ行って止めてこなければならない。これ以上にあの馬鹿が暴れ回ってはそれこそ色々なものが手遅れになりかねない。この大地の未来を憂う者の一人としても、それは看過できるものではなかった。

「ですから本当に悪いんですが、あの少女の捜索はなのかさんが代わりに――」
「――そんな! 危険すぎます!」

 やってくれませんか、その頼みの言葉は結びを終えるその前に割って入ってきたスバルの制止の声に打ち消される。
 やれやれと言った様子も顕にしながらこちらを引き止めるように前へと立ち塞がるスバルにクーガーは言い聞かすように言葉をかける。

「おいおいヒバル、俺を甘く見るなよ。こう見えて、俺は結構強いぞ。……それにな、これはアイツの元兄貴分としても俺がやらなきゃならない事なんだよ」
「それでも危険です! いくらクーガーさんでも今のあの人を相手にするなんて」

 下手をすれば……否、下手をせずともそれは恐らく命懸け。
 先の怒れる復讐の獣と化していたカズマ……あの闘争の悪鬼の如き姿を目にしていれば尚更に。
 加え、恐らくは劉鳳の力もあったのだろうが挙句の果てにはこの再隆起現象である。
 現状では危険度など未知数……どれ程の強さも安全の目安になどなりはしない。
 だからこそ、クーガーの言う実力云々はどうであれ、知り合いを危険地帯の中へと行かすなどそれこそ死にに行かせるようなものだ。
 君島の件に一区切りをつけ、新たな決意を抱き直したスバル・ナカジマからすればこの必死な引止めもまた尚更のことである。
 しかし少女のそんな危惧はどうであれ、クーガーもまたこればかりは譲れない……否、正確には現状に置いても自分しか適任がいないというのも事実なのだ。
 シェリスは負傷、瓜核はシェリスを連れて撤退。残存しているホールドの部隊とてこの一大事にそれどころではないというのが現状であり、そもそもどれだけの部隊を引き連れてこようとも今のあの獣は止められない。
 マーティン・ジグマール……彼にしてもこの非常時では動けないのも事実であり、そして何より彼はもう戦わせてはならないことを薄々であれどクーガーもまた気付いていた。
 だからこそ自分、この瞬間、この場に置いて、彼を止めるだけの力を有し、そして戦えるのは自分だけだ。
 損な役回り、命懸けではあるが文句を言ってもいられなければ、ましてや逃げ出すことなど自分自身が絶対に許しはしない。
 ならば――

「――クーガーさん、少し良いですか?」

 強引な手法でスバルを退かしてでも行く、その覚悟を固めかけていたクーガーへとしかし次に言葉をかけてきたのは彼女ではなく高町なのはの方であった。
 両者の口論を見守っていた彼女が口を開いたことに二人の注意もまた同時にそちらへと向く。

「何です? まさか貴女まで俺に行くなって言う心算じゃないですよね?」

 甘い……否、優しすぎるお嬢さんたちは同時に頑固すぎて扱いにもまた困る。そんな辟易とした思いを胸中で抱きかけていたクーガーになのははハッキリとした口調で、その言葉を彼へと向かって告げてきた。

「私が、彼を止めに行きます」


 ずっと考えていた。そして思ってもいた。
 先の一件、取り返しのつかない事態へと発展してしまったこの現状への後悔と、力ばかりで彼へは決して届きはしなかった告げるべき言葉と伝えたい自分の想い。
 まだ、まだ間に合うはずだ。否、間に合わせなければならない。この大地で固めた戦うべき目的と意志にかけてそれを諦めることなど断じて出来ない。
 だからこそ、クーガーではなく自分が行く。そう決意を込めてクーガーへと彼女は告げたはずであった。
 しかし――

「冗談でしょう? 他の誰よりも貴女だけは行かせるわけにはいきませんよ」

 ――相手から返ってきたのは、思ってもいなかった強く拒絶の意志を込めたその言葉。

 クーガーの返答にそれこそ何故だとその表情にも顕にするなのは、そんな彼女にクーガーは今までにない真剣な口調でその理由を告げてきた。

「まぁハッキリ言ってしまえば―――なのかさん、あの馬鹿に貴女の声は届きません」


 そう、決して届きはしないだろう。
 その確信に近いモノがクーガーにはあった。だからこそ、なのはの為にも、そしてカズマの為にも、今の彼女を行かせてはならないとクーガーは判断したのだ。

「自分でももう気付いたんじゃないんですか? こうして派手にぶつかり合ってみて分かったでしょう。あの馬鹿には、貴女の伸ばす手を取ろうとする意思がない」

 彼女の生き様、貫こうとするその意志を否定するわけでは決してない。クーガー個人の価値観から見ても、彼女の思い、その決意は大変美しくて素晴らしい。
 素晴らしいのだが……だからこそ、逆に彼女の目指す理想はこの大地には美しすぎる。
 綺麗事……あの反発心を形にしたかのような男に、自らの確信以外を決して信じず、省みることの無いあの男には、きっとそうにしか見えないはずだ。
 だからこそ届かない。ただ障害と認識し、振り払うように歯牙にもかけずに進み続ける。そういう男なのだ、カズマというあの男は。
 相性と言い換えても良いだろう。高町なのはとカズマ。高潔な理想を掲げる悠久の空を翔る翼持つ彼女と、我が道以外に何も無い、最低最悪の大地の上に君臨するしかない獣とでは相容れるべき妥協点からしても絶望的だ。
 振り上げる拳、握り固めるソレしか知らないその手は、差し伸ばされる他者の手を掴むなどということはありえない。
 このまま彼女を行かせても、その結果は覆るまい。きっと悲惨な結果、明確な拒絶による血みどろの争いの発展へしか道も無いはずだ。
 だからこそ、そんなカズマに拒絶される彼女をクーガーは見たくなかった。そうして命懸けで傷つき、無駄にすらなりかねないリスクを彼女には負わせたくなかったのだ。

「貴女はここにいてください。みのりさんも居ます。今は彼女を守って彼女と一緒にいてください」

 今、高町なのはがすべき事。その固めた決意、想いを確実に実現させる為に動くとするならば、関わるべきはカズマではなく桐生水守、そうクーガーは考えていた。
 女子供の絵空事、稚拙なまでに青臭く、実現性に乏しい理想だが、その美しさに惚れ込み肩入れすることを決めた身としてはここで彼女には耐える事を選んで欲しかった。
 危ない橋を渡るのは、命を懸けるのは男の役目。ここが所謂己自身の正念場だとクーガーもまた覚悟を決めての、それは促がしであり願いでもあったのだ。
 しかし――

「それでも……それでも、私に行かせて欲しいんです」

 引き下がることも無く、ハッキリと目を逸らすことなく言ってくる彼女の言葉。
 その告げる言葉、こちらを見据えるしっかりとした視線。それを見て故にこそクーガーは重い溜め息と共に思ってもいた。
 やっぱり、そう言ってくると思ってました……と。

 

 握った拳と握手は出来ない。
 それは高町なのはから見て今の自分と彼の現状すらも如実に物語る言葉であった。
 それを理解していたからこそクーガーもまた自分にそう言ってきたのだろうというのはなのはもまた分かっていた。
 実際、その通りだ。四度に渡る交流の内二度の激突。総計しても己が望む想いがカズマへは繋がっていないこと、逆に亀裂を深めてしまったことは身に染みて理解している。
 この想いは言葉は、彼へと届きはしない。差し出した手を彼が取ってくれることもない。
 分かっている。……そんなことは今更言われなくとも十二分に承知の上だ。
 だがそれでも――

「それでも……それでも、私に行かせて欲しいんです」

 無理なものは無理。どんなに頑張ろうとも結果的には不可能。そんなものはこの世の中、探してみればごまんとある。この選択肢が限られた大地の上では尚更に。
 だがそれでも、結果的に無理な事が明らかだとしてもそれでもそれは諦めることとは違うと思う。
 勝手な言い分だが、自身の確信を否定されるからと恐れていては、諦めていれば、それは何もしないこと、何も出来ないことと何ら変わらない。
 そんなものは嫌だ。少なくとも、高町なのはにはそんな賢しらに達観するだけの潔さは自らの内には無かった。
 それがジグマールの言うところの若さ、或いは青さそのものであったとしても、それでもそれがあるからこその自分だともまたなのはは思っていた。
 それこそ、全ての小賢しい修飾を剥ぎ取って言ってしまえばそれは単なる利己的な願望。

 そうしたいから、そうする。

 恥も外聞すらもかなぐり捨て、結論だけを言ってしまえばそれだ。
 カズマを放っておけない。自分の伝えるべき想い、言葉を伝えたい、手を伸ばしたい。
 少女の小さな願い、それを叶えると約束した責任と義務感。そして自身の願望。
 大局を捨てる責任放棄も同然だ、だがたとえそうだとしても今目の前で自分に助けを求めてくる人がいた。ならばこそ、それを無碍には出来ない。
 自分にとっての原初の決意。始まりの願望。思い出したソレらを無視することは今のなのはには出来なかった。
 だから止まれない。ストレイト・クーガーがその不器用な優しさでこの身を護ってくれようとしても、自分自身が納得できない。受け入れられない。
 助けるのは自分の役目だ。護るのは自分の役割だ。
 度し難いほどに傲慢で稚拙な独善さを自らでも自覚していようが、その最後の一線の部分だけはどうしても他人に譲れそうにない。
 本当に……諦めが悪くて我が儘だ。
 それでもこの手に望んだ魔法の力がある内は、自らで固めたこの信念を打ち崩さない内にはもう譲れない。譲れないのだ。


「……本当に、頑固なお人だ。貴女は」

 しかし桐生水守にも通ずるその輝きに魅せられたからこそ、彼女のやり方に肩入れすると決めたのもまた己だとストレイト・クーガーは認めていた。
 そして同時に気付いていた。彼女の示すその決意、信念を垣間見てクーガーは気付いてしまったのだ。

 ……ああ、この人はもう止まらないんだな。

 と。
 真っ直ぐにひたむきで、そして尊くも綺麗な理想。
 それは荒れくれた無法の大地を生きる為に駆け抜けたクーガーが、その余生の終わりに見てみたいと思っていたものにも或いは通ずる。
 この大地には似合わない、そしてありえない、土台無理であるはずの小奇麗な絵空事。
 しかし、或いはこの大地にさえ生まれていなければ、自分にもまた触れえたかもしれないそんなifの生き方、可能性。
 それを示してくれる、命を懸けてまで為そうとしている彼女を見届けたいとクーガーは思った。
 そしてだからこそ、自分の手で出来る限り護ってやりたいとも思ったのだ。
 ……けれど、それはもう無理らしい。

「……籠の中の鳥は、それでも空へと羽ばたくことを憧れる……か」

 あの悠久の空を飛ぶための翼を、己の思いだけで縛り付けておくことなど出来ないし、してはならないことくらいは分かっている。
 鳥は空へと還る、いや還さなければならないのが正しい生き方だとも思っていたから。
 どうやら、本当に鳥籠としての己の役割もお払い箱らしい。
 それは本当に……本心から、惜しいとも思った。
 出来ればもう少しでいいから、この最高の戦友と共に戦っていければと思っていたのだが……それも、今ここで終わりということらしい。

「……分かりました」
「クーガーさん!?」

 やれやれと頷くクーガーにスバルが信じられないように彼の名を叫んだ後、戸惑うように今度はなのはの方へと慌てて視線を向ける。
 クーガーが行くのを思い留まってくれた……それはいい。
 だが問題は今度はこっち、次はなのはがカズマの元へ行くなどと言い出したことだ。
 まったくもってスバルには訳が分からなかった。そして訳が分からずともそれでもハッキリと直感的に察せられたのはやはり高町なのはもまた行かせてはならないということだ。
 それは実力云々だとかそんな問題ではない。ただ本能がなのはを行かせることは危険だと、きっと取り返しのつかないことになると予感していたからだ。

「なのはさん!?」

 だからこそ行かせない。行かせるわけにはいかない。そんな思いで慌てて彼女まで駆け寄ってそのバリアジャケットの袖を掴むように飛び立つことを踏み止まらせようとする。

「スバル………」
「行かないでください! 置いてかないでください!……なのはさんッ!」

 必死に涙まで滲ませた瞳を向けながら、呼び止める為に言葉を張り上げ嫌だ嫌だと首を振る。
 傍から見れば、それは我が儘を示して親を引き止めようとする幼子が起こしそうな光景だったが、それでも今のスバルからしてみれば恥も外聞も何一つ関係なかった。
 行かせてはならない。行かせたくはない。その思いしか今のスバルの頭の中には存在していなかったのだから。
 漸く取り戻した歩むべき道、その導と言って良い存在がスバル・ナカジマにとっての高町なのはだ。
 今彼女の手を離してしまえば、それらが永久に失われてしまうのではないか……そんな嫌な予感が後から次々と沸いて来て仕方が無かった。
 だからこそ、必死になってスバルはなのはを呼び止めようとする。行かないでと掴むその手を決して離さずに固く握りこむ。
 なのはに傍に居て欲しかった。今度は間違わないように自分を導いて欲しかった。
 明確な目指す目標として、その背を自分の目の前で示しておいて欲しかった。
 だからこそ、酷い我が儘を承知の上で、彼女が困るだろうことが事前に分かりきっていたとしてもそれでもスバルは繋ぎとめたかったのだ。
 だからこそ――

「行かないで……お願いします。……行かないで」

 君島邦彦の二の舞はもう二度と御免だ。
 掌から失いたくない大切なものを……これ以上、取りこぼしたくはなかった。
 そうやって必死に訴えてくるスバルへと、しかしなのはは静かに首を振りながら、優しく彼女を抱きしめた。

「……大丈夫。大丈夫だよ、スバル。私は何処にも行かない。スバルを……皆を置いて行ったりなんかしないよ」

 それはまるで幼い子供に言いきかせるような優しさを込めた言葉。
 不安で堪らなくて、泣きそうな子供を励まそうとするかのような力強い言葉。

「私はいつでも皆と一緒。いつだってどこだって、同じモノを目指し続けてる限り置き去りにすることなんてないよ」

 むしろそれを護りたい、護るからこそ戦っている。戦いへと赴くのだ。
 それはこの少女にもしっかりと教えたはずの言葉であり、自分自身にすら常に言いきかせてきた誓いでもある。

「仮に……もし仮に、いつか離れ離れになることがあったとしてもだよ……スバルが私を目指して追いかけてきてくれるなら、きっと直ぐに追いついてくれるよ」

 いや、追いつくどころかあっという間に追い越してくれる。
 自分が築き上げてきたもの、護り抜いてきたものを更に強固なものとして引き継いでくれる。
 自分たちが同じ理想を抱き、同じものを信じ、目指し、護っていく限りはいつだって一緒だ。
 陳腐な言い方でこの上ないが、それでも心は繋がっているのだ。

「だから大丈夫。きっとまた私は帰ってくるし、私たちはいつかまた出逢える」

 それを信じて、今はこの大地の上を、空を、自分の信念で飛ばして欲しいとなのはは願った。
 自分の後を継ぎ、進んで行ってくれる次代を担う若き可能性を護る意味合いを込めても。
 今はただ迷わずに、彼の元へと行かせて欲しかった。
 言うべき言葉、伝えたい想い、差し伸べたい手。
 あの明日を省みない獣に、明日を願う自分はそれを示さなければならない。
 これは他の誰でもなく、高町なのはがやらねばならないこと。
 由詑かなみの願いを叶えると決意した、不屈の魔法使いが果たさなければならないことだったから。

「私は負けない。スバルが憧れてくれたなのはさんは、誰にも負けない。無敵のエースだからね」

 この想いが消えないうちは、誰にだって負けはしない。
 支えてくれる者たちが力を貸してくれる自分は、いつだって一人じゃないから。
 だから――――大丈夫。
 そうスバルへと、自らに課す誓いの意味合いも込めてなのはは微笑みと共に告げた。

 

「……行っちまったな」
「はい………」
 クーガーの言葉に頷きを示して答えながら、彼と同じようにスバルはなのはが飛び立っていった空を見上げていた。
 行ってしまった高町なのは。見送ったスバル・ナカジマとストレイト・クーガー。
 傍から見ればこれは置いてけぼり……しかし、だからといって何も出来ない訳では無い。

「ならヒバル、俺はあのお嬢ちゃんを探しに行ってくる。お前はみのりさんたちの事を任せたぞ」
「はい……クーガーさんもお気をつけて」

 ただ突っ立って待っているだけではない。自分たちには自分たちに出来る事を。
 彼女が安心して帰ってこられるそれまでに、果たしておく義務があった。
 だからこそ、今はその役割を精一杯に果たそう。
 自分を信じて、彼女を信じて。
 それが今のスバル・ナカジマにとっての戦いの始まりでもあった。

 


 十年前のあの日、私は運命に出会った。
 喫茶『翠屋』を経営する高町家の末っ子の次女……それが私の元々の立場だった。
 温かな家庭、優しい両親、立派な兄と姉。
 不満なんて一つもないくらいに満たされていて、私は確かに幸せだったと胸を張って言う事が出来ると思う。
 ……けど、

『なのはちゃんにしか出来ない事、きっとあるよ』

 ……そう、あれは丁度十年前のあの日、アリサちゃんやすずかちゃんと将来の事を話していた時の事だ。
 友達が未来へのヴィジョンを持って夢を語る中、私には何も無かった。
 温かな家庭、優しい両親、立派な兄と姉、そして大好きな二人の親友。
 何もかもが揃っていて、満たされていた。そこに不満なんて何も無かったし、そんなもの抱くこと自体が贅沢な我が儘なのだと思っていた。
 私は幸せだった、満たされていた。それは絶対に間違いないこと。

 ……けれど、満たされていたけれど、私はそれだけだった。

 現在が幸せで、満足で、これ以上は何もいらないとは思っていた。
 けれど同時に……これがいつまでも続いてくれるのかどうかという漠然とした不安があったのは事実だ。
 浮き彫りになったのは学校の授業、将来何になりたいかというありふれた話の時のことだった。
 アリサちゃんもすずかちゃんも、形として見える未来……夢を持っている中で、私だけがそれを持っていなかった。夢や未来を語ることが出来なかった。
 振り返ってみれば、あの時くらいの年齢ならば今考えてみても私みたいなのは本当は大して珍しいものでもなかったのだろう。
 けれど当時の私にとっては、あの時に一人だけ形とした夢や未来を語れなかった私は二人に置いて行かれたかのような思いを正直に抱いてもいた。
 夢や未来を語れる二人がこの上もなく立派に、そして眩しく、羨ましく映るのと同時に、一人だけ取り残されたかのような疎外感や寂しさを抱いてしまっていたのは事実だ。

 ……そう、あの時の私は、“また”独りぼっちを味わっている気分だったのだ。

 お父さん……高町士郎がお母さんと『翠屋』を始める前にやっていた仕事……今の私と似たような危険な仕事に就いていたというのを知ったのは随分と後のことだ。
 けれど父がその仕事を引退する切っ掛けともなった原因……最後の仕事で負った命を左右するほどの大怪我。
 結果的に父は助かった。けれど重傷であったのも事実であり、長い入院生活で家族の誰もがその父の状態に左右されていた。
 母は始めたばかりの『翠屋』を経営していくことに忙しく、兄と姉もまたその手伝いや入院している父の世話などで奔走されざるをえなかった。
 当時、唯一人幼かった私だけが何も出来ず、独りで時を過ごす他に無かった。
 家族の事を恨んだ事は無いし、恨めるような立場でもない。私はお父さんが助かったこと、生きていたことが本当に嬉しかったし、早く元気になって欲しいともいつも願っていた。家族みんなで本当に幸せに過ごせる日が早く来てくれることを待ち望んでいた。
 ……けれど、本音を言えば独りぼっちにならざるを得なかったあの時期が、例えようも無く寂しく、辛いと思っていたのもまた事実だ。
 結果的に、父のその入院から退院までの間に私を除く家族の絆は一致団結という形で高まり、父が復帰した後はより確かなものとなっていた。
 当事者から除外された私だけが、一人だけ奇妙な疎外感(無論、勝手な主観的なものに過ぎないが)を感じて、居づらさを感じていたというのも事実だ。

 家族の皆は仲良しで……仲が良すぎて、一人だけ幼くてその苦楽を共には出来なかった私だけが仲間外れ。
 被害妄想も甚だしいことなのだが、寂しさと共にそれを感じていたのは事実だった。

 だから、私だけが何も無いように感じられていたのだ。
 お父さんは家族を護って『翠屋』を経営していくことが出来る。
 お母さんはそんなお父さんと同じ道を歩みながら、それを支えていくことが出来た。
 お兄ちゃんやお姉ちゃんにしても、それぞれ未来への明確な目標へと向かって努力していた。
 誰もが眩しく、家族として誇れるくらい立派で……だからこそ尚更、私には何も無いという事実が浮き彫りにされてしまっていた。
 私だけが……私だけが家族の中で何も持っていなかったのだ。


 そしてあの時、学校で話題に上がった将来の夢について。同い年のアリサちゃんやすずかちゃんさえも夢や未来のヴィジョンを持てる中で、ここでも私は自分だけが何も持っていないという事実を思い知らされた。

『でも、なのはも喫茶翠屋の二代目じゃないの?』

 それも選択肢の一つとしては確かにあったのだろう。
 手伝いだってあの頃には出来る様になっていたし、ちゃんと将来真剣に修行すればお母さんの後を継ぐことだって出来たとは思う。
 ……けれど、それは何かが違うのだとどうしても思えてならなかった。
 贅沢な悩みと、聞く人が聞けばそれこそ自分勝手な我が儘だと思われるかもしれない。けれど、『翠屋』を継ぐというのは自分の中では何かが違うと納得出来なかったのだ。

 ……多分、その理由はあの店が元々私の両親のものだったから、なのだと思う。
 元々あの『翠屋』はお父さんとお母さん、二人の夢として始めた、二人のものなのだ。
 確かに、親の後を継ぐというのは子供の権利であり、時に義務である場合もある。二人が何も持っていない私の為に、選択肢として残してくれようとしていたというのは分かる。
 けれど、それでは違うのだ。私が抱いていた悩みに対して何の解決にもならない。だって、それこそ贅沢で我が儘だと言われてもしょうがないのかもしれないが、それでも私は他人から与えられたものではなく、私が、私だけが持ち誇れる何かが欲しかった、あって欲しかったのだ。
 高町士郎や高町桃子の娘である高町なのはという以上に。
 ただの少女である高町なのはだけが持っている何か……当時の私は、それが欲しかったのだと思う。
 本当に酷い贅沢で、我が儘だ。けれど、あの時の私は―――

 ―――それでも、私だけに出来る何かを求め続けていた。


 そしてあの時、私はユーノ君に、レイジングハートに、そして魔法の力に出会った。
 運命、実に陳腐な表現だと笑われるかもしれない……けれど、私にはあの出会いが始まりであり、今の私という存在の全てなんだと思っている。
 成り行き、ただ巻き込まれただけ……始まりは偶然だった、確かにそうかもしれない。けれどこの世界に踏み込み、これから先も進み続けていくことを決めたのは私自身の意志だったというのは確かだ。
 この手には魔法の……誰かを救えるだけの力がある。
 何も持っておらず、憧れに手を伸ばすことすら出来ないほどに臆病で、無力で独りぼっちでしかなかったはずの私に、そんな力があったのだ。
 ジュエルシードの回収をユーノ君に頼まれ、手伝っていた最初の頃はそんな独り善がりの使命感に酔っていなかったかと問われれば否定できないだろう。
 実際、中途半端なだけのいい加減な覚悟や使命感で臨んでいたせいで街に大きな被害を齎してしまいかなりのショックを受けた。
 だから、私は私の持つ力とそれを本当に扱う理由に明確で曲がらない責任感を持つ事を誓い直した。
 それを選んだならばこそ、最後まで責任を持って貫き通すのだと………

 そうして改めて誓いを建て直し、ジュエルシードを回収し直しはじめた私たちの前に現れたのがフェイトちゃん………私の生涯最高の親友だ。
 訳も分からず状況に流されるままに最初は敵対せざるを得なかった私たちだったが、だからこそ私は彼女が何で戦っているのかを知りたかった。
 理解は知ろうとすることから始まる……何よりも私は、彼女の事をもっと知って、そして友達になりたかったからだ。
 きっと分かり合える、信じ合うことが出来る、それを最後まで信じ続けたからこそ私はあの想いが通ったのだと思った。
 彼女が抱え続けていたもの、それを傍で支えてあげられることの出来るようになりたいと思った。何よりも、決して幸せには見えない、辛そうな彼女を助けたかった。
 ……だからこそ、ジュエルシードを巡るあの事件。私とフェイトちゃんが友達になれた時、彼女を助け彼女の笑顔を見た時に思ったのだ。

 これが本当に、私がやりたかったことなのだと。
 これが本当に、私が見たかったものなのだと。

 私は、私の魔法の力で―――誰かの笑顔を護りたかったのだ。

 

「……そしてそれは、きっと今も変わらない」
 己に言い聞かすように呟く原点回帰の結論。誰かの笑顔を護る為に、悲しみを吹き飛ばす為にこそあるべき魔法の力。
 ……そう、その為に自分はこの十年を駆け抜けてきたはずだ。そしてその道にだって、後悔は決して抱いてはいない。
 そんな悲しみや後悔を抱いたり抱かせたりするような結末は、絶対に訪れさせなどしないと戦ってきたからだ。
 だからこそ今だって―――

「……はやてちゃん、聞こえる?」

 先の戦いの影響か、次元にすら干渉する人知を超えた規模のエネルギーが発生した名残が強いのかどうにもロングアーチとの通信が取り辛い。
 だが今はそんな文句を言っている場合でもない。是が非でも急ぎ部隊長たる八神はやてに取り次いで聞き入れてもらわねばならない用件があった。

『……なのはちゃんか!? どうなっとるんや、こっちはえらい騒ぎになっとる。皆も無事なんか?』

 状況把握より先に仲間の安否を気遣うあたりは彼女らしいと言えばらしい、それは彼女の美徳であり優しさでもあるのだろう。
 改めてはやての皆を気遣う優しさを実感しながら、しかし今は一刻を争う事態の為に状況を詳しく説明している暇も無い。
 ある種の義務を放棄し権利だけを主張しようとしている自分に改めて隊長失格だと自覚を持ちながら、けれどそこにはあえて触れずに本題だけを切り出す。

「皆の方は色々あったけど何とか大丈夫。……はやてちゃん、詳しく説明している暇も無いけど黙って聞き入れて欲しいお願いがあるの」

 なのはがこの時はやてに向かって言ったお願い……それはたった一つ。
 六課の部隊長である彼女にしか許可を出せない、けれど今は出してもらう必要があるその要請。
 即ち―――

「―――リミッター解除を申請します。八神部隊長」

 そうはっきりと、なのはは念話先への彼女へと告げた。

 

「……リミッター解除って……そんなヤバイ状況になっとるんか? 他の皆は……っていうか『HOLY』の人らかっておるんちゃうんか?」

 突如発生した次元震、連絡が取れず混乱した情報が錯綜するロングアーチの最中に唐突にかかってきたなのはからの連絡。
 情報が断絶し、情報把握もままならず事態の正確な危険度すらも判断できぬ状況でなのはが申請してきたそのリミッター解除要請。
 だがはやてには無論の事ながら二つ返事では即座に答えられない。
 理由は主な対象だったJS事件が終了していようと未だ六課という部隊にかかっている保有魔導師ランクの制限は変わっていないこと。隊長クラスのリミッター解除申請にはリスクや制約が大きいという現実。
 そして何より………

「……なのはちゃん、無茶しようとしてるんやないやろな?」

 親友を案ずる八神はやて自身の心境がそれを躊躇わせる。
 状況はただでさえ把握不可能な未知の危険な事態、そんな中で突如連絡を漸くに寄こしてきたかと思えばいきなりのリミッター解除要請。
 何よりなのはには未だゆりかご戦の影響だって残っているはずだ。
 胸を不安で焦がす彼女の直感が、なのはが途方も無い無謀且つ無茶な行いをしようとしているように思えてならなかった。
 下手をすればそれこそ八年前……否、それすら上回る最悪の事態にだってなりかねない。
 仮に本当に緊急を要する事態だと言えども、なのはに状況を説明してもらえば何か彼女が無茶を行わずに済む打開策だって自分が編み出せるかもしれない。
 故にこそ、はやては此処で安易に状況に流されるわけにはいかなかった。

「……どうなんや? 本当にリミッター解除が必要な事態なんやったらその理由を詳しく教えて欲しいんやけど。何も言わずに聞き入れろかってそれこそ流石に無茶や」

 少しでもなのはとの会話を引き伸ばしながら、状況を判断する情報を集めて事態を把握する。そうしようと会話の主導権を握る為に更に言葉を紡ごうとしたその時だった。

『……どうしても助けたい人がいるの。叶えてあげなきゃならない願いがあるの。……その為には全力全開で臨まなきゃならない。……この理由じゃ、駄目かな?』

 なのはらしいと言えばらしい答なのだろうが、しかしそれだけではどういう状況かは分からない。彼女が助けたい人とは誰であり、叶えたい願いとは何なのか。
 それは本当に限界を超えかねない無茶を代償にしてまでなのはが行わねばならないことなのだろうか。
 こんな事を考えるのもいけないことだとは分かるが、それは自分にとってなのはを天秤に掛けてまで聞き入れるに足る価値があるのだろうか。
 正直に、なのはの身を案じる思いからはやてはそんな風にすら思っていた。
 親友として、部隊長として、なのはを自分なりに護る為にはどうすれば良いのか。
 葛藤に胸焦がされるはやてへと次になのはがかけてきた言葉はしかし―――

 

 予想通りにそう簡単には要請は通りそうになかった。
 仕方が無いことだ、自分の方が無茶な要求ばかりをしているのだからそれではやてを責め様という心算もなければ道理も無い。
 最悪の場合はそれこそ……このままやるしかないということになるが、そうなったらそうなっただ。既に覚悟は固めてある。
 それでももう一度、敢えてはやてへとなのはが声をかけたのは……

「……ねえ、はやてちゃん。私たちは機動六課だよね?」

 抱いた思いとその決意を、他でもない彼女へと聞いて欲しかったからかもしれない。

 唐突な何の前フリも無いその問いかけに念話の向こうの彼女が戸惑いを抱いているのはなのはにも直ぐに察せられた。
 脈絡の無い質問、そう捉えられても仕方ない。これから自分が言おうとしていることとて決して整合性の取れた弁論でもない。
 それでも今は彼女に……夢と決意を分かち合った親友に己の思っている正直な思いを告げたかった。

「………四年前のあの日、私とフェイトちゃんとはやてちゃん……三人で誓い合った事を覚えてる?」
『………後手に回らんで一秒でも早く動いて事態を解決できる、そんな少数精鋭のエキスパート部隊の設立』

 はやての返答になのはもまたそうだよと頷いた。
 四年前の臨海空港火災で思い知った現実と歯痒さ、そこからその解決の為に動こうと誓い合った約束。
 一秒でも早く苦しみ助けを求めている人々を最速で助けられるようにと願った部隊。
 此処はミッドチルダではないし、あの夢に多感で真っ直ぐに抱き続けられた少女の時代の幻想は遙かに遠い。
 夢の部隊と信じた六課の設立目的もまた、あの誓いが全ての理由ではなかった。
 だがそれでも―――

「私の夢は、想いは……あの時からずっと同じままではやてちゃんに預けたままだよ」

 そう、誓い合ったあの日の夢も想いも情熱も、色褪せることも陰る事も無く今だって自分たちの夢の部隊―――この機動六課に捧げて共にある。
 だからこそ、その預けた夢、重ねた想いの行方を曲げたくはない。裏切ることは出来ない。

「此処は確かにミッドチルダじゃない。私がしようとしていることだって夢を言い訳にした勝手な自己満足なのかもしれない。……許されるなんて、自分でも思っていない」

 ミッドチルダと管理局を護る為の機動六課の方向性を別のモノへと向けてしまっていることだって理解はしている。
 だがそれでも―――

「―――それでも、今の私には一秒でも早く、助けてあげたい人たちがいるの」

 そう、今この瞬間のこの場所で、目の前にソレは存在している。
 そしてソレを助ける……大局を見誤っていると言われても仕方の無い我が儘を通そうとしているのは承知の上。
 だがそれでも―――もう、立ち止まれない。
 決めたのだ、己の在るべき在り方を。
 思い出したのだ、本当に見たかったものが、護りたかったものがなんなのかを。
 だからその為に―――進む。

 ただ前を見て、上を目指し、迷いや後悔を抱いて立ち止まらぬように。
 自分が抱いた譲れない大切な信念、それを握り締めて戦うのだと。
 戦って……目の前の壁を超える、と。

 機動六課の理念と信念。
 親友や仲間達と誓い合った夢や希望。
 何よりも高町なのはが高町なのはであるための、その不屈の信念に懸けて。

「……私は私の信念を、この大地で貫き通したい」

 勝手な我が儘。理解しろなどと間違っても思わなければ、言える立場でもない。
 どこまでも身勝手で馬鹿で傲慢な、どうしようもない己の衝動。


「だから……はやてちゃん、ごめんなさい」


 詫びる、心から。形だけのものと言われても仕方が無いが、それでも誠意が欠片でも残っていると言うのなら言わないわけにはいかない。
 親友の彼女に。そして彼女を通して仲間の皆へ。
 今まで自分を護り続けてきてくれた、この厳しくもそれでも優しい世界へと。
 訣別としてではなく、決意の度合いと覚悟の程を、その重さの貴さを自分自身でも忘れない為に。
 刻み付けた思いと、その思いをこれから全力全開で通す為に。

「だから私は―――」
『―――もうええ』

 行くよ、そう告げようとしたのを遮ってはやてが唐突に言ってきた言葉は、震えていた。
 ある種の感情の爆発を、必死に耐えて抑えつけようとし……けれど出来そうに無い。
 そんな不安定な危うい均衡を、堤防を決壊させるかのようなはやての悲痛な叫びが響く。

 

「なのはちゃんは勝手や! いつもいつも、自分だけで決めて自分だけで背負う! 私らの心配なんか聞き入れもせんで無茶ばかりする!」

 その癖こちらにそれを助けさせてくれない。
 酷い身勝手だ、我が儘だ、そして何より……卑怯で悲しいと思う。
 そんなに自分たちは頼りないのか、そんなに自分たちに力を貸されるのが嫌なのか。
 和を尊び、それを護ろうと戦っているくせに、この親友はいつも孤独な戦いばかりを続ける。
 歯痒い……あまりにも歯痒く、そしてそれ以上に悔しい。

「信じて待ち続けるのが、どれだけ辛いか、待たされる立場がどんだけ悔しいか、なのはちゃんは考えたことがあるんか!?」

 その身勝手で傲慢な我が儘を、不可能を可能に変え続ける不屈の強さを信じ続ける裏側で、その信じ続けるということ自体にどれ程の心労があるのか分かっているのだろうか。

「なのはちゃんは矛盾しとる! 他人が無茶することを絶対に許さへん癖して自分だけは無茶ばっか通す!……そんなん自分に甘いんと何処が違うんや!?」

 だからこそ、許せない。だからこそ、許さない。
 もう二度と、八年前のようなあんなことは繰り返させない。
 孤独と無茶に彼女を押し潰させるようなことはさせない。
 大切な友達を一人で戦わせ続けるなど絶対に―――絶対に、許さない。

 それで万が一の事などあってみろ。
 それこそ自分は……自分は―――

「……まだ私、なのはちゃんに助けてもらった恩全部、返しきってへん」

 そう、八神はやては高町なのはに大きな、とても大きな恩がある。
 自分の命と、そしてそれ以上に大切だとも思う最愛の家族たちの命。
 フェイトと共に彼女に助けてもらったその恩とも呼ぶことすらも憚られる大きな事実。
 その返済は、まだまだ全然出来てない。
 それだけではない、先程になのは自身が言ってくれた自分たちの夢だったこの機動六課という部隊。
 この夢の設立の為に支えてくれ、尽力してくれた新たな借りだってある。
 全部、全部……まだまだ返済はこれからなのだ。
 だから……

「……だから、お願いやから私らを置いて何処かになんか行かんといて……お願いや」

 心の底から、或いは縋り付いていると笑われても自分でも仕方が無い事を承知の上で、はやてはそれでもなのはを引き止めようとそう嘆願する。
 行かせたくなかった。ここで彼女を行かせてしまったら、それこそ―――

 ―――それこそ、もう二度と彼女は自分たちの元へは戻ってきてくれないのではないだろうか?

 心の底から沸き上がってくるこの嫌な予感を肯定してしまいそうになり、それがはやてには耐えられなかった。
 部下の前だとか、部隊長の威厳や責任など……それら全てにすら二の次と放り出して。
 それでも、はやてはなのはを行かせたくなどなかった。

 しかし―――

 

「―――ごめん、はやてちゃん」

 返答は最初から決まっていた。決まっていたからこそ、その言葉を躊躇うことも無く、自分は告げねばならないと思い、そして告げた。
 なのはにとってもはやての言い分は否定できない。ぐうの音が出ないほどに己の矛盾を言い当てられたのは否定できない事実だ。
 だから、彼女の言い分やそのぶつけてくれた想いは、なのは自身にとっても凄く嬉しいものでもあったのだ。
 けれど―――

「……でもね、はやてちゃん。私はいつでも、自分一人だけで戦ってるなんて思ったことはないよ」

 八年前までなら、確かにその過ちは事実であり訓戒と刻み自分でも認めている。
 けれど再び空に復帰して以降、確かに相変わらず勝手な無茶は通してきた。けれどそれは必要性に迫われた時だけでもあり、ギリギリまで意識して無茶だってセーブしてきた心算だ。
 それに何より………

「私はいつだって、皆の想いと一緒に戦ってきたよ」

 孤独な空の戦場、確かに見ようによってはそう見られているとしても仕方が無いのかもしれないと思うことはある。

「だけどいつだって、私を空で支え続けてくれたのは、戦いの中で力を貸してくれていたのは皆だったって思ってる」

 確かに自分は皆を守る為に戦ってきた。だが同時に、皆の想いが自分を護ってくれていたからこそ自分はここまでやってこれたのだとも思っている。
 限界の先の無茶を出す時でも、不屈の思いすら叩きのめされそうになった時でも。
 いつだって絶体絶命の正念場で、最後に自分を支えてそれでも勝利に導いてくれたのは―――

「―――他の誰でもなく、私自身が護りたいと想っていた人たちだったって信じてる」

 だからこそ、背負った重さ、重ねた想いは、いつだって裏切らずに自分を護り、支え続けてくれていた。
 決して一人ではない、その思いが自分へと力を貸し続けてくれていたのだ。
 だからこそ、

「私は一人じゃない。いつだって……いつだって、皆と一緒だよ」

 そして一緒だからこそ、一人ではないからこそ、誰にも負けない。負けられないのだ。
 その想いを、正直な答えを、言葉に乗せてはやてへと送る。
 他の誰よりも強く、フェイトと並んで自分を護り支え続けてくれている彼女に。
 そして、

「……それにね、私はもう充分以上にはやてちゃんからは恩返ししてもらってるよ。むしろ、私の方がはやてちゃんたちに恩返ししなきゃいけないくらいだとも思ってる」

 これは心からの事実。
 教導隊入りの時や、自分が大怪我を負ったあの時、それら以外にも多々ある自分にとって人生で最も大変だった支えを必要とした時期。
 それらの時の尽くではやてたち八神家には本当に何度も世話になっている。
 『闇の書』事件の時の事を色々と引き摺っているのかもしれないが、あの時のアレが仮に彼女の言う恩だったとしてもそれはもうとっくに倍以上の彼女たちの助けや支えによって返済されている。
 それに何よりあれは……

「私はあの時、見返りが欲しくてはやてちゃんを助けたわけじゃないよ」

 恩だとか借りだとか、そんなものは一切関係ない。
 打算や何かが目的として彼女を……彼女たちを助けようとしたわけではない。

「―――助けたかった。ただ私は……誰にも泣いて欲しくなかったから、皆の笑顔が見たかったから、悲しい結末になんてしたくなかったから……ただそれだけで戦っただけだよ」

 それこそあの時も、昔からただ自分の我が儘とも言っていい思いを通そうとしただけ。
 自分で思い、自分で選んで、そして戦った。
 きっと誰かの為という表裏における反対、その自分の為に戦ってもいた。
 だからこそ、

「見返りなんて要らない。恩だとか借りだとか、別にそんな風に気に留めてもらわなくてもいい。私は……私の想いを、私たちの友情を取引にはしたくない」

 そう、見返りを求めてしまえばそれは既に取引だ。言い換えれば、それは外部との交易を許容してしまった自己愛も同じ。
 それが悪いとは言わない、考え方の違いに過ぎないとも自分だって思っている。
 けれど自己愛の為に愛でる都合の良い人形にだけは、自分の大切な人たちをそのようにはしたくない。
 綺麗だと思い、護りたいと願い、見たかったと思ったその笑顔を。
 ただ純粋に、何の理由も差し挟むことも無く見続けていたい。
 ただそれだけだ。
 だからこそ―――

「ありがとう、はやてちゃん。本音をぶつけてくれて」

 嬉しかった。この思いもまた自分にとって活力となり、支えとなってくれる。
 彼女だけではない、自分と関わる大切な人全ての想いが負けない力となってくれる。
 ああ、やっぱり私は一人じゃない。
 人間の本質がたとえ孤独であったとしても。完全には心を重ね合わすことも出来ず、本当の意味での理解は出来ないのだとしても。
 それを求めて、それに焦がれて、それに手を伸ばし続けることは出来る。
 個という絶対の孤独の中で、それでも他者に手を伸ばし続けることは、言葉を投げかけ続けることは、

 名前を呼び続けることは―――決して、無駄でも間違いでもない。

 だからその為に、その信じた想いを偽らないために―――

「―――行って来ます、みんな」

 己の護ると決めた全てのモノへと決意という形に変えて高町なのははそう告げた。

 そして高町なのはのその返答に八神はやては―――

 

「レイジングハート! エクシード―――ドライブ!」
『―――Ignition.』

 暗雲覆い遠雷の高鳴るロストグラウンドの空、その上空の一点に存在する白き魔導師が高らかにその命令と共に自身の相棒にして愛杖たる一心同体のデバイスを天を突くように突き上げる。
 不屈の名を冠し、十年もの長きに渡る日々、共に戦い続けてきた魔法の杖は主のその命に高らかな受諾の意思を表明する。
 瞬間、白き魔導師の全身を覆うのは桜色の閃光。
 それが収束し、再び飛び出すように現れた彼女―――高町なのはのその姿は一変していた。
 今までの通常状態のバリアジャケット―――アグレッサーモードが『長時間の凡庸的活動』に重きを置いたスタイルだとするならば、こちらはそれとは運用も異なる完全な別物。

 エクシードモード。

 高町なのはの空戦魔導師としての資質を最大限に活用する為に組み上げられたモードである。
 高速機動、省魔力の概念をあえて切り捨てた代償としての絶対的な強度を生み出すことにより、彼女自身が最も得意とするスタイルで最大限に戦えるように想定された姿。
 彼女にとっての『完全な戦闘用』としての意志の表れを示すものである。

 沈黙の果て、八神はやてが通してくれたリミッター解除の要請を示すように、全身に今度こそ全力の魔力が立ち込めてくる。

 ……だが出来れば、彼を相手にこのモードは使いたくはなかった。
 始まりの出会いはなし崩し的な状況での戦闘。話し合う暇も何も無い慌ただしいものだった。
 再びの出会い、彼の本質の一部を知り、この大地の厳しい在り方を突きつけられ、けれどそれでもだからこそ、相互理解の歩み寄りの為に彼と戦うことを自身に禁じた。
 けれど先程の大乱闘、かなみの願いを叶える為、そして自分自身の思いからもカズマの暴走を止めたかったからとはいえ、不覚にも状況への焦燥と苛立ちに駆られ、結局は自分が事態悪化の引鉄を引く原因とまでなってしまった。

 ……そして今、

「……だからこそ、もう間違えない」

 止めてみせる。怒りと激情に駆られ、破壊に狂い破滅に進もうとしている彼を。
 本当に悲しくて辛くて、泣きたい筈なのに泣けない憐れな獣である彼を。
 今度こそ、絶対に必ず―――

「―――救ってみせる」

 決意を言葉に乗せてなのはは呟く。不退転の意地として、これしか方法が残っていないというのなら。
 危険で荒いとんでもない無茶なやり方だとしても。
 振り上げた拳の収める場所を彼が知らないというのなら。
 溜め込んだ激情と共に、真正面から全力全開で自分がそれを受け止めよう。
 もう一度、今度こそ本当に、彼と向き合ってお話をする為に―――

 避けられない対決へと向かって、今不屈の魔法使いは高らかに迷い無く、飛び出した。
 胸中で、その救うべき彼の名前を呼び続けながら……

 

 失った。
 何もかもを失い、何もかもがどうでもよくなった。
 ただ悔しくて、憎くて、収まりが付かなくて、

「劉鳳ォォォオオオオオオオオオ! 何処行きやがったァァアアアアアアアア!?」

 その相手を叩き潰すことだけを欲して止まない。
 何もかもを失い、掌から零れ落し、そして二度とは自分の元へそれらが戻ってくることも無い。

 だから―――もう、いらない。

 何もいらない、何も欲しない、何一つ必要とはしない。
 求めない、手を伸ばさない、掴み取らない……背負わない。
 温かさの素晴らしさを一度は身に刻み、それを護ろうと望んだからこそ。
 失敗し、現実に打ちのめされ、手元から奪い取られた喪失感には耐え切れない。
 君島邦彦も、由詑かなみも。
 どちらも彼にとっては代わりなど無い程に掛け替えのない大切なものだったのだ。
 ……そう、代わりなど無い。あっていいはずもない。
 だからこそ、二度とあの温かな幸福は手元へと戻ってくるはずも無く、永久に失われ、痛みと喪失感と屈辱だけが、十字架として残り背負わさせられる。

 ……そんなものには、耐え切れない。

 だから、逃避先が彼には必要だった。
 それでも残るチッポケな己の矜持。生まれ出で、この大地で生き抜いたという自分が生きた証の証明。
 何も残さず、何も残せず、無意味で無価値に成り下がっただけの存在として己を終えるなどということは耐えられない。
 過程にあった、背負い刻んできたこれまでのものを全否定されるということに我慢ならない。
 だからこそ、この上もなくみっともなくて見苦しく、そして情けなかろうとも。

 それでも、たとえたった一つであろうともまだ自分が存在しても良いという理由がカズマには必要だった。

 それが劉鳳―――憎たらしく、気に入らない、絶対に許すなどということが出来るはずもない、己が己である為に打倒せねばならぬ対象。
 もう何もかもを耐え切れずに捨て去り、逃げ出す先が最も気に入らない相手というのも皮肉が過ぎるがそれでもいい。
 少なくとも、あの男ならば壊れない。失われない。またベクトルはどうであれ純粋な渇望として己同様にこちらを求めている。
 己という存在を肯定せんが為の己を否定し、またこちらも否定すべき相手。
 もうそれでいい。それで構わない。それだけでも我慢する。

 だからいなくなるな。かかって来い。逃げるな。
 俺から俺という存在意義を奪うな。
 だからさっさと出て来い、劉鳳。
 テメエだって俺のことが気にいらねえんだろ? だったら―――

 ―――もう二人だけのサシのタイマンでそれだけをし続けようじゃねえか。

 死んだって構わない。命だって或いは……くれてやらんこともない。
 だから出て来い、さっさとかかって来い。
 俺の全てをテメエとの喧嘩にくれてやる覚悟は出来てるんだ。
 だから―――

「……俺から、俺の前から……居なくなってるんじゃねえよッ!!」

 俺が俺であるべき理由を。
 俺の拳を振り上げる理由を。
 俺から、奪うな!

 故に求め続ける。
 吼え猛り、暴れ狂い、後も先も関係ない衝動の化身と化して。
 カズマはただ、ただ劉鳳だけを求め続ける。
 それしか、自分には残っていないと思っていたから。

 しかし―――


「―――カズマ君!?」

 己のチッポケな名が呼ばれ、カズマは反射的に上空を見上げる。

「かな―――ッ!?」

 奪われたはずの、失ったはずの、何よりも愛しかったはずのその声が己の名を呼んできた。
 奇跡が己に応えてくれたのか、とらしくもないそんな思いで空を見上げ、そして結果的には落胆によりそれすらも裏切られた。

「……また……テメエかよ……ッ!?」

 憎々しい、そんな感情すらも生温いほどの激しい感情を込めた苛烈な視線で睨みあげる。叶うのならば、この睨みだけで呪い殺してしまいたいとすら思うほどに。
 それ程に見上げた空の上からこちらを見下ろすその女は目障りだった。

 ―――高町なのは。

 またコイツか、そんな鬱陶しさとしつこさと気に入らなさ、そして何よりも許容しがたき感情が相手の存在を激しく否定し、彼を苛立たせる。

 いつもいつもいつもいつもいつも!
 こちらの目の前に現れ、鬱陶しい綺麗事を押し付けようとしてくる目障りな相手。
 何だというのだ、どんな恨みがあってしつこくこちらに付き纏ってくるのか。
 何度立ちはだかって、邪魔をすれば満足するのか。
 そして何よりも―――

「カズマ君、もうやめ―――」
「―――うるせえッ!!」

 何かを言おうとしてくる相手の言葉を、半ば無理矢理に声を張り上げて掻き消す。
 もう聞きたくないのだ、こいつの声は。
 もう呼ばれたくないのだ、その声で自分の名前を。

「……何で……ッ……何で……テメエの声はそんなに―――」

 ―――そんなに、かなみの声に似てやがるんだ!

 一方的な言いがかりだが、それでもカズマにはそれが耐え切れない。
 そちらが身勝手に奪い、もう二度と取り戻すことも出来ないのかと諦めかけていたというのに。
 それに何より……もう彼女だけは傷つけたくないから、背負わないと決めたというのに。
 忘れてしまいたいのに、捨て去りたいというのに……ッ!

『カズくん、カズくん……カズくんってば、ちゃんと聞いてるの』

 愛しかった、護りたかった、心の底から初めてそう思えたはずの相手だったのに。
 お前らが身勝手に奪い取りやがったというのに―――ッ!

「今更……ッ……今更、アイツの事をチラつかせてくるんじゃねえよ!」

 汚すな、触れるな、玩ぶな。
 そいつはお前らが勝手に触れていいものじゃない。
 自分だけの、自分だけの大切な宝物だったというのに。
 それを―――

「………返せよ」

 睨み上げながら、震える声でカズマはその言葉を叩きつける。
 かなみを返せ! 君島を返せ! 俺から奪った俺のモノを全部返せよ!
 それが出来ないって言うならさっさと―――

「俺の前から……消えてなくなれぇぇぇええええええええええええ!」

 瞬間、咆哮と共に虹色の粒子が辺り一体を覆い、周囲の岩石などを次々に分解していく。
 そしてそれを形として再構成……その姿は決まっている。

 “シェルブリット”

 カズマの、カズマだけの、己が唯一持っていて誇れる自慢の拳。
 己の全て、信念を結晶化した誓いの証。
 この大地を生き抜くための、カズマが得たたった一つの力。

 己の全てをコレに込めて、今はただ只管に気に入らない目の前のこの女を。
 立ち塞がってくる強固な壁を。

「気にいらねえんだよぉ! テメエはぁぁぁあああああ!」

 己の全身全霊の全てを賭けて、叩き潰す!

 

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最終更新:2009年10月17日 01:18