闇の書事件臨時本部が設置されているマンションの一部屋。
その一室にてリンディ・ハラオウンは、宙に映し出されたモニターを険しい顔で凝視していた。
モニターに映し出されるは、鮮やかな金色の短髪を携えた男の姿。
男は、白色の、まるでライダースーツのような服を身に付けており、軽快な振る舞いで画面の中に立っている。
リンディはそんな男の静止画を無言で睨め付ける。
一秒、二秒、三秒と、刻々と流れていく時間の直中で、ただ押し黙り、思考に全神経を集中させていた。
(アンノウン、か……)
リンディが臨時本部に帰還したのは、数時間前の正午の事。
それから今まで、リンディはずっとディスプレイとの睨み合いを続けていた。
この数日間は、時間の殆どをフェイト達の付き添いで消費しており、戦闘の解析をする事が出来なかった。
現在、リンディが行っている作業はその穴を埋める為のもの。
守護騎士達がいつ出現するかも分からない今、情報収集は最優先の事項であった。
ふと画面が切り替わり、また別の写真がディスプレイに表示される。
写真の中心にいるのは、先程と同様の男。
服装も髪型も同じである……が、ある一点が大きく異なっている。
そのある箇所とは―――男の左腕。
洗練された名刀と見紛うばかりの刃が、そこには存在していた。
(……先天性能力の一つだと思うけど……それにしては何となく異質な感じね……)
数秒の熟考を経て、リンディの細指がディスプレイ上を走る。
続いて画面上に現れたのは一編の動画。
その動画の中では、少年魔導師の撃墜の瞬間が、事細かに収められていた。
(そして、クロノを撃墜した謎の能力……まるで斬撃そのものを飛ばしているかのような不思議な攻撃……
……不可視にして速攻……出も早く、射程も威力も強力……最大出力ならば巨大包囲結界すら破壊可能……)
眉間に皺を寄せながら、リンディは記憶の棚から情報を引き出していく。
この強力な能力に対抗できるような有益な情報。
艦長として培ってきた長年の経験から、この男に対する対抗策を練り上げているのだが……その作業は難解を極めていた。
第一に、単純な問題ではあるが火力が桁違いに強い。
奴は、十数人もの魔導師が形成した結界を、易々と両断した。
あれだけ強固な結界を破壊するには、少なくとも高町なのはの最大砲撃―――スターライトブレイカー並の一撃は必要な筈であった。
そう、その筈なのに……奴はただの一振りで結界を破った。
発動の溜めに使用された時間はほんの数瞬。
つまりは、その数瞬で、スターライトブレイカーにも迫る超高威力の攻撃を行使できる程のエネルギーを貯蓄したという事。
余りに異常なエネルギー効率。加えて、それだけの攻撃を放ったというのに、男には疲労の色が寸分も見受けられない。
常識では考えられない現象の数々であった。
(……かなりの難敵ね)
僅かな溜めで超上位砲撃魔法と同等の力を有する攻撃が可能。
攻撃による疲労は、おそらく極軽微。威力の調節も可能である。
男の概要を簡単に纏めると以上の通り。攻略は相当な難易度を誇る。
総指揮を任されているリンディにとっては頭の痛い限りだ。
(守護騎士だけでも手一杯だっていうのにねぇ……)
疲労が浮かんだその表情で、リンディは深い溜め息を吐き出した。
先の戦闘で撃墜されたフェイトとクロノは比較的軽微な負傷で済んだ。
現在は管理局本部で治療に専念しているが、医務員の話によれば、一週間も休養を取らせれば問題なしとの事。戦線への復帰も近い内に可能だろう。
身も蓋もない言い方ではあるが、少しでも戦力が欲しい現時点に於いて、二人の迅速な復帰は非常に助かる。
全体的に下がり気味にある士気も、僅かながら回復の兆しを見せる筈だ。
(なのはさんは大丈夫かしら……)
特に、自軍の最高戦力である高町なのはのモチベーションの低下は、顕著なものであった。
多少の励ましは掛けたものの、殆ど上の空で聞き流されてしまった。
ここ数日間フェイト達に付きっきりであったとはいえ、あの状態の高町なのはを放置してしまった事は完全に痛手。
悪策の極みと言っても過言ではない。
(……少し連絡を取ってみましょうか)
フウ、と息を吐くと、大きく上半身を伸ばしながら、立ち上がるリンディ。
作業により凝り固まっていた身体がゴキゴキと鈍い音をたて、軋みを上げた。
モニター室から出たリンディは、リビング兼キッチンとされている一室にて、固定型電話の子機を操作する。
「あれ、電話ですか?」
「ええ、ちょっとなのはさんにね」
と、その時、リビングにて情報整理に勤しんでいたエイミィが顔を上げ、リンディへと声を掛けた。
リンディは受話器に付属された番号を指先で押していきながら、エイミィへ笑顔を送り、ご苦労様と労いを返す。
そして、エイミィの向かい側……茶色の木製椅子に腰を下ろして、機械の中から響くコール音に耳を傾ける。
五回目のコール音が終わるか終わらないかというタイミングで、相手は電話に出た。
「もしもし、なのはさん?」
「あ、リンディ提督。やっぱり帰って来てたんですね」
電話先のなのはは、やっぱり少し疲れた様子を見せていた。
普段のハキハキとした口調は鳴りを潜め、幾ばくかの影を落としている。
「ええ、ついさっきね。そっちはどう? 何か変わった事はあった?」
「いえ、こっちは特に何もありませんでした。いつも通りです。……それで、あの……フェイトちゃんとクロノ君は……」
だからこそ、と明るく振る舞うリンディであったが、やはりなのはの声に覇気は戻らない。
心配の気持ちが表情となりリンディの顔に浮かび上がる。
「二人なら大丈夫よ。クロノもフェイトちゃんもあと何日かすれば復帰できるって。
またそっちの学校に行けるようになるだろうから、アリサちゃんやすずかちゃんにもよろしく伝えてくれるかしら」
「分かりました……」
クロノやフェイトの無事も伝えるも、その鬱々とした様子は一向に引きずられたまま。
予想以上に重傷、いや、時間の経過により重傷になってしまったのか。
元来、高町なのはは責任感の強い優しい子だ。その性格が影響して、二人の撃墜を自己の責任として押し付けてしまったのだろう。
このような事態になった要因の一つに、心のケアの遅れも少なからず存在する筈だ。
本日何度目かの溜め息が、零れ落ちる。
「なのはさん」
次に口を開いた時、リンディの口調は優しげな物から厳格な雰囲気を纏ったものへと変化していた。
今のなのはには、おそらく奨励の言葉は届かない。どう励ましたところで、結局は自責の念へと変換されてしまうだろう。
ならば、逆に、また別の責任を植え付けるしかない。
彼女の心労は増すだろうが、いち早く立ち直って貰うにはこの手段しかなかった。
口調とは裏腹の歪んだ表情で、リンディが言葉を紡ぐ。
「二人の件で心を痛めているのは分かります。ですが、クロノ・ハラオウンとフェイト・テスタロッサが戦線を離脱している今、守護騎士に対抗できる魔導師はなのはさんだけです。
そのなのはさんが士気を低下したままでは、闇の書事件に関わる管理局員全体の士気にも関わるんです。
なのはさんには酷な事だと思うけど……早く、立ち直って下さい。お願いします」
この闇の書事件は、言うなれば世界の存命を賭けた戦いだ。
闇の書が完成、暴走すれば世界が滅亡し、少なくともこの地球という惑星は終焉を迎える。
そんな重大な責任を負わされた任務なのだ。
例え民間の協力者とはいえ、此方側の最高戦力である以上、モチベーションの低下した状態でいられては困る。
劣勢に陥っている現状なら尚の事だ。
向かいの席ではエイミィが作業の手を止め、心配そうな視線を上司へと送っていた。
「……分かりました、すみませんでした……」
「いえ、謝らなくても良いわ……ただ、二人の事は深く考えないように、分かった?」
「……はい」
なのはの口調は、相も変わらず変化の予兆すら見せない。
年不相応のしっかりした少女であるとはいえ、実際はまだ二桁にすら届かない年齢なのだ。
精神訓練を受けているのならまだしも、たったこれだけの言葉で、回復しろという方が無理のある話だろう。
仕方ないか……と、考えたリンディはなのはの激励を諦め、話題を変える。
彼女が持ち出した次の話題は、ヴァッシュ・ザ・スタンピードについてであった。
「なのはさん、今近くにヴァッシュさんは居る? 居るんなら、少し代わってくれないかしら」
映像の中のヴァッシュ・ザ・スタンピードは、明確な敵意を持った表情でアンノウンと会話を交わしていた。
守護騎士との戦闘に於いても飄々とした風貌を揺らがせなかった彼が、明確な敵意を持つ……普通では有り得ない状況に見えた。
おそらくヴァッシュとアンノウンとの間には何らかの因縁が存在する。
そう推測して、リンディはヴァッシュとの会話を望んだ。
彼からアンノウンについての情報を少しでも入手したかったのだ。
「え? ヴァッシュさんならそっちに向かうって言ってましたけど」
が、その目論見もなのはの一言により虚しくも崩れ去った。
え? と、リンディの表情が困惑に染め上げられる。
「なのはさん、それいつの事?」
「えっと、夕ご飯の前だから……確か一時間位前の事ですけど」
リンディが居る臨時本部は、ヴァッシュの居候している高町家の近隣に置かれてある。
歩いて十分、どんなに遅くとも二十分も在れば到着する筈だ。
何かが、おかしい。
「エイミィ。ちょっと聞きたいんだけど、私が作業してる間に誰か訪ねて来なかった?」
「いえ、誰も来ませんでしたよ」
作業を再開させていたエイミィに問い掛けるも、答えは変わらない。ヴァッシュの到来は無いとの事であった。
リンディの困惑は更に深くなっていく。
リンディは、子機を肩と首で挟んで支えると、充電中の携帯を掴み、慣れた動作で電話帳を開いた。
「あの……ヴァッシュさんがどうかしたんですか?」
「……大丈夫、何でもないわ。遅くに電話を掛けてごめんなさいね。なのはさんもゆっくり休んでちょうだい」
「はあ……」
「じゃあ、お休みなさい」
「はい、失礼します」
なのはとの通話を切ると同時に、ア行の欄へ載せられている『ヴァッシュ・ザ・スタンピード』を選択、何度かコールを鳴らしてみる。
着信に応答する気配はなく、数回のコールの後に留守録機能へと繋がってしまう。
言いようのない嫌な感覚が、リンディの心に巣食い始めた。
「どうかしたんですか? ヴァッシュさん」
「ええ、何かアクシデントに巻き込まれてるみたいなんだけど……ちょっと嫌な予感がするわ。大事にならなければ良いんだけど……」
繋がらない携帯電話を片手に、増加し続ける悩みの種に眉間の皺を増やすリンディ。
彼女の口から、再び深い深い溜め息が漏れた。
□ ■ □ ■
それはまさに偶然と言う他なかった。
熟考に身を任せ、見知らぬ市街地を放浪していたヴァッシュ・ザ・スタンピード。
家族と共に夜食の買い物をしていた八神はやて。
その付添いとして買い物に連れ添っていたヴィータとミリオンズ・ナイブズ。
それは誰もが予期していなかった遭遇。
人間台風ことヴァッシュ・ザ・スタンピードは勿論、ミリオンズ・ナイブズですらこの出会いは予想の範囲外。
余りに出来過ぎな偶然に、ヴィータとナイブズは身動きを忘れ、ヴァッシュもまた茫然と、まるで時間が静止したかのように固まっている。
ただ一人、現状を理解していないはやてのみが、三人の様子を困惑の表情で見つめていた。
「て、てめぇ!」
不意の事態に混乱している中でありながら、ヴィータは主を守護する為に動いた。
ヴァッシュからはやてを奪取し、二人の間に身体を滑り込ませ、主を庇うように両手を広げる。
その瞳には敵愾心がありありと浮かんでおり、眼前の敵対者を強烈な視線で睨み付ける。
「ナイ、ブズ……」
だが、肝心のヴァッシュ・ザ・スタンピードはヴィータの姿を視界に捉えてはいなかった。
ただ、その後方に佇む金髪痩躯の男性を茫然と見詰めている。
ヴィータも、はやても、彼等を器用に避けていく人波も……ナイブズ以外の何者もその視界には映らない。
ヴァッシュの視界は、そしてその思考もまた、ナイブズへと注がれていた。
それはナイブズもまた同様。彼にしては珍しく、感情をそのままに表情へと宿していた。
「久し振り……だな、ヴァッシュ」
その想いの差が影響してか、一早く立ち直りを見せたのはナイブズ。
表情を悦楽に歪ませて、未だ膝を付いたまま動作を止めているヴァッシュへと言葉を降らす。
瞬間、市街地に響く、ギリという不快な重音。
それは、噛み締められたヴァッシュの歯から漏れた音であった。
「何故、お前が……!」
彼の胸中に宿る万感を吐露するには、言語という表現法は余りに不自由であった。
ともすれば、獣じみた絶叫と共に、真紅の外套の下に隠された拳銃を引き抜きそうになる。
だがヴァッシュは、制御不能の寸前まで上り詰めている感情を、理性を総動員し押し殺していた。
此処で銃を抜けば、周囲にいる全ての人間を巻き込む結果となる。
それを理解しているからこそ、心中で暴れ回る感情を必死に抑える。
「相も変わらずせっかちな奴だな、お前は」
ナイブズはヴァッシュに対して、呆れを含んだ口調で呟き、そして小さく溜め息を吐いた。
その小馬鹿にしたような表情に、ヴァッシュの感情が盛大にざわめきたつ。
「まぁ、落ち着けよ。今回の出会いは俺にとっても予想外なんだ。少しは話を交えるのも良いだろう? 今後の為にもな」
この偶然をナイブズは好機だと考えていた。
ナイブズ自身、ヴァッシュとの対立は良しとしていない。ナイブズからすればヴァッシュは貴重な同族であり、唯一の兄弟。
現在は思念の差違により正反対の道程に立つものの、何時かは説き伏せて見せると思っている。
その見解からすれば、現状は将に天からの恵み。またとない機会だと言えた。
「えーと……二人は知り合いなんか?」
と、そこで事態の把握ができず沈黙を余儀なくされていた八神はやてが、些細な疑問をきっかけとして会話に割り込んできた。
その発言にはやての存在を思い出したヴァッシュは、宿敵へと固定されていた視線を少女の方に向ける。
ナイブズもまた視線を外し、幸運に心を震わせながら、はやての問いに肯首を持って返答した。
そんなナイブズの心中を知る由もないはやては、変わらぬ当惑を映したまま再び疑問を零す。
「じゃあ、この人もその……別の世界から来たって事なんか?」
そもそもはやての認識からすれば、ナイブズは別世界からの来訪者。
そのナイブズが初対面の人間と、まるで見知った仲であるかのように会話をしているのだ。
加えて普段は滅多に感情を表に出さない彼が、それはもう愉しげに口を動かしている。
これ等の事象は、はやてを驚愕させるには充分すぎる出来事であった。
「そうだ。まさかコイツまでがこの世界に来ていたとは思わってもみなかったがな」
「そうなんか……」
ナイブズの答えに、はやての顔に陰が射す。
恐らくその境遇に同情でも浮かべているのだろう、はやては沈痛な面持ちでヴァッシュの事をジッと凝視する。
そのはやての様子に、彼女を庇うように立っていたヴィータは、嫌な予感を感じた。
そして、その予感は不運な事にもドンピシャの正解。ヴィータの予感は、はやての口を通して具現される事となる。
「あの……ぶつこうてしまったお詫びも兼ねてですけど、今から家に来ませんか?」
「えっ!?」
その発言に慌てた声を上げたのはヴィータ。そんなヴィータに対してはやては片目を瞑り、両手を合わせてお願いする。
幼少時に両親を亡くしたはやては、二桁にも至らない短い人生の中で、孤独の辛さを痛い程に知ってきた。
常に傍らで胡坐を掻いていた孤独に押し潰されないよう、必死に、身体を震わせながら、此処まで生きてきたのだ。
だからこそ、何らかのアクシデントで別次元の世界からやって来る事となったナイブズやヴァッシュに、一際大きな同情の念を抱いてしまう。
「で、でも、コイツは……!」
しかし、ヴィータもまた頑として首を縦に振ろうとしなかった。
ヴィータからすれば、ヴァッシュは管理局の一員である敵対者。
家に招き入れるなど持っての他。潜伏場所が漏れてしまえば、戦闘に赴くまでもなく、平穏な日常は崩れ去ってしまう。
だからこそ、それは何としても阻止しなくてはいけないのだが―――
「俺も賛成だ。コイツと少し話がしたい」
「はぁっ!? お前何言ってんだよ!?」
―――予想外にも、全ての事情を知っている筈のナイブズすらはやての提案に賛同した。
すかさずナイブズへと食ってかかるヴィータ。物凄い剣幕でナイブズに詰め寄り、その澄まされた顔を睨み付ける。
が、ナイブズは熱り立つヴィータを物の見事にスルーし、はやてへと声を掛ける。
「すまないな、はやて。コイツに夕食でもご馳走してやってくれないか?」
「全然ええよ、もう腕によりをかけたるから」
「だからぁ! ダメだって、はやて!! こんな訳のわかんねー奴、連れてってどうすんだよ!!」
反対の意を大声で捲くし立てるヴィータに、笑顔で事を進めるナイブズとはやて。
そんな三人をヴァッシュは、地面に腰を落とした状態のまま、未だ茫然とした様相で見詰めていた。
その脳裏には様々な疑問や困惑が去来しており、冷静な思考を打ち消していた。
「ヴィータも強情やなあ。別の世界から飛ばされた友達同士、今ようやく出会えたんやよ? 家に招待するぐらい別に良えやん」
「違う……違うんだって、はやて!」
「もう、今日のヴィータは少し変やよ……すみませんなぁ、家の子が我が儘ばかり言うて。どうですか? えと、ヴァッシュさんが良ければ、今から家に来て欲しいんですけど?」
だから、思わずだった。
ただこのままナイブズと別れる訳にはいかないという想いが、ヴァッシュに決断をさせる。
先の事など何も考えていない。ただ無意識の内に、想いが表へと飛び出していた。
その行動は殆ど条件反射。
思わずヴァッシュは首を縦に振り―――はやての提案を受容していた。
その服の中で震え続ける携帯電話に、ヴァッシュが気が付く事は、遂になかった。
□ ■ □ ■
「シグナム、調子はどう?」
「ああ、もう問題ない。明日には蒐集に参加させて貰うぞ」
因縁深き二人の兄弟が運命の再会を果たしたその時、八神家にてシグナムとシャマルの二人は、灰色のソファーに並んで座っていた。
更にその横には、蒼色の大型犬に変身しているザフィーラが寝そべっている。
シャマルはシグナムの右腕に手を翳し、緑色の発光と共に魔法を行使していた。
「あなたがそう言うなら止めないけど……無理はしないでね」
「心配するな、お前たちの将はそうヤワに出来ていない」
買い出しには毎回付添いとして赴くシャマルであったが、この日は珍しく自身から留守番を願い出た。
その理由は一つ、前回の戦闘で四肢を負傷したシグナムの治療をする為だ。
傷自体はそれなりに深刻なものであったが、シャマルの治癒魔法が強力だったのか、シグナムの治癒力が高かったのか、もう完治の寸前にまで達している。
シグナムとシャマル、二人の表情は知らず知らず安堵に包まれていた。
「蒐集の方はどうなってる?」
「ナイブズが頑張ってくれててね、あなたの穴を埋めてるわ。ペースは今までと殆ど変わらない筈よ。
上手くいけば予定より早い完成も、充分有り得るわね」
「そうか……頼もしい限りだな」
シャマルの言葉通り、シグナムが撃墜されてからのナイブズは獅子奮迅の活躍を見せていた。
如何なる魔法生物を相手にしても寸分も臆す事なく、その全てを両断し、撃破していく。
ナイブズの手助けにより、闇の書完成の時は着実に近付いてきていた。
「……奴は、何者なんだろうな」
だが、その圧倒的な力に感謝する一方で、また別種の疑問を感じてしまうのを、シグナムは抑えられなかった。
次元のひび割れから唐突に登場した謎の男―――ナイブズ。
エンジェル・アームと称した、原理その他が一切不明の謎に満ちた能力を使用する男。
経歴や能力の大半が謎に占められた男であり……元の世界に戻る術を探すでもなく、はやての為だと、自分達に力を貸してくれている―――家族である。
「……分からないけど……でも、多分、悪い人じゃないわよ……」
ナイブズという男は、まさに無愛想を世に現したかのような人物であった。
日常の殆どを無言無表情で貫き通し、彼自身から言葉を掛けてくる事など殆ど無い。
まぁ、無愛想とはいっても、他との交流を蔑ろにしているという訳ではないのだが。
語り掛ければしっかりと返事を返すし、時折その仏頂面に笑顔にも似た影がよぎる事もある。
自分達が闇の書のプログラムでしかないと知った後も、何ら態度を変化させる事なく接してくれたし、そして何よりはやてを救済する為に尽力してくれている。
気難しい奴だとは感じるが、悪人であるとも思えなかった。
「……そうだな、私もそう思う」
「蒐集作業が終われば、彼の世界を探索してあげられるんだけどね……」
シャマルにはそう答えたが、シグナムの内に眠る疑問の種が潰える事はなかった。
左腕を白刃へと変貌させ、超射程の斬撃を放つエンジェル・アームという能力。
奴自身の反応速度、身のこなしも相当に高位なもの。何物をも斬り裂く左腕と相成って、近接戦でも充分な戦力を有している。
加えて戦闘に対する恐れも、おくびにもださない。
管理局の魔導師と相対した際にも、その無表情を押し通し、易々と撃墜に至らせた。
特殊能力、身体能力もさることながら、その精神力もまた人間離れしている。
奴は元の世界で何を目的としてどのような事を行っていたのか、シグナムは非常に興味を持っていた。
「あ、はやてちゃん達、帰ってきたみたい」
と、そんなシグナムの思考を遮るように、シャマルの声がリビング内に響き渡った。
詮索のし過ぎか、とシグナムも思考を打ち切り、顔を上げる。
傍らにて両目を瞑り伏せていたザフィーラも面を上げ、立ち上がる。
「……あれ?」
「どうした、何かあったのか?」
「いや、はやてちゃん達と一緒に誰かいるみたいなの……一人だけだけど」
「なに……?」
八神家の周囲には、侵入者を警戒して、簡易なものではあるが結界魔法が張り巡らされている。
付近にはやてや守護騎士、ナイブズ以外の人間が接近すれば、シャマルに情報を伝達してくれる優れ物である。
その結界魔法がシャマルへと、来訪者の存在を声高に告げていた。
シャマル、シグナム、ザフィーラの表情に戸惑いが浮かぶ。
「ただいま~」
「……ただいま……」
「おじゃましま~~す!!」
玄関へと続く扉を潜り、困惑するシグナム達の前に姿を現す四人。
買い出しに出掛けた八神はやて。
その付き添いを買って出たヴィータ。
ヴィータに無理矢理連れて出されたナイブズ。
そして―――派手という形容詞が最適な髪型と赤コートを携えた男が一人。
「「「なっ……!?」」」」
満面の、憎らしい程の笑顔と共にヴァッシュ・ザ・スタンピードが、そこに居た。
□ ■ □ ■
「いやぁ~美味い! 本当に美味しいねぇ、はやての料理は!」
「ホンマですか、ヴァッシュさん?」
「その年でこれだけの料理作れるなんてねぇ~。こりゃ将来、良いお嫁さんになるって。僕が保証するよ」
「そないに喜んでもらえると、こっちも嬉しいです~。ほら、ヴィータ達も遠慮せんで、食べて食べて!」
「……は、はい」
「もうこのハンバーグとかね! 士郎さん達にも食べさせて上げたいくらいだよ」
「そんなもう~! ヴァッシュさんはホンマにお世辞が上手いんやからぁ!」
「いやいやいやいや、謙遜しちゃって~!」
そして約束通りの晩餐会。
晩餐会は予想外にも穏やかで、和やかで、騒がしいものとなっていた。
……というより、ヴァッシュとはやてが勝手に盛り上がり、勝手に食事を進めていると云うだけなのだが。
同じ食卓に座っている守護騎士の面々は一様に押し黙っており、食事に手を付ける事すらままならない。
念話で口論を繰り広げながら、その警戒心を全開にまで引き上げ、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの一挙一動に意識を集中させていた。
唯一の例外はナイブズ。
会話に参加するでもなく、念話に参加するでもなく、警戒するでもなく、無言で食事を口元へと運んでいた。
結局晩餐会は、食後のお喋りも含めておよそ一時間の長きに渡り、行われていった。
「あ、もうこないな時間か。ごめんなナイブズ、折角の友達との再会やっていうのに、ずっと話し込んでもうて」
「いや、気にするな」
「じゃ、じゃあ、はやてちゃん、先にお風呂に入りましょうか! その間、二人はゆっくりと話を楽しめば良いわ」
「そやな~、なら二人共ゆっくり話してってな!」
「ああ、その方が良いでしょう……頼むぞ、シャマル」
「……ええ、任せといて。そっちもよろしくね、シグナム、ヴィータちゃん、ザフィーラ」
「ああ、分かっている」
「OK、任せといてよ」
粗方の食器も片付け終わり、晩餐会もお開きの空気が漂い始めていたその時、はやてとシャマルの二人が、入浴の為にリビングの奥へと下がっていった。
そして、二人の姿が完全に扉の向こう側へ消えたその刹那、事態は急変する。
勿論、先程までの団欒の様子とは正反対の、ギスギスとした険悪な事態へと。
扉が閉まると同時に、動いたのは二人の守護騎士だった。
「貴様っ……!」
「てめえっ……!」
発現した二つのデバイスが持ち主の手により、ヴァッシュの首元へ、互いに交差するように突き付けられる。
もう一人の守護獣も、ついさっきはやて達が退出した扉の前に立ち塞がり、ヴァッシュを睨んでいる。
その刃と鉄槌に対して、ヴァッシュは寸分の反応すらも見せる事がない。
ただジッと椅子に座り込んまま、斜め前方の椅子に自分同様に座る男を見詰めていた。
「はは、これで何度目だろうな。お前が俺に、その不細工な道具を突き付けるのは」
いや、静止していた訳ではない。
ほんの一瞬、コンマ数秒にも満たない一瞬の間であったが、ヴァッシュは動作を行っていた。
紅コートの下、腰部のホルスターに装着されていた白銀の大口径を、抜き構えていたのだ。
六発の弾丸が込められてる拳銃を、二人の守護騎士の抜刀よりも早く、宿敵の眉間へと―――向けていた。
(やはり、早い……!)
(早ぇえ……!)
その抜き撃ちの速度に、シグナムとヴィータは驚愕と動揺を隠し切れずにいた。
初見であるヴィータはまだしも、その身を持ってヴァッシュの早撃ちを知っているシグナムすらも、固唾を呑む速度。
単純な力では語る事のできない脅威が、眼前には存在していた。
だが、その矛先にいるナイブズは至って涼しい顔のままであった。
「ナイブズ、話を聞かせてもらうぞ……!」
拳銃を握るヴァッシュの表情は数分前の状態からは考えられない程に、強張っていた。
歯を食い縛り、眉間に皺を寄せ、両手を握り込み、ナイブズを見る。
豹変とすら言える程の感情の変化に、対面する守護騎士達も当惑を覚えていた。
「その銃を下げろよ! シャマルが防音結界を張った。抵抗するんなら容赦しねぇぞ!」
「ヴィータの言う通りだ。この場は四対一、如何に貴様であっても切り抜ける事は不可能。悪いが此処で仕留めさせてもらう」
しかしながら、当惑はせど武器を引く事はせず。守護騎士の二人は、突き刺さるような視線をヴァッシュへと送っていた。
切り詰まっていく場の空気に、それぞれの額には小さな冷や汗が浮かび上がる。
緊迫が、周囲を押し込んでいた。
「シグナム、ヴィータ……悪いが、剣を引いてくれないか。コイツと二人きりで話をしたいんだ」
「それは駄目だ……貴様の実力は知っているが、それでもみすみす危険に晒す訳にもいかない」
そんな中ナイブズが望んだ事は、ヴァッシュとの二人きりでの対話。
当然の如く、シグナムとヴィータは反対の意を告げるが、その言葉をナイブズは完全にスルー。
一人立ち上がり、三人の視線も、突き付けられた銃口すらも意にも介さず、ベランダの方へと歩き始める。
「来いよ、ヴァッシュ。お前も対話を望んで此処まで来たんだろ」
招き入れるように顎でベランダを指し、挑発的な笑みを浮かべ、緊迫のリビングから退室するナイブズ。
押し黙ったままのヴァッシュも意を決したように、立ち上がる。
その動きに準じて、喉元に置かれたデバイスも持ち上がるが、それ以上の動作には繋がらない。
突き付けられてはいるが、その皮膚に接触する事はなく、中途半端な位置に留まったまま固定されていた。
ヴィータとシグナムも判断をしかねていたのだ。
このままヴァッシュとナイブズを二人きりにして良いのか、それとも阻止するべきなのか、そもそも自分達はこの男をどうすれば良いのか……。
二人の守護騎士達は判断する事が出来ない。
「……大丈夫だ、ここで争う気はない」
ヴァッシュは、ナイブズが待つベランダへと歩み寄りながら、戸惑う守護騎士達にそう告げた。
思考を読み取ったかのような一言に、シグナムとヴィータは大きく目を見開く。
そして、宙ぶらりんの状態にあったそれぞれの得物をヴァッシュの喉笛から―――下げた。
敵意の充満した視線は変わる事がなかったが、武器を引き、ナイブズのいるベランダまでの道を開けた。
「ありがとな」
最期に謝礼を一つ残し、ヴァッシュは透明な窓を潜り抜け、宿敵の待つベランダへと足を踏み入れた。
室内と外気との温度差にブルリと震える身体。
ヴァッシュの視界の中に、悠然と星を見上げるナイブズの姿が飛び込んできた。
その視線が射殺すかのように鋭利なものへと、変貌する。
持ち主の感情を察知したかのように、ヴァッシュの右手に握られた白銀のリボルバーが、震えていた。
「驚いたぜ、ヴァッシュ。まさかあんな肥溜めの中でお前に遭遇するとはな」
遠い目で夜天を見上げたまま、ナイブズが唐突に言葉を紡ぎ始める。
ヴァッシュは、己の内に沸き上がる感情を抑え付けながら、その口から吐き出される言葉に耳を傾けていた。
「教えろ、ナイブズ。お前は何が目的でこの家に住み着いている。何故、闇の書の守護騎士に協力している。
あの子と―――八神はやてとお前は、どんな関係にあるんだ!」
吐き出された疑問の数々は、八神家に招待されてからずっと、ヴァッシュの脳裏にこびり付いていたものであった。
守護騎士やあのナイブズと仲睦まじげに交流する少女……八神はやて。
管理局のデータベースには存在しない人物であった。
その様子を見る限り決して悪人には見えない。なのは同様に年不相応の、しっかりとした性格を持った少女であった。
彼女と守護騎士、そしてナイブズとは、どのような関係の上に在るのか?
ヴァッシュには事態を把握しきれずにいた。
「―――家族さ。俺と守護騎士の連中は、奴が言うには家族という関係らしい」
「……家族……? お前と……彼女達がか?」
その返答が想像の範疇を越えていたのか、ヴァッシュは思わず素っ頓狂な声を上げていた。
数瞬前まで張り付いていた憤怒に似た感情も僅かの間であったが抜け落ち、呆けた表情へと変化する。
眼前の宿敵から、まさかこのような答えが出てくるとは思っても見なかったのた。
「笑えるだろ? 俺が、糞にも劣る人間如きに家族扱いだ。下らなくて笑えてくるよ。今すぐにでも奴をくびり殺したくなる」
―――だが、直後に続いた言葉を聞き、ヴァッシュの表情に感情が戻った。
百と五十年前から何ら変わらない、寧ろ増大する一過を辿っている人間に対する憎悪の念。
その憎悪を目の当たりにして、やはり眼前の男は仇敵だと再認識するヴァッシュであった。
「……なら、何故、彼女達と行動を共にしている。何故闇の書の完成に力を貸しているんだ」
ヴァシュの問い掛けにナイブズはようやく夜天から視線を外し、傍らの兄弟へと向け直した。
表情に宿る狂気と共に、双眸をヴァッシュと激突させる。
瞬間、背筋に走る悪寒。ヴァッシュの頬を一筋の冷や汗が伝い、灰色の地面へと落下していった。
「なぁヴァッシュ、この世界には虫螻が多すぎると思わないか?」
唐突に外の世界へと振り向き、大業な身振りで両腕を広げるナイブズ。
そして、ナイブズはその鉄仮面を笑顔に歪曲させ、夜天の下で小さく語りを上げる。
異常な、決して人間には醸し出せない空気をその周囲に纏いながら、ナイブズは口を開く。
「あの乾季の惑星と比べて、この惑星は余りに寄生虫が蔓延りすぎているんだよ。
俺としては今すぐにでも駆除してやりたいんだがな、それにしては余りに数が多すぎる。あの異能殺人集団がいないのも痛手だ」
その時、ナイブズが浮かべていた表情は、可笑しな事に人間で言うところの『困った表情』であった。
語られる凄惨な内容からすれば、余りにズレた感情。
憤怒に震えるでもなく、厄介だと舌を打つでもなく、ただ単純に困ったというような表情。
言うなれば、散らかった部屋を前にして溜め息を吐く主婦のそれや、余りに多い作業量に辟易する人間のそれと同様のもの。
ナイブズは心底から困ったような表情で、語りを終えた。
「だから……闇の書の力を利用しようというのか……!」
「その通りだ。長距離を移動する時は車を使う、大規模な計算をする時はコンピューターを使う、大量の害虫を駆除する時は殺虫剤を使う……今回のことも同じ事だ」
ナイブズの熱弁を聞き、ようやくヴァッシュにも、その目的が理解できた。
結局は今までと何ら変わらない。
この平穏な世界に於いても、何ら心に変化を来す事なく、ただ目的の為に自らの覇業を突き進んでいる。
何も変わっていないのだ。
この男は、あの時から、寸分も―――、
「お前は……彼女を、八神はやてを見ても、何も思わないのか……?」
気付けば、言葉を発していた。
胸裏に覗く思いの丈を、人間の全てを醜悪だと断定する宿敵へと。
理解を求める言葉を吐き出していた。
「……人間は皆、素晴らしいなどとは言わない。 でも、誰もが誰も、お前のいうような人間じゃない。はやては、知らない世界からやって来たお前を、家族として迎え入れてくれたんだろ?
損得も何も考えずに……ただ優しさからお前を受け入れてくれたんだ! 何故、その現実を直視しない! 何故、頑なに人間を否定するんだ!
はやてや、レムのように、前に進もうとする人間だってこの世には沢山いる!!」
ヴァッシュは、人間を信じている。いや、信じようと努力している。
砂の惑星を渡り歩き、この自然に恵まれた世界で様々な人間と触れ合い、彼は信じ続ける。
人間は変革する事が可能な種だと―――、
人間は未来に向けて前進できる種だと―――、
ナイブズが人間を害虫と断ずるように―――ヴァッシュもまた人間の可能性を信じている。
だから、対立する。その凶行を阻止せんと、唯一の兄弟と対立する。
実弟が放った信念の咆哮に、ナイブズは狂気の微笑みを内に戻し、代理として哀愁を表に出した。
「違うな……それは違うよ、ヴァッシュ。奴は、俺が人間だと思っているから、家族として受け入れたんだ。
俺に世界を滅亡するだけの力が秘められていると知れば、奴は恐怖に慄き俺達を拒絶するよ。
自分達の居場所を脅かす存在に人間どもがどんな対応をしてきたかは、その歴史が語っている!!」
「でも……それでもレムは違った!! 一度は過ちを犯したが、彼女は前に進めた!! 全てを知って尚、彼女は俺達を……俺達を人間として扱ってくれた!!
人間は前に進めるんだ、ナイブズ!!」
だが、結局二人の超越者達の信義は平行線を辿ったまま、交差しようとはしなかった。
片や滅亡を、片や共存を願う信義……どちらも正解であり、また不正解でも有る難解な議題。
全ての想いをぶつけ合った論争も、互いの信念を揺さぶるには至らずに終焉を迎えた。
熱した場を冷ますように冬季の寒風が二人の元を通過する。
静寂が、場を包み込む。
「……良い事を教えてやるよ。貴様ら管理局が探し求めている、闇の書の主についてだ」
話題の転換は突然であった。
紛糾した信念のせめぎ合いから、現時点で相手が抱えているだろう問題へと、話の内容を変える。
しかし、この話題についてはヴァッシュも、今宵見てきた状況からある程度の解答は導き出していた。
管理局にとっては喉から手が出る程に入手したい情報。その全容を掴み取れる状況に、ヴァッシュ・ザ・スタンピードは立っていた。
「大体分かるさ……闇の書の主の正体は……八神はやてなんだろ」
守護騎士と同居し、家族として接する八神はやて。
その屋内にある人の気配は、はやてや守護騎士、ナイブズの物のみ。
此処までヒントを与えられれば、小学生にも理解できる問題だ。答えは自ずと見えてきた。
闇の書の主―――その正体は、先程まで晩餐を共にしていた少女・八神はやてでしか有り得ない。
「ただ、分からない……何で彼女は、管理局と敵対してまで闇の書を完成させようとしている?」
その正体までは推理できたヴァッシュであったが、そこから先の領域には至らない。
八神はやてが闇の書を完成させる動機……それだけが、幾ら考えれど出て来なかった。
どう理屈付けても、先程までの団欒の光景と矛盾してしまう。
彼女が力を望むとも思えないし、何より彼女は守護騎士達を本当に大切にしているように見えた。
彼女達が傷付くような事は絶対にしない筈だ。
「簡単な事だ。闇の書の蒐集にはやては関与していない。全て、シグナム達が自己の意志により行っている行動だ」
「……どういう事だ……」
「教えてやるよ、ヴァッシュ……その全てをだ」
―――そして、ナイブズは全てを語った。
はやての下半身が不随なその理由。
闇の書自体が持ち主であるはやての身体を蝕んでおり、このままでは内臓器官すら機能停止に至らせる事を。
つまり、闇の書が完成しなければ―――八神はやては死亡する。
それら事実を、冷酷に、冷徹に、馬鹿げた理想を望み続けるガンマンへと、ナイブズは語った。
その反応を愉しむかのような笑顔を携えたまま、彼女達の間にある実情の全てを、ナイブズは語ってしまった。
「……成る程な、そういう事だったのか……」
だが、そんな仇敵の期待に反して、ヴァッシュ・ザ・スタンピードは殆ど表情を変える事がなかった。
いや、寧ろ、その表情には安堵の色さえ浮かんでいるようにも見える。
予想外の反応に、ナイブズの眉が不審げに歪む。ナイブズの心中には、何とも言えない感情が広がっていた。
何か、この男についてを読み違えている……そんな予感が、ナイブズの内に浮かび上がっていたのだ。
「ナイブズ、俺はお前の思惑を潰す。この世界を壊そうとするのなら、俺の全力を掛けて阻止する。
絶対に壊させやしない……この世界を、レムが愛した人間達を、俺は絶対に壊させない!」
それは宣戦布告だった。
人間台風ヴァッシュ・ザ・スタンピードから、宿敵ミリオンズ・ナイブズに対する歴然とした布告。
はやてと守護騎士達の苦悩を知らされて尚、僅かな葛藤を見せる事もなく告げられた言葉に、ナイブズは小さな戸惑いを覚えていた。
茫然と立ち尽くすナイブズの視界の中、ヴァッシュは彼に背中を向け、歩き去る。
台風の行き先は警戒の守護騎士達が待っているだろうリビング。
ヴァッシュを逃がす為に、わざわざベランダという外界と連結した場所を選択したナイブズからすれば、これまた予想外の事態。
その視線の先で、ヴァッシュ・ザ・スタンピードは、彼にとって敵地のど真ん中である筈の八神家へと再度入室していった。
「……良く戻ってきたな。てっきりあのまま逃亡を計るものだと思っていたが」
そして、舞い戻ってきたヴァッシュを待ち受けていた者は三人の守護騎士。
烈火の騎士・シグナム、鉄槌の騎士・ヴィータ、そして盾の守護獣・ザフィーラ。
それぞれ敵意に満ちた瞳で侵入者を睨み、それぞれがそれぞれの得物を構え、相対する。
その痛ましいまでの超アウェー空間の真っ只中で、ヴァッシュは右手に拳銃を握り締め、立ち尽くす。
八神はやてとシャマルはまだ入浴を楽しんでいるのか、その姿はまだ無かった。
数秒の沈黙の後、ヴァッシュは唐突に、だがゆったりとした動作で右手の拳銃を持ち上げる。
その動作に伴い、守護騎士達の間に流れる空気が、一斉に緊迫感を増した。
そして、十数分前には多種多様の料理が並べてあった机の上に―――置いた。
そう、ヴァッシュ・ザ・スタンピードは手離したのだ。
自身の得物を、魔導師と対等に渡り合う為に必要不可欠な武装を―――ヴァッシュは事も無げに手離した。
場を支配していた緊迫感が、困惑で染め上げられていく。
「あのさ、お願いがあるんだけど」
そうして殆ど無防備となった状態で、ヴァッシュはシグナムを真っ直ぐに見詰める。
力強い意志が込められたその瞳を、シグナムもまた目を逸らさずに、受け止める。
「……何だ」
そして、その口から放たれた言葉は―――
「僕にさ―――闇の書の蒐集を手伝わせてくれない?」
―――誰もが予想だにしていなかった言葉であった。
「「「……は……?」」」
守護騎士達から漏れた音は、勿論、驚愕を示す物。
闇の書の封印を目的とする管理局。
闇の書の完成を目的とする守護騎士。
人類の滅亡を目的とするミリオンズ・ナイブズ。
そして、どんな思惑が在っての発言か、ヴァッシュ・ザ・スタンピード。
こうして、偶然から始まった運命の邂逅は、彼等の戦いに大きな転換を与える結果となった。
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最終更新:2009年11月25日 20:41